34 親友-5
『先輩、すみま……せんっ。ちょっと、どじっ……ちゃいました』
口調はいつものように明るくしようとしているけど、明らかに涙声の美加ちゃんの言葉に、嫌な予感はますます膨れ上がっていく。
でも、こういう時、こちらが慌てたらいけない。そう自分に言い聞かせて、
「どうしたの? 何か、あった?」
問い詰めたいのをぐっとこらえて、内心の動揺が出てしまわないように、勤めてゆっくり問いかける。
『あの……、少しケガしちゃってっ……。で、その、コンビニで消毒液と絆創膏を買おうと思ったんですけどっ、なんか思ったより、酷い格好で……』
その言葉を耳にした瞬間、血の気が一気に引いた。
ゲガ!? 流血!? 酷い格好!?
「ケガっていったいどうしたの!? 今、どこにいるの美加ちゃん!」
落ち着こうなんて理性は綺麗さっぱりとすっ飛んで、思わず早口でまくし立ててしまった。
『あ、やだなぁ……っ。大したこと、ないんです……うっ。本当、かすり傷でっ……』
って、しゃくり上げながら、何言ってるのっ!?
これは、ただ事じゃない。
少なくとも美加ちゃんは、出血を伴うケガをしていて、泣いている。私に救いを求めている。じゃなければ、携帯に電話などしてこない。
電話でSOSを発しておきながら、すぐに助けに来てくれと言えない美加ちゃんの混乱ぶりに、背筋の悪寒がますます酷くなっていく。
「美加ちゃん!」
今どこにいるのか聞き出そうと気が逸り思わず声を荒げようとしたところで、携帯電話を課長にひょいっと取り上げられてしまった。
「課長!?」
任せなさい、と言うようにゆっくり頷くと、課長は携帯電話を外部スピーカー設定に切り替えて耳に当てた。
「佐藤さん谷田部だ。救急車を呼ぶかい?」
『え……? そんな、大丈夫ですっ。全然、平気ですっ……』
「わかった。今どこにいるか言えるかい?」
ひくひくっと、しゃくり上げる音の後に、美加ちゃんは再び口を開いた。
『……大木鉄工から、国道に出てすぐっ……の所のある、コンビニの、駐車場ですっ……』
「コンビニの人に、来てもらうかい?」
『……いいえっ、いいですっ』
「わかった。今から高橋さんと二人ですぐに向うから、そこから動かないように。良いね? 何かあったら、すぐに携帯に電話をするんだよ」
『はい……っ。分かりまし……た』
プツン――と、電話が切られても、私はすぐには動くことが出来なかった。
『夜の電話は凶報を運んでくる』
それは、風化することのない、忌まわしい恐怖の記憶。
ある日突然、一本の電話によってもたらされた父の死。
世の中には、信じられないような理不尽なことが起こり得るのだと、身をもって知った十四年前の中学二年生の冬。
あの時の記憶がフラッシュバックして、体はまるで金縛り状態で、強張ったまま。
情けない。
いつも美加ちゃんには励まされているのに。
たくさん、元気を貰っているのに。
こんな肝心な時に、電話の応対すらまともにしてあげられないなんて。
情けない――。
どうか、どうか、酷いケガではありませんように。
取るものも取りあえず。
とにかく、免許証と財布入りのバッグを引っ掴み。課長が出してくれた車の助手席に座り、私は携帯電話を握りしめて、ひたすら美加ちゃんの無事を祈っていた。
夜の街の灯が、飛び去るように流れて行く。
「何があったんでしょう? あんな美加ちゃん、初めてで……」
いつも元気で、茶目っ気たっぷりで。
そう言えば、泣き顔なんて見たことがなかった。
「……ともかく、急ごう。実際会って話を聞いてみなければ、何があったのかと気をもんだ所でどうしようもない」
「はい……」
逸る気持ちと爆発しそうな不安を抱えたまま、車は夜の国道を郊外へとひた走り。一時間ほどで、目的地のコンビニを視界に捕えた。
ドキドキと早まる鼓動にせかされて視線を巡らせ、広い駐車場の隅にポツリと前進駐車しているパールピンクの軽自動車を見つけた。
運転席には、ハンドルに突っ伏したように俯くセミロングの女性の姿が見える。
「あ、あそこです! 右奥の、ピンクの軽自動車がそうですっ!」
課長は頷くと、すっと、その軽自動車の運転席側に同じように前進で車をすべり込ませた。
シートベルトを外す間も惜しんで、飛び降りるように車を出て軽自動車の運転席に駆け寄り、ドアをノックした。
「美加ちゃん!」
ハッと弾かれたように顔を上げた美加ちゃんと、目が会いドキッと身を強張らせる。
美加ちゃんの顔色は、青いくらいに白くて、泣き腫らしてウサギのように真っ赤になった目には、再び涙があふれてこぼれ出した。
カチャリ――と、鍵が開けられ、私はすかさず運転席のドアを開き、目に飛び込んで気た映像にその場で金縛りに陥った。
「美加……ちゃん?」
半袖のブラウスから出た白い右上腕部。
そこに、鋭い刃物で切り付けられたような長さ二十センチほどの痛々しい傷が走っていた。
あふれ出した血を自分で止めようとしたのだろう。血を吸って真っ赤になったハンカチを握る左手は、やはり赤く染まり小刻みに震えている。
そして、引きちぎられたようにボタンが弾け飛んでいる、無残にはだけたブラウスの胸元に、思考が白濁する。
何が、あったの?
