29 逢瀬-5
ゆっくりと、でも確実に。
地上は遠のき、星の瞬き始めた夜空が視界を埋めていく。
四人掛けの観覧者に飯島さんと向かい合って座った私は、窓の向こうに見えるどこか物悲しく感じる夜闇に包まれた景色から、目の前に座る人に視線を移し、静かに口を開いた。
「飯島さん。実は私、ずっと、好きな人がいるんです」
伝えたいことはただ一つ。
今更、どんな綺麗な言葉を並べ立てても、それは変えようがない。だから、私はズバリと核心のみを伝えた。
真剣な眼差しで私の言葉に耳を傾けていた飯島さんは、フッと自嘲気味な笑いが浮かべ、淡々と言葉を紡いだ。
「そんなこと、始めから知っていましたよ。俺がいったい何年、あなたを見てきたと思うんですか?」
何年って、初めて現場で顔を合わせたのは、確か三年前――。
「三年前ではないですよ?」
「……え? だって」
「確かに、俺が清栄建設に入社してあなたと初めて仕事をしたのは、三年前です。でも、俺があなた初めて見たのは、六年前。藤堂ビル建築工事の時なんですよ」
『たぶん、あなたは覚えていないと思いますけどね』
そう前置きして、飯島さんは、私に初めて会った時のことを淡々と語ってくれた。
それは、六年前。私が『初めて自分が担当した』ビル建築工事で、やはり清栄建設からの受注物件だった。
地下二階。地上十階建のSRC、鉄骨鉄筋コンクリート造りのビルで、私にとっては何もかも初めてづくしの失敗だらけの大変な工事だった。
毎日毎日図面修正に明け暮れて、工場からはここがおかしい、ここが変だと苦情を言われ、揚句に、いざ現場での鉄骨組み立ての段階になってみれば、取引き先の手違いで、それが無ければ工事が進まない部品であるボルトが届かず、自分で注文先を駆けずりまわって軽トラックで現場に運び込む羽目にもなったと言う。
とにかく、胃が痛くなるような怒涛の初現場だったのだ。
そこに、なんと、当時二十歳の大学生だった飯島さんは、アルバイトとして働いていたのだそうだ。
『女だてらに、事務服に安全ヘルメットにスニーカー、小脇に図面を抱えて現場を闊歩するその姿に、ひとめぼれした』のだと、そして私と仕事がしたいがために、大学卒業後、迷わず清栄建設に入社し、私が担当している区域の工事に配属されるように希望を出し続けて今に至るのだと、そう言って、照れくさそうに笑った。
こんな風に、私を思っていてくれたという事実は、とても嬉しい。それこそ、涙が出そうなくらいに、嬉しい。
だけど、それでも。
「すみません。今はまだ、その人の事を忘れることが出来ないんです。だから、飯島さんとお付き合いすることはできません」
動き続ける観覧者の中に流れる沈黙を破ったのは、静かな、でも私の心臓を鷲掴みにするほどの核心を突いた、飯島さんの言葉だった。
「その人って、谷田部さん……ですよね?」
真っ直ぐに向けられた飯島さんの瞳に、怒りの色は見えない。
違います、と言うのは簡単だ。
嘘をつけばいい。
家庭のある上司に、恋心を抱いているなんて。
仮にも、大口の取引先の会社の人に、言って良いようなことじゃないと分かってるけど。
「はい、そうです……」
私の口からこぼれ出したのは、真実を告げる言葉だった。
彼には、確信に近いものがあったのだろうか。
私の想い人が既婚者である谷田部課長だと聞いても、飯島さんの表情には、さして大きな変化はなかった。
「正直に話してくれて、ありがとう」
と、それまでと変わらない柔らかな笑みを湛えた顔で礼を言われ、なんと反応して良いのか分からず、ただ彼の真っ直ぐに向けられた瞳を見つめ続けることが出来ずに、すうっと、逃げるように足元へ視線を落とした。
心の内に揺れるのは、羞恥心。
私は、自分が嘘を付くのが嫌だっただけ。
ことさら、飯島さんの気持ちを思い遣って真実を話したわけじゃない。なのに、こんな穏やかな表情で礼を言われたら、罪悪感を覚えずにはいられなくなる。
いっその事、『非常識なヤツ』となじられた方が、自覚している分耐性ががあるし、素直に『ごめんなさい』と謝れて楽だろうと思う。
ああ、恥ずかしい。
二十八年生きて来て、今だかつて、こんなに自分の行動を恥ずかしいと感じたことはなかった。
頂上に差し掛かった観覧者は、微かに揺れながら、音もなく下降していく。
自分の卑小さを再認識させられて羞恥心に身悶えながら、一刻も早くここから逃げ出したい衝動に駆られている私には、その下降スピードがやけに鈍く感じられた。
沈黙が、痛い。
やっぱりここは、謝っておこう。
そう思い、足元に張り付いている視線を引っ剥がして、相変わらず真っ直ぐに向けられている飯島さんの瞳を見据えた。次の瞬間、視線が合ったその刹那、飯島さんは、耐えきれないように、プッと噴き出した。
「飯島……さん?」
自分の何が、彼の笑いのツボを刺激したのか想像がつかず、キョトンと目を丸める。
「今、もの凄く恥ずかしいって思っていたでしょう?」
「えっ!?」
心でも読まれたかとギョッとする私の様子を見て、飯島さんは、さも愉快そうに、クスクスと笑いながら言葉を続けた。
「梓さんって、ばか正直に顔にでるから、ついつい苛めたくないなるんですよ」
「ええっ!?」
苛めたくなる!?
