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第七章 大地震

 それから一か月余の期間ではあるが、殿岡にとって桃子がいない職場でのたたずまいは、ただ出勤して仕事をこなしているだけの寂寞として空虚なまどろみに過ぎなかった。


 学生たちは就職の準備や卒業旅行とかで一人ひとりと辞めて行き、パーキングエリアの空気もひときわ静寂さを増して落ち着いている。

 

 桜花満開の四月に入社して十か月を経て、町工場の総務では体験できなかった人間関係の裏事情を垣間見て、うら若き乙女のひたむきな優しさに接して恋を知り、ひたすら眠りこけていた多彩な感情を覚醒することができたと感じる。


 環境が運命を変えたのか、人の情が感性を呼び覚ましたのか。思えば幼い頃から自分は卑屈に生きてきたのかもしれない。

 他人を思いやる気持ちなど皆無だった。いじめられそうになったら平気で仲間を生贄(いけにえ)にして、方便を駆使して(あざむ)き逃避した。そんな節操のない自分を支えてくれる友人などいるはずもない。軽蔑されるのが惨めでおぞましいから、寡黙に孤独をつらぬいた。

 

 勤勉に邁進する覇気より圧倒的に怠惰が勝るから、テストの結果など親にも見せずに破いて捨てた。それでも中学高校を卒業してすぐさま働こうなんて殊勝な甲斐性もやる気もなく、親に泣きついて東京の三流の下の大学へと行かせてもらった。


 場末の町工場の事務に採用されて、生かされず殺されず信念もなく、蝙蝠のように優柔不断な日和見で誰彼となく迎合し、馘首されずに昇進もせず、主義主張もなく身の安全を確保する。そのために誰が犠牲になろうと痛痒はない。そのくせいつも裏切られていたのは自分だった。そんな己の生き方に慣れ切って、負の感情を抑制することもなく凌駕していた。


 ここに来て初めて人の優しさに触れ、恋慕の情を知りその見返りに、嫉妬や裏切りへの憎悪という未知の感情の存在を知った。昂る胸のときめきと虚ろな寂しさを知った。

 

 二月の中旬に資格試験が実施されると桃子は言っていた。ところがもうすぐ月末だというのに彼女はいっこうに姿を現さなかった。

 携帯を開いて何度メールを打ち込もうと考えたかしれないが、殿岡にはその勇気を一歩踏み出せなかった。恋人でもないたかが老いぼれの醜さで、何の目的でどのような言葉を綴ればよいのか見当もつかなかった。


 次第に殿岡は不安になった。何らかの理由が生じて、二度と桃子が戻って来ないのではなかろうかという、先の見通せない不安に焦燥して心が乱れた。

 そんな不安を一蹴してくれたのは、三月に入ってすぐの月曜日だった。魔法エリアでの朝礼が始まる直前に、花山と桃子が息を切らして休憩室に飛び込んできた。


「間に合ったー」

 二人はホッとして事務室のタイムカードを切ると、慌てて倉庫にバッグを放り投げて朝礼の輪に加わった。

 殿岡はそっと桃子に目を向けたけど、久々の出勤の彼女にとっては殿岡なんかよりも、周囲の人たちへの気配りが優先されるのは当然だろう。ぎこちなく緊張している様子がうかがえた。

 


 ー魔法エリアのバスポジションにてー


 朝礼が終わるとみんなが持ち場へと散らばって行く。桃子は自転車置き場へと駆けて行く。どんなに待ちわびていたかを桃子に伝えたいという想いも、しょせんは殿岡の勝手な片思いだと自粛して、彼女の後姿を黙って見送る。


「殿岡さん、バスポジション一緒ですよ」

 明子が声をかけてくれたので、にやけた笑顔を返して平面の駐車場へと二人で向かう。修学旅行のバスが十台余りと、立体駐車場に入りきらない大型乗用車が二十台ほど駐車しているくらいでバスポジションは落ち着いていた。


 交代を済ませて大きな欠伸(あくび)をする殿岡を見て、明子が微笑みながら話しかけてくる。

「林田さん、離婚するそうですよ。知ってました?」

「えっ、初耳だけど、なんで?」


「林田さんの奥さんて、土木関係の仕事をパートでやられてるでしょ。小雨の日に出勤したけど休みになってね、帰宅したら若い女の子を連れ込んでいたんですって。奥さん激怒して、女の子と一緒にアパートから追い出されてしまったんですって。林田さん本人が言ってましたよ」

「ついに堪忍袋が切れて爆発したか。コンビニで一緒に働いている女の子だな」


「いいえ、向かいのアパートに住んでる女学生ですって」

「まさか……、で、一人息子はどうするんだろう」


「もめてるそうですよ。奥さんの収入じゃあ養えないから、女と一緒に連れて出て行けって、林田さんに押し付けられてるそうですよ。男の子がかわいそうですよね、母親に見捨てられるなんて」

「うーん」

 

 林田の心境をわずかながら思い遣った殿岡だけども、自業自得による破綻の帰結をさして気の毒だとは思えなかった。


 若い女と奔放に遊べる器量を備えた林田は、生きていく過程の刹那にそのエネルギーを忌憚なく発揮して喜悦の限りを享受していた。たとえ虚飾でも泡沫でも、愛の輪郭を描ける彼の無責任な度量の広さに憧れる。その胆力を欲しいとは考えないが、比較して狭小な己の惨めさに胸が刺される。


