32 親友-3
美加ちゃんの叫び声と椅子を押し倒した音は、適度に賑やかな社員食堂の、隅々に響き渡った。瞬間、水を打ったように静まる空気と、集まる視線に私は慌てふためいた。
「美加ちゃんっ」
声を最小音量で、絞りだす。
「あ、はい、つい。すみませぇん……」
さすがの美加ちゃんも、皆に注目されては小さくならざるをえない。でも小さくなったからと言って、集まってしまった好奇の視線はすぐには消えずてくれず。
そこここから『なに、ケンカ? あの二人、工務課の子でしょ、何かもめてるわけ? 男の取り合いとか?』などど、内緒話には程遠い音量の揶揄のこもった尖った言葉が飛んできて、グサグサと体中に突き刺さって痛い。
こう言う時は、逃げるに限る。
「とにかく、出よう」
「は、はいっ」
好奇心たっぷりの視線の集中攻撃に耐えられず、逃げるように社食を後にした私たちは、美加ちゃんの提案で、お昼時の憩いスポットの一つである屋上へと、足を向けた。
最上階の十階までエレベーターで行き、そこから階段を上ってグレーの重いスチールドアを開けば、その向こう側に広がるのは、梅雨に突入したばかりの、六月の空。
もちろん、抜けるように青さはなく、今にも雨が降り出しそうな暗雲が垂れ込めている。昨日とは打って変わって、まるで春を飛び越えて冬に逆戻りしたかのような肌寒さだ。
そのおかげで、いつもならチラホラいる屋上ランチ組の姿もなかった。
吹き寄せてくる冷たい風になぶられて、ゾクゾクと背筋に寒気が走り身を震わせる。
「ひゃー。寒っ」
東北育ちでも、寒いものは寒い。
むしろ、ジメッと湿度が高いためか、更に寒く感じる。
不摂生と精神的ダメージで、バイオリズム低下しまくりの今の私では、風邪を引きそうだ。
このクソ忙しい時期に、寝込みでもしたら目も当てられない。
仕事しか取り柄がないのに。
と、自分で自分をかき抱き、首をすくめた。
「美加ちゃん、今日は、やめておかない?」
「やめません! じっくり、とっくり、聞かせてもらいますよ、週末デートの顛末を」
「いやぁ、さっき言ったのが全部だから。他には本当、何もないです、誓います」
「本当ですか?」
真っ直ぐ見上げてくる、小型犬を思わせる愛らしい大きな瞳がいつになく真剣な色を帯びていて、うっと、答えに詰まってしまう。
「えーと……」
「何も、なかったんですね?」
「……」
真っ直ぐな瞳に見据えられて、視線がふらふらと泳ぎまくる。
いや、あったけどさ。やっぱり、言えないよ。
言葉にすればそのぶん、又心の奥が鈍い痛みに苛まれることになる。一番の方法は、考えない事。なんだけど……。
美加ちゃんは、追及の手を緩めてはくれない。
「先輩。あたしがただの好奇心で、しつこく聞いていると思います?」
「ううん。思わないけど……」
その私の言葉に、美加ちゃんはニコリと口の端を上げた。
それはもう、まさに『してやったり』の会心の笑顔。
「語るに落ちましたね。『思わないけど』の次に出る言葉は『言えない』。ってことは、他にも何が重大事件があったということ。ですよね?」
「いや、それは、『思わないけど、何も無いから言えない』ってことで……」
「先輩。嘘つきは、泥棒の始まりですよ?」
うん? と悪戯めいた瞳で見上げられ、背筋に嫌な汗が伝い落ちる。
うううううっ。
やっぱり、私は、嘘を付くのが超ド級に下手くそなのだと、悲しくなる。
「先輩?」
もう、限界。
もうこれ以上は、嘘がつけない。
観念した私は、しぶしぶ口を開いた。
「パーティの後の二次会……の後に、課長とね」
「二次会の後に、課長と?」
ゴクリと、美加ちゃんは固唾をのんで、次の私のセリフを待っている。
ええい、くそっ。
どうせ、何かあったことはバレているんだ。
相手は美加ちゃんだ。噂になる心配はないから言っちゃえっ!