「これを――」
後ろに佇む課長に背広の上着を差し出されて、ハッと我に返る。
いけない。
あんたがしっかりしないで、どうするの!
「美加ちゃん、はいこれ。上に着ようか?」
「……」
ぽろぽろと涙をこぼしながら頷く美加ちゃんに、課長が貸してくれた上着を羽織らせてあげる。
小柄なその体は、大きな上着にすっぽり包み隠されて。
本人もいくらか落ち着いてきたのか、無言でしゃくり上げていた美加ちゃんも、「すみません、残業中に来てもらっちゃって」と、エヘへっと笑みを浮かべようとする。
その姿が痛々しくて、思わず抱き寄せてしまった。
華奢な体に小刻みみな震えを感じて、胸がつぶれそうに痛んだ。
フワリと、優しい花の香水の匂いと柔らかな髪の感触にギュと目を瞑り、私は静かに口を開いた。
「病院、行こうか? ケガ、消毒してもらった方が、安心だから。ね?」
私の説得に美加ちゃんは、『否』と、頭を振った。
「大丈夫です。本当に、なんでもないんです。このケガは、自分でH鋼の角にぶつけて切っちゃったんです。ほら、切りっ放しの鉄材って、ガラス並に良く切れて大げさに血が出るから……」
「でも……」
鉄材にぶつけて切ったと言うのは、本当かもしれない。
確かに、鉄の切断面は刃物のように鋭利で、ちょっと間違ってぶつけただけでも、スパッと切れて結構血が出るのだ。完成検査などで、工場に入ることもあるので、私も何度か痛い思いをしている。
言葉通りに自分でぶつけたのだとすれば、十中八九、大木鉄工の工場でケガをしたのだろうと思う。
じゃあ、なぜ、大木鉄工で手当てを受けずに、美加ちゃんはこんな所で、一人で泣いているの?
引きちぎられたようなブラウスの胸元が脳裏をチラつき、浮かんだ嫌な予感を唇を噛んで追い出そうとした。
抱きしめていた美加ちゃんから体を離し、顔を覗き込んで口の端を上げる。
「とにかく、ケガの手当てをしようか? あ、課長、コンビニで、消毒薬と、ガーゼ。あと紙テープか包帯があれば、買ってきてもらえますか?」
「分かった」
頷きスッと身を引くと、課長は、コンビニへと足を向けた。
「ねえ、美加ちゃん。話したくないなら、無理にとは言わないけど。良かったら、……何があったのか、教えてくれるかな?」
躊躇うような、沈黙の後。
「社長がっ……」
絞り出された呟きが、私の脳裏に、ずんぐりと背の低い父親世代の、大人しい男性の姿を思い起こさせた。
「社長? 社長って、大木鉄工の、社長さんのこと?」
こくん――と、美加ちゃんは頷いた。
人当たりが良くて大人しい感じの人だけど、あの人がどうしたっていうの?
胸の奥に、モヤモヤとしたどす黒い暗雲が垂れ込める。
「社長さんが、どうしたの?」
「……図面を届けに行ったら、なんだか、奥さんが留守で社長一人しかいなくてっ……」
社長が、一人だけ?
漠然とした不安が、一つの形を作り始めて行く。
「最初は、普通に図面の打ち合わせをして……でも、急にっ……」
美加ちゃんは、少しずつ、事の成り行きを話し始めた。