ラムネ
窓を閉めきっているせいか部屋は蒸し暑い。
空気が粘り気を帯びて立ちのぼり、腕や手首や胸元や額を撫で上げてくる。
白く発光している木枠の窓の向こうからは、光化学スモッグの発生警報が響いている。
俺は暗い部屋の中、母親の化粧台に備え付けの三面鏡を睨みつけて、分厚い唇にルージュをひく。
夢想していたほどの倒錯は覚えない。17歳の男子高校生としては、唇を赤くしたいというのは、それほどアブノーマルな願望でもないのかもしれない。
口紅を探して化粧台をあさった時は、絶対にしてはいけないことをしているような感じがした。母親は工場にパートに出ているからこの時間は帰ってこないだとか、遠洋漁業船員の父親は、日付も違う波間の場所で作業をしているだとか、だからこの家は夕方までは絶対に無人だし、俺は安心しても良いはずなのに、焼けるような焦りが気道をせり上がってくる。
だからますます俺は唇を固く結ぶ。
この部屋が薄暗いのは窓の外が明るいからだ。もっと盛大に呑み込まれて欲しいと思う。太陽に。夏に。蝉のわめき声や、海の音に。
そうすれば、俺の心臓の音は外にもれない。部屋はますます暗くなる。そして、俺の羞恥や後ろめたい喜びは、誰も知ることができなくなる。
ルージュは期待していたほど鮮やかではない。暗がりの中だから当たり前だが、使用済みナプキンを使用済みたらしめていた経血を思い出す。
発見したのはクラスの奴で、俺たちは浜の清掃作業中で、桐生は他の奴らと同じようにう、とも、お、ともつかない声をあげたし、そんなあいつを盗み見ていた俺は一拍遅れて、同じ声をあげた。
浜の砂に半分埋まっていたナプキンは、ヒバサミでつまみあげられて、生ぐさい浜風が吹く空中を舞った。枕投げの枕みたいだ。
クラスの女子たちが俺たちを呼ぶまで、それは続いた。熱病に浮かされたみたいに、全員興奮していた。
俺は興奮する桐生に興奮していた。
今、この暗い部屋で俺の感情は高ぶっている。
古い畳の和室は何もなにもが停止している。けれど、1秒後に大地震が起きて化粧台や上に置かれている化粧水、美容液、クリーム、乳液、オイルやブースターやファンデーション、コンシーラーやフェイスパウダーといった雑多な形状の瓶やチューブや刷毛が宙を舞っても、木枠の窓が軋んだ末にひび割れてその向こうから夏の青空が現れても、俺は動じないし、むしろ納得すると思う。
ぴくりとも動かない打ち捨てられた宇宙船のようなこの世界は、ようやく俺にふさわしい物になったのだと、停止は解かれたのだと、満足と幸福すら覚えることだろう。
……俺はひたすらルージュを引き続ける。どんなに唇を赤くしても、その赤がまるでピエロのように不気味な下弦を形作っても、俺の手は止まらないし、鏡に映る2つの目は獰猛な獣のようにらんらんとしている。
何で俺の目はこんなに光っているのか。分からない。
恥ずかしいから、怖いから、嬉しいから、俺はこんな顔をするのだろうか。
母親や他の女たちは、もっと違う顔をする。当たり前だが隠された何かを発見しようとするみたいに、無防備な集中をするその顔を、俺は時たま殴り飛ばしてやりたくなる。
でも、もちろん俺はそんなことはしない。理性があるからではない。
理解しているからだ。
この衝動は嫉妬に由来する。桐生に色目を使い、奴の陰茎を受け入れる女が、現在はいないにしても将来は確実に出現するその呪いのような何かが、俺は許せない。
女というカテゴリーだけで、桐生に恋をすることが許される不公平。理不尽。
俺が許せないのはこいつらだ。不公平と理不尽が許せない。
でも、それは化粧台の前で無防備な姿を取る母親やその他の女たちとは、関係がない。
ルージュを半分使い切ったところで、我に返った。
鏡面から顔を背けて、風呂場に向かい、首まわりを中心に汗で大きく変色したTシャツを脱衣所の床に脱ぎ捨て、下も脱いで、冷水で全身を洗った。
汚したのは唇だけだったが、汚れたのはもっと全体的な何かだった。
全身のうち、唇をひたすら念入りに洗いすすいだ後、ふと、下半身にぬぐい切れない重さを感じた。つまりアレをしたくなった。が、やめた。
俺は学校を早退したから、桐生はまだ授業中だ。
今の時間は美術。あいつが一番好きな授業を受けている時に、俺がアレをするというのは、何かを裏切る気がする。
だから、全裸のまま台所まで歩いて、冷蔵庫からラムネを取り出し、飲んだ。
想像したのは、ラムネ瓶の細い口に舌を尖らせ挿し入れる桐生の姿だった。