「わたし、生まれた時から父親がいないから、こんな現実って微妙なんです。男性不信になっちゃって、どんどん臆病になってしまいそう」


 明子に返せる言葉など見つけられるはずもない。林田の行為は特別だからと弁解し、その場を繕う詭弁は男を否定することになる。

 誰もが夢想し抑制していることを、林田は実行して禁断のループをはみ出してしまっただけだから。残された男の子と、明子の立場は明確に違う。男の子は林田の現実を凝視して育ったが、明子は母親の胎内で連鎖したまま、負のスパイラルを背負って生きている。

 

 園内から出てきた子供連れの家族がはしゃぎながら、大型車両の駐車場所へと向かって横切る。

「気を付けてお帰り下さい」


 明子が満面の笑顔で声掛けをして、子供たちにバイバイの手を振ると、父親と母親は苦笑いする。彼らがキャンピングカーの車内に収まると、モーターの音がうなり始めた。

 彼らはゆっくりと午睡をとって、昼間のイベントを楽しみ、また夜のカーニバルに参加するのだ。入園も早いが退出も遅い。彼らはデイキャンプを楽しみながらファンタジーランドの一日を堪能しているのだ。


「先月、一週間ほど猪熊さん、お休み取ってたでしょう」

「沖縄旅行だって言ってたけど」


「本当は入院してたんですよ、胃の精密検査で」

「昨年末に胃がんの手術をしたって林田さんから聞いたけど、まさか再発した?」


「いえ、軽い胃潰瘍だって診断されてちょっと安心してたけど、持病の糖尿が悪化して、このままだと人工透析になるってお医者さんに言われてめげてるみたいですよ」

 脳味噌以外に持病のない殿岡にとって、臓腑をむしばむ病気の苦しみがピンとこない。

 

 立体駐車場のパーカーから休憩で戻ってくるキャストの自転車が、クロスを通ってエントランス方向へ向かう。

 その中に桃子がいないかと目を凝らしていると、一台がこちらに向きを変えて走ってきた。


「よう、ジジイ、元気か?」

 妙子がブレーキを軋ませて自転車を回転させる。

「あんた、こんな所に寄り道して、見つかったらリーダーに怒られちゃうよ」


「アキだってジジイと話し込んでるじゃん。今日さあ、あの女と一日一緒だからウザいんだよ」

「仕方ないでしょ、霧島さんだって仕事なんだから」


「カップ麺の残り汁、ぶっかけてやりたい」

「馬鹿なこと言ってないで、早く休憩室に戻りなさい」


 エントランスから大型バスがターンして、平面駐車場へと誘導されてきた。バスから顔を覗かせるゲストに妙子は手を振りながら、自転車を漕いで戻って行った。



 ー再びのスロープー


 休憩を挟んだ殿岡の次のポジションはスロープ上だった。そこから見える風景は、料金所から入って来るバスや車両を誘導するキャストの動きと、平面駐車場の壁面越しに突き出る魔法エリアのアトラクション建屋の裏面と、東京湾を隔てて湾曲する房総半島の霞みがかった輪郭だった。

 眉をしかめて瞑目ぎみに空を見上げれば、無限に重なる風景が走馬灯になって巡り絡まる。

 

 馬鹿でも阿呆でも苦しい時や悲しい時がある。そんなとき殿岡は空を見上げた。空の彼方に宇宙があって、宇宙の果てにブラックホールがあると中学校で学んだ。

 暗澹(あんたん)として心が傷ついたとき、欲望も感情も運命もブラックホールに投げ込んだ。それでも空の風景は油断ができない。煩悩や憎悪や後悔が雲に滲んで脳髄を脅かす。


 資格試験が上手くいったかと桃子に問わねばならなかった。その答えがどうであれ、努力したことに乾杯しようと約束していた。

 桃子に会えるチャンスが訪れるのを殿岡はひたすら狙っていたが、今日の勤務は朝礼時からすでにすれ違いが続いている。

 

 一か月余という時間の流れが、情動的な恋慕の記憶に冷水を浴びせて隙間を広げる。会いたいと願っているのは殿岡の一人芝居なのかもしれない。ふと冷静になって目を見開くと、老いぼれた醜い容姿を思い浮かべて恥ずかしさに歯ぎしりをしている。


 桃子にとって再出勤の平静を取り戻すには、明子や猪熊やサブリードの本郷やリーダーに挨拶を交わすことが優先で、殿岡と顔を会わせることなど、東京湾に浮いて漂うクラゲのごとく軽くウザったいものかもしれなかった。


 それでも心地良い記憶が殿岡の脳裏を駆け巡り、桃子の快活な姿がくっきり蘇る。時間を忘れてお酒を飲んだ大晦日の夜、命の昂りを感じて胸が震えた心の揺らぎは本物だった。

 休みに入る前日の寒い日に、桃子が使っていたホッカイロを殿岡の襟首にそっと挟んでくれて、試験が終わったら乾杯しようと約束した。絶対だよと言った、その言葉に嘘はなかったはずだ。


 ジェット機の白い軌跡が乱れ雲の空を切り裂いて、瞬時の痕跡を乱して遠ざかる。上空は冷えている。群青色が水平線との狭間で分厚い雲に遮られ、紅色の大気に染められて沈む夕日が吃水線上の船舶を黒いシルエットに浮きあがらせている。


 スロープ下から交代のキャストが誘導ライトを持ってゆっくりと上がって来る。思考が止まると時間も止まってしまうが、夢想が走ると時間は消えて、一炊の夢から目覚めてうろたえる。

 


