19 告白-3
工務課に戻って事の次第を説明したとたん、美加ちゃんの瞳はまるで少女漫画のヒロインのように、キラキラと歓喜に輝いた。背後にバラの花をしょっていそうな満面の笑みに、思わずつられて笑ってしまった。
「センパイ、やったじゃないですか。これはチャンスですよ!」
両手でガッツ・ポーズを作って美加ちゃんは興奮気味にそう言うと、それでも周りをはばかったのか、若干声のトーンを落として私に耳打ちしてくる。
「課長と二人で、週末のホテル・パーティ。それも料金も衣装もタクシーも会社持ちなんて、これで楽しんでこなきゃ絶対だめですよっ」
内緒話にしては若干大きすぎる声で、美加ちゃんはウキウキモードで私に念を押す。
『楽しんでこい』と、社長と同じことを言うので、苦笑いするしかない。
「あはは……。緊張しすぎて、失敗をやらかさないように祈ってて。じゃあ、今日は先に上がるわね」
手早くデスクの上を片付けて私物の入ったバッグを掴み、着換えをするべくロッカー室に向かおうとした私の腕を、美加ちゃんが『むんず』と掴んだ。
「パーティって七時からですよね?」
「え? ああ、そうだけど?」
「今、五時半だから、急げば間に合いますよね」
「へ?」
何が間に合うの?
言葉の意味が分からず、キョトンとしていると、
「前から気になってたんですよね、こののっぺらメイク!」
と、美加ちゃんは、私の両頬をプニっと突っついた。
のっぺら?
ふっふっふっと、腕まくりをする美加ちゃんの顔に、不敵とも思える笑みが浮かぶのを、呆然と見つめる。
「谷田部課長。二十分、ううん、十五分だけ待っててくださいね!」
「了解。一階のエントランスで待ってるよ」
美加ちゃんの掛け声に、課長席で帰り支度をしていた課長から、訳知り顔の返事が飛んできた。
って、何が了解なの課長?
「センパイは、こっちです!」
「え、ええっ!?」
かくして、訳も分からず、問答無用で美加ちゃんにトイレの洗面台の前まで引っ張って行かれた私は、十分足らずの短い間に、自分の顔がガラリと変わって行くのを目の当たりにした。
驚いた。本当に、心底驚いた。
目の前の洗面所の鏡には、見知らぬ自分が映っていた。
しっかりメイクなのに、厚塗りじゃない素肌感と立体感。
芸術的なまでの、自然なグランデーション。
口紅とファンデーションだけの今までの自分のメイクは、まさに『のっぺらメイク』なのだとしみじみと理解した。
美加ちゃんのあの小さなピンクの化粧ポーチは、きっと四次元ポケットになっているに違いない。
その四次元ポケットから取り出したメイク道具を駆使し、私からすれば、神業に思える華麗なる指さばきで、美加ちゃんは野暮ったい仕事の虫の良い歳をしたOLから、フェミニンでエレガントな淑女に変身させてしまった。
自分で言うのも自画自賛でどうかと思うけど、素直にそう思うのだから仕方がない。
これぞお化粧。これぞメイクアップ。その真髄を、垣間見てしまった。
「うわぁ、なんだか感動しちゃうよ、これ。美加ちゃん、あなたはすごい!」
と、感慨深く鏡の中の自分に見入っていたら、
「うーん、まさか髪のセットまではできないなぁ。もう、社長ったら、もっと余裕を見てくれたらいいのにっ」
と、美加ちゃんは、ぶちぶちと文句をたれてから、
「でも、先輩の髪って、サラサラで綺麗だから、そのままでも良いかぁ」と、首の後ろで一つに束ねてあったセミロングの髪をほどき、ブラシで整えてくれる。
「うーん。この黒メガネが邪魔ですね。せっかく綺麗なのに。取っちゃうと、見えないんでしたっけ?」
「ぜんぜんダメ。ピンボケで、人がいるなぁってぼんやり分かるくらいにしか見えないの」
私の説明を聞いた美加ちゃんはスッと半眼になって何か考えを巡らせてから、ボソリと呟きをもらした。
「……それを上手く利用するって手も、あるなぁ」
「あ、あははは。ありがとう、これで充分よ。本当に、ありがとう」
美加ちゃんに心からのお礼を言い、自前のシンプルなグレーのパンツ・スーツに身を包んだ私は、課長の待つ一階のエントランスに急いだ。
我知らず、心がせいだ。
このメイクを見たら、なんて言うだろう?
