11 天罰
「……あ、ああ。おはよう」
気だるそうな低音ボイスが、そう広くもない室内に静かに響く。
声の主、谷田部課長は、横になったまま左腕を上げて腕時計に視線を走らせた後、ゆっくりと体を起こした。額に落ちかかる前髪に、ドキンと鼓動が跳ねる。
な、な、なんで、あなたがここで寝ているの!?
む、昔はどうあれ、今はただの上司と部下なのよっ!
酸欠の金魚よろしく、口をぱくぱく開け閉めしている私に、課長は至極落ち着き払った態度で『携帯が鳴っているよ』と、床に置いてある私のバッグを指さした。
あ、ああ、電話!
慌ててバックから引き出した携帯電話の着信窓に表示されていたのは、『佐藤美加』の文字。
み、美加ちゃんだっ!
ど、ど、どうしよう。この状況を、どう説明すればいいんだろう!?
いや、落ち着け、落ち着け!
『携帯電話じゃ、この部屋に谷田部課長が居るなんて分かりやしないんだから』。
パニック一歩手前でどうにか自分にそう言い聞かせ、すうはあと深呼吸をしてから携帯電話を耳に当てると、『あ、もしもし、梓センパイ?』 と、二日酔いとは縁遠そうなハツラツとした美加ちゃんの声が響いてきた。
『昨日は、無事アパートに辿り付きましたか?』
辿り着いたけど、おまけも付いてきました。なんて、言えるはずもない。
「ア、アハハ……、何とかね。醜態晒しちゃって、ゴメンね美加ちゃん」
『そんなこといいんですよ。それよりも、昨夜の谷田部課長、素敵でしたねー。 梓センパイを軽々とお姫様抱っこしちゃうんですもん。思わず萌えちゃいましたよ、私!』
「ええ、そうなの……」
って、ええっ!?
じゃあ、あの時のやたらとフワフワ心地良い感じは、『ソレ』かっ!?
その絵面を想像して思わず冷や汗をタラリタラリと流す私の肩を、話題の主がツンツンとつついた。
『用事があるから、帰ります』
ギクリと振り返る目の前には、そう書かれたメモ用紙が差し出された。
「え、あのっ!」
『センパイ?』
ちょっと、待って、まだ聞きたいことがあるんです!
美加ちゃんと通話中で声を出せずに、身振り手振りで引き止めようと慌てふためく私に、谷田部課長は、微笑をたたえた表情で『じゃ』と軽く右手を上げると、ドアの向こうへ静かに姿を消した。
パタン――と、ドアの閉まる音が、どこかもの悲しく響く。
まるで、初めからここには居なかったかのように、 何の痕跡も残さずに、消えてしまった人。
胸が、痛い。
おいてけぼりにされた、あの頃の気持ちが蘇ってきて、胸の奥が、痛い。
ふと、あの人はなぜソファーで寝ていたんだろう? と思った。
もちろん、何かあって欲しかったわけじゃない。もしも、実際に何かあったら、『酔っぱらって正体を無くした女に手を出すような最低野郎』だと、私はあの人を軽蔑するだろう、だけど。
自分でも、矛盾していると思うけど、何だか女としての自分を否定されたような気がして、少しばかり淋しい。
本当、矛盾している。
『センパイ? どうかしたんですか?』
訝しげな美加ちゃんの声に現実に引き戻された私は、ブルブルと頭を振った。
考えても仕方がないことは、考えない。
それが、女歴二十八年で学んだ、処世術。
「え、ううん、なんでもないの……。それより、何か用事でもあったの?」
確かに、美加ちゃんとは携帯電話で連絡しあう仲だけど、休日にプライベートでかかってくることは滅多にない。何かしら会社関連の連絡事項があるのだろう。
でも、その予想は、意外な方に外れた。
五月の空って、こんなに青かったっけ?