 ー南出口ポジションにてー


 コンビニ弁当のランチを済ませて次のポジションの南出口へと殿岡は向かった。


 平面から自転車を右折させてクロスのポジションを見ると妙子がいて、黒いマフラーを両手に振りかざして一匹の熊蜂を追い回していた。


「蜂を苛めてたら逆襲されるぞ」

「遊んでるだけだよ。ジジイ、どこへ行くんだよ?」

「南出口だよ」


 立体駐車場から退出するゲストの車両は、一階と二階からは北出口へ、三階から五階までの車両は南出口へと誘導される。

 裏の通路には明るい外灯が無いので夜になると暗闇となり、赤灯を振り回して退出していくゲスト車両を安全に外周の道路へと誘導する。


 南出口で交代をしても閉園時間にはまだ早く、退出の車もまばらな時には物憂げな時間との戦いの中で、さまざまな事を夢想することが仕事になってしまう。

 午後出勤のキャストたちはみんな、太陽を頭上にして勤務が始まり、夕焼けを眺めながら夜陰へと移行する。

 とりわけ夜の闇空間は、ひっそりと人の気配を丸ごとくるんで守ってくれる。だから行動が大胆にもなれるからこそ、闇の中での記憶は昼間よりも鮮麗に強固な残像となり、印象深く凄烈に輝いているのだ。

 

 五階からスロープを下るゲスト車両のヘッドライトが次第に上向きになる。出口が左折であることを知らせるために誘導ライトを運転手に向けてグルグルと振り回す。ブレーキの軋む音を聞きながら、テールライトが外周道路へと流れて消えるまでを目視する。

 三階や四階から退出してきた車両とかち合わないように気を配る。三台連なる車両を送り出してホッとした時、いきなり誰かに背中を抱き付かれて殿岡はびくりと身体をこわばらせた。

 

 不意を突かれて何が起こったのか分からずに首をひねると、右目の端に桃子のぶっきらぼうな素顔があった。素顔の向こうにいつの間にか交代の自転車が停められており、桃子は両腕を殿岡の胴回りにからませて、手先で横腹を小突くように弄んでいた。


「モモ、びっくりするじゃないか」

「寂しかった?」


「試験、上手くいったのか?」

「そんなこと、聞いてない」


「モモ……、寂しかったに決まってるだろ」

「じゃあ、ここにキスして」

 そう言って桃子は頬の傷痕を指差した。


 殿岡は心の底から後退あとずさった。桃子の、いや、女の真意が分からない。三流男の臆病さがこのような事態に気おくれしてしまう。時が止まり闇が静まる。胸の鼓動だけが激しい叫びをみなぎらせている。


 殿岡は覚悟を決めて誘導ライトを小脇に挟み、腹部にからまる桃子の両手にそっと手を触れ、何百回も夢に描いた想いを込めてギュッと握りしめると、しきりに弄んでいた桃子の指先の動きがピタリと止まった。

 それは嫌悪の意思表示では決してありえないはずだ。決然とした誘発のしるしと受け止めなければ進展がない。進まなければ桃子を嘲弄(ちょうろう)して置き去りにしてしまう。


 情愛と畏怖に葛藤し、乱れ狂う分別に決別し、叱咤して性来の脆弱(ぜいじゃく)な意志を断ち切った殿岡だったが、ふがいなくも思わず口にした言葉は、(いまし)め通りの逃げセリフだった。


「伊達くんがね、モモの真意を知りたいって言ってたぞ。就活があるから四月にはここを辞めるからって。彼からプロポーズされたんだろ? あいつ、頭良さそうだし、真剣そうだし、モモは彼のこと嫌いなのか?」

 

 しばらくの沈黙のあと、桃子は震える声で「寒い」と小さくつぶやいた。そして唇をすぼめて囁いた。

「わたしね、ボードを見たら殿岡さんが南出口になっていたから、急いで飛び出してマフラーも手袋も忘れて来ちゃった」


 殿岡は桃子の両腕をほどいて振り返り、自分の首に巻いていたマフラーを引きはがして桃子の首に巻きつけた。両手の手袋を剥ぎ取って、桃子のか細い右手と左手の指に合わせてはめているうち、伊達の事などどうでも良くなった。桃子に答えをはぐらかされた。それが桃子の答えだったのだから。


「わたし、試験頑張ったよ」

「そっか」


「やっぱり乾杯は、合格してからが嬉しいな」

「うん、いいよ。そうしよう」


「ねえ、四月になったら更埴に行こうよ。あんずの丘が白い花びらで満開になるよ」

「うん、行こう」


「本当に行くの?」

「本当に、モモと行くよ」


「嬉しいな。ごめんね、引き止めちゃって。もう戻らなくちゃ、殿岡さんの休憩時間が無くなっちゃうよ」

「休憩時間が無くなっても、モモと一緒の方がいい」


 自分でも驚くばかりの気障きざなセリフが殿岡の口からほとばしり出た。縁が無いから侮蔑(ぶべつ)していたそんな言葉を、信じられないほど躊躇(ためら)いもなく吐き出せた自分が、道化師かペテン師にでもなったようでちぐはぐな焦燥を覚えた。


 桃子の頬の傷痕にそっと手を当てると、指の先からスッと体温を奪われた分、心の底から痺れるような温もりを感じた。

 たとえ暗闇といえども職場でキスなどできるはずもないが、冗談とも思えない桃子の言葉が殿岡の耳元にへばりついて、不器用な浅知恵がぎこちなくざわめいている。


 無線機を桃子に渡すと、殿岡は自転車に乗ってペダルを踏んだ。裏の通路を抜けて空を見上げると、半欠けの黄色い淡月が、おぼろな雲間からいやいやそうに見え隠れしている。桃子に会えたことが嬉しくて、神に感謝して頬をゆるめた。



