20 告白-4
大手ゼネコン清栄建設主催の関係業者交流パーティ。
その開催時間の十九時まで、あと十分。
ほぼ予定通りの時間に、ホテルの玄関前に横付けされたタクシーを降りた私と課長は、会場である五階のパーティ・ホールに向かうべく、エレベーターに乗りこんだ。
充分な広さがあるエレベーターの中には、やはりパーティに向かうのだろうか、スーツにドレスと言った正装を纏っている数人の同乗者がいた。
エレベーターの中にも、上等そうな毛足の長い絨毯が敷き詰めれれていて、足元の心もとなさがよけいに緊張感に拍車をかける。
ホテルでディナーなんて、いつ以来だろう。
確か、最後は従妹の結婚式で、二年前。
あの時は故郷の小規模な結婚式場だった。
でも、今日の会場は、国内でも最大の規模を誇るホテルチェーンの『ロイヤル』。格式も高く、建物の規模からして全然違う。
どうも、こう言う華やかな賑々しい場所は性に合わない。ファミリーレストランでランチセットでも食べていた方がよっぽど美味しいと感じるこの性分を、たぶん貧乏性と言うのだろう。
でも、これは仕事。それも社長の代理となれば、責任は重大。
仕事だ、仕事だ、仕事だ、仕事っ!
念仏のように、心の中で自分に言い聞かせてみるけれど、プレッシャーはエレベーター並に、加速をつけて大きくなっていく。
うーっ、やだなぁ。緊張しちゃうなぁ。
緊張と不安で冷たくなった指先をほぐそうと、ごしごしこすり合わせていたら、隣から低い笑い声が降ってきた。
もちろん、笑い声の主は谷田部課長だ。
「なんですか課長、その意味深な笑いは?」
場所柄をはばかって、若干不機嫌さを滲みださせた小声で言いつつ、チラリと隣に佇む課長の横顔に視線を走らせたら案の定、愉快そうに口の端を上げている。
「いや、別に。なんでもない」
そう言って、また喉の奥でクスクスと笑う。
「なんでもないのに笑わないで下さい、気になりますから。何か変だったら、はっきり言って下さいね。会社の恥にはなりたくないので、私」
あくまで小声で、でも課長には声が聞こえるようにと、耳元に口を寄せて早口にそれだけを言って、すぐに身を引く。
「いや、別に変だというわけじゃいんだ。ただ……」
「はい?」
言葉の続きを待ってたら、課長はふっと目元を和らげた。それは、特別な記憶に思いを馳せるようなとても穏やかで優しい表情で、思わずドキンと鼓動が波打つ。
「人間、年を重ねても、なかなか本質は変わらないものだと思って」
本質?
それって、私のことを言っているのだろうか?
それとも、課長自身のこと?
「変わらないから、本質なんじゃないですか?」
思いついたまま素直にそう言うと、課長は再び口の端を上げた。
でも、今度の笑みはどこかさみしげで、
「そうだな……」
落とされた呟きもやはり、心なしか元気がないような。
何か言葉をかけようとした時、『チン』とベル音が鳴り、目的階へ到着したことを告げた。
「さあ、行こうか」
「はい」
一歩先を踏み出した課長の横顔からは、もうさっきまでの愁いを含んだ表情はきれいに払拭されていた。そのいつも見慣れているはずの『ニコニコ営業スマイル』がなぜか寂しく感じてしまうのはどうしてだろう。
「高橋さん?」
「は、はい!」
いけない。仕事だった。ぼんやりしてはいられない。
色即是空、色即是空。よけいなことは考えない。
今は、パーティでヘマをしないように、その最低ラインだけを考えよう。
受付を済ませ、着換えの入った荷物を預かってもらい、いざパーティ会場のホールに一歩足を踏み入れたその瞬間、私は、目の前に広がる光景に驚いて、思わずその場で足を止めた。
広い。広すぎる。なにこれ?
故郷の結婚式場のホールが三つは余裕で入ってしまうあまりのだだっ広さに、ただただ呆然と会場内を見渡す。
そのだだっ広い空間には、大きな丸テーブルが適度に配置されて、豪勢な料理や飲み物が、所狭しと置かれていた。
どうやら、立食、バイキング形式のパーティらしい。
ああ、履きなれた黒パンプスでよかった……。
会場も広ければ、参加者の人数も半端じゃない。
人ごみが苦手な私は、その光景だけで眩暈がしそうだ。
うわぁ、課長とはぐれないようにしないと。ここで迷子になったら、それこそ会社の大恥だ。行く先々の清栄建設の現場で、きっと語り草になってしまうに違いない。こ、心してかからねばっ!
