30 親友-1
波乱含みどころか、怒涛のような『波乱しかなかった』パーティとおまけの遊園地デートのダブルヘッダーで、すっかり体力と精神力を使い果たした週末が明けた月曜日の朝。
寝不足で重い頭を抱えつつ、久々のバス通勤をしてきた私は、バスの運行時間の関係で、いつもよりもだいぶ早い時間帯に会社に着いてしまった。
チラリと視線を走らせた腕時計の針は、午前七時十五分。
いつもよりも、四十五分も早い。
まあ、やることはいくらでもあるから、仕事でもしよう。
それにしても。
「ああああ、気が重い、重すぎる……」
今日今から、課長に会って顔を突き合わせて、はたして私は平常心でいられるのだろうか?
日頃でもかなり怪しいのに。
色々な意味で衝撃的だった週末の余韻が覚めやらぬ今日では、さすがに自分でも表情に出さずにいられるか、甚だ自信がない。
『私は、部下のプライベートまでは関知しませんので――』
その一言で、全身に走った衝撃。
降りていくエレベーター。
濡れた頬にそっと触れた、指先の温もり。
背に回された力強い、腕の感触。
胸から伝わる、熱と鼓動。
向けられた、真摯な黒い瞳。
引き寄せられるように重ねあった、唇の熱さ。
『梓、俺は……』
苦しげに落とされたその呟き。
あの夜の課長の言葉や表情が脳裏を過り、治まることのない胸の痛みがズキズキと疼き、その存在を主張してくる。
それに、奥さんが亡くなっていたことと、現在進行形で婚約者がいること。
知ってしまった事実があまりにもショックで、まだその衝撃から抜け切れていない。
その上、飯島さんの『俺は諦めないですから、そのつもりでいて下さい』宣言。
頭が、痛い、痛すぎる。
「はあぁあぁぁっ……」
やっぱり、週末は、何かに呪われてるとしか思えない。
そういえば、週末になると仮面を被った殺人鬼が出没して、人を襲いまくる外国のホラー映画があったなぁ……。
なんて、ネガティブ思考全開で項垂れながら、特大のため息を連発しつつとぼとぼと、まだ閑散としている会社の社員通用口に足を踏み入れた、その時。
「おはよう、ずいぶん早いな」
聞き覚えのありすぎる低音ボイスがすぐ後ろから飛んできて、ギョッと足を止めた。
うわー。うわー。まだ心の準備ができてないよー。
なんでいきなり、会うかな。
「課長、おはようございます」
ニコリと引きつった笑顔を作ってどうにか声を絞りだし、振り返ればそこには声の主、谷田部課長がいつものニコニコスマイルを浮かべて立っている。
さすがと言うか小憎らしいと言うか、その表情に怒涛の週末の余波は欠片も浮かんでいない。
「週末は、色々とお疲れさま」
朝だからか、いつもよりも低めの優しい響きを持った声音が耳朶をたたき、条件反射で身が強張るのを止められない。
「いいえ私はぜんぜん。課長こそ、お疲れ様でした」
軽く会釈をして、先に歩き出した課長の後を少し遅れて付いて行く。
ああ、私って、何処までも間抜けだ。
いつも私より先に出社しているこの人と鉢合わせする可能性が、頭からスコーンと、抜け落ちていたなんて。
どこかで時間をつぶして来るんだった……。
なんて、今更どうにもならないことをウダウダ考えていたら、課長がエレベーターの前で足止め、同じ一階のフロアにある自販機コーナーに視線を走らせて呟いた。
「コーヒーでも飲まないか?」
「えっ?」
げげっと、笑いが引きつる。
何を、言い出すんだこのお人。
「どうせ、まだ誰も来てないだろう?」
そりゃあ、そうだけど。
課長と二人っきりで、モーニング・コーヒー?
冗談でしょう?
「それに、君に、渡したいものがあってね」
「え?」
課長が私に、渡したいもの?
