24 郷愁-2
私の父親は、とても寡黙な人だった。
大工という職業柄か生来がそう言う気質だったのか、何をするにも黙々と作業をする人で、私が幼い頃には良く仕事で出た木っ端を使って、お手製の『積み木』を作ってくれた。
紙やすりを持った大きくて節くれだった武骨な指が、鋭くささくれている木っ端の角を、丸みを帯びるまで何度も何度も丁寧に往き来する。
ザラリザラリ、ザラリザラリと、
まるで子守唄のような優しい響きを持ったあの音が大好きで、少しずつ形を変えていく様が楽しくて、父の背中越しに、その光景を飽きることもなく見ていた、幼い日。
その頃の自分に、すうっとリンクする。
『もう、わんつかだはんでの、あー坊』
もう少しだからな、と
東北特有の独特のイントネーションを持った低い声が、優しく耳朶をたたく。
ああ、夢だ。お父さんの、夢。
辛いことがあった時。悲しいことがあった時。
決まって、心に大きすぎるマイナスの負荷がかかった時に見るその夢は、私を不器用で頑なな女から、父の娘だった頃の幼い女の子に引き戻してしまう。
たぶん、五、六歳。
お誕生日に買ってもらった、お気に入りの白いワンピースを身に纏い、
耳の後ろで二つに縛った黒髪には、母が結んでくれた、赤いリボンが揺れている。
幼い姿をした私は、使い込まれて黒光りする父の作業場の板張りの床をトテトテと歩み寄り、父の傍らに座って膝を抱えこんだ。
ほんのりと、空気を伝ってくる父の温もりを感じた瞬間、必死で抑えていた感情のタガが飛んでしまった。
ぽろぽろぽろぽろと、後から後から、大粒の涙が零れ落ちて止まらない。
どうしようもなくて、ただ膝に顔を伏せて、『えぐえぐ』としゃくりあげた。
『どした、あー坊。へずねごどだば、あっだのだな?』
辛いことがあったのかと、
フワリ、と、大きな温かい手が、頭をなでる。
その温もりは、あの人のそれを思い起こさせて、ますます涙は溢れだした。
「と……てもっ……。とても、好きな人がいるのっ」
膝に顔を伏せたまま、しゃくりあげながら声を絞り出す私に、父が『そうか』と、静かに頷く気配がした。
「でもね、その人には、好きって言ったらダメなの。言っちゃいけないの」
『そんだんずか?』
そうなのかと、優しく問うその声に、唇を噛みしめて、コクンと頷く。
今でも、好きだと。忘れたことなどなかったと。
その気配を感じるだけで、その声を耳にするだけで、体の細胞の一つ一つが震えるくらいに、もうどうしようもなくなるほど、大好きなのだと。
「……うん。言ったら、その人が困ってしまうから。きっとその人も、心を痛めてしまうから……だからっ……」
――言えない。
言ってしまえば、この想いを吐露してしまえば、あの人は受け入れてくれるかもしれない。
だけど、そうなればきっと、私以上に苦しんで心を痛めてしまう。
そう言う人だって、知っているから。
「言ったらいけないのっ……」
『よしよしよし』と、大きな手のひらが、労わるように私の頭をかき回す。
『それは、切ねぇのぉ……』
優しく響く父の声に、私は、ただ『うん』と頷いた。
上気した頬の熱を奪いながら、とめどなく伝い落ちる涙が、膝を濡らしていく。
ヒヤッとするその感覚で、私は現実に引き戻された。
ふっと、意識が覚醒して、
目の前でぼんやりと像を結んだのは、おなじみ赤いボディ・カラーに青い魚の絵が描かれた、蓋の開いた『サバの味噌煮缶』。
遅れて機能し始めた臭覚が、甘塩っぱい独特の匂いを感知する。
ピキピキと悲鳴を上げる体を、突っ伏してたテーブルから引き起こし、目の前に広がる光景にため息を吐く。
記憶にないから定かじゃないけど、たぶん力任せに捻りつぶしたのだろう、テーブルの周りに転がるのは、グシャリと潰れたビールと酎ハイの空き缶の群れ。
『食い散らかしました』状態を絵に描いたような、柿ピーとイカの燻製の残骸が、そこはかとなく哀愁を誘う。
食べかけの新発売アイスは、すっかり溶けて、白い水と化していた。
荒んでいる。
「まさに、今の私の心のごとく……ね」
昨夜、コンビニでタクシーを呼んだ後。
『いくら近くても、女の子が夜道を一人で歩くものじゃない。だから、君もアパートの前までタクシーに乗って行きなさい』と主張して譲らない課長の頑固さに負けて、歩いてもほんの四、五分の距離をタクシーに乗り。逃げるようにアパートに駆け込んだのが、午前一時を過ぎた頃。
それから、一人で冷凍ごはんをチンして、サバの味噌煮缶を開けてその後は、一人で酒盛りをしたんだった。
そのまま着の身着のままで、テーブルに突っ伏して朝まで眠ってしまったのか。
パーティ用の高級服で、サバの味噌缶でご飯を食べて、一人で酒盛りする、二十八の独身女。
「百年の恋も冷めるわね、きっと」
我ながら、呆れて笑っちゃう。
こういうのを称して、『干物女』と言うのだろう。