 看護師国家試験の合格発表は三月の中頃だった。その日、朝から殿岡は桃子からのメールをひたすら待ち受けていた。早朝から発表が行われるとは思わないが、何日も前から気に掛けていた事だったから。


 昼過ぎには家を出て東京方面行きの電車に乗る。舞浜駅からバスに乗って橋上を渡り、東棟のロッカールームに着くまでずっと携帯を握りしめていた。


 朝礼が終わって勤務が始まれば、ポジションにまで携帯を持ち出すことはできないので、休憩のたびに倉庫に行ってバッグを開いて受信の有無を確かめる。

 合格の喜びを期待しているのか、それともただ桃子からの受信を待っているのか、自分の心理が判別できなかった。その証拠に殿岡はすでに、二通の返信メールを作成して保存していた。

 一通は合格だった時の祝福のメッセージで、もう一通は、不合格だった場合のなぐさめの文面だった。この周到なる醜悪さが無垢な感動を阻害して、殿岡のイラつきに拍車をかけていた。

 

 ポケットに入れていた携帯のバイブがブルブルと振動したのは、夕刻前のランチの弁当を食べ終える頃だった。箸を放り投げて急いで携帯を開いてボタンをタッチすると、思った通り、桃子からの着信だった。


「受かったよ! 合格だよ! 奇跡だよ! 信じられなくて夢みたい。本当に看護師になれるんだよ。わたし、働きたい病院は決めているんだ。だけどまだ、勤務はしないよ。パーキングで頑張るよ。伊達くんにもメールしましたよ。心配してくれてたから。でも、お付き合いはしませんから。明日は夢エリアの勤務だよ。殿岡さんと一緒だといいな」


 殿岡は、用意していた一通のメールを消去して、もう一通の文面の言い回しを少しだけ変えて返信した。

 言い回しを変えたのは、桃子が自分よりも先に伊達直樹にメールをしていたから。心の奥底に巣食った蜘蛛の粘糸のようなあざとい独占欲が、微細な一文によって傷つけられたから。

 考えてみれば当然なのに。怜悧な若さと老醜を天秤に掛ければどちらに傾くか、考えるだけ怖気づいて惨めになる。奇跡だろうが夢だろうが合格できた。明日は殿岡も夢エリアの勤務だから、とりもなおさず桃子の満面の笑顔が見られる。お祝いに何をしようか。メロンパン。そんなんじゃ駄目だ。そうだ、駅前のカフェバーで乾杯しよう。桃子の頑張りに乾杯しよう。



 ー大地震ー


 翌日、東京ファンタジーランドの空は見渡す限りの紺碧で、米粒ほどの雲のかけらも見当たらないのが不思議なくらいだった。


 舞浜駅から従業員専用バスで人工島に渡る。橋梁の上から眺める海は青く鮮鋭に、絹糸のような午後の日差しを受けて穏やかだった。

 

 殿岡がそそくさと制服に着替えてロッカーを出ると、通路の先にパーキングのキャストたちがたむろしていた。

 入口からの逆光が眩しく目を細めて近付くと、桃子が両手を広げて飛びついて来て、パチンと大きなハイタッチをする。


「おめでとう、モモ」

「ありがとう。わたし、お母さんと一緒に一週間ほど長野に行って、二日前に戻って来たんだよ」

「だから会えなかったのか。モモ、行こう」


 ハイタッチで握った桃子の片手を引っ張って、肩を寄せるように並んで歩き始めた。たむろしていたキャストたちもぞろぞろと、夢エリアの事務所に向かって動き始めた。


「モモ、頑張ったね」

「うん。殿岡さん、聞いて。昨日の朝ね、目覚める直前に不思議な夢を見たんだよ。あんずの丘をなぜか一人で歩いていたの。そしたらね、丘の上の一本の木に薄桃色の花が咲き始めて、あっという間に満開になるの。そしたら次々に他の木も、つぼみが芽生えて花が咲いて、いつのまにか丘一面が真っ白になったんだ」


「それって、モモの女神がね、夢の中で合格を知らせてくれたんだよ」

「それだけじゃないの。丘の裾から奇妙な黒い芋虫が現れてね、どんどん、どんどん大きくなってムカデみたく何本も足が生えてきたの。その化け物がね、あんずの花弁を次々に食べ尽くしてしまって、私も食べられそうになって、悲鳴を上げて目が覚めちゃったの。怖くてしばらく動けなかった」


「変な夢だな。なんで芋虫がムカデになるんだよ」

「目が怖かった。見つめられたら足がすくんで動けなかった。飛び掛かって来た時は殺されるって目をつぶったよ。今でもはっきり目に焼き付いてる」


「大丈夫だよ。そんな不吉な夢なんか忘れてしまいな。四月になったら更埴へ行こう」

「うん。さっきね、アキさんも行きたいって言ってたよ。アキさんのお母さんの実家も長野なんだよ。小諸の近くだってさ」


「ふーん」

「わたし、殿岡さんにお土産があるんだよ」


「へー、何?」

「あんずの花のスケッチブックと押し花だよ」


「まだ咲いてないのに」

「そうだよ。ふふっ」

 殿岡は、夢を見ながら歩いていた。できる事なら桃子と手をつなぎ、腕を組んで歩きたいとさえ考えた。


 小学生の頃、絵本で読んだ浦島太郎の話が頭をよぎった。亀を助けた見返りに、男は竜宮城へと招かれた。もてなされるままに月日を忘れて乙姫様と悦楽にふける。俗世の煩わしさも時間の流れも切り捨てて、女との快楽に全てを委ねた。

