21 告白-5
飯島さんの提案で、パーティ会場であるホテルロイヤルの最上階にある、展望ラウンジでの二次会が決まり、店内でも奥まった所にある一番見晴らしの良い席がちょうど空いたため、私たちはイソイソとそこに陣取った。
壁一面に広がった展望窓からは、夜の帳に包まれた街の明かりが、まるで天の川のように瞬いているのが見えた。ゆっくりと流れていく車のライトが淡く尾を引き、幻想的な風景を作り出している。
窓際に座らせてもらった私は、窓ガラスに張り付くように階下に広がる絶景を見渡し、その美しさに目を見張った。
「うわー、素敵な眺めですね」
「そうでしょう? この眺めを、ぜひ高橋さんに見せたかったんですよ、俺は」
そう言って、飯島さんはニコニコと邪気のない明るい笑顔を浮かべる。こうも屈託なくあっけらかんと言われると、素直に嬉しくなる。
「ありがとうございます。本当に綺麗……」
昼間はカフェ・レストラン。夜は、お酒を飲めるナイト・ラウンジになるこの展望ルームは、週末と言うこともあってか、様々な年代の『カップル』で静かな賑わいを見せていた。
適度に明かりが落とされた木目調のシックな室内には、ゆったりとした音楽が流され、低い囁き声と微かな笑い声で満ち溢れている。
思いっきり、大人のデート・スポットだ。
入ってきた時にさり気なく見回した感じでは、私たちのように『男女混合二次会御一行様』は居そうにない。と言うか皆無だ。
はっきり言って落ち着かない。でも、一番気がかりなのは……。
「課長、私、持ち合わせ二万しかないんですけど、ここってけっこう高そうですよね……」
飯島さんがトイレに立った隙に、左隣に座る課長にコショコショと耳打ちをする。
「何か、適当に注文しておいて下さい。誘ったのは俺なんで、今日はしっかりおごらせてもらいますからね」
飯島さんは、そう言い置きして行ったけど、まさか本当におごらせるわけにはいかない。かと言って、こちらが全額負担するほど持ち合わせがないのが現状で、最悪は、割り勘という形になってしまいそうだ。
でも、それでは、会社のメンツが立たないのじゃないだろうか。
そんな心配ばかりが先に立ってしまう。
「金のことは心配するな。ちゃんと狸親父から預かっているから」
苦笑めいた表情を浮かべる課長の言葉に、驚いて目を丸める。
「え……、だって、いつの間に?」
社長に呼び出されたときに貰ったのは、ブティックの名詞とパーティの招待状だけだったはず。
そこまで考えを巡らせて、『あっ!』っと、思い当たった。
そう言えば会社を出るとき、課長は『社長に呼び出しをくらって遅くなった』と言っていた。もしかして、あの時?
「そう、会社を出る間際に呼び出されて、軍資金をたんまりと貰ってあるから、心配するな」
私の思考回路などお見通しのようにそう言うと、課長は胸元をポンポンと軽く叩いた。
「あ、ああ、そうなんですか。それなら良かったぁ」
せっかく、パーティでは大きな失敗をせずにすんだのに、ここに来て会社のイメージダウンに貢献するところだった。
「相変わらず、心配性だな」
心底、ホッとして胸をなでおろしていると、笑いを含んだ声が降ってきて、ドキッとする。
「人間、本質は変わらないんですよ」
『相変わらず』という言葉に内心ドキドキしながら、でもムッとした表情を作って、口を尖らせる。
「『どうせろくに食べられないだろうから、パーティが終わったら二人で食事でもしてきなさい』だとさ。狸親父にしては気が利いているな」
愉快そうに眼を細めた課長が、社長の言付けを教えてくれた。
さすが社長。太っ腹の上に、先見の明がある。
社長の社長たる所以にしみじみと感じ入っていたら、飯島さんが戻ってきて私の正面に腰を下ろすと、不思議そうにテーブルの上を眺めた。
「あれ? 何か注文しました?」
「あ、いえ、まだ……」
慌ててテーブルの上に閉じたままになっていたメニューを開いて視線を落とした瞬間、不覚にも『うっ』と体が固まってしまった。
よ、読めないっ。
英語ならなんとかなるけど、これ、少なくとも英語じゃないよね?
