13 追憶-3
次の土曜日。
榊先輩と、デートの約束をしていた、その日の朝。
私は、予定よりも三時間も早く、目が覚めてしまった。
というより、うつらうつらした程度で、ほとんど眠れなかったのだ。
何を『着ていこうか』に始まり、『手とか繋いじゃうんだろうか』とか、『まさか、最初のデートでキスとかないよね?』とか、果ては『何処かで休んで行こうとか言われたらどうしよう』とか。
色々と暴走する妄想のせいであまりに興奮しすぎて、目をつぶってもぜんぜん眠気がやって来なかった。
枕元の目覚まし時計に視線を這わせると、午前三時。
少しは眠らないと、肝心のデート最中にうつらうつらしかねない。
そうは思うけど、
目をつぶれば浮かぶのは、妄想の波状攻撃。
「はあっ……」
一つ、長ーいため息を吐きだす。
眠るのを諦めた私は、もぞもぞとベッドを抜け出して、早すぎる朝食の準備を始めた。
我が城は、学生用に建てられた、八畳一間のワンルーム。
四階建てのアパートの外観は大分年季が入っているけど、中身はみんな今風に綺麗にリフォームされている。
明るい木目調のフローリングに、白いクロス張りの壁。小さいながらも、こじゃれた出窓が付いていて、ミニ観葉植物の寄せ植えなんかを飾っている。
ソファーベッドの足下には、食卓兼勉強机兼憩いの場所でもある、小さな白いコタツテーブル。そのテーブルでトーストとカフェオレで軽い朝食を済ませた私は、早速イソイソと『お出かけ』の準備に取りかかった。
小さなコタツテーブルの白い天板の上にどんと置いた、明るい木目柄のメイクボックス。私の唯一とも言える『お洒落アイテム』を広げて、いざメイク開始! とばかりに、メイクボックスの扉裏の鏡を覗き込んで思わず、意気消沈してしまった。
「うわぁ、クマができてる……」
ただでさえ、冴えない顔が、輪を掛けて冴えなくなっている。
睡眠不足がすぐ目の下のクマになって出てしまうこの体質を、恨まずにいられない。
「……メイク、してみようかな?」
いつもは、基礎化粧品で肌を整えるだけで、ほとんどメイクはしない。
さすがに冠婚葬祭などの『お呼ばれ』の時には、ファンデーションとリップくらいは付けてはみるけど、華やかなメイクはなんだか自分には似合わない気がして、敬遠してしまう。
だけど、今日は大切な日。
なんて言っても、高橋梓、十八歳にして、初デートの日。
ここで頑張らななきゃ、いつ頑張るんだ!
「よしっ!」
バッチリ、メイクを決めてみようじゃないか!
と、張り切ってメイクを開始したのは良いけれど……。
私は、肝心なことを失念していた。
メイクをしたことがない、イコール、メイクの仕方が分からないってことなのだ。
念入りに洗顔して、化粧水と乳液、化粧下地クリームを塗って、ファンデーションを塗る。
ここまでの基礎メイクは、いつもやっているから分かる。
いつもはスティックから直付けしてしまうリップも、リップブラシをつかって丁寧に塗ってみた。
問題は、この先。
アイメイクって、どうやれば良いんだろう?
チークって、どの辺にどのくらい塗るんだった?
化粧品を買うときに、販売員さんからレクチュアーされた記憶はあるのに、肝心の内容を覚えていない。
ううっ、やっぱり付け焼き刃じゃうまく行かない。
でも。
習うより、慣れろよね?
ニッコリ。
鏡の中の自分を励ますように笑顔を作ってから、私は人生初とも言える『バッチリメイク』に挑戦し始めた。
が――、結局。
『バッチリメイク』は、失敗に終わった。
何度やり直しても、そこはかとなく漂う『塗りました!』感が気になって仕方がないのだ。
はっきり言って、似合わない。
TVタレントや女優さんみたいに、なんて望まないから、せめて普通に見える程度に仕上がれば言うことはないのに、そのレベルにすら手が届かない。どうも、私には『メイクセンス』というものが欠如しているんじゃないかと思う。
この期に及んでどうしようもないので、最初に戻って、ファンデーションと口紅だけの、芸のないメイクが出来上がった。
『少し歩くから、履き慣れた靴と動きやすい格好で』と言われていたので、悩んだ末、服装はデニム地のシャツとブルージーンズ、靴は普段から履いている白いスニーカーという、およそ初デートには不似合いなものに落ち着いた。
それにしても。
『少し歩く』って、先輩はどこに連れて行ってくれるつもりなんだろう?
『場所は、行ってのお楽しみ』と言っていたけど。
悪戯っぽく笑った先輩の笑顔が脳裏に浮かんだとたんに、ドキドキと早まる鼓動。
鏡の中を覗けば、白い頬をほんのり赤く染めた、見慣れない表情の自分の顔がある。
初めてのデートだから?
それとも、相手が先輩だから?
ピンポーン――。
鏡の中の自分に問いかけていた私は、不意に上がった玄関のチャイム音に、ハッとして腕時計に視線を走らせた。
げ、もう八時!?
三時に起きてから、実に五時間経過している。
こんな集中力が自分にあったなんて、驚きだ。
そう感心する一方で、あまりの己の要領の悪さに覚えた軽い目眩を、ブンブンと頭を振って一掃した。
よし、行くぞっ!
バンドバッグをむんずとひっつかんだ私は、鏡の中の自分に渇を入れ、来訪者の元へ向かった。
「おはよう」
「おはようございますっ!」
玄関ドアを開けたとたん。実に爽やかかつ、にこやかな榊先輩の顔を見るやいなや心臓が妙な具合にステップを踏み始め、挨拶の言葉を言うと同時に、私は勢いよくペコリと頭を下げた。
「気が合うね」
「はい……?」
下げた頭越しに落ちてきたのは、笑いを含んだ言葉。
その意味が掴めずに、目を瞬かせながら視線を上げると、そこにあったのは、何処かで見たような服装をした榊先輩の姿だった。
淡いブルーのデニム地シャツに、ブルージーンズ、
ご丁寧に、足下は白いスニーカーときている。
うわっ!?
これじゃ、まるでペア・ルックじゃない!?
「き、着替えてきますっ!」
こんなこっ恥ずかしい格好で、外なんか歩けない。
左へ回れ!
部屋に戻ろうと踵を返して、ドアの取っ手に手を掛けた所で右手首を掴まれ、思わず硬直。
細身の体に似合わない、思いの外大きくてガッチリしたその手には、さほど力を込めているようには見えない。
なのに、私はビクリとも動けない。
「そのままで、OK」
「で、でもっ」
掴まれた手首が、全神経が集まったみたいに脈打ち熱を帯びる。
「はい、戸締まりはちゃんとしてね。じゃあ、レッツゴー」
「え、あ、はいっ!」
――思えば、最初の出会いの時も、こんな感じだった気がする。
いい年して水たまりですっころんで子供みたいにべそをかいていた私に、『何やってるんだよ』と『しっかりしろ』と発破をかけてくれた人。
この、すがすがしいくらいに爽やかな強引さが、ちょっぴり羨ましい……。
ああ、それにしても。
これじゃまるで『市場に引き出される子牛』みたいじゃないか。
脳内で、『ドナドナ』の、どこかもの悲しいメロディーが鳴っている。
かくして。
ペアルックもどきを身に纏った私は、先輩の言われるままにドアに鍵を掛けた後。その大きな手にガッチリと、今度は左手首を掴まれたまま、引きずられるように我が家を後にした。