17 告白-1
幸せすぎる夢から覚めれば、そこには、変えようがない残酷な現実があって。見ていた夢が幸せであればあるほど、胸の奥に深く穿たれた塞がりきらない傷口に、鈍い痛みが走る。
午前六時。自室のベットの上。
目覚まし時計のアラーム音で甘い夢から現実に引き戻された私は、ベッドから重い体を引きはがすように上体を起こした。
「痛っ……」
頭にも重い痛みが走り、思わず両手の指先でコメカミをグリグリと揉みほぐす。寝不足でも寝過ぎでもないのに、頭の芯が重くて痛い。お酒を飲んだわけでもないのに、二日酔いした気分だ。
「なんで、こんな夢を見るかな……?」
不意に、唇に温かい感触が甦ってきて、思わず右手で覆い隠した。
そして込み上げる、笑いの衝動。
何だか、おかしい。
夢は心の奥底に潜む願望の現れだと以前何かの本で読んだけど、我ながら女々しいことこの上ない。
今更だ。今更、過去の綺麗な思い出に心の拠り所を求めた所で、どうなるものでもない。
それに、今日は月曜日。
書き上げなければいけない図面も書類も山積みだし、手配待ちの部品や材料も残っている。やるべきことは山ほどあるのだ。
新任の課長が行方不明だった元彼で、いつの間にか結婚して子持ち親父になっていたのを知ってショックを受けたからって、仕事は待ってはくれない。私だけに任されている仕事があるのだから、呆けてはいられない。
「しっかりしろ、高橋梓っ!」
ペチン! と、両手で両頬を一叩きして、自分に気合を入れる。
この際、スケジュールが詰まっていた方が、余計なことを考えずに済んでありがたかった。
『変えようがない現実』を、突きつけられた土曜日は、嫌になるくらいの快晴だった。翌日の日曜は、まるで私の心を映したかのような、曇り空。
そして、今日。
有る意味、私にとっては、恐怖の月曜日の朝。
くずついていた空からは、とうとう雨が降り出してきた。
どうせなら、カミナリでも鳴り響いてくれたらいいものを――。
なんて、あまり建設的じゃないことを考えながら、駐車場からとぼとぼ会社に向かって歩いていたら、ちょうど美加ちゃんと一緒になった。
「うひゃーっ。とうとう降り出しましたね、雨! ただでさえ、鬱陶しい月曜日に、やめてほしいですよねー」
「本当、鬱陶しいったら……。はぁあっ……」
一番鬱陶しいのは、私の心の中だ。
気合を入れて出社してきたは良いけれど、今日これから、どんな顔をして谷田部課長に会えばいいのか、皆目見当もつかない。
「――梓センパイ」
後少しでロッカールームというところで、急に足を止めた美加ちゃんが、珍しく真剣な表情で私の顔を覗き込んできた。
「うん? なに、どうしたの?」
怖い顔をして。
「梓センパイの、そのため息の原因って、谷田部課長ですか?」
「え……?」
まさか、美加ちゃんの口から、そんなセリフが飛び出すなんて思ってもいなかった私は、ビックリして思わず足を止めた。
やっぱり、土曜日に谷田部課長と会ったとき、私の態度、相当変だったんだろうか? さすがに、美加ちゃんも何か気が付いたのかも。
「あ、あはは……。実は、そうなんだよねー。ほら。谷田部課長はとってもいい人なんだけど、やっぱり上司だし、四六時中くっついて行動するってのは、これが思ったよりも、かなりストレスなのよー。早く課長補佐の肩書きが外れてくれないと、胃に穴があきそうなんだわ。参った、参ったよー」
って、やだ私。何、弾丸トークしてるのよ。これじゃ、ますます勘ぐられちゃうじゃない。
「梓センパイ……。実はあたし、谷田部課長の歓迎会の時、トイレでの、センパイと課長の会話、聞いちゃったんですよ」
ええっ!?
