18 告白-2
課長の歓迎会と言い、
自然公園での鉢合わせと言い、
週末は何かに呪われているのかもしれない、と思う。
そして、その呪いは、今も続いているに違いない――。
谷田部課長が既婚者で子供がいると発覚したあの週末から、約一か月後の今日。おりしも花の金曜日。
工期というものがキッチリと決められている仕事柄、図面を書き上げなければいけない締切り日があって、それに間に合わせようとすれば、定時時間内では到底間に合わない。結果、自然と残業が多くなるわけだけど、私的には、そのことは別段気にはならない。
むしろ、こうして図面台に向かって細かい加工図を書いていくのは無心になれる、とても楽しい作業だ。
建築模型が大好きな子供だった私には、つくづく、持って来いの天職だと思う。
でも、大きな問題が一つあった。
それは、この残業にもれなく『課長』が付いてくる、と言うことだった。
「あの……、谷田部課長?」
「うん?」
おずおずと、隣の課長席の図面台で『私の担当工事の柱詳細図』を、華麗なるシャーペンさばきで書きこんでいらっしゃる課長様に声をかけると、シャーペンの動きは止まらないまま、声だけで応答があった。
「課長まで私に付き合って、毎日残業することは無いと思いますけど……」
「どうぜ帰っても一人だし、やることもないからね。気にしない気にしない」
柔らかい声には、笑いの微粒子が含まれている。
課長の自宅は東京都内にあって、関東の一県にある我が社に勤務するために、単身赴任をしてきているのだとか。
まあ、高速道路を使えば一時間半、二時間もあれば余裕で帰れる距離ではあるけど、なぜかアパートで単身赴任。
それを課長から聞き出した美加ちゃんは、喜び勇んですぐさま教えに来てくれたけど、私としては、どう反応して良いのか分からなかった。
少なくとも、『嬉しい!』と、能天気に喜ぶことが出来なかったのは確かだ。
「経験値が低くても、猫の手くらいには役に立つだろう?」
「そ、それはそうですけど、なんだか申し訳なくて……」
気が散るんです、散りまくるんです。
帰って欲しいんです、帰って!
そんな念波を飛ばしてみるけど、エスパーならぬ常人である私の気持ちが課長に届くわけもなく、
「仕事に遠慮はいらない。使えるものは、どんどん使ってくれて良いから」
なんて、図面台の脇からニコニコスマイルを向けられて、鼓動が早まってしまう私は、ミジンコ並に掬いようがない。
大きな工事を受けた時には、チームを組んで図面を書き上げることはよくあるけど、課長自ら部下の仕事を手伝うなんてことは、今までなかった。
猫の手どころじゃなく、課長の腕なら主戦力でもいけるのだから、純粋に仕事面だけを見れば大助かりなのだけど……。
一緒に居る時間が長ければ長いほど、私の心の中に降り積もり着実に堆積していく『何か』。それが、いつか一杯になって溢れ出してしまいそうで、怖くて仕方がない。
「そうですよー梓センパイ。立ってるものは課長でも使うんですよー」
隣の図面台から、おどけた声が飛んでくる。美加ちゃんも、ご多分に漏れず残業組だ。
「センパイは、一番担当している工事数が多いんですからね。良いですか? もし無理がたたって先輩に倒れられたら、そのとばっちりは、『あたし』にモロに来るんですからね。課長には責任をもってフォローしていただかなくちゃですよ。ね、課長!」
「ああ、了解、了解」
お願いだから美加ちゃん、課長を煽らないでっ。
『メッ』っと目力を込めて、美加ちゃんに渋面向けるけど、とうのご本人様はそんなことなどどこ吹く風で、逆に『頑張れ』とばかりにガッツ・ポーズなんかを返してくるものだから、肩の力が抜けてしまった。
ああ、仕事をしよう。仕事を。
それが精神衛生に一番良い。
諦めの境地で一つ小さなため息を吐き、一般事務職の女の子たちが賑やかに退社していく騒めきを背中越しに聞きながら、頭を仕事モードに切り替える。
『さぁて、今日は柱の詳細図は書き上げないとなぁ』などと考えつつ、設計図をパラパラとめくっていたら、課長のデスクの内線電話が高らかに鳴り響き、ドキリと鼓動が跳ね上がった。
「はい。工務課、谷田部です。……は?」
電話に出た課長の眉根に、すうっと浅い縦じわがよる。
「ずいぶんと急ですね……はい、ええ」
何やら要領を得ないような訝しげな表情で相槌を打っていた課長は最後に「分かりました、すぐ伺います」と言って電話を切り、しばし何かを考えるように受話器を睨んだ。
その表情はどこか怒っているようでもあり、呆れているようにも見える微妙な表情で、訳もなく胸がドキドキしてしまう。
何? 何か悪い知らせ?
息をつめて見つめていると、不意に課長が顔を上げて視線がかち合った。
「高橋さん」
「は、はい?」
「社長が、お呼びだ」
「……は?」
「俺と君、二人を、お呼びだそうだ」
はい?
その時、なぜか背筋に走ったのは、『嫌な予感』。
その予感は、見事に、的中してしまった。
課長と二人、社長室で社長自ら言い渡されたのは、わが社の大得意先である元受ゼネコン、清栄建設主催の関係業者を招待した交流パーティに、『今夜』、課長と私の二人で出席するようにとの依頼、と言う名の社長命令だった。
文字通り降って湧いたような話に、今一状況が呑み込めない。
「清栄建設の関係業者交流パーティ……、に出るんですか?」
「そう、君たち二人で、行って来てくれないか?」
社長室の立派な木製のデスクで日本茶をすすりながら、そう言って社長は、福々しいまでの満面の笑顔を浮かべた。
見た目大黒様風のこの笑顔で言われたら、社長という肩書がなくてもきっと断れないのに違いない。
「ええっと、課長はともかく、私でいいんですか?」
確かに私は工務課の古株で、清栄建設の仕事も沢山こなしてきたけど、ただの一社員の図面トレーサーに過ぎない。普通、この手の営業が絡むパーティには、社長自身か息子の専務が出席するのが通例なのに。どうして、私が?