気が付かないかな?
気付いても、何も言わないかな?
そんな胸の高鳴りを必死に抑えながら、一階に着いたエレベータを降りて、課長の姿を探してエントランスに視線を巡らせた。
でも、どこにもいない。
もう一度、今度は少し丹念に視線を巡らせる。
退社する人波のピークを過ぎた一階の受付フロアには人がまばらで、人を探すのはたやすい。でもやはり課長の姿は見つからない。
受付の女の子は定時で上がってしまうから、聞くこともできないし。
あせって腕時計に視線を走らせると、五時四十七分。約束の十五分よりも、二分の遅刻。
まさか、一人で先に行ってしまったとか、ないよね?
そんな不安が募っていく。
不意に、九年前、東悟が突然姿を消してしまった時のことが脳裏をよぎり、芽生えた不安は急速に膨らんでいく。
どこに行ったのか、
どうして姿を消したのか、
考えて考えて、考え疲れるくらいにまで考えて、
それでも、とうとう答えは見つからなかった、あの苦い記憶。
「ばか、何やってるのよ、あんたはもう十八歳の世間知らずな女の子じゃないんだから、しっかりしろっ」
低く言い捨てるように自分に言い聞かせ、バッグから携帯電話を取り出し、登録してある番号にダイヤルする。
仕事上必要になるからと、始めに教えられた課長の携帯番号。
まさか、こんな形でかけることになるなんて思いもよらなかった。
プルル、プルルと呼び出し音が聞こえるたびに、ドキンドキンと鼓動が大きく高鳴っていく。
プツン、と電波がつながる音がして、息を飲んだ。
一瞬後、
「高橋さん?」
耳元に響く優しい声音に、全身に広がるったのは、言いようのない安堵感――。
付き合っていた頃、いつもより低く聞こえる電話越しの、この声が好きだった。電話がかかってくると、この声をいつまでも聞いていたくて必死で話題を探して、少しでも通話時間を長引かせようと頑張っていた、十八歳の私。その頃の気持ちが一気に甦ってくる。
「課長……」
思わず鼻の奥にツンと熱いものが込み上げ、言葉が続かない。
やだ。なにこれ?
こんなことくらいで、何、やってるのよ、私。
お願いだから、震えるな。
ギュッと唇を噛みしめて、そう祈るような気持ちで、どうにか声を絞り出す。
「今、エントランスに居るんですけど」
「ああ、すまない。社長に呼び出しをくらって、遅くなった。今エレベーターにのるからそのまま待っていてくれ」
「はい、わかりました」
プチン、と通話ボタンを切った瞬間、我知らず大きなため息が漏れた。
私は、自分が思ってる以上に、弱い女なのかもしれない。
こんな些細なことで、電話から聞こえる声だけで、こんなにも揺れてしまう。
お酒だけは飲むまい。
課長の歓迎会の悪夢再びだけは、絶対避けなければ。
そんな決意を心密かに固めていると、『チン』と言うレトロな音と共に、エレベーターが止まった。
開くドア。
歩みよってくる、見慣れた人影。
そして。
「驚いたな。女の子は化粧で化けるものだなぁ」
少しおどけたように笑う課長に、せいいっぱの虚勢を張って、
「もう女の子って年じゃないですよ」
作った笑顔をどうにか浮かべる。
「タクシーも来たようだし、行くとするか」
「はい。パーティには慣れていませんので、宜しくお願いします」
「了解」
静かな声と共に、ペコリと下げた頭に振ってきたフワリとした温かい手のひらの感触に、一瞬にして全身が固まった。
でも、その感触はほんの一瞬のことで、驚いて顔を上げて見つめても課長の表情には別段変化はなく、
気、気のせい?
