23 郷愁ー1
ほんの少し手を伸ばせばたやすく届くほどに、すぐ隣に座る人。
その体温を痛いくらいに感じながら、タクシーの後部座席の窓から、ゆっくりと流れていく夜の街並みを、ただぼんやりと見つめていた。
今日はこのまま直帰だ。車は会社に預けて直接タクシーでアパートに帰り、月曜日は、バスで通勤する段取りになっている。
深夜の道路は悲しくなるほど空いていて、ほどなく、見慣れたご近所の風景が見え始めた。
ことここに及んでもまだ、課長と一緒に居たいと思う気持ちが、私の中には確かに存在している。
今更ながらそのことに気付かされ、苦い笑いが口の端を上げた。
本当、救いようがない――。
ミジンコどころか、バクテリア並に掬いようがない。
ふと巡らせた視界の隅。
数十メートルほど先、道路の左側に、闇夜に煌々とオレンジに輝くお馴染みのコンビニの看板が見えて来て、私は運転手さんにその前で止めてくれるように頼んだ。
何だか、無性に母の作った『サバの味噌煮』で、白いご飯が食べたくなってしまったのだ。
さすがに、故郷を遠く離れたこの場所では、その願いは叶うべくもない。でも、せめてサバの味噌煮缶でも買って帰ろうと思った。
缶詰だからとバカにはできない。『お袋の味』には及ばずとも、旬のサバを使って作られている缶詰は、かなり美味しい。私の定番の『家ごはんのおかず』だ。
ヘコんだ時は、美味しいものを食べるに限る。
ホテルの高級なディナーには及ぶべくもないけれど、私にとっては、何よりのご馳走だ。
確か冷蔵庫の中に、缶ビールと缶酎ハイが数本残っていたはずだから、適当におつまみも買って、一人で酒盛りをしよう。
そして、忘れるんだ。
今日あったことはみんな夢だったと、綺麗さっぱり忘れる。
そして、月曜には元気に会社に行こう。
『飯島さんに告られちゃったよー!』って教えてあげたら、どんな顔をするだろう、美加ちゃんは。
驚くだろうか? それとも喜んでくれるだろうか?
そんな想像をしていたら、落ち込んでいた気持ちが少しだけ浮上してきた。
美加ちゃんパワー、恐るべし。
こういう時に、友達ってありがたいって、しみじみと思う。
こうして、その存在だけで、私に元気をくれるのだから。
本当、感謝してもしきれない。
コンビニからアパートまでは、徒歩三分の距離しかない。
周囲は閑静な住宅街で治安も良いから、買い物をしてこのまま歩いて帰ろう。そう思って、課長にその旨を告げて、コンビニの駐車場で停まったタクシーを降りた。
「課長、今日は、お疲れ様でした。お先に失礼します」
ペコリと頭を下げて、返事を待たずに逃げるようにクルリと背を向け、さあ『いざコンビニへ!』と、イソイソと店内へ足を向けた。
「いらっしゃいませー!」
深夜にも関わらず、若い男性店員さんの元気な声が笑顔と共に向けられ、笑顔を返して店内に足を踏み入れる。
週末の為か、私と同じおつまみ目的らしい人影が、ちらほらと見えた。
レジ脇に置かれているグレーの買い物カゴを手に取り、左ひじにひっかけて、入口側の窓辺にそって、ブラブラと商品を物色する。
「いらっしゃいませー」
また店員さんのウエルカムボイスが上がり、同好の士の訪れを告げる。
さあて、まずはこれよね。
と、入口際にあるアイス・ボックスを覗きこんだ。
あ、新発売のアイス・クリームがある!
目ざとく、『新発売!』の赤いシールが張られた、アイスクリームのカップに気付き、手を伸ばして一つ取り出しカゴに入れようとしたその時、
スッと背後から、見覚えのあるダーク・グレーのスーツに包まれた長い腕が伸びてきて、ドキンと鼓動が大きく跳ね上がった。
その長い指が、私が手に取ったと同じ商品を掴み『私の持っているカゴの中』にポイっと投げ入れてくる。
え……?
恐る恐る体をねじって、後ろのに佇む背の高い人物へと視線を巡らせ、目に映ったその人の顔を、呆然と見つめた。
少し憮然とした表情は、どこか怒っているようにも見える。
自分で頭をかき回したのか、きちんとセットされていた前髪が、パラパラと額に落ちかかっていた。
なぜそんな表情をしているかよりも、なぜその人がここに、このコンビニに居るのかが理解できない。
驚きと、困惑。
そして、本能で感じる、危険信号。
色々なものを内包した、それでもやはり驚きの成分を一番多く含んだ掠れた声が、口から押し出される。
「課長……?」
谷田部課長だった。
タクシーで、自分のアパートに帰った筈の上司様の姿が、なぜか目の前にある。
理解しがたい状況の中で、はっと我に返った私は、慌てて外へ、先刻タクシーが停まっていた場所に視線を投げた。
案の定、そこにタクシーの姿はない。課長が、返してしまったのだろう。
どうして?
疑問を声に変える前に、課長の方が先に口を開いた。
「俺もかなり空きっ腹なんだ。どうせ帰っても何もないから、晩飯、相伴させてくれないか?」
し、相伴って、今から家にきて、一緒に食べるってこと!?
「え、で、でも、家にも大したものは無いですからっ」
冗談じゃない。
今だって、いっぱいいっぱいなのに、この上アパートに二人きりになんてなったら、私、自分の行動に自信なんか持てないっ。
やっとどうにか自分を保っているのに、どうしてこの人はこんなことをするのだろう?