「本当はわしが行くはずだったんだが、少し都合が悪くなってしまってな。時間外にすまないが、二人で出席してくれないか?」
偉そうに上から目線で命令されれば反発のしようがあるけど、こうも下手に笑顔でお『願い』されたら、嫌と言えるはずがない。
さすが、大海太陽、一代で小さな町工場を県下一の大会社に叩き上げた実績は伊達じゃない。
この人は、お金や権力では人を動かさない。心で人を動かすのだとそう思う。
「はい、そういうことでしたら、お任せ下さい。でも、服装は、スーツでも良いのでしょうか?」
「ああ、それなら心配はいらない。この店に行って、適当なものを見繕っていきなさい。話は通しておくから」
渡された名刺を見て、思わず目を見張った。
わあ、ここ、高いので有名なブティックだ……。さすが社長、太っ腹。
「谷田部君はそのままのスーツで、構わんからな」
「分かっていますので、お気遣いなく」
若干冷たいト―ンの抑揚のない課長の声に、感じる違和感。
「酒の席だから、タクシーを使いなさい。ちゃんと高橋君を、エスコートしてやってくれ。これが招待状だ」
「……はい」
ニコニコ笑みを崩さない社長に、なぜかやっぱり課長の返事はつれなく、淡々と差し出された招待状の入った白い封筒を受け取り胸ポケットにしまいこむ。
なんだろう、この微妙な空気。
こうして社長と課長、二人の会話を聞くのはこれが初めてだけど、なんだか二人の関係が、ただの社長と課長の枠をはみ出しているように感じるのは、気のせいだろうか?
「始まりは十九時からだから、もう仕事を切り上げて行きなさい」
「はい、わかりました」
さすがに緊張して楽しむことはできないだろうけど、せめて会社のイメージアップができるように……、と言うより失敗をやらかさないように気を付けなくては。
「それでは、失礼します」
なぜか、社長室に入ったきりだんまりを決め込んで自分からは話そうとしない課長の代わりに、そう挨拶をして社長室を辞した。
早速出かける準備をするため課長と二人、十階建ての本社ビル最上階の社長室から、三階にある工務課へと足を向ける。
チラリと課長の表情を伺い見ると、やはりどこか不機嫌そうで、もしかして自分が何か気に障る事でもしたのかと、ドキドキしてしまう。
このなんとも嫌な雰囲気を払拭したい。な、何か、話題をふれなければ。
そう思ってほんの軽い気持ちで、エレベーターを待つ間、社長室で感じた疑問を素直に口にした。
「あの、課長?」
「うん?」
「課長と社長って、その、どういった関係かな? ってっ……。なんだか、親しい感じがしたんですけど」
普段、部下相手でも、社交辞令の完璧な営業スマイルを崩さない課長が、あんなふうに露骨に感情を表して応対するのを見ていたら、そんな気がしたのだ。
やっぱり、親戚とかの縁故で入ったのだろうか。
なんて、勝手に答えを先読みしていたら、課長は少し自嘲気味に口の端を上げて、ポソリと呟きを落とした。
「妾腹の息子だよ」
「は……?」
ショウフクさんの息子?
聞きなれぬ単語に首を傾げていると、
「妾の子供の、妾腹」と、私の顔を覗き込んで説明補足。
「えっ!?」
単語とその意味が脳内で合致した瞬間、ギョッと全身が固まった。
め、妾の子供っ!?
物凄い地雷を踏んでしまったと、脳内もフリーズ。
たらりたらりと嫌な汗が背筋を伝い落ち、なんて謝ればいいか凍りついた脳細胞をフル活動させて考えていたら、『ククっ』と課長が喉の奥で笑ったのが聞こえた。
え? 何? これ、笑うところ?
「なーんてな。嘘。本当は父親の友人なんだ」
な、なーんてな、だぁ!?
「……」
あまりと言えばあまりの言い草に言葉をなくして、愉快そうに笑うその顔を呆然と見上げていたら、課長は少し遠くを見るような懐かしげな眼差しで、ポツリポツリと言葉を続ける。
「親父と社長が昔の同僚で、俺がガキの頃からの付き合いなんだ。だから、『親戚のおじさん』みたいなものかな」
「……」
「昔から思いついたら即行動の、イタズラ好きの子供みたいな人でね。ああ言う顔をした時のあの人は、何か企んでいることが多いんだ。だから、どんな裏があるんだろうと観察していたんだが、やっぱり簡単に尻尾は出さないな、あの狸親父は」
はあ、さようでございますか。
妾腹ショックが大きすぎて、まともな反応ができません、私。
ここで、いきなりおちょくりますか、普通。
「高橋さーん。聞いてますか?」
「聞いていません。なんだか、仮面が壊れかけてませんか、課長。今から接待パーテイなんですから、ちゃんと被り直して下さいね!」
やめてよ、もう。
これじゃ、まるで、昔の東悟と居るみたいじゃない。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、課長の浮かべた愉快そうな笑顔はまるで、夢に見たあの頃の東悟のままで。
胸の奥深いところで、悲しみにも似た痛みを伴った甘い感情が、ユラユラと揺らめいているのを感じた。