ニッと口の端を上げるその表情に覗くのは、イタズラを企むガキ大将のような、少し意地悪な色。
呆然と見つめる私を、更に呆気にとられるような彼の言葉が、これでもかと追い打ちを掛ける。
「俺はね、たぶんあなたが思っているような男じゃないですよ。暴露しちゃうと、谷田部さん親子が今日、ここに来ることを知っていて梓さんを連れてきた――って言ったら、軽蔑します?」
課長が来るのを知っていて……って、わざと鉢合わせするように仕組んだってこと?
でも、どうして、課長たちがここに来るなんて知っていたの?
疑問は、すぐに飯島さん本人が種明かししてくれた。
「実は、昨日の二次会の時、あなたがトイレに立った時に、谷田部さんとの間でその話が出たんです。
『明日家族サービスで、遊園地に行く』ってね。まさかその時は俺自身も、今日こうして二人で観覧者に乗って告白合戦をする羽目になるなんて、予想外だったけどね」
「じゃあ、私が課長に思いを寄せていることを知った上で、鉢合わせするように仕組んだ……って言うんですか?」
「正解」
ニコニコ邪気のない笑顔が、悪魔のそれに見えてきて、脳内が漂白される。
「嘘……」
ああ、飯島さんの『好青年のイメージ』が音を立てて崩れていく。
優しい、良い人だと思ったのに。
そう信じていたのに。
もしかして、私の人を見る目って、節穴だらけなの?
ガーン、ガーンと、目に見えない何かが、私の後頭部を殴打する。
「だから、梓さんが俺の告白を、心の負担に感じることはないんですよ」
――え?
果てしなく落ち込んで俯いていたら、意外なほど優しい声が聞こえてきて、驚いた私は、反射的に顔を上げた。
そして、再び絡み合う視線に、我知らず鼓動が早くなる。
「六年間、待ったんです。今更慌てたりしません。じっくり長期戦で行かせてもらいますから」
――へ?
「それに、あなたが誰を好きだろうと俺は諦めませんから、そのつもりでいて下さい」
はい?
漂白中でまだ機能回復に至らない脳細胞は、疑問符だけを連発する。
そんな状態でも、ただこれだけは理解していた。
飯島さんは、やはり、基本は『良い人』だ。
でも、見た目通りに、『優しいだけの人』ではない、と。
「一つ……、聞いてもいいですか?」
自失を幾分脱し、ようやく回復したばかりの言語中枢を酷使して、どうにか質問を口にする。
「なんなりと、どうぞ」
「私の、何処が、そんなにお気に召したんですか?」
正直、不思議でならない。
飯島さんは、背も高いし、外見だって格好良い。性格も、多少いじめっ子傾向があるけど、良い方だと思う。
勤め先だって日本を代表する大手ゼネコンで、この若さで現場主任を任されるほどの、有望株でもある。
付き合いたいと寄ってくる女性は、いくらでもいそうな気がする。なのに何故、よりによって私なのだろう?
自分で言うのも気が引けるけど、顔は十人並。
卑下するわけじゃなく冷静に判断しても、決して、美人の部類ではない。
スタイルにしても、『痩せている』と言えば聞こえは良いけど、お世辞にも男性に好まれるような、メリハリのある体つきではない。
性格に至っては、不器用の一言につきる。
要領の悪さと融通のきかなさと言ったら、自分でもたまに眩暈を覚えるほどの折り紙つきだ。
『現場での私の姿を見て一目惚れ』だそうだけど、何か大きな誤解と曲解の賜物なんじゃないかと行う気がしてならない。
いや、そうに違いない。
リアルな私の生態を知れば、飯島さんだって、目が覚めるに違いない。
ひたすら自分のマイナス要素を脳内列挙して、思わず眉根にしわが寄った私を見つめながら、飯島さんは尚も愉快そうにクスクスと笑う。
「あなたはね、きっと、自分の良さを分かっていないんですよ」
私の良さ? そんなものがあるのだろうか?
取り柄と言えば、年を食ってることくらい……ってこれも欠点か。
ううっ。分からない。
情けないけど、まったくもって分からない。
ますます渋面に拍車がかかる私に、飯島さんは、ニコニコとのたまった。
「まあ、それも、おいおい教えてあげますよ。じっくりとね」
「……」
いや、教えてほしくはありません。
どうか、放っておいて下さい。
そんな切なる願いは言葉にはできず。
なんだか大変な人に見込まれてしまった事をようやく悟った私は、今更ながら『ガマの油』宜しく、たらーりたらーりと、冷や汗をかいていた。