 桃子と乙姫とどう違うのか。快楽の終わりを告げられた日に、禁断の玉手箱を渡されるのか。決して開けてはならない玉手箱を、いつの日か開く時が来るのだろうか。殿岡はどうでも良いと思った。今この瞬間の現実を確かなものとして、愉悦に浸ればそれで良い。

 

 思えばみぞれ混じりの冷たい北風の吹く夜に、お湯入りのバケツに二人で両手を突っ込んで、凍えた指先を桃子は優しくほぐしてくれた。それが弱者への労りだとか憐れみだとか、考えもしないで勝手に思慕を募らせてきた。この輝きが永遠に続くなんて望みもしないが、今が失われれば、これから先にあるのは絶望だけに違いないから。自分の過去が、それを確実に証明している。


「何か考えてるの?」

「別に……、モモは?」


「試験が終わって気が抜けちゃった」

「そうだね。今日は天気がいいから忙しくなるかもだよ」

「うん……」

 桃子は大きく背伸びを一つして、殿岡を見つめて微笑んだ。

 

 事務所に着いてホワイトボードを確認すると、殿岡はパーカーで桃子はA出口と記されていた。すれ違いのチームになって、桃子は眉をしかめて下唇を突き出した。

 明子や猪熊たちもホワイトボードで各々のポジションを確認し、休憩室に入ると今日の顔ぶれを確かめ合って会話が弾み、和やかな雰囲気に包まれた。

 

 朝礼が始まると皆の英気を鼓舞するように、リーダーの声も晴れやかだった。

「えー、今日は予想よりも車両は少ないけど、園内はかなりの混雑です。春休みで学生たちは電車で来ていますから、ゲストに園内の様子を尋ねられても、空いていますなどと安易に答えないように。午前中から気温が二十度を超えています。汗をかいたらしっかり水分補給をするように。寒暖の差が激しい時期だから、インフルエンザにもノロウィルスにもかからぬように、手洗い、うがいを励行してくださいよ」


 朝礼が終わって殿岡は、猪熊や明子たちとCエリアのパーカーに向かうキャラバンに乗り込んだ。A出口に向かって自転車を走らせる桃子を追い抜いて、左手にバスが望めるCエリアの先頭通路までキャラバンは疾駆した。

 

 猪熊が通路入口のキャストと交代し、殿岡はすぐ近くのリレーに立った。明子と林田が入れ込みに立ち、次々と流れ込む車両を迅速にさばいていた。


「こんな天気の良い日には、つまらない仕事なんかやってないでゴルフにでも行きたいですなあ」

 車両を通路に曲げて誘導しながら、猪熊が声をかけてくる。


「まったくですねえ。私は総務という立場上、コンペの幹事をやらされたり、付き合いもありましたけど、ゴルフが終わった後の生ビールがしびれるほど美味かった」


「どうですか殿岡さん、リーダーやサブリードの本郷さんたちとね、たまにゴルフに行くんだけど、良かったら一緒に参加しませんか?」


「いやいや、私なんか足手まといになって迷惑ですよ。ボールは真っ直ぐ飛ばないし、フェアウェイで空振りだってする始末ですから」

「なあに、わしらだって同じ……」

 

 その時だった。ズズンと地面が鳴って身体が揺れた。猪熊の顔が微妙に左右に振れて見える。殿岡の身体も僅かに揺れて、腰を低くして両足を踏ん張った。その一秒後、ズズズーンという地響きとともに、駐車場の地面がゆらゆらと波打ち始めた。


 園内外を隔てている高木の樹林がざわざわと音を立て、駐車場に埋め込まれた鉄製のポールがグラグラと揺れている。ポールの先端のライトが独楽こまのように振り回されている。


 駐車場の車両は、ばね仕掛けの玩具のようにタイヤの上を跳ね回り、通路を走っていた車両が衝突しそうになって急停車した。

 間髪を容れず、園内外に向けて大音声のアナウンスが流れた。


「東京湾沖に大地震が発生しました。皆さま、頭を両手で覆って伏せて下さい。係の者が安全な場所にご案内いたします。大地震発生です。どうか皆さま落ち着いて、係の者の誘導に従って下さい」


 同時に無線機のイヤホンから、緊迫したリーダーの声が耳をつんざく。

「すぐに料金所を閉鎖しろ。震度七の地震発生。パーカーキャストはゲストを車両から出して、セキュリティーと連携を取って園内へ誘導せよ。津波の危険があるので、他の平面の駐車場のキャストは全てのゲストを立体駐車場へ誘導して退避させよ。各人の位置と行動を逐一報告せよ。もう一度繰り返す…………」


 地面はグラグラと激しく揺れて止まらない。セキュリティーの車がバスの通路を抜けて走り寄る。車両から降りたゲストの顔色は、みんな青ざめて立ち竦んでいる。

 猪熊や林田や明子が、ふらつきながらも彼らを駐車場から園内への通路に誘導してセキュリティーへと引き渡す。

 

 地面の揺れは縦から横へと変化して、バキバキと悲鳴のような激しい音響が地表を走る。巨大なバージでジョイントされた人工島は、海底深く埋められた鉄柱に支えられている。

 園内の地面は二重三重のバージでジョイントされているから余程の震度でも地割れすることはないが、駐車場は一枚ごとにジョイントされたバージの表面を、アスファルトで覆い隠されているだけだから、ジョイントの接合に強度の負担が掛かれば危険だと猪熊が話していた。


