35 親友-6
※ご注意
今回は、女性がセクハラに合うシーンがあります。
露骨な表現はありませんが、苦手な方はご注意ください。
最初は、工場の一角を仕切って作られている事務所で、順調に打ち合わせをしていたのだそうだ。
美加ちゃんは、大木社長と事務所の応接セットのソファーに向かい合って座り、別段何の問題もなく今まで通りに、図面上での注意点などを説明していた。
いつもと違うのは、時間帯。
時計の針はもう、午後八時半。
工場はとっくに終業時間を過ぎて、唯一の社員で社長の弟でもある職人さんも家に帰っている。それに、常に社長の隣りにある奥さんの姿が、今日はなかった。
「女房が実家に行ってて、お茶も出せないですまないね」と、大木社長は、冷蔵庫から缶コーヒーを出してくれたりして、和やかに打ち合わせは進み、三十分ほど経った頃。
概ね説明をし終わえた美加ちゃんは、『それでは、宜しくお願いします』と頭を下げて、帰ろうと立ち上がった。
異変が起きたのは、その後だ。
「ねえ、佐藤さん。私は、柔道の有段者なんだよ。とっても強いから、この辺では敵う人はいないんだ」
ソファーから腰を上げた社長が突然、がニコニコ笑顔で、そう言い出した。
いきなり、脈絡のない話題を振られて訝しく思ったものの、自慢話でもしたいのかな? くらいに思って、
「そうなんですか? 凄いんですねぇ」
と、ニコニコと応対したのが間違いだったと、美加ちゃんは悔しそうに呟いた。
「そう、色々と凄いんだよ……」
笑いを含んだ低い声と浮かんだ表情を目にした瞬間、美加ちゃんの脳裏に嫌な予感が走った。
ニヤリ――と、上がった口の端と、下がった目じり。
今までと変わらない人の良い笑顔の中で、その部分だけが違っていた。
――『目』だ。
笑っているはずの目は穏やかさの欠片もなく、ギラギラとした、『欲望』と言う名の醜悪な光が揺れていた。
小学生の頃から、他の子よりも体の発育が良かった美加ちゃんは、今までの人生の中でこの目と同じものを、嫌と言うくらいの数見てきた。
色欲を発散するような血走ったいやらしい光を放つその眼は、学生時代の通学電車の中や通学路で、今まで何度となく、見知らぬ異性から自分に向けられたものと同質のもの。
中には、視姦だけでは飽き足らず、手を伸ばして来る変態も多かった。
忌むべき行動とそれを侵す、恐怖と嫌悪と侮蔑すべき対象、『痴漢』。
ま、まさか、この人が――。
ただの勘違い。
そうよ、思い過ごしよ。
必死に自分に言い聞かせても、本能が危険だと告げている。
確かに、ペラペラと自分の強さを並べ立ながら、じりじりと距離を詰めてくる目の前の人物は、いつも自分が見知っている、物静かな大木社長とは明らかに違う。
信じられない思いに混乱する中、美加ちゃんは、どうにか理性で自分を保ち、「それでは、宜しくお願いいたします」と言い置き、一刻も早くそこを立ち去ろうと踵を返した、その時。
「佐藤さんっ!」
不意に、左手首を強い力で掴まれて、身を強張らせた。
いつの間にか、すぐ側まで近付いてきた社長のガッチリとした大きな手に自分の手首が掴まれていることを理解した美加ちゃんは、ハッとして抗った。
「ちょっ……、何するんですかっ!?」
捕らわれた手は、どんなに引っ張ってもびくともせず。
「きゃっ!?」
更に強い力で腕を引かれた美加ちゃんはバランスを崩し、ソファーに崩れるように倒れ込んでしまった。
捲れ上がったスカートの下の太腿が露わになり、慌てて裾を整えるも、尚も腕は掴まれたままで。
「……放して、くれませんか?」
どうにか虚勢を張り、のしかかるような体制で落とされる社長の見開かれた目を、美加ちゃんは力を込めて睨み付けた。
いつもニコニコと愛想が良い美加ちゃんの強気の反応が予想外だったのか、社長の顔に浮かんだのは、無様なほどの動揺の色。でも――。
「な、何を言っているんだい? 私は、何も……」
そう言い繕い体を起こしながらも、しっかりと掴んだ手は、放そうとしない。
