27 逢瀬-3
県内に遊園地は一つだけ。
でも、実家が東京にある課長が、家族でこの遊園地に『今日』来る確率は、いったい、どのくらいなんだろうか?
よしんば同じ日に来ることが偶然の産物だとしても、こうして鉢合わせする確率は……。
呆然とする頭の片隅で、そんなことをノロノロと考えていたら、さすがに課長。絶句状態からすぐさま回復して営業活動に取り掛かり、やおら飯島さんに向かい合うと、ニッコリと微笑み口を開いた。
「飯島さん、昨日は、お疲れ様でした。二次会、楽しませていただきました」
「いいえ、こちらこそ。楽しかったですよ、とっても」
課長の鉄壁の営業スマイルVS飯島さんの陽気な好青年スマイル。
バチバチと、見えない火花が散ったように感じた……のは気のせいに違いない。
「高橋さんも、遅くまでご苦労様だったね」
スッと視線がかち合い笑顔で言われて、ドキンと鼓動が跳ね上がる。
エレベーターでのキス。コンビニでの会話。
昨夜の出来事が走馬灯のように脳内を駆け巡り、一気に顔が上気する。
「あ、いいえ、ぜんぜん。私も楽しかったです。課長も昨日は、お疲れ様でした!」
ガタンと椅子を鳴らして立ち上がりペコリと頭を下げて、ついでに課長の隣の女性にもペコリと挨拶。そのままイスに腰を下ろして、思わず俯く。
うわー、やばい。絶対、顔、赤くなってるよ、これ。
早く、行ってくれないかな、課長。ボロが出る前に行ってください!
針のむしろのこの状況を一刻も早く抜け出したい。その切なる願いは、可愛いエンジェルちゃんの一言で、儚くも砕け散った。
「パパ、真理もここで高橋さんと一緒に、ハンバーガー食べたい!」
はい?
他人の食べているものを見ると、つい食べたくなる。子供なら、なおさらだろう。だけど、どうしてよりによって、『私と一緒』なんだ?
課長、ここは、父親の威厳ってヤツでエンジェルちゃんを説き伏せて、この場をすぐさま立ち去って下さいっ!
心の中でそう叫ぶ私の気持ちを察してくれたのか、課長自身もそれはさすがに気まずいと思ったのか、ニコニコと、課長の手を引っ張って天使の笑顔でねだる娘のお願いに、少し困ったように眉根を寄せた。
「真理は、さっきレストランで食べただろう? それに、高橋さんはデート中なんだ。邪魔したら悪いだろう?」
デ、デート!?
確かに、傍目にはそう見えるだろうけど、デート……。
ガーン、と後頭部を殴り飛ばされたようなショックに、かろうじて耐え笑顔を浮かべた。
「俺達は、別にかまわないですよ。ねえ、梓さん」
「えっ!?」
梓さん!?
いきなりの飯島さんの名前呼び攻撃に脳内漂白するも、ハッと我に返り、なんとか言葉をひねり出す。
「あ、はい、良かったら、どうぞ」
私と飯島さんの言葉に『我が意を得たり!』とばかりに、真理ちゃんは、ちょこんと私の隣に腰を下ろした。
「真理、よしなさい。ご迷惑だよ」
すうっとしゃがんで真理ちゃんと自分の目線を合わせると、課長は静かな声で、そうたしなめた。でも、真理ちゃんは意に介した様子もなく、ニコニコと更に自己主張を続ける。
「パパは、玲子さんと一緒に、お散歩してきていいよ。真理だけここで、ハンバーガーを食べるから。せっかくのデートなんだから、二人っきりでお話ししたら?」
ええっ!?
ニコニコと天使の笑顔で、可愛らしいピンクの唇から発せられた、少し皮肉すら感じられる大人顔負けのセリフに驚き、まじまじと発言主の顔に見入ってしまう。
うわぁ。さすがに課長の娘。
この年で、このセリフを言ってしまうのか。
「真理、いい加減に……」
「東悟さん。私も、そうしていただけると嬉しいですわ。二人だけでお話ししたいこともありますし」
困ったように眉根のしわを深くして、尚も娘の説得を試みる課長の言葉は、凛と響く、美しい声に遮られてしまった。
で、『ですわ』?
リアルで初めて聞いたセレブリティ溢れるその物言いに、作った笑顔が引きつった。
「でも、それでは……」
たぶん、『私たちの迷惑になるから』と、続くはずの言葉を飲み込み、課長は短く息を吐いて、私たちに視線を向けた。
部下としては、ここは上司サービスで『お子さんはお預かりしますから、どうぞお二人で』と、言うべきだろう。
そう思うけど、あまりの事の成り行きに脳細胞が付いて行かず、巻き添えを食った言語中枢は上手く働かず、笑顔は最早引きつったまま能面のように固り、活動停止中。
ああ、私って、使えない……。
「別にいいですよ。俺、子供好きですから。梓さんもいることだし、喜んでお預かりしますよ」
美女と将来美女になりそうな現天使に熱い視線を向けられて、明らかに困っている様子の課長に、助け舟を出したのは、私ではなく飯島さんだった。
『申し訳ない。すぐに戻るので、お願いします。何かあれば携帯に連絡を』と言い置き頭を下げて、課長は真理ちゃんを私たちに預けると、美女を伴い遊園地の散策に出かけた。
それにしても。
「真理ちゃんのママ、とても美人さんねぇ。高橋さん、びっくりしたよ」
まめまめしく、飯島さんがオーダーを取って買ってきてくれたハンバーガーと、ポテト、オレンジジュースのメニューを、美味しそうに口に運ぶ真理ちゃんに、さりげなく話を振ってみる。
飯島さんは、喫煙タイムとかで、少し離れた灰皿の置かれた喫煙コーナーに行っていて、ここにはいない。
真理ちゃんはポテトをハムハムと飲み込みながら、不思議そうに小首を傾げた。
「玲子さんは、真理のママじゃないよ。パパの婚約者だもん」
え?
