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36 親友-7

 幸いな事に、美加ちゃんの右腕の傷は、出血量の割には思ったよりも浅く、それでも念のため、会社御用達の総合病院の夜間外来を受診しようと言うことになった。

 私は美加ちゃんを助手席に乗せ彼女の軽自動車を運転して、コンビニから一時間ほど会社方面に戻った場所にある病院に向かい、課長は単身、自分の車で大木鉄工へと赴くことになった。

 私たちと別れて一人、大木鉄工に向かう事を告げた後、課長は、ようやく落ち着きを取り戻しつつある助手席の美加ちゃんに、私が座る運転席側の窓の外から顔を覗かせると、静かな声で問いかけた。

「今回の件。佐藤さんはどうしたい? このまま傷害事件として警察に届けを出す事もできるし、不問に伏すこともできる。ただ、君が自分でケガをしたのは事実のようだから、警察を介入させても、大木社長を罪に問えるかどうかは俺にも分からない。最悪は、痛くもない腹を探られて、相手方は無罪放免と言うこともあり得ると思う」

 な……に? 何を、言っているの?

 淡々と問う課長のその言葉を聞いた瞬間、私の怒りのメーターは一気に上昇し、信じられない思いで運転席から課長の顔を仰ぎ見た。

「課長……。それは、このまま何もせずに、泣き寝入りをしろと言うことですか?」

 高ぶりすぎた感情が、語尾を震わせる。

 まさか。よもや課長の口からそんなセリフが出るなんて、思いもよらなかった。

 今回の事は、私の素人判断でも、相手方が十割方パーフェクトで悪い。

 己が欲望を満たすために若い女の子を追い回して、こんなケガを負わせて、それで何の罪にも問えないなんて、そんな事が本当にまかり通るなら、そんな世の中、何を信じて良いの分からないじゃない。

「そうは言っていない。ただ、こう言う問題はとてもデリケートだから、色々な事態を想定して慎重に進めた方が良い、と言っているんだ」

「それは、そうかもしれませんけど、このまま有耶無耶になんてできる事じゃないと思います。大木社長には、自分がしでかしたことの責任を、きっちり取って頂かないと。今回は大事に至らなかったから良いようなものの、もしもまたっ……」

 取り返しがつかない事になったら、どうするの!?

 思わず、口から飛び出しそうになった言葉を、どうにか飲み込む。

「高橋さん、君の言うことも尤もだが、一時の感情で物を言ってはけない。今一番大切なのは、佐藤さんの気持ちと、これからの事だろう? 一時の憤りを発散させて君はそれでも良いかもしれないが、後で辛い思いをするのは、彼女自身なんだ」

「そんなっ、私はそんなつもりはっ!」

 分かっている、というように課長は頷き、言葉を続ける。

「例えば、万が一。全てが誤解から生じた不幸な事故だと主張されたら、こちらが何と反論しようと証人がいない以上、第三者にはどちらが真実を言っているかなんて判断はできないだろう?」

「そ、それは、そうかもしれないですけどっ」

 だからって、全てを無かった事にはできない。したくない。

「それに、もしも逆の事を主張されたら、どうする?」

 逆? 逆って、何?

「あたしが、誘った……って、言って来るかもしれないって事ですよね?」

 震えを含んだ声で美加ちゃんは、ようやくそれだけを口にした。

「そう。君の話しを聞く限りでは、大木社長は最後にその手の事を言っているし、その可能性も考えておいた方が良いだろう」

 美加ちゃんの方が、誘った?

 そんな、そんな馬鹿なこと。

 信じたくない思いと、その可能性も捨てきれないと言う思いが、混乱する心の中で交錯する。

「酷な言いようだけど、俺も高橋さんも君の手助けは出来ても、その立場を変わってあげることはできないんだ。だから君自身に決めて欲しい。君が決めたことならば、俺は工務課の課長として、出来うる限り全面的にバックアップをする」

 終始一貫。最初と変わらぬ穏やかなトーンの声が、閑散とした静かな駐車場の薄闇の中に、溶けるように吸い込まれていく。

 落ちる沈黙の深さは、まるで、美加ちゃんの心の痛みの深さのように思えた。

 答えを急かすことなく、そのままの姿勢で待っている課長の顔を、美加ちゃんは真っ直ぐに見据えて、彼女の出した答えを告げた。

「警察には、届けません。でも……許すこともできませんっ」

 つうっと、一筋の涙が、美加ちゃんの滑らかな白い頬を伝って零れ落ちる。その光景を、私は言葉もなく見つめていた。

 分かっている。

 課長の言うことは、正論だ。

 たぶん、美加ちゃんにとって、美加ちゃんの今後にとって、一番ダメージの少ない方法を提示してくれたのだろう。

 でも。

 頭で理解できることと、心で納得できることの間には、大きな隔たりがある――。

「君の気持ちは、良く分かった。悪いようにはしないから後の事は任せて、君はケガを治す事だけを考えなさい。いいね?」

 ポロポロと再び涙腺が崩壊してしまった美加ちゃんの顔を優しい眼差しで見つめながら課長はそう言うと、足早に自分の車に乗り込み、大木鉄工へと向かって行った。

「課長、一人で、大丈夫……でしょうか?」

 スン――、っと、鼻をすすりながら美加ちゃんは、課長の車が走り去った方角へ、心配そうな眼差しを向けた。

 一度は、美加ちゃんに暴力を振るった人物の元へ行く。

 私だって、不安が無いわけじゃない。

 でも、あの人なら、きっと。

「――大丈夫よ。心配ないわ」

 私は、自分に言い聞かせるように、はっきりとした口調で言った。

「はい……」

 頷きながらも、尚も不安が拭えないように目を眇める美加ちゃんに、ニコリと笑みを向ける。

 課長の言う通り、今は、美加ちゃんのケガを治すことが一番の優先事項だ。他の事は、後からゆっくりと考えればいい。

 課長は、課長の責務を果たしに向かっているんだから、私も、自分のやるべきことをやろう。

 よし!

