10 夢現
――懐かしい、夢を見た。
薄闇の中、目を開けると、東悟がいた。
焦がれて、焦がれて。
心が壊れるんじゃないかと思うほど、恋焦がれて。
それでも。
会うことが叶わなかった、愛おしい人が、目の前にいた――。
でも、何だか違う。
私が知っている東悟とは、何かが違う。
急に不安に駆られて、私は両手を伸ばした。
「東……悟?」
何が、違うんだろう?
ああ。
髪だ。
前髪が、違う。
私は、伸ばした両の手で、セットしてある東悟の前髪を『くしゃくしゃ』っとかき回した。
額に、バラバラと前髪が落ちかかり、私の知っている東悟が顔を出す。
ああ。
「東悟だぁ」
会いたかった。
ずうっと、会いたかった。
その真っ直ぐな瞳で、見詰めて欲しかった。
優しい声で、名前を呼んで欲しかった。
温かい大きな手で、抱きしめて欲しかった。
やっと、会えた。
なのに。
なぜ、そんな顔をするの?
「梓……」
低い囁きが、耳に届く。
その声音はとても優しくて、何だか泣きたくなるくらい嬉しい。
「俺は、何も理由を告げずに、お前の前から姿を消した男だ。だから、そんなふうに笑いかけてくれるな……」
だって、嬉しいんだもの。
また、あなたに会えた。
だから、嬉しくて笑っちゃうの。
「すまない……」
ポツリ――と、
微かに震えを含んだ声が、闇の中に静かに落ちていく。
そんな顔をしたらダメ。
そんな悲しい顔をしたらダメだよ。
ほら。
私まで、悲しくなっちゃうでしょ?
「梓……」
微かに、微かに、唇に届いた、懐かしい感触。
失うまいと掻き抱く私の両手を風のようにすり抜けて、それは、まるで幻のように、すぐに消えてしまった。
忘れたはずなのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろう?
「東悟……」
呼び合う声は、あの頃と何も変わらないはずなのに、どうしてこんなにも離れてしまったのだろう?
上気した頬の熱を奪って、涙が耳元に伝い落ちていく。
分かっている。
これは、夢。
懐かしい、あの人の、夢なんだ――。
「あ……れ?」
パチリと目を開けた瞬間、自分が何処にいるのか分からなかった私は、ベッドに横たわったまま、ゆっくりと視線を巡らせた。
まだ覚醒しきらず、おまけに裸眼でかなりピンぼけ加減の視線の先には、見覚えのある白いクロス張りの天井とアイボリーの小花柄の壁紙。
イエロートーンのカーテンの隙間からは、もう既に朝日と呼ぶには強すぎる日の光が差し込んでいる。
自分のアパートの、寝室……よね?
「あれっ!?」
ちょっと、まって!?
慌ててベッドから身を起こして、こめかみに走る鈍痛に思わず呻く。
「痛っ……」
どかんどかんと、ゾウさんが脳内で下手くそなラインダンスを踊っている。
「うう、気持ち悪っ……」
完璧に二日酔いだ。胃もムカムカする。
でも、それはいい。
自分の部屋で寝ているのも、自分の部屋なんだから別に問題はない。
だけど、なんでベッドで、それもご丁寧にパジャマを着て眠っているんだ、私は!?
着替えたおぼえなんて、まったくない。そもそも、アパートに戻ってきた記憶そのものが欠落している。
ど、どうしたんだっけ!?