こうなれば、最後の手段しかない。
「放して下さい。じゃないと、ここから警察を呼びますよ?」
そう、抑揚のない低い声で言い放ち、胸ポケットから愛用の携帯電話を取り出し通話ボタンを押した美加ちゃんのその行動は、皮肉なことに逆効果で、悪い方に作用してしまった。
『社会的に抹殺される可能性』を感じたのだろう、外れかけていた理性の最後の枷は、きれいに弾き飛ばされて、社長を更なるエスカレートした行動へと駆り立ててしまった。
「何を、こんな時間帯にやってきて、物欲しげな色目を使ったのは、そっちだろうがっ!」
パシン――、と左頬に灼熱感が走った数瞬後。
自分が叩かれたのだと理解した美加ちゃんは、頭で考えるよりも早く行動に出た。
ありったけの力を振り絞って掴まれた手を振りほどき、どうにかフラリと立ち上がると文字通り脱兎のごとく、事務所の外、灯が落とされた薄暗い工場の中へと駆け出した。
でもそれを、情欲に駆られた男が、すんなり逃すはずがない。
「このっ!」
追い際にスイッチを入れたのだろう。ブーン――と低い音を上げて、高い天井に付けられた電灯が、ゆっくりと鉄材が積まれた工場の中を照らし出していく。背後から迫ってくるのは、理性を失くした男が獣のような唸り声を上げながら追い縋ってくる気配。
恐怖にもつれそうになる足を必死に動かして、溢れ出しそうな涙をぐっと堪えて、一目散に出口を目指した。
でも、いくら懸命に走っても、所詮は女性の足。
それに不慣れな工場の中では、美加ちゃんの方が断然に不利で、あっという間に追いつかれてしまった。
尚も、捕えようと伸ばされた大きな手は、腕ではなく今度は、美加ちゃんの胸元を掴みあげ、ブラウスのボタンを弾き飛ばした。
露わになった豊かな胸元が、更に男の欲望に火をつけ、血走ったその目には明らかな欲望の影が揺らめいていた。
いやっ!
それこそ死に物狂いで社長を突き飛ばし、必死で工場内を逃げ惑った美加ちゃんは、鉄材に思いっきりぶつかり、右腕にかなりの出血をともなう傷を負ってしまった。
でも、それが幸いした。
夥しい出血を目にした男は、怖気付き顔色を無くし。
「何を、変な誤解しているんだ? 私は、世間話をしていただけなのに。自意識過剰なんじゃないのかアンタ。言っておくが、そのケガはアンタが自分でぶつけたものだからな。後で変な難癖つけないでくれよ!」
言うに事欠いてそう言い放ったのだ。
「何、それっ……?」
呻くように吐き出した掠れた言葉が、ガランとした、人気のないコンビニの駐車場の闇の中に吸い込まれていく。
いっぺん、頭、かち割って、覗いてやろうか、あのヒヒジジイっ!
美加ちゃんから、一通りの説明を聞き終えた私は、生まれて初めて怒りで体が震えるのを感じた。
――許せない。
許せる、わけがない。
毎日遅くまで仕事をして図面を書き上げ、一刻も早くその完成図を届けようとした美加ちゃんの、仕事に対する誇りを、一生懸命さを、土足で踏みにじった、あの下衆野郎。
こんなケガをするまで追いつめて、こんなに怯えさせて、何が自意識過剰だっ!
「でも、このケガのおかげで逃げられたから、良かったですぅ……」
怒り心頭に発して無言で空を睨んでいた私は、心底ホッとしたよう美加ちゃんの呟きに、ハッと現実に引き戻された。
本当に、そうだ。
不幸中の幸い。
血を見て怖気付くタイプのヘタレ親父で、助かった。
もしも逃げられなかったら――。
最悪の場合を想像して、恐怖と怒りで頭がくらくらする。
体の傷はいつか治るけれど、心に刻まれた傷は、なかなか治るものじゃない。とにもかくにも、この程度ですんだのは幸運だったのだ。
「もう、心配しないでいいよ。後は、私と課長に任せて。美加ちちゃんは、ゆっくり休んでね。あ、今日は、家に泊まりにおいでよ。ね?」
「はい……。ありがとう、ございますぅっ……」
安心して気が緩んだのか、美加ちゃんは再びポロポロと涙をあふれさせた。