 心で自分を鼓舞し、私は、車のエンジンをスタートさせた。

「我が工務課の課長様は、鉄壁の営業スマイルと鉄の心臓を持っているから、ちょっとやそっとじゃやられたりしないわよ。さて、私たちはまず病院へGOね。じゃ美加ちゃん、シートベルトしてね」

 笑いかけると、美加ちゃんは微かに口の端を上げてコクリと頷いた。

 いつもの元気な笑顔からは程遠いその表情が、少しでも早く元に戻りますように。

 そう願わずにはいられなかった。


 改めて病院で手当てを受けた美加ちゃんの傷は、どうにか縫わずに済んでホッと一安心。

 胸をなでおろして化膿止めと痛み止めの薬を貰い、美加ちゃんと二人で私のアパートに着いたのは、もう夜も更け日付が変わった深夜十二時過ぎ。

 夜空からは、青白い満月が煌々とした光を投げかけていた。

「おじゃましまーす」

 おずおずと、私の部屋に足を踏み入れた美加ちゃんは、サイド・ボードに飾ってある世界遺産のミニチュア模型を見つけるや、目をキラキラと輝かせて歩み寄った。

「うわぁ、これ、実は私も欲しかったんですー。でも、あたしって不器用だから絶対仕上がらないなぁって、泣く泣くあきらめたんです。さすが、先輩。うわー、この寸分の狂いもない組み立て具合。凄いなぁ」

「そんなことないわよ。私も細かい図面を書くのは得意でも、実際組み立てる方は、もう苦手。凄い不器用なのよ。それは、気の遠くなるような時間の積み重ねの賜物よ」

「でも、こうしてきっちり完成させちゃうんですから、やっぱり凄いです」

「そう? 素直に喜んでおくわ。ありがとう」

 それはそうと。

「まずは、着替えね。うーんと……」

 こういう時は、六畳と八畳の二間しかない狭い我が部屋にも、なんでもすぐ手が届く便利さがあることを再認識する。DK内にあるクローゼットを開けて、洗濯済みのスエットの上下を物色すると「これで良かったらどうぞ」と美加ちゃんに差し出す。

 さすがに、血の飛び散ったブラウスとスカートでは、見ている方が痛々しい。

「ありがとうございます。遠慮なく、お借りします」

 後は。

「お風呂は……、今日はやめた方が良いわね。それに美加ちゃん、夕飯食べてないでしょう? ありあわせのモノで悪いけど、何か作るからその間に、着替えちゃって。あ、隣が寝室だから、使ってね」

「あ、はい。ありがとうございます」

 美加ちゃんが、寝室に向かうのを確認してから、キッチンの方に向かい「何を作ろうか? 今の時間帯なら、あまり胃に負担がかからないさっぱりしたものが良いよね? うーん」

 なんて、冷蔵庫を物色しながらメニューを組み立てていると、

 プルル、プルルと、スカートのポケットに入れてある、携帯の着信音が上がって、ドキッと身を強張らせた。

 でもすぐさま、課長からの電話だと勘が働き、急いで取り出し着信窓に視線を走らせる。

『谷田部課長』

 表示されている名を確認して、すぐに着信ボタンを押して耳に当てた。

「もしもし?」

 何か悪いことでも起こってやしないだろうか?

 まさか、課長までケガをさせられたりしてないよね?

 色々な想像が脳内を暴走し、ドキドキと早まる鼓動を感じながら、恐る恐る返事を待った。

『ああ、高橋さん。谷田部です』

 いつもと変わらない落ち着いた声音に、心底ホッと安堵する。

「課長、今どこにおられるんですか?」

『今は、会社に居るんだ。相手方には、今後二度と同じことが無いようにと厳しく言ってあるから、まずは、問題になることはないだろう。一応、社長にも電話で事情説明をしたから、後は、何も心配しないように佐藤さんに伝えて下さい』

 厳しく言ったって、どんな風に言ったのだろうか?

 との興味がフツフツと湧いてきたけど、さすがに詳しく聞く勇気はない。

『それと……』

「はい?」

『君には、だいぶきつい事を言ってしまって、申し訳なかった』

「いいえ、あの時は私も頭に血が上ってしまって、すみませんでした。私の方は、ぜんぜん気にしていませんから、課長もお気遣いなく」

『そうか。なら、良いんだが』

 ふっと、優しい沈黙が落ちた。

 携帯電話と言う媒体を通しての、二人だけの空間。

 このまま、こうして浸っていたい気もするけど、時間も時間だから、そうもいかない。

「課長、今日は、色々とありがとうございました」

『いや、それはこちらのセリフだよ。君が居てくれたおかげで、助かった。佐藤さんもだいぶ気が休まるだろう』

 そうかな?

 そうだと、良いけど?

『今日は君も疲れただろうから、ゆっくりと休んで……』

 濁された言葉の続きを待っていたら、電話の向こう側で課長がクスリと笑う気配がした。

「課長?」

 時々あるんだよね。こうこう言う瞬間。

 笑われるようなことをした覚えはないのに、なぜかクスリと笑われる。

 うーっ。気になって仕方がない。

 はっきり、言ってくれた方が、すっきりするのに。

 でも、電話の向こうから答えは届かず。

『いや、何でもない。それじゃ、おやすみ』

 惚れた欲目が、大いなる勘違いか。

 いつもより優しいトーンの声が、心地好く耳に響いた。



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※ただ今、アルファポリスにて連載中です。
(こちらはR18バージョンになりますのでご注意ください)

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