思わず乾いた笑いが込み上げる。
こんなだらしのない姿を見たら、飯島さんだって、私とデートしたいなんて思わないだろうに。
そこまで考えを巡らせて、脳裏に甦ったのは、昨夜の飯島さんの真っ直ぐな瞳。
私を好きだと、言ってくれた人。
『初めて会った時から惚れていたのだと』、陰りのない瞳で言い切った人。
正直な気持ちを言えば、あの告白は、嬉しかった。
飯島さんと初めて清栄建設の現場で会ったのは、確か三年前。
三年という時の流れの中で、こんな私を、ずっと見ていてくれた人が居る。
好きだと、言ってくれる人が居る。
それは、男女の情愛とは別にしても、とても嬉しいことだった。
でも、東悟への想いを断ち切れない今の私では、飯島さんでなくても、誰か他の男性と付き合うなんてことは考えられない。
「なんで、はっきり断らなかったんだろう……」
先延ばしにしたところで、出る答えは決まっているというのに。
今更ながら、自分の優柔不断さが、恨めしい。
大きなため息を一つ吐き出し、まだ夢の余波で濡れている頬を、手の甲でごしごしと拭って。重い頭と気怠い体に鞭打ってなんとか立ち上がり、テーブルの上を片付けにかかったその時。
プルルル、プルルル――と、携帯電話の着信音が上がった。
反射的に視線を走らせたた壁掛け時計の針は、午前九時半。
今日は土曜日で、会社は休み。
美加ちゃん、だろうか?
昨夜のパーティの状況が聞きたくて、かけてきたのかもしれない。でも、『もしかしたら課長からかも』と言う可能性も拭いきれなず、ドキドキと鼓動が早まる。
床に放り出されている黒いハンドバックから携帯電話を取り出し、恐る恐る、着信窓に視線を落とした。
「あれ……?」
着信窓には、見慣れぬ携帯電話の番号が表示されていた。
メモリーしてある名前ではなく、電話番号が表示されるのは、相手が初めてこの電話にかけてきた人だということ。
『誰だろう?』と、首をひねりながら、とにかく電話に出ることにする。
プチン、と、通話ボタンを押したその刹那。
「あ、おはようございます!」
私が『もしもし』と、応対するよりも素早く、受話器から飛び出してきた張りのある声に、ドキンと鼓動が跳ね上がった。
「……飯島さん?」
「はい、飯島です。お休みの所に、すみません」
「あ、いいえ。おはようございます。昨日は、お世話になりました」
「いいえ、こちらこそ、お世話さんでした。それでですね、実は、高橋さんの荷物を、預かっていまして」
「はい?」
私の荷物を、飯島さんが預かっている?
どうして飯島さんが?
と言うか、荷物って?
訳が分からず目を瞬かせていると、飯島さんが説明をしてくれた。
「ほら、昨日のパーティで、高橋さん、受付に荷物を預けたでしょう? 受付の女の子が良く知っている娘で、俺が高橋さんと話していたのを思いだして、連絡してきたんですよ」
そう説明されて、ハッとした。
そう言えば、ブティックの紙袋に着換えを入れて、受付に預けたんだった。それを受け取らずに、帰ってきてしまった。
ああ、なんてドジ。
いくら急なパーティだったからって、舞い上がるにもほどがある。
こうして連絡を貰うまでものの見事に、すっかりそのことが頭からすっ飛んでいた事実に、思わず唖然。
「あ、ああ、すみません。こちらこそ、お休みなのに、わざわざお手数をおかけしてしまって……」
「いえ、良いんですよ。気にしないで下さい。むしろこうして電話をする口実が出来て、俺的には、ラッキーってなもので」
カラカラと、陽気な笑いに引きずられて、思わず笑みがこぼれた。
「そう言って頂けると、ありがたいです。でも、どうしましょう。どこに取りに伺えば良い……って、ああ、私、車を会社に置いてきていて、バスで伺うことになるので、少し時間がかかりますが……」
答えの代わりに、飯島さんは質問を返してきた。
「高橋さん、今日、予定は空いてますか?」
「え?」
「今日、何処かに出かける予定は、ありますか?」
「あ、ええ。別にないですけど……」
着換えを受け取りに行ったら、後はのんびり、家の中でゴロゴロとしていよう。久しぶりに、DVDでもレンタルしてくるのも良いかも。思いっきり笑えてスカッとするコメディ映画でも見よう。
なんて、今日の予定とも言えない予定をつらつらと考えていたら、
「それは、良かった」と、更に陽気な答えが返ってきた。
「はい。別に予定はないので、飯島さんの都合さえよければ、今から取りに伺いたいんですが。あの、それで、どこに行けば?」
「高橋さん」
「はい?」
少しの沈黙の後、意を決したように、飯島さんは口を開いた。
「高橋さん。予定がないなら、天気も良いし、今からデートしませんか?」
またもや彼が口にしたのは質問に対する答えではなく、
飯島さんは至極明るい声音で、大きな爆弾発言を投下した。