 人工島が大きな円盤のようにゆらゆら揺れて、夢エリアの平面駐車場だけが太鼓の波形のように小刻みに激しく波打っている。

 殿岡も猪熊も平衡感覚を失い、つかむ所もなく、のけぞり前のめりになり這いつくばって、ひたすら揺れに耐えているしかなかった。

 錯綜した伝言が飛び交う無線機のイヤホンに、リーダーからの指示が聞こえる。


「津波が来るぞ、全員退避! Cエリアへは本郷さんがキャラバンで向かったので、速やかに全員引き揚げるように! その他のキャストは、立体駐車場の屋上へ急いで避難しろ」

「了解しました」

 明子は猪熊と林田に支えられて無線機に応答しながら、東京湾の一点を凝視していた。


「あれは!」

 明子が叫んで腕を伸ばした指の先には、巨大な白波が横一線の津波となって、牙をむいた野獣のように押し寄せてくる。


「心配するな、防波堤がある」

 猪熊がみんなを安心させようと声をかける。バスのエリアを抜けて本郷の運転するキャラバンがノロノロと、ゲストやセキュリティーの車を避けながらやって来る。

 

 一分もしないうちに襲いかかってきた大波は、七メートルもある人工島の外壁を叩きつけて跳ねあがる。たちまち外周道路は海水に浸され、平面駐車場の外壁側通路も雨後の水しぶきのように濡れそぼってしまった。


 いったん収まりかかった揺れのすぐ後にも、さらに激しい余震に襲われてよろめきながら、何とかみんなキャラバンに乗り込めたと安堵した。

 

 その時だった、ガガガガーンと凄まじい大音響とともに、巨大なバージのジョイントが破壊されて駐車場に亀裂が入った。

 亀裂はあたかも巨大な蟻地獄のように口を開き、津波が防波堤を叩き付けるたびに海水を空中高く噴き上げる。噴き上げられた海水が、再び海中に吸い込まれていく。


 キャラバンを運転する本郷は、あえて外壁の通路に向けてハンドルを切った。バス側のエリアには、セキュリティーがたくさんのゲストを誘導している。平面から一刻も早く引き上げるためには、全速力で走り抜けたい。

 最後に殿岡が乗り込んで、横扉をバタンと閉じたと同時に本郷はアクセルをいっぱいに踏み込んだ。

 

 C駐車場を一気に縦断してA出口のカーブに差しかかった時、空高く噴き上げられた海水がフロントガラスを覆い隠し、視界を奪われた本郷は急ブレーキを踏み込んでワイパーを回した。

 ワイパーが往復して視界を取り戻した時、いきなり林田が叫び声をあげた。


「朝倉だ! あれは朝倉じゃないか」

 A出口に桃子が立哨していたことは殿岡も知っている。とっくに引き上げていると思っていたのになぜだ。考える前に殿岡はキャラバンの扉を開けて飛び出した。


「殿岡さん、出ちゃダメ! 危ない」

 明子の制止を無視して猪熊も続いて飛び出した。サイドブレーキを引いて本郷も飛び出した。


 亀裂の隙間から海水が噴出し、横転したゲスト車両が横滑りにぶつかって、ボコボコと潰されながら海に沈む。

 キャラバンから飛び降りた殿岡は、亀裂に向かって倒れ込むように走り寄り、裂け目に呑み込まれまいともがく桃子の手首をしっかと掴んだ。

 華奢な桃子の手は、すでに気力を失っていた。殿岡の片方の腕を猪熊が、さらに猪熊の片腕を本郷がつかんでくれて殿岡は踏ん張れた。


「モモー、しっかりしろ!」

 海水に桃子の顔が浮き沈みして見えなくなる。グイッと引きずり上げようとした瞬間、津波が外壁に叩き付けられ、裂け目から怒涛の海水が噴出した。

 鋼の糸さえも引きちぎられる程の強烈な力で、掴んでいた手首を引き離された。

 

 桃子は水柱に吹き上げられて宙を舞った。殿岡と猪熊は強烈なしぶきに駐車場の壁面まではじき飛ばされ、全身を激しく打ち付けられた。

 キャラバンは転倒して開いた横扉が上向きになり、そこに吹き上げられた海水が流れ込む。林田と明子が必死で這い出していた。

 メガネを飛ばされて我に返った殿岡は、目に染みる海水を拭って裂け目に向かって駆け寄っていく。


「行くな! 危ない!」

 路上に打ち付けられて足を引きずる本郷が叫ぶ。


 亀裂からあふれた海水が、引き潮のように殿岡の足元をすくって吸い寄せる。猪熊と林田が強引に殿岡の腕をつかんで引き戻す。


「モモー! モモー! モモー……」

 噴き上げられた水柱は、再び裂け目に消えてしまった。このまま桃子を見捨てれば、一生拭えない禍根を残すことになる。たとえ相手が強大な自然であろうとも、生涯烈日の悔いを残すくらいなら、ここで輝いて死にたいと、渾身の力で振り切ろうとしたが、猪熊も林田も必死だった。


