26 逢瀬-2
刻一刻と、『その時』が近づいていた。
暴れ出した鼓動と共に高まっていく初めての感覚に、全身がピリピリと張りつめていく。
力を込めて握りしめた手のひらから伝わるリズミカルな振動が、早まる鼓動に拍車をけて、更に私を追い詰める。
「うっ……」
あまりの緊張感と恐怖感の合わせ技に、思わず口からうめき声が漏れてしまう。
怖い。
怖すぎるっ。
ギュッと握りしめた両手に、救いを求めるように更に力を込める。
女歴二十八年で体験するこの恐怖。
やっぱり、よすんだった。やめておくんだった。
後悔しても後の祭りで。
ことここに至ってしまえば、今更、逃げ出すことなどできはしない。
パニック寸前の脳細胞でも、そのくらいは理解できる。
でも、怖いものは怖いのだ。
『大丈夫。ぜんぜん怖くないから、平気ですよ』
飯島さんの陽気な笑顔に、コロッとその気になった自分の浅はかさが、恨めしい……。
この手のことは、はっきり言って得意じゃない。否、得手不得手以前に、大っ嫌いだっ!
「高橋さん、目を瞑っていたら、何も見えませんよ?」
俯いて、ひたすら体を強張らせている私にの耳元に、笑いを含んだ飯島さんの明るい声が落ちてくる。
そんなこと言っても、体が言うことを聞かないんですってば!
「ううっ……。どうせっ」
手足にめいいっぱい力を込めているせいで、思うように声が続かない。
「どうせ?」
「どうせ、メガネを外したら、何にも見えませんからっ」
見えないことが、余計に恐怖感を煽ってしまう。なら、目を開ければ良いようなものだけど、防御本能と言うヤツが勝手に反応してしまうのだ。
「でも、全く見えない訳じゃないでしょう? ほら、ほら、目を開けて」
って、人の頬っぺたをつっ突くんじゃない、好青年!
いや好青年の皮を被った……ガキ大将めっ!
心の叫びは声にはならず、次の瞬間、体を包んだ浮遊感に全身が凍った。
ひ、ひ、ひえーーーーっ!!
「うーーーーっ!?」
ストンと気分は垂直落下。そしてすぐさま右に左に斜め上。
変幻自在で体にかかる重力と遠心力の相乗効果の荒業に、声にならない悲鳴を上げ続け。
「ほら、目を開けて!」
飯島さんの声に励まされて、おそるおそる開けた目に飛び込んで来たのは、一面のブルー。
その色彩に視界を満たされた瞬間、すべての音が消えた。
そこここで上がっていた悲鳴や歓声。
自分の荒い呼吸音すら消えたその瞬間。
ああ、綺麗だなぁ……。
と、確かに感じた。
飯島さんが私を連れて行ってくれたのは、県北にある県で唯一存在する『遊園地』だった。
規模はさほど大きくなく、動物園と併設されている老舗のテーマパークだ。
今日は、折しも土曜日。
それも晴天のお昼時となれば、親子連れやカップルで大賑わい――、かと思いきや、不景気な世情を反映してかそれほど人出は多くなく、どこかのんびりとした空気が漂っていた。
遊園地内の軽食スタンドでハンバーガーセットを買い込み、パラソル付のテーブルセットの一つに私と飯島さんは陣取った。
周りを見渡せば、幼い子供連れの親子が、賑やかにテーブルを囲んでいる姿が目に入る。
楽しげにじゃれあう子供たちと、それを見守る両親の慈愛に満ちた笑顔が、脳裏に懐かしい思い出を甦らせる。
私が小さい頃。
まだ父が現在で、母は忙しく仕事に追われることもない専業主婦だったあの頃。あんな風に家族水入らずで、遊園地に連れてきてもらったことがある。
楽しくて、温かくて、そして、幾ばくかの切なさを内包した懐かしい記憶――。
「しかし、本当に初めてだったんですねー高橋さん」
愉快そうな飯島さんの声に、ハッと現実に引き戻される。
「あ、あはははは……」
ジェットコースターから、ヘロヘロの体で飯島さんに抱えられるように降りてきたのは、ついさっき。
まだ、足元がフワフワしている。
怖かったけど、なんだろうこの感覚。
「あれは、けっこう癖になるんですよ」
ビッグ・サイズのコーラのカップを口に運び、ゴクゴクと美味しそうに飲みながら、飯島さんは笑う。
そうか、『怖いけど、又乗りたい』。
そう感じるこの感覚を『癖になる』と言うのか。
「そうですねー」
「じゃ、食べ終わったら、もう一回チャレンジしてみますか?」
少し意地悪そうにニヤリと口の端を上げる飯島さんに、ブルブルと頭を振る。
「食べた後に乗ったら悲惨なことになりそうだから、遠慮しておきます」
「それは、残念。高橋さんと二人で、またあの目くるめく感動を味わいたかったのに」
「あ、あははは……」
確かにある意味、『目くるめく感動』には違いない。
飯島さんと、遊園地。
意外と言えば意外だけど、似合っていると言えば似合っているかもしれないこの組み合わせ。
始めこそぎこちなくてギクシャクしていた私も、飯島さんの飾らない底抜けの明るさに引っ張られて、いつの間にか、このひと時を楽しんでいた。
明るくて、行動的で、楽しくて。
こういう人を、ネアカって言うのだろう。