つい最近、桜が咲いたと思ったら、もう綺麗に葉桜に衣替え済みだ。木々は鮮やかな緑の衣を纏って、すでに夏に備えている。心地よい風に吹かれながら、私はボンヤリと、その景色に視線を巡らせた。
「うふふ。たまには、こういうのも良いでしょう、センパイ!」
「本当、二日酔いの頭には、ちょうどいいわね」
「でしょ、でしょ?」
美加ちゃんからの電話は、ピクニックのお誘いだった。
県内にある大きな自然公園は、土曜日ということもあって、家族連れやカップルで賑わっていた。
私たちが陣取っているのは、公園の高台にあるいわゆる『ランチ・スポット』の一角で、丸太作りのテーブルとベンチには、日よけの白いパラソルが付いていて、爽やかな風にはためいている。
テーブルの上には、所狭しと並べられている、美加ちゃんお手製のお弁当。二日酔いで、イマイチ食欲のない私でも、『美味しそう』と思える腕前だ。
「でも、私なんか誘って良かったの? 彼氏とデートだったんじゃなかったっけ?」
昨日、たんまりノロケられたんだけど、どうしたんだろう。
「良いんです、あんなヤツ!」
美加ちゃんは、むうっと眉根を寄せて、綺麗にくるっと足が巻いたたこウインナーを、まるで親の敵を見るような表情で一睨みして、ぱくっと頬張った。
これは、ドタキャンされたな……。それで、私にお鉢が回ってきたのか。
「あ、これ、美味しい! 普通のゴマ和えとちょっと違うね? 何か隠し味が入っているの?」
ホウレンソウのゴマ和えを口に含んだ私は、微かに感じる不思議な風味に、首を傾げた。
「あ、分かりました? 実はこれ、ゴマとピーナッツペーストを混ぜてあるんですよ」
「へぇ……。今度、真似してやってみよう」
まあ、たまには女どうし、こうしてのんびり自然に囲まれてランチをするっていうのも良いかな。なんて、しみじみ思っている時だった。
「真理、駆けだすと、また転ぶぞ!」
背後から響いてきた聞き覚えのある声に、私は、ビクリと身を強ばらせた。
悲しいほどに体に染みついた条件反射で、ドキドキと鼓動が跳ねた。
「あれ? 今の声、谷田部課長に似てませんでした?」
美加ちゃんも気付いたらしく、きょろきょろと周りに視線を巡らせている。
でも、私は動けない。
ある予感が胸を過ぎり、動けない。
金縛り状態で前方に固定された私の視線の先を、右から左へ、小さな人影がゆっくりと駆け抜けていく。
年の頃は、たぶん五、六歳くらい。
パステルピンクのワンピースに赤いサイドポーチを肩から斜にかけた、とても可愛らしい女の子。
好奇心と希望に満ちあふれた黒目がちの大きな瞳と、ほんのりと上気したプクリと丸みを帯びた頬。彼女が動くたびに、ツインテールの髪がひょこひょこと上下して、その白い頬をサラサラと撫でる様は、まるで子ウサギのようだ。
その容姿に感じる、悲しいほどの既視感。
少女の面差しは『ある人』を思い起こさせ、私の鼓動はますます大きく跳ね回った。
まさか。そんな偶然、あるわけがない。
「あれぇ、谷田部課長じゃないですか? 課長、谷田部課長ーっ!」
素っ頓狂な美加ちゃんの声が、嫌な予感を現実に変えていく。
私は美加ちゃんがブンブンと手を振るその方向へ、ぎこちない動作で視線を向けた。
距離にしてほんの七、八メートル。
その人は、声の主を求めるように視線を巡らせ、私達を認めて足を止めた。
まるで吸い寄せられるように、真っ直ぐな黒い瞳と視線が交差した刹那。一瞬、その瞳に揺れたのは確かに『驚き』の色。
それを、私は見逃さなかった。
「君たちに会うなんて、奇遇だな。女性陣二人で、ピクニック?」
ゆっくりと歩み寄ってきた谷田部課長は、憎らしいくらいに驚きの成分なんて微塵も感じさせない、いつものニコニコスマイルを浮かべて話しかけてきた。
「ホントですよね。まさか、ここで谷田部課長と会うなんて、ビックリですよ!」
固まったままの私には気付かず、楽しげに声を上げる美加ちゃんの傍らで、私は何者かに助けを求めるように、宙に視線を彷徨わせた。
「課長、あの女の子は、もしかして?」
「ああ」
好奇心を含んだ声音で問う美加ちゃんに、谷田部課長は静かに頷く。
「真理、おいで」
課長に手招きされ、私達の所までトコトコと戻ってきた少女が放った言葉――。
「パパの、お友達?」
『パパ』、その単語に、脳内が一瞬にして漂白される。
私達と課長を見比べて、不思議そうに小首を傾げる少女の仕草を愛らしいと思う余裕もなく、私はただ、課長の顔に視線を這わせるしか出来ない。
私の視線の意味に、気付いているのかいないのか。
課長は、やはり表情を変えることはなく、ゆっくりとした動作で腰を屈めると、少女と自分の目線の高さを合わせて、微かに口の端を上げた。
言葉で表すならば、それは正に『父親』の慈愛に満ちた顔だ。
「ああ。会社の同僚なんだ」
「カイシャのドウリョウ?」
「そう。同じ工務課の、佐藤さんと高橋さんだ。パパがお世話になっている人たちだから、ちゃんとご挨拶をするんだよ」
諭すように言う優しく響く低音の声も、その穏やかな表情も、私の知っているどの東悟とも違う。
私は、こんな表情をした彼を見たことがない。
あんなに大好きで、なんでも分かっているつもりだったあの頃の私。
だけど、今はこんなにも遠い。
課長の説明に納得がいったのか、少女の顔に、ニッコリと邪気の無いエンジェル・スマイルが浮かんだ。
キュッと下がる目じり。
やっぱり、この子は課長に似ている。
「谷田部真理ですっ。パパが、おセワになります!」
少女が『ペコリ』と礼儀正しくお辞儀をするのを、私は、ドキドキと跳ね回る自分の鼓動を他人事のように聞きながら、ただその情景を目に映していた。
――ああ。たぶん。これは、天罰だ。
私は、心の何処かで、このことを予想していた。
だって、成人男性の名字が変わる理由なんて、そう多くはない。
『親が離婚』したか、もしくは『本人が結婚』したか――。私にだって、それくらいのことは最初に想像がついた。
榊東悟は、谷田部家の婿になって、谷田部姓になったのかも?
ううん。きっと違う、他の理由があるんだ。
そう自分に言い聞かせながらも、私は心の何処かで確信していた。
なのに、敢えて聞かなかった。
『そうだ』と聞いてしまえば、私のこの思いは、絶対叶わないものに変わってしまう。それが、怖かった。
だから、これは天罰。
確かめることもせずに、現実を見ようとしなかった、
優柔不断で、ずるい私への天罰だ――。