 亀裂の中にはすでに桃子の姿はない。暴れ狂う海水が溢れて、新たな水柱になり空から降り注ぐ。

「モモー! モモー……」


 殿岡の叫びはいかにも非力だが、桃子の手首をしっかと握りしめた温もりが、確実な証として手の平に残されている。この温もりがある限り、見捨てて逃げられる勇気などない。

 いや、これまでは逃げていたのだ。逃げ続けていたから輝けなかった。逃げてはならない不思議な力を、桃子は初めて教えてくれた。だから今、桃子を失う訳にはいかないのだ。

 狂気の叫びをもって自らをあがなうしかなかった。何も見えないけど声が聞こえる。薄桃色の花びらが舞う、丘の上から白い妖精のささやきが聞こえる。


 なおも容赦なく余震が続き、駐車場は海水で覆いつくされていく。駆けつけて来たセキュリティーのキャラバンに、殿岡は引きずられるように乗せられて事務所に戻された。


 殿岡は神を憎んだ。桃子との出会いで初めて輝けた。一生に一度だけ与えられた神様からの贈り物だと信じていた。それを非業にも、神の手で奪われた。失うことがこれほど苦しく辛いのならば、最初から贈り物などいらなかった。


 そばに立てかけてあった誘導ライトを、両手でつかんで思い切りバキンとへし折った。慌てて猪熊が走り寄ってリーダーの視線をさえぎった。


「桃子の手首を、この手でしっかり掴んでいたんだ。それなのに……」

 絞り出すような殿岡の声に耳を澄まして頷いて、猪熊は静かにささやいた。


「何を言ってるんですか。殿岡さんだって俺たちだって、ちょっと間違えば今ごろ海の底ですよ。こんな事になるなんて、誰も予測なんかしちゃあいない。逃げ損なった朝倉の運命だったんですよ。あいつの宿命なんですよ」



 ー桃子の真実ー


 二日後に、人工島の海から制服姿の桃子が工事の潜水夫によって発見された。遺体は母方の実家である長野の更埴に運ばれて、通夜と告別式が営まれるという。


 東京ファンタジーランドは閉園になっていたが、園内や立体駐車場に残されたゲストの対応をするために、キャストは出勤を命じられていた。翌日は電車も不通で高速道路も閉鎖されていたが、二日目からは電車が動いた。

 

 舞浜駅を降りると道路のアスファルトは屈曲し、歩道の地盤が割れて砂と水が泥状に噴き出していた。ターミナルに従業員専用のバスは見当たらないので人工島までの長い橋を歩いて渡った。


 東棟のドアを開けると、ひっそりとした通路のロッカー前で、立ち話をしている二人の姿が見えた。殿岡を見つけて走り寄って来たのは明子だった。


「殿岡さん、私たち、桃子ちゃんの告別式に行こうと決めたんですけど、一緒に行きませんか?」


「ジジイ、モモと仲良しだったんだから一緒に行こうよ。アキが行くって言うから、わたしも行くよ。アキはリーダーから香典を預かってるんだ」

 仏頂面の妙子が殿岡の靴先を踏ん付けて、両腕をつかんで見上げて言った。殿岡は迷わず承知した。桃子の実家の住所も知らず、一人で赴く勇気がなくて躊躇っていたのが吹っ切れた。


 駐車場は悲惨だった。バージの裂け目はすでに接合されて海面は見えないが、横転した車両が海の藻屑と絡まって悲痛なうめきをあげている。シャベルカーやレッカー車両が蟻のように動き回っている。


 バラバラに出勤して来るキャストたちに、リーダーは其々の役割と指示を与える。壊れた個所の点検や、駐車場に溜った海水を排水溝へ掃き出したり、ゴミを選別して廃棄する。


 ボンネットのへこんだ車両がレッカーに吊り上げられて、そばで不安げに眺めているゲストがいる。海水に浸された車が再び動けるのだろうかと、他人事ながらの心配も束の間で、早く片づけてくれないかと、殿岡は眉をしかめて舌打ちをする。

 駐車場に残された車両はもはやゴミに過ぎないのだから。金にも車にも縁が無く、人としての自負も誇りも持てなかった醜さが頭をもたげ、冷酷に無慈悲な顔でつぶやいている。

 いや、そうではなかった。桃子が海にさらわれたというのに、お前ら車だけが生き残りやがってと、苦渋をにがみ潰した殿岡の非力な八つ当たりだった。



 告別式は午後だったから、朝早くに明子と妙子と東京駅で待ち合わせ、金沢行きの新幹線に乗り込んだ。

 一時間半で上田駅に到着し、しなの鉄道に乗り換えて二十分余りで駅に着いた。ホームに降りると頬をなぞる空気が清々しい。すでに新緑を思わせるような淡い緑の連なりが、鉄路の両脇を取り囲んで山が息づいている。


 タクシーの運転手に住所を告げるとすぐに分かった。十分ほど走って通りから少し入った脇道で降ろされた。

 左手に目をやると、緑の絨毯の丘陵にあんずの林が広がり、紅色の蕾から白い花弁が重なり合って、いましも開花を待ちわびていた。


 小道の突き当りに黄色い土壁の家があり、多くの人だかりができていた。土間の入口には花輪が飾られ、横の小机が受付になっていたので香典を置いて記帳を済ませた。


 おずおずと土間をまたいで中を覗くと、襖がすべて取り払われた大広間の床の間の前に白い棺が横たわり、祭壇の上に桃子の笑顔が黒縁の額に閉じ込められていた。

 感無量に立ちすくんで、たじろいだまま動かない殿岡のお尻を妙子が拳で突いた。殿岡が靴を脱いで焼香に上がり、明子と妙子がそれに続いた。

 


 かつて殿岡は、悲しい涙を流したこともないし、悔し涙の意味すら知らなかった。総務の役割で幾度もの葬儀に立ち合い、多くの悲し気な表情を見てきたが、誰もがみんな仮面に見えた。自分の親の死でさえも、悲しい涙を流しはしなかった。