今まで、私の周りにはいなかったタイプの男性だ。
少し強引だけど、嫌味がないから、その強引な行動も思わず笑って許せてしまうようなところがある。
この人は、きっと男女の別なく友人が多いのじゃないだろうか。
学生時代に比べれば、社会に出て揉まれた分、いくらか対人関係に進歩の跡が見られる程度の私からすれば、美加ちゃんとはまた違う意味で、羨ましい存在ではある。
「でも、よかった」
「はい?」
脳内で飯島さん分析に勤しんでいた私は、今までとは違う穏やかなトーンの声に引き寄せられて、彼の顔に視線を走らせた。
相変わらず、まっすぐ向けられる視線は、声と同じように穏やかで優しい。
「笑ってくれて、よかったと思って」
「え?」
その言葉の意味が分からず、小首をかしげていると、飯島さんは鼻の頭をポリポリと書きながら、私の疑問に答えてくれた。
「今朝電話を掛けたとき、高橋さんの声がものすごく沈んでいるような気がしたんです。ああ、何か嫌なことでもあったのかな? って。で、実際コンビニの駐車場で会ってみれば、泣きはらしたような目をしているし、ああ、これは何かあったなって」
それで少しでも笑ってほしくて、断られるのを覚悟で強引にデートに誘ったのだと、そう言って、飯島さんは笑った。
『何があったのか?』とは、問わない彼の優しさが、ありがたいと思った。
『明るく陽気で仕事ができる大手ゼネコンの現場監督さん』
この人は、思った通りの人だ。
ううん、それ以上に、人の痛みを察することのできる優しい人。
正直に言って、私はこの人が好きだ。
もちろん、『LOVE』ではなく『LIKE』。
情愛ではなく、友愛。
だからこそ、伝えなくてはいけないことがある。
今が、それを伝えるときだ。
ぎゅっと、膝の上で両手を握りしめ、私は意を決して口を開いた。
「あの、飯島さん……」
「はい?」
「昨日のお話しなんですけど――」
本当は、昨日の二次会で告白されたときに、きちんと答えなければいけなかった自分の気持ちを伝えるべく、言葉を続けようとしたその時。
ピョコピョコと、視界の端に、何か見覚えのあるものが動くのが見えた。
あれ?
脳裏をよぎる既視感に、ドキンと、鼓動が跳ね、ゆっくりと視線を巡らせる。
私から見れば前方。
食事スペースの脇の煉瓦敷きの通路を、元気に歩いてくる小さな人陰に、さらに深まる既視感。 女の子だ。
パステルピンクのワンピースに赤いサイドポーチを肩から斜にかけた、とても可愛らしい女の子が、私の方に近づいてくる。
好奇心と希望に満ちあふれた黒目がちの大きな瞳と、ほんのりと上気したプクリと丸みを帯びた頬。彼女が動くたびに、ツインテールの髪がひょこひょこと上下して、その白い頬をサラサラと撫でる様は、まるで子ウサギのようだ。
少女の面差しは『ある人』を思い起こさせ、私の鼓動はますます大きく跳ね回った。
まさか。そんな偶然、あるわけがない。
他人の空似よ。他人の空似。ほら、子供って、みんなよく似ているもの。
「高橋さん? どうかしましたか?」
「あ、いいえ、なんでもないで――」
不安を払拭するように呟いたその言葉は、最後まで発することができなかった。
なぜなら。
「あれ、お姉さん。パパのカイシャのドウリョウの高橋さん?」
私のテーブルの前で足を止めた少女が、ニッコリと邪気の無いエンジェル・スマイルでそう声をかけてきたからだ。
キュッと下がる目じり。
小首を傾げる様は、まさにエンジェル。
「えっと……」
確か、名前は。
「真理……ちゃん?」
「はい、谷田部真理ですっ。パパが、おセワになってます!」
少女はあの時のように、『ペコリ』と礼儀正しくお辞儀をする。
「あれ? 谷田部ってもしかして課長の谷田部さん?」
「はい、カチョウの谷田部東悟ですっ」
珍客乱入に、目を丸める飯島さんの呟きに、その子、真理ちゃんはニコニコ笑顔で大人顔負けの挨拶をした。
ドキドキドキと、鼓動が限界点で暴走する。
この子がいるってことは、十中八九。
「真理、一人で先に行ったら迷子になるって……」
少女を追って歩いてきたその人、谷田部課長は、私と飯島さんに気付いて、さすがに絶句した。
そして、課長の腕に手を添わせて優雅な足取りで歩いてきた、美しい女性に、視線が釘付けになる。
おそらく何某のブランドであろう、品の良いライト・ベージュのワンピーススーツに身を包んだその人は、私たちに気付くと、自然なウェーブのかかった栗色の髪をフワリとなびかせて、課長の隣で微笑んだ。
香水だろうか。風に乗って届いた甘いフローラルの香りが、鼻腔をくすぐる。
「東悟さん、この方たちは?」
凛と、澄んだやわらかい声が、凍りついてしまった私の鼓膜を震わせる。
なんでまた、こんな所で、こんな状況で鉢合わせするのか?
宝くじも当たったことがないのに、なぜ、こんな天文学的なぶち当たり方をするのか。
――やっぱり、週末は呪われている。
今度ばかりは、私はそう確信した。