「エレベーターの中で、その、あの……」
言葉にしようとしたその瞬間。
一気に『あの光景』が脳裏を駆け巡り、顔に血が上って、キスのキの言葉が音声にならない。
「エレベーターの中で、なんですかっ? 何があったんですかっ?」
「えっと……キス、しちゃいました……みたいな?」
言葉を放った刹那。落ちた沈黙が、痛すぎる。
「……キス、したんですか?」
事実を確認するように、美加ちゃんは静か口の中で復唱する。その表情に浮かんでいるのは、驚きと、何かを逡巡するような難しげな色。それは、日頃元気な美加ちゃんが、あまり浮かべたことがない種類の表情で、意味もなく胸の奥がざわめく。
もしかして、美加ちゃん、怒ってる?
「……うん。あ、でも、ほら。私も課長もお酒が入っていたから、その場の雰囲気でって言うか。偶発事故って言うか。まあ、そんな感じだから、特別意味のあることじゃないのよ」
きっと、そうだ。
自分に言い聞かせていたら、美加ちゃんはニコリともせずに固い表情で、鋭すぎる質問を投げてきた。
「先輩は、課長にそのキスの意味を聞いたんですか?」
「え?」
「どうして、キスしたのか、聞いたんですか?」
「ううん……」
否、と頭を振る私に、美加ちゃんは、ぴしゃりと言い放った。
「どういうつもりなのか、ちゃんと聞かなきゃ、だめです」
「でも……」
「デモもストもないです。このままウヤムヤになって、課長は婚約者とラブラブでそのうち結婚なんかしたりして、先輩は一人寂しくこのクソ忙しいお堅い仕事一筋に生きる、なんてことになっても良いんですかっ?」
淡々としたトーンの声なだけに、迫力が違う。
「堅いお仕事って、上手いこと言うわね美加ちゃん」
確かに鉄骨建築の図面書きなんて、堅いことこの上ない。
変なところで笑いのツボを刺激されて、思わずへらっと笑ってしまった。
でも、美加ちゃんは表情を崩すことなく、尚も真剣な面持ちで淡々と言葉を紡いでいく。
「あたしが、いつも先輩と課長のことを囃し立てていたのは、先輩も、そして課長も、お互いに想い会っていることが分かったからです。好きな者同士が惹かれあって、愛しあって何がいけない、ってのがあたしの持論ですから」
ふう、と一つため息を吐き、美加ちゃんは言葉を続ける。
「先輩を見てると、もどかしいんです、あたし。仕事だってバリバリできて、ちゃんとメイクすればすごく綺麗なのに。最初から自分には無理だって諦めてしまっている。でも、それじゃ、何も始まりませんよ?」
最初から、諦めている。
そう。その通りだ。
でも、私は、私が最善だと思う道を辿っているだけだから、他に、どうしようもない……。
「そう……だね」
「このままじゃ、恋も運もみんな逃げだしちゃいますよ。知ってます? チャンスって言うのは、前髪が長くて後ろ髪が禿げ上がっているんですって」
後ろ髪が禿げ上がっている、チャンス?
キョトンと見つめていたら、美加ちゃんはふっと目元を和らげで、口の端をあげた。
「だから、チャンスが来たと思ったら、迷わずすかさず、長い前髪をガッチリ掴んで自分に引き寄せるんです」
そのビジョンがリアルに思い浮かんで、思わずクスリと笑い声が漏れた。
「でも、手を伸ばすのをウダウダと迷って、チャンスが通り過ぎてから掴もうとすると――」
わかります? って小首を傾げる美加ちゃんの続きの言葉を、私は声にしてみた。
「『後ろ髪が禿げ上がっている』から、つるつる滑って、掴めない?」
「ピンポーン!」
「上手いこと、言うわね」
本当に関心していたら、「あたしも他人からの受け売りです。エッヘン!」と、美加ちゃん豊かな胸を張った。
「あたしは一人っ子だから、先輩のこと、本当のお姉ちゃんみたいに思っているんです。だから、もっと先輩には、幸せになって貰いたいんです。それだけなんです」
こんなに、一生懸命に私のために心を砕いてくれる人が居る。
心の底から、ジンワリと、温かいものが溢れだし、寒さに凍えた体を温めてくれる。
私って、なんて果報者なんだろう。
私は、美加ちゃんに出会えただけでも、この会社に入った意味がある。
もしも又これから、私が傷ついて泣くことがあったとしても、美加ちゃんなら、その愚痴を快く聞いてくれるだろう。
一緒に泣いてくれるだろう。
そう思える友達がいるって、なんて幸せなんだろう。
「ありがとう。私も、頑張るよ」
「そうそう。頑張ってくださいよー」
真剣に心の内を吐露した反動か、美加ちゃんは少し照れくさそうにおどけてそう言うと、ピッと親指を立てた。