ジッと穴が開くほど見つめても、ニコニコスマイルは崩れることは無く、玄関先で上がったタクシーのクラクションの音に、ハッと現実に引き戻された。
そうよね、こんな会社の玄関先で、頭ナデナデなんて暴挙、課長がするはずがないよね。
「さあ、行こうか」
「は、はいっ」
会社の外は、まだ夕闇前。
走り出した黄昏色の街には、ポツリポツリと明かりが灯っていく。
いつもなら気にもしないその風景が、どこか輝いて見えるのは、やっぱり気のせいかもしれない。
会社を出て間もなく到着した社長御用達の高級ブティックには、目の飛び出るような値段の高級服がずらりと並んでいた。
ゼロの数が半端じゃない。桁数が完璧に一つ二つずれている。
普段着は千円トレーナーとジーンズで過ごす私には、まさに別世界。否、別次元だ。
「あの、これって、レンタルにならないんですか?」
思わず、店員さんに聞いてしまった。
「まあ、ご冗談を」
「でも今日一度しか着ないんです」
と、オホホホと品の良い高笑いをする、スレンダーな熟年店員さんに、尚も粘ってみる。
「高橋さん」
「はいっ?」
店の一角に置かれたオシャレなテーブルセットに鎮座して、用意されている雑誌を見るともなしにペラペラとめくっていた課長に名を呼ばれ、ドキリと視線を走らせる。
「これは仕事なんだから、服装を整えるのもまた仕事。だから遠慮などすることはないんだ。好きな服を選んだらいい。どうせ払うのは、あの狸親父だ」
「あ、あはは……」
そう言われても、二十八年で培われてきた経済観念が『それはダメでっせ』とエマージェンシーを発してしまう。
せめて、一番安いものを選ぼう……。ああでも、どれもかれも高い、高すぎるー!
迫る時間に、決まらない服。
焦りまくる私に、
「俺は、三番目に見た服が似合うと思うけど?」
と、背後から、課長の助け舟が飛んで来た。どんな服を選んでいるのか、ちゃんと見ていてくれたらしい。
「まあああ、お目が高い。これは私共の店でも人気が高いブランドでのよ! それに、スタイルが良くっていらっしゃるから、とてもデザインが栄えますわー!」
ここが押し時とばかりに、店員さんは、ハンガーから服を外して、私の体に当ててみせる。
確かに、素敵だ。
品の良いワインレッドのワンピースに、ダークレッドの同素材のボレロがついている。私的にも好きなデザインだ。でも――。
「えっと、その……」
「気に入らないのか?」
真っ直ぐな瞳で問われ、ドギマギしてしまう。
「いいえ、そういうわけじゃないですけど……」
高いんですってば。
私の給料なんて、軽くスッ飛んでしまうくらいに、高いんです!
って、叫べたらどんなにいいだろう。
「じゃあ、それで決まりだ。遅刻はできないぞ? さあ、着替えた着替えた」
『遅刻はできない』
その一言に、背中を押されてしまった。
そして再び、パーティ会場に向かうタクシーの中。
「靴やアクセサリーも揃えたかったが、さすがに時間切れだな」
足元に視線を落として言う課長に、私はフルフルと頭を振った。
「これで、充分ですよ。履きなれない靴は、足を痛めますから」
「それもそうだな」
流れる、穏やかな空気が心地よい。
そう、靴は自前の黒いパンプスで充分。
そんなに何もかも身の丈に合わないモノばかり身に着けていたら、自分が自分でなくなりそうで怖いから。
私は、このままでいい――。
今から自分を待っているのは、初めて出席する大手ゼネコン主催の関係業者交流パーティ。
これはれっきとした仕事だ。
それは分かっているけど、どうしても、心の奥底にさざ波が起こるのを止められない。
ギュッと目をつむり再び目を開けた時、ゆっくりと流れゆくタクシーの窓の外で、太陽の最後の光が、闇に落ちたビルの陰に微かな光を投げかけていた。黄昏は、もうじき闇に飲まれる。
そして、波乱含みの、パーティの幕は上がっていく。