遊園地で、何か忘れ物でもしたのかな、私。
パーティで着換えを忘れたこともあって、なんだか自分の素行に自信が持てない。それに。
「ええっと……、はい。ご相伴させて頂きます」
今の私に、断る理由も根性もなかった。
自販機コーナーには、四人掛けの白い丸テーブルセットが並べられていて、そこで飲食できるようになっている。喫煙ブースもすぐ脇に併設されているので、社員の息抜きスポットになっていた。
私たちのように、朝のコーヒーを楽しむ社員もいるようだけど、さすがに今の時間帯には誰もいない。
紙カップ入りのコーヒーを各々買った私と課長は、ガランとした自販機コーナーの一番奥の窓際に、向かい合って腰を下ろした。
――のは良いものの、やっぱり、かなり気まずい。
まともに視線を合わせたら赤面しそうで顔が上げられない。
猫舌をこれ幸いと、まだ熱々のコーヒーに口を付けることをせずに、カップを手のひらの中で弄びながら上がる湯気に視線を落として、疑問を質問に変えた。
「あの、私に、渡したいものって、なんですか?」
「ああ」
視界の隅で課長は頷くと、胸ポケットから折りたたまれた白い紙を取り出して、『君に、だそうだ』と、その紙を私の方に差し出した。
何? 何かの書類、にしては、厚ぼったい紙だ。
カップをテーブルに置き、紙を手に取り広げて落とした視線が固まった。
B5ほどの大きさの白い紙の真ん中に、顔が描いてある。
クレヨンの淡く優しいタッチで描かれているのは、髪を首の後ろで束ねたメガネをかけた女性の顔。
その表情は、ニコニコと満面の笑みに彩られていた。
これが誰なのか、誰の手によって描かれたものなのか、聞くまでもない。
だって、一生懸命書いたことが伺われる、たどたどしいひらがなで、『たかはしさんへ。あそんでくれて、ありがとう。またあそぼうね! まりより』と書いてある。
心の中に広がったのは、ホンワカとした温かいもの。
あの時、遊園地で繋いだ可愛らしい手のぬくもりや天使のような笑顔が胸を過り、思わず笑みがこぼれた。
ああ、そうだった。
確かに衝撃の連続で、とんでもない怒涛の週末だったけど、素敵な思い出もあったのだ。
「これ、私がいただいてしまって、良いんですか?」
課長の顔に、『父親』の慈愛に満ちた柔らかい笑みが浮かぶ。
「どうぞ、迷惑でなければ、貰ってやってくれないか。ちゃんと忘れずに君に渡すように、厳しく言いつかっているのでね」
腰に手を当てて、『忘れちゃだめよ。パパ!』と、課長に『厳しく』言いつけている真理ちゃんの様子が目に浮かんで、ますます私の笑みは深くなる。
「ありがとうございます。とっても喜んでいたって、伝えて下さいね」
「ああ、伝えるよ。真理も喜ぶだろう。それと……」
「はい?」
躊躇うように濁された言葉の続きが気になり、落としていた視線を何気なく上げた。その瞬間、真っ直ぐな視線に捕まって、思わず息を飲む。
だるまさんがころんだ。
動けない。
磁力を帯びたような真剣な眼差しに捕らわれて、視線が外せない。
痛いほどの沈黙が流れたのは、たぶんほんの短い時間。
でも、私の鼓動が暴れまくるには、充分な時間だった。
「……課長。他にも何か?」
なんとか言葉を捻り出し、強張った顔に引きつった笑いを張り付ける。
ふと、もしかして、私と飯島さんとの関係について聞きたいのだろうか? と言う考えが頭に浮かんだけど、速攻で削除した。
そんなこと、課長が気にするわけはない。
私はただの部下で、課長は部下のプライベートには関知しないと明言しているのだから。
でも――。
「……いや、なんでもない。用件は、それだけだ」
怖いのに、静かに落とされた呟きの陰に隠されているはずの課長の本心を、知りたいと思うのは私のエゴだろうか。