「も、申し訳ありませんが、私も一応嫁入り前の女ですので、か、課長と言えど、こんな深夜に男性を部屋にお上げするのはちょっと……」
「別に、気にしないから。せっかくだからビールと、つまみも買おうか」
って、人の話を聞け、この上司っ!
まるで、散歩を嫌がる飼い犬のごとく、私のカゴの端をグイグイと引っ張っていく課長に引きずられるように、店内奥へと歩いて行く。
ちょっ、ちょっ、ちょっとっ!
「課長は気にしなくても、私は気にするんですっ。隣近所も世間一般の皆様も天国の父も田舎の母も、みんなみんな絶対めいいっぱい、気にしますっ!」
ひょうひょうと、飲み物コーナーでビールを物色する課長に向かい、一気に胸の内をまくし立てるも、当のご本人様はどこ吹く風でビールを数本カゴに入れ、次のおつまみコーナーへと、私を引きずっていく。
これは、もしや、まさかとは思うけど。
「か、課長……。もしかして、本当に、酔っぱらっているんですか?」
柿ピーとイカの燻製をカゴに放り込んでいる御仁の横顔を見上げて、恐る恐る質問を投げたら、ボソっと低い声が降ってきた。
「酔ってない」
確かに、足取りもしっかりしてるし、顔色だって赤くも青くもなくいつもと同じ。でも、昔からこの人は、酔っても顔に出ない人だった。
いつもの営業スマイルが欠片も浮かんでないし、第一、おつまみを買って、『私の部屋で二人っきりで酒盛りしよう』なんてこの行動自体が変だ。変すぎる。常軌を逸している。
「課長、買い物が終わったらタクシーを呼びますから、ご自分のアパートに帰って下さいね」
ひくひくと、引きつる笑顔で言ってはみても、課長は返事をくれずに次のお弁当コーナーへと足を進めていく。
もちろん、カゴを引っ張られている私も、もれなく付いて行くしかない。
や、やだ、どうしよう。
やっぱり酔ってるよ、この人。
途方に暮れつつも、このコンビニに訪れた一番の目的、サバの味噌煮缶をカゴに、放り込むのは忘れず。
こんもりと詰まったカゴの中身を清算すれば、あとは、アパートに向かうしかない。
でも、やっぱり、どう考えても、このまま課長と二人っきりはまずいと思う。
「ありがとうございましたー!」
相変わらず元気な店員さんの声と笑顔に見送られて、コンビニの駐車場の端まで歩いてピタリと足を止める。
コンビニの袋を持って、不思議そうに私の顔を覗き込むその顔を、きっと見上げ。
意を決して、今度はびしっ! と言い渡す。
「課長、タクシーを呼びますからね、いいですねっ!」
「呼んでもいいけど、せめて腹ごしらえをしてからにしてくれないか?」
ボソリいうその言葉と、『グゥ~ッ』というひょうきんな音が重なった。
「ほら、腹の虫が文句をいってる。腹が減っては戦はできないってね。昔の人もいってるだろう?」
戦って、今から戦をするんですか、あなたは?
「……約束する。食事が終わったらすぐに帰る。だから、俺を信用してくれないか?」
「……」
ボソリと落とされた呟きに、答えることが出来ない。
この人を信用していない訳じゃない。
例え酔っていたとしても、嫌がる人間に無理強いをするような人じゃないって、良く分かっている。
酒の勢いで女をどうこうするような男なら、歓迎会の夜、私のアパートに泊まった時に、どうにかなっていたはずだ。
問題は、私。
私は、自分の脆さを知っている。
どんなに言い繕っても、この人に惹かれるのを止められない、弱い自分を知っている。
あのエレベーターでのキスの余韻が覚めやらない今、課長と二人きりになってそれでも自分を保っていられる自身なんか、私にはない。
ごめんなさい。
どんなことがあっても、自分の心を隠し通せるほど、私は強い女じゃないんです。
「課長のことは、信頼しています。でもすみません。やっぱりだめです。ご一緒することは、できません……」
本音を口にすることはできず、手にした買い物袋をギュッと握りしめ、ただ、当たり障りのない逃げ口上を何とか絞り出す。
落ちかけた視線を上げると、真っ直ぐに私に向けられていた少し鋭さを感じさせる黒い瞳が、ふっと、優しげに細められるのが見えた。
「そうだな」
まるで憑き物が落ちたように、穏やかな表情を浮かべて。
「困らせて、悪かったな。もうこんなことは二度としないから」
『二度としないから』
待っていたはずのその言葉が、胸の奥に深い傷を穿つ。
答えることが出来ずに俯く私の頭に、すうっと、大きな手が乗せられた。
そしてその温もりに宿る、既視感。
それが、今日、会社の玄関先で、頭に感じた温もりと同じものだと不意に気付く。
『ああ、あれは、気のせいなんかじゃなかったんだ』と、なぜか湧き上がるのは哀しくなるくらいの、安堵感。
「すまなかったな。今日のことは忘れてくれ……」
降りつもる、穏やかな声が、心の奥に眠る琴線を優しく鳴らす。
本当はね。
本当は、一緒に、サバの味噌煮缶で、白いご飯を食べたかった。
ビールと酎ハイで乾杯して、柿ピーをつまんで。
今まで、こんなことがあったのだと、
十八の女の子だった私も、一緒にお酒が飲める大人の女になったのだと、二人で、ゆっくり、語らいたかった。
でも、きっとそれだけじゃすまなくなる。
そこで止めておけるほどには、まだ私は大人じゃない。
だから――。
「はい……」
口からこぼれ出したのは、それだけで。
『忘れます。だから、課長も忘れて下さいね!』
と、本当は、明るく言いたかった肝心の言葉は、声にはならなかった。