12 追憶-2
時というのは、無情だ。
その場所へ、どんなに帰りたいと願っても、決して、叶えてはくれない。
帰りたい。
出来ることなら、あなたの恋人でいられた、あの頃に。
ただ、あなたの目に自分がどんな風に映るのか、それだけを、気にしていれば良かった、
あの頃に――。
ザワザワと学生達の賑やかなお喋りをBGMに、大学の学食のテーブルの角っこで一人。
まだ親しい友人が出来ない私は、いつものごとく、文庫本片手に味気ない昼食を取っていた。
本日のメニューは、和風Bランチ。
メインのおかずは鯖の味噌煮で、東北育ちの私には、少し薄味で物足りない。
お母さんの、鯖の味噌煮が食べたいなぁ……。
あの、脳みそまで染みこみそうな、甘じょっぱい味噌味。
炊きたてのホカホカご飯で、食べたい。
なんて、ホームシックに浸っていたら、
ツカツカツカ――と、近づいてくる軽快な足音が背後から響いてきて、私は反射的にギュッと身を強ばらせた。
き、来たっ!
この一直線に私に向かってくる自信満々の足音の主は、一人しかいない。
「ほら、また、眉間に縦じわが、寄ってる! 知ってるか? そのシワは、年と共に深くなるけど、絶対浅くはならないんだ」
「痛っ……」
不意打ちでおでこに走った鋭い痛みに、思わずうめき声を上げ、いきなりデコピン攻撃を仕掛けてきた犯人様を、じろりと冷たい視線を作って見上げた。
「知りません、そんなものっ」
まだひりひりするおでこをナデナデしながら、左隣の席にどっかりと腰を下ろした良く見知った人物にふくれっ面を向ける。
彼は、二学年上の榊東悟。
数週間前、水たまりですっころんで往生していた私に、唯一救いの手を差し延べてくれた、優しい先輩……で、終わるはずの人。
なのに。
何故か、こうやって私を見つけては、『ちょっかい』をだしにくる不可解な人でもある。
ちらりと上げた視線の先で、少し鋭どさを感じさせる強い瞳が、愉快そうに細められている。
「だからって、いきなりデコピンするのはやめて下さい。よけいにシワが深くなります。それに、眉間に縦じわが寄るのは、遺伝です。文句があるなら、ご先祖様に言って下さい」
ドキドキと早まる鼓動と上気する頬。
それを悟られまいと渋面を作って、落ちかかった鼻の上のメガネフレームを人差し指でずりあげつつ、私は手にしていた文庫本に視線を戻し、どうにか平静を装った。
「へぇ……」
「何ですか、榊先輩」
「いや、メガネちゃんも言うようになったと思ってね。出会った頃は、俺の言うことは素直に『はいはいっ!』って、聞いてたのに、今じゃ見る影もナシ。女ってのは……」
『出会った頃は』なんて言ったって、ほんの数週間前の事じゃない。
だって、何だかんだと理由を付けては、四六時中ちょっかい出してくるのは、あなたでしょうが。
こうも毎回毎回からかいモード全開で来られたら、いくら私でも、対処法を学びます。
そりゃあ、内心は、心臓バクバクものだけど……。
教えてやりたい本音と絶対知られたくない本音。結局どちらも言葉にはできずに、私は有る意味一番切実な『お願い』を、口にした。
「メガネちゃんって呼ぶの、やめてください。私には高橋梓ってちゃんとした名前があるんですから」
「う~ん。梓ちゃん……ってかんじじゃないな。あずっち、あずりん……」
指折り数えて私の呼び方を物色し始めた先輩の放った言葉に、思わずギョッとする。
誰が『あずりん』だ!
そんな呼び方をされた日には、私はきっと恥ずかしさで悶え死ぬっ。
「やっぱり、シンプルに『梓』かな? よし、梓にしよう。うん、これからは、梓って呼ぶよ」
すっと耳元に落ちてくる心地よいテノール。
どこか優しい響きを持った声音で名を呼ばれて、ただでさえ早い鼓動に拍車がかかる。
内心、動揺しまくりの私に向けられる先輩の瞳はどこまでも愉快そうで、なんだか、私の心の内なんか全部見通されているような気がする。
それにしても。
いきなり呼び捨ては心臓に悪いです。
「で、この間の答えは?」
「な、なんの答えですか?」
「俺と、デートする話し」
頬杖を付きながら、至近距離でニッコリ満面の笑顔で見上げられて、思わず思考停止しそうになる脳細胞に発破をかける。
こ、ここで怯んじゃだめだっ、私!
「じょ、冗談じゃなかったんですか?」
なんとか、掠れた声を絞り出す。
「俺は、冗談で女の子をデートには誘わない」
そのニコニコ笑顔が、充分冗談っぽいんですが、先輩。
「私、知ってますよ。先輩と同じゼミの佐原さん、彼女と付き合ってるって聞きました。あんな美人の彼女さんがいるのに、どうして私なんか誘いますか? 言いつけますよ!」
「それはちょっと違うな。付き合っているじゃなくて、付き合っていた、つまり過去形。今は綺麗さっぱりフリー。だからデートしようや」
わ、別れたんだ……。
って、喜ぶな、私っ。
成績はいつもトップクラスで、ルックスも抜群。
わがM大工学部、期待の星、榊東悟。
いくら彼女と別れたからって、この人が本気で私をデートに誘うなんて、考えられない。
うん?
と、ちょっと悪戯っぽい瞳で覗き込まれて、更に顔が上気する。
たぶん、今の私の顔は、トマトと良い勝負のはず。
「で、でも……、どうして私なんですか?」
先輩に群がる女の子はいくらでもいるでしょうに。
それこそ、選り取り見取りに。
「気になるから。高橋梓という女の子を、もっと知りたいと思うから、榊東悟という男をもっと知って貰いたいから、デートに誘っている。それじゃ理由にならないかな?」
ずるい。
いきなりそんな真面目な顔で言われたら、あしらう言葉が出てこないじゃない。
ダメだ、その気になったりしちゃダメ。
私は、こう言うのに慣れていない。
深入りしたら、きっと後戻り出来なくなってしまう。
そう、心の隅で本能が警鐘を鳴らしている。
だけど――、
「返事は? イエス、ノー?」
「……」
「イエス、オア、ノー?」
向けられる視線が、熱を帯びる。
ジリジリと、夏の太陽に照らされ色づき始めたトマトは、どんどん赤みを増して完熟状態。そうなれば、後は重力に引かれて地面に落ちるしかない。
「イ、イエス……」
それに。
私も、この人を、榊東悟と言う人を、もっと知りたい。
口から零れだした答えは、そんな、隠しようがない本心の発露だった。