飲み過ぎたアルコールの余波で、イマイチ血の巡りの良くない頭をフル回転させて、埋もれた記憶の糸を引き出しにかかる。
昨夜。昨夜は、確か、谷田部課長の歓迎会があった。で、飲み過ぎて、トイレの洗面台の前で腰が立たなくなって……。
そこまで記憶の糸を辿って、すぅっと血の気が引いた。
『相変わらず、要領の悪いヤツ』
『俺の前で、あまり無理をするな……』
『梓……。俺は、何も理由を告げずに、お前の前から姿を消した男だ。だから、そんなふうに笑いかけてくれるな……』
『すまない――』
『東悟』の声が、囁きが、脳内で連続再生されて、私はますます青ざめた。
何処まで現実で、何処から夢だったのかが分からない。
洗面所で、谷田部課長にくだを巻いたのは、たぶん現実。これは間違いないはず。で、酔っぱらった私を、谷田部課長がタクシーで送ってくれたのだと思う。だから、タクシーの中でのことも、きっと現実……のような気がする。で、でも、その後は?
手に触れた、『東悟』のサラサラとした髪の感触。
そして、微かに覚えている、柔らかい唇の感触。
そっと、自分の唇に触れてみるけど、その証拠なんか残っているわけもなく――。
分からない。
どこからどこまでが現実なのか、夢なのか、分からないっ!
「ああっ……」
やってしまった。
お酒を飲んで正体をなくすなんて、こんなこと初めてだ。それも、よりによって、谷田部課長の歓迎会の席でやらかすなんて、最悪すぎる――。
頭を抱えて、肺が空っぽになるくらいの、今までで最大級・特大のため息を思いっきり吐き出す。
でも、それで自分がやらかしたことが帳消しになるはずもなく、私はベッドの上で、ズキズキするこめかみとムカツク胃袋をギュッと抱え込み、反省モードに突入した。
どん底まで沈みきった心は更に穴を掘って、奈落の底に落ちていく。
――しばらく、酒は飲むまい。少なくとも、谷田部課長の前では、金輪際飲むまい。
そう、固く心に誓う。
ああ、それにしても。
私ってつくづく、進歩がない。大人の女ぶりっこしてみたところで、中身は十八、九の女の子のまま、何の変わり映えもしていないじゃないの。
「ああ、もうっ……」
月曜日にどんな顔をして谷田部課長に会えば良いんだろう? と途方に暮れる頭の片隅で、私は別のことを考えていた。
少しは、怒ってくれるんだろうか、あの人は?
それとも、やっぱり大人然とした態度で、笑って見せるんだろうか?
たぶん、きっと。何事もなかったみたいに笑う……ような気がする。
二日酔いのせいばかりじゃなく、なんだか、無性にムカツク。
自分の所業を棚に上げてむかっ腹を立てていると、何処かで携帯の着信音がなった。
ま、まさか、谷田部課長からじゃない……よね?
そんな考えが頭を過ぎったけど、そもそも私の携帯番号を彼が知っているはずはない。そう思い直して、鳴り続ける携帯のありかを探し、重い体を引きずるようにベッドから降りた。
たぶん、ハンドバックの中だと思うけど、寝室には見あたらない。
私の部屋は、六畳間の寝室と八畳のDKの二間しかないから、残るは隣のDKのみ。
ガラリと、DKへ続く木製の引き戸を開けて一歩足を踏み入れた私は、目の前の光景に『ピキッ』と全身見事に固まった。
え……、ええっ?
なに、なんなの、これは!?
ごくり。
あまりにも予想外な目の前の光景に、私はその場に固まったまま、大きな音を立てて唾を飲み下した。
――もしかしたら私はまだ眠っていて、これは夢なのかしれない。
じゃないと、こんな状況、理解不能だ。
私愛用の、淡いイエローの二人用ローソファー。
その上で、ビビット・オレンジの花柄クッションを抱え込んで、誰かが窮屈そうに眠っている。
ソファーからはみ出した長い手足は、大柄な男性のものだ。
って、この状況で、ここで眠っている人間なんて一人しか居るはずがない。
夢じゃない、 夢じゃない!
全部、丸ごと、現実だあっ!!
「や、や、谷田部課長ーっ!?」
あまりの衝撃に、口から滑り出した言葉は、ワントーン跳ね上がり裏返った。