フランス語? イタリア語? わ、分からない……。
解読不能なメニューから目をそらして顔を上げれば、何を注文するのか期待いっぱいで待っている、飯島さんのつぶらな瞳に視線が捕まった。
もう、笑うしかない。
大分乾いた笑いだけど、笑わないよりは大分マシなはず。
「か、課長、お任せしますっ」
ずいっと、左隣に座る課長に責任転嫁してメニューを捧げ渡す。
無言でメニューを受け取った課長は、パラパラとページをめくり、テーブルに回ってきたウェイターさんに、何やら注文をしていた。
ああ、やっぱり、私にはファミリーレストランの、ドリンクバーが性にあってる。
ほどなくして、飯島さんのテーブルには、黒ビールと枝豆と言う季節を先取りしたようなメニューが置かれた。
私と課長のテーブルに置かれたのは、チーズ類の乗ったおつまみの皿と、赤ワイン。
トンと、自分のテーブルに赤ワインのグラスが置かれて始めて、私は自分の置かれた状況にハッと気付いた。
し、しまった!
ウーロン茶かアイスティを頼むんだった!
目の前にワイングラスが置かれるまで、『そのこと』に思い至らなかった自分のあまりの呑気さに、心の中で盛大な舌打ちをする。
この状態でさすがに『飲めません』とは、言えるはずがない。
ワインは、空きっ腹にとても良く効く。それはもう、効きすぎるくらいにとても良く効く。
悲しくなるくらいの自分の間抜けさに、もう笑う気力もでない。
でも、気力を振り絞って笑顔を作り、ワイングラスに手を伸ばす。
この一杯だけ。
後は、絶対、是が非でもウーロン茶にさせてもらおう。
「それでは、我々の前途を祝して、乾杯!」
私の苦境を知るはずもない飯島さんの陽気な乾杯の音頭で、恐る恐る、ワイングラスを口に運ぶ。
コクリと一口赤い液体を口に含んだ瞬間、フルーティな軽い甘さが、フワリと鼻に抜けていった。
「あ、美味しい……」
思わず、素直な賛辞の言葉が口をついて出る。
ワインってあまり得意じゃないけど、これは好きかもしれない。
飯島さんとは仕事上だけの付き合いで、『清栄建設の陽気な監督さん』と言うイメージしかなかったけど、こうしてお酒の席で腹を割って話してみると、陽気なだけじゃなく底抜けに愉快な人だと分かった。
好きなお笑いコンビの話や、映画の話、果ては建築論まで飛び出したこのひと時は、『接待』と言う枠を飛び出して、私にとっても、とても楽しいものだった。
飯島さんは、命名するならきっと『愉快上戸』。
一緒にお酒を飲んで、こんなに楽しい人は初めてだった。
時計の針は午後十一時を回った所。
もうすぐ、シンデレラの魔法が解ける時間だ。
でも、こんな楽しい魔法だったら、たまにかかっても良いかな?
なんて考えていた時、プルル、と課長の携帯電話が着信音を上げた。
上着のポケットから、携帯電話を取り出して着信窓に視線を走らせた課長の表情が、フッと和んだ。
「ちょっと、失礼」
そう飯島さんに断って、スッと席を立った課長は、お酒が入っているとは思えない確かな足取りでラウンジの外に歩いて行く。
あれはたぶん、実家からの電話だとそう思ったその瞬間、胸の奥に、例えようがない痛みが走った。
扉の向こう側に見えなくなった課長の姿を辿るように、ぼんやりと視線を彷徨わせていたら、不意に、飯島さんが口を開いた。
「高橋さん、一つだけ、聞いても良いですか?」
「はい?」
さっきまでとは明らかに違う、真剣さがにじみ出るような低いトーンの声音にドキリとして、飯島さんに視線を移した。
少し明るい色合いの真っ直ぐな瞳に視線が捕まり、変な風に鼓動が乱れだす。
「飯島さん?」
思わず息を飲むその私の息の根を止めるような、とんでもない質問を、飯島さんは静かに放った。
「高橋さん、谷田部さんとは、どういう関係なんですか?」
『谷田部さんとは、どういう関係なんですか?』
エコー増幅しながら、そのフレーズが脳内を何往復かした後やっと、私はその質問の重大かつ深刻さに気付いて身を強張らせた。
「高橋さん、答えてくれますか?」
え、ええっ!?
多分こう言う状況を称して、晴天の霹靂。
または、絶体絶命と言うのだと思う。