ママじゃなく、婚約……者?
各々の単語の意味は分かるけど、それが脳内で意味のある文章にならない。簡単に言うと、意味不明。
「真理のママは、真理を生んだ時に死んじゃったから、真理にはパパしかいないの」
ほんの、五、六歳の少女が口にするには、重すぎるその事実を聞き、なんて言っていいのか分からない。
「そう……なんだ」
「うん。でね、玲子さんはパパの『ノチゾイ』さんになるんだって」
後添いさん。
奥さんが亡くなっていたという事実も、現在進行形で婚約者がいるという事実も、私には、関係のないこと。
そんなこと、分かっている。でも……。
モヤモヤと胸の奥にわだかまるこの感情を、何と呼べばいいのだろう。
自惚れていたんだ、私。
私にとって課長の存在が特別なように、奥さんがいても子供がいてもそれでも、心のどこかでは特別に思ってくれているんじゃないかって、そう自惚れていた。
その証拠に、なぜ、本当のことを教えてくれなかったのかと、心のどこかで、課長を責めるような気持ちがある。
自分は、課長にとってはただの部下。それ以上でもそれ以下でもない。
それを嫌と言うほど思い知らされた。
だから、こんなにショックなんだ。
「……そっか。じゃあ、新しいママは美人さんでいいねぇ」
思ってもいない言葉が、舌の上を滑り落ちる。
「美人だけど、真理はキライ」
「え? どうして?」
子供らしく、唇をツンと尖らす真理ちゃんの顔をまじまじと覗き見た。
「パパが好きな人じゃないから」
課長が好きな人じゃない?
「でも、婚約者なんでしょ?」
「うん。でもパパが決めたんじゃなくて、おじぃちゃまが決めたの」
おじぃちゃま?
またもや、初めて耳にするブルジョワ感溢れるその単語に、目を瞬かせる。
さっきの婚約者嬢の『ですわ』にしろ、今の真理ちゃんの『おじぃちゃま』にしろ、そこの漂うのは私とは縁遠いハイソな世界観。
「真理、結婚は好きな人とするのが良いと思うの。セイリャク結婚なんて、時代遅れよ。そう思わない高橋さん?」
「あ、あははは……」
確かに時代遅れだとは思うけど、人様の家庭の事情に口を出すわけにはいかない。
「そうかもねぇ……」
もう、笑ってごまかそう。
『政略結婚』、その単語が決定打だった。
もしかしなくても、課長は所謂『セレブ』と言われる人種なのだろう。ごく普通の一般庶民の家庭で政略で結婚する必要はないのだから、それなりの家柄なのだ。
なんだ。
そうか。そうだったのか……。
始めから。もしかしたら、出会った当初から二人の間に特別なものがあるなんてのは私の激しい思い込みで、一方的な私の片思いだったのかもしれない。
今更ながら、私は家の事も含めて、東悟の事を何も知らない。
大学の先輩だった『榊東悟』時代から、今の上司である『谷田部東悟』まで、私はあの人の事を見事なまでに何も知らないのだ。
それこそ、婚約者がいることすら、知らなかった。
ああ、なんだか、果てしなく落ち込んできた。
「それにね」
「うん?」
「玲子さんは、パパがいる時といない時で態度が違うから、キライなの」
「そ、そうなの?」
「うん、そうなの」
子供の目は侮れない。
真理ちゃんがそう感じるのなら、あの美しい人は、多かれ少なかれ、そういう態度を取るのだろう。
それに、この子はとても賢い。
父親の気持ちを見抜けるほどに。
でも、年に似合わぬその賢さが、なんだか悲しく思えた。
私がこのくらいの頃、世界はもっと単純で優しかった。楽しいことで満ち溢れていた。
ここは、遊園地。隣は動物園。
子供は、楽しく遊ばなければ。
この子にも、父親の婚約者に気を使うことなどなく、そんな時間を過ごす権利があるはずだ。
「よぉし! 真理ちゃん!」
「なあに?」
オレンジジュースを飲みながら首を傾げる真理ちゃんに、私は作り笑いではなく、会心の笑みを向けた。
「食べ終わったら、高橋さんと一緒に、乗り物に乗ろう!」
真理ちゃんの顔に、子供らしい満面の笑みが浮かぶ。
「うん!」
そう、ここは遊園地。
大人だって、めいいっぱい楽しんでいいはずだ。
嫌なことは全部、忘れよう!