なんて変な決意を固めながら、先を行く課長の背を追いかけようと足を踏み出したとき、背後からトントンと肩をたたかれた。
「高橋さん!」
闊達とした張りのある声に名を呼ばれ、振り返る視線の先には、見覚えのある色黒の好青年の姿があった。
課長ほどではないけど上背があり、そのガッチリとした体躯は、日々の現場仕事の賜物で、健康的な日に焼けた肌と少年のような屈託ない笑顔を持つこの人は、飯島耕太郎。私よりも二歳年下の二十六歳。私も、何度となくお世話になった顔なじみの、清栄建設の現場監督さんだ。
「飯島さん、とても盛大なパーティですね。あ、葵物産の工事では大変お世話になりました」
「こちらこそ、大変お世話になりました」
私がペコリと頭を下げると飯島さんも同じしぐさでペコリと頭を下げてから、外見と同じに陽気な声でカラカラと笑った。
「いやぁ、なんだか見違えちゃいましたよ。いつも事務服にスニーカー履きで、安全ヘルメットを被って図面を小脇に抱えて現場を闊歩している高橋さんのこんな姿が見られるなんて、サボらないで出席した甲斐がありましたよ」
まさに飯島さんの言葉通りで、色気のかけらもなく工事現場を歩き回っている普段の私の姿からすれば、今のドレスアップした出で立ちは、我ながらすごい変わりようだと思う。
なんとなく、童話のシンデレラが思い浮かんで苦笑してしまう。
シンデレラの魔法は、午前零時になれば消えてしまう、時間制限付きの儚い魔法。
日頃着ることのない高級服を纏って、いつもと違うメイクで変身して、一夜限りのパーティに出ている、まるで、今の私みたいだ。
「ありがとうございます。素直に喜んでおきますね」
「今日は、社長の名代ですか?」
「あ、はい。実は社長が急に都合が悪くなってしまったものですから、私と、工務課の課長と二人でお邪魔したんです」
「工務課の課長って、木村さんだっけ?」
「あ、いいえ、木村は今病気療養中でして、新任の谷田部と一緒に来ています」
「谷田部さん?」
「まだ就任して間もないので、飯島さんは面識がないと思いますけど……」
入り乱れる人波の中に視線を巡らせると、私が来ないことに気付いたのか、課長が戻ってくるのが見えた。
「高橋さん、こちらの方は?」
歩み寄ってきた課長は、私の傍らに立つ飯島さんに、ニコニコと人好きのする笑みを向けた。
うわ、これ、営業スマイル全開だ。と、なぜかビビりながら、
「課長、こちらは飯島さんです。清栄建設の現場監督さんで、私も、何度も同じ現場でお世話になっているんです」と紹介をする。
「いつもお世話になっております。太陽工業工務課の課長をしております、谷田部と申します」
「ああ、ええと、清栄建設関東エリア中央建築部の飯島です。こちらこそ、特に高橋さんにはお世話になっています」
「そうですか、ご迷惑をおかけしていなければ良いのですが」
「いやー、彼女はとても優秀ですよ。鉄骨に関しては私の方が高橋さんに教えてもらっているくらいですから」
「そうですか」
おどけたように屈託なく笑う飯島スマイル対、いつもよりも完璧に見える課長スマイルの間に入り、なぜかものすごく居心地が悪かった。
そうこうしているうちに、パーティーは始まり、少し長い開催者挨拶の後『乾杯』の音頭があった。お酒は自重しようと心に固く決めていたので、私はウーロン茶で失礼して、その後、銘々に歓談しながらの立食タイムとなった。
何人かの顔見知りの監督さんや業者の人たちと挨拶を交わしながら、隙間を縫って少しばかり、料理を口に運ぶ。
でもこういう場所って、せっかくのご馳走も食べた気がしない。そもそも誰に会うか分からない緊張の連続で、味わっている余裕なんてないけれど。
そして、そんな私の傍らには、如才なく挨拶を交わし名刺交換に励む課長と、なぜか色黒の御仁がずっとくっ付いていた。
「しかし、今日の高橋さんは、綺麗だなぁ。本当、惚れ直しそうです」
「飯島さん、もしかして酔ってますか?」
なぜか、コバンザメのごとく私の傍らにくっ付いている飯島さんに、本当は声を低めて言いたいけど、悲しいかな相手は今日の主宰者側の監督さん。むげに冷たい態度を取るわけにもいかず、にこやかな、でも多分引きつっているだろう笑顔をどうにか向けている。
「俺、酒にはめっぽう強いので、ちょっとやそっとじゃ酔いませんよ。せっかく色々な酒が揃っているから、飲み比べしてみますか?」
いつの間にか一人称が『私』から『俺』になっている。
「あ、あははは、ご遠慮しておきます。私はあまり強い方じゃないので、きっと勝負になりませんから」
『課長の歓迎会の悪夢』が脳内を勢いよく駆け巡り、更に笑いが引きつってしまう。
飯島さん、立食パーティで飲み比べはやめて下さい。
いつも元気で陽気な監督さんだけど、今日はまた特別底抜けて明るすぎる。多少お酒が入っているせいだろうか。
泣き上戸とか笑い上戸とかあるけど、これは何上戸なのだろう?
「じゃあ、谷田部さんはどうですか? いける口ですか?」
私にお酒を飲ませることを諦めたのか、飯島さんは、課長に笑顔で話を振った。対する課長もいくらかお酒が入っているはずだけど、鉄壁の営業スマイルは崩れない。
「ええ、まあ、それなりに。弱くはないと思いますが」
「おお、それは頼もしい」
その答えを待ってましたとばかりに、ニッコリと、飯島さんの顔に会心の笑みが浮かんだ。
「じゃあ、パーティの後、三人で二次会に行きましょう!」
は、はいっ!?
とんでもない提案と言う名の決定事項に、思わず点目になったのは言うまでもない。