「あたし、いいと思いますよ。相手に家庭があったって」
「み、美加ちゃん?」
「だって、人を好きになるのに、そんなこといちいちチェックして好きになる訳じゃないですもん。たまたま好きになった人に、家庭があった。ただそれだけですよ」
そう言って、美加ちゃんは少しだけ遠い眼差しを私に向けた。
もしかしたら美加ちゃんも、『そういう恋愛』をしたことがあるのかもしれない。なんて思っていたら、美加ちゃんは突然私の両腕を『ガッチリ』握りしめて、ぐいっとバッチリメイクのつぶらな瞳を近付けて来た。
「梓センパイっ!」
「は、はいっ!」
「あたし、いつだってセンパイの味方ですからっ! ファイトですよ、ファイトっ!」
「う、うん」
本当、このコは、なんて良いコなんだろう。他人のことをまるで自分のことのように親身になって応援して。私はいつもこの明るさと優しさに元気を貰っている気がする。
「ありがとう、美加ちゃん」
正直言って、美加ちゃんの言葉は、とても嬉しかった。
確かに、どう取り繕っても、私は心のどこかで思ってしまっている。
『それでも、あの人が欲しい』って。
それが、許されない願いだと知っていても、そう渇望している自分を自覚している。だけど、私にも『絶対譲れない一線』というものがあった。
私に、不倫はできない。
一般常識や倫理がどうのという問題ではなく、私自身の『家庭』に対する『こだわり』のためだ。
私にとって、家庭は安全で守られるべき神聖な場所。誰であっても、それが自分自身であっても、絶対侵していい場所ではない。
それが、父親という家庭には必要不可欠な存在を、ある日突然、交通事故で奪われた私の家庭へのこだわり。
そもそも、現実問題。私の気持ちはどうあれ、私は東悟の『元カノ』にしか過ぎず、それも『見事に振られた女』だ。今の東悟、谷田部課長が私をどう思っているかなんて、それこそ私には知る由もない。
いわば、これは私の長い長い『片思い』。
何だか笑える。
一人で舞い上がって、ドキドキして、落胆して。
最初からあの人は冷静で、私に部下に対する以上の接し方をしなかった。
それが、全ての答えよ。
何も、期待するな、馬鹿な私。
「おはようございまーす」
ロッカーで一緒になった同じ工務課の同僚数人と一緒に、ワラワラと室内に足を踏み入れた時、すでに課長席には谷田部課長の姿があった。
銘々挨拶を交わしながら、事務机と図面台がワンセットになった自分の席について行く。
工務課のメンバーは総勢十二名。
男性は課長ともう一人の合計二人で残りの十人はすべて女性。
女性陣は、一番若い子が高校出たてホヤホヤの十八歳。一番年上が私で二十八歳。
良く考えてみれば、男性陣にとってはハーレム状態かもしれない。
でも、それが災いしてか、温和で優しい人柄が仇をなしたのか、前任の木村課長は持病の神経性胃炎が胃潰瘍へと悪化して、長期入院になってしまったのだ。
そのせいで、と言うかそのおかげで、谷田部課長が赴任してきたわけだけど。
それにしても、今更ながら、課長席の隣と言う自分の席が恨めしい。
表情に気持ちが出ないように気を付けて、
「おはようございます……」
と、引きつりながらも、どうにか笑顔で挨拶をする。
「おはよう、二人とも。土曜は、娘の遊び相手をさせてしまって悪かったね」
そう言って、課長は、土曜の出会いが何でもなかったかのように、いつものニコニコスマイルを浮かべなさっている。
そう、その程度のこと。
私にとっては一大事でも、課長にとっては、自分が既婚者だということを部下に知られた所で、何の痛痒も感じないだろう。
「おはようございます、課長! いいんですよー。私も楽しかったですもん。もっとゆっくりお話ししたかったです」
私の隣の席から、美加ちゃんの元気な声が飛んでくる。
美加ちゃんは私よりもずっと大人だ。ちゃんと、ビジネスとプライベートの線引きが出来ている。それに比べて私と来たら、仕事の準備をするふりをして、会話に加わることができない。
私はいったい今、どんな顔をしているんだろう?
ちゃんと、笑っているんだろうか。
「高橋さん。今日のスケジュールなんだが――」
「はい」
早く。
一刻も早くこのまま、何事もなく時が過ぎ去ればいい。
そうすれば、きっと、この心の疼きも薄れていくはず。
そう、願っていたのに。
運命の神様というのは、私がとことん嫌いらしかった――。