 しかしあの時、目尻に満ちて溢れてこぼれ落ちたのは海水ではなかったと思う。拭っても、拭っても止まらなかったのは、悲しかったからなのか悔しかったからなのか、それが涙の意味だったのか。今はもう全てが流れて嗄れ果てた。


 黒ぶちの額の中でいじらしく微笑む桃子を見つめて手を合わせ、

「モモ」と、小さく口ずさむ。


 嗄れていたはずの瞼が再び潤み、込み上げて滲む涙を指で拭ってごまかした。焼香を済ませて振り向いた時、横合いから突然声をかけられた。


「あのう、失礼ですが、殿岡さまではございませんでしょうか?」

 声をかけた喪服の女性が、桃子の母親だと殿岡は直観した。

「は、はい、殿岡です」


「やっぱりそうでしたか。私は桃子の母親でございます。殿岡さまには随分とお世話になったと桃子から聞いております。わざわざこんな遠くまでお越しいただいて、本当にありがとうございます。桃子も最後に、殿岡さまにお会いできて、きっと喜んでいると思います」


「い、いえ、お世話になったのは私の方です。私の力が足りなくて、助けてあげられなかったことが悔しくてなりません。本当に申し訳ありません」


「とんでもありません。実は……、あの子は白血病を患っておりまして、看護学校の在学中に病気が発見された時にはすでに末期の重傷で、余命は一年か二年だろうとお医者さまから宣告されました。事実を伏せて入院させましたが、いつの日かあの子は気付いておりました。それ以来、病床に寝たきりで死を迎えるよりも、看護学校を卒業し、かつてから夢に見ていた東京ファンタジーランドのキャストとして働きたいと言い出してきかないのです。主治医の先生に相談しましたら、とんでもない無茶だと反対されました。それでもあの子は、何度も先生に覚悟を伝えて説得しましたら、薬は処方するけれど、付き添いの人を付けて、辛くなったらすぐに戻って来いと言われました。こんな病人を勤務させてもらうなど許されないのですが、病気を隠してあの子は東京ファンタジーランドに応募したのです。近くにアパートを借りて、私も一緒に住みました。そして、せっかく看護学校で学んだのだから、資格試験に挑戦したいと言い出したのです。必死で勉強していれば、その間だけは死の恐怖を忘れられるからと、よほど辛かったのでしょう、あと一年長く生きたいよと言って、私の手を握って涙をこらえておりましたが、たくさんの人たちと出会えて、色んな思い出ができて、皆様と一緒に働けて幸せだったと笑顔を見せてくれました。一緒に働く皆様には、本当にご迷惑をお掛けしたと申し訳なく思っております。ですが、あの子が事故で亡くなる直前までも、わたし間違ってなかったよねと言いながら、皆様の所へ戻って行きました。どうかあの子のわがままをお許しください」


 呆然と立ち尽くす殿岡に、母親はそっと目を伏せて、祭壇に置かれていた小さな手帳を取り上げると、一葉のしおりが挟まれている頁を開いて差し出した。

 そこには小さな文字がぎっしりと埋もれていた。それは日記帳のようでもあり、想いを馳せて綴った走り書きのようにも思えた。

 老眼の殿岡に代わって明子が覗き込み、妙子にも聞こえるような小声で読み上げた。


「わたしね、自分の運命を知った時、目の前の風景の、何もかもが消えてしまった。目をつぶったら、もう目覚めないかもしれないって、ずっと身体が震えて一人ぼっちの夜が恐かった。そんな日が何日も続いたけど、ある朝ふっと思ったの。わたしの身体は自由に動けるし、看護学校に戻ろうって。病院から通学したけどやっぱりダメだった。未来を絶たれた人間に、勉強の意欲なんて湧くはずもないよね。やけになってメスで頬の傷痕を切り裂いた。その時にね、わたしだけの夢を見ようって決めたんだ。幼い頃から憧れていた、東京ファンタジーランドのキャストになろうって決めたんだ。思った通り、夢と魔法の国だった。みんなと一緒に働けて、本当に楽しかったよ。いろんな事あったけど、わたしのこと庇ってくれたり、優しくしてくれて嬉しかった。殿岡さんがわたしのこと、大好きだって言ってくれたこと嬉しかったよ。

 わたし、伊達くんのこと好きだった。夢の中で彼のお嫁さんになっていた。幸せになりたいって、心の底から思ったよ。でも、絶対に誰にも言えなかった。彼に悲しみや後悔を押し付けてはいけないし、私も傷付きたくなかった。だからわたし、殿岡さんの優しい姿を借りて、伊達くんへの想いを重ねて甘えてしまった。殿岡さんを、伊達くんだと思って甘えてしまった。ごめんなさい。

 死が近付くとね、脳や肉体が敏感に感じるの。一人でポジションに立っている時、突然めまいや恐怖に襲われて、周囲の何も見えなくなってしまう。だから死ぬ前に、看護師の資格を取ろうって本気で考えた。資格に集中している時間だけは、生きている実感に支えられていられるから。合格できてもできなくてもいい。試験が終わったらまたみんなと会いたい。そうだ、殿岡さんと約束したんだ。丘の上から広がる薄桃色のあんずの花びらの輝きを一緒に眺めようって。それからね、わたしマフラーを編んでいるんだよ。誰にもあげられないマフラーだけど」

 

殿岡の顔面は強張り青ざめていた。死の恐怖に怯える桃子への愛おしさの裏側に、秘められていた真意を知らされて青ざめた。

 あの日の夜の南出口で、「キスをして」と言って桃子は頬の傷痕を指差した。あれは自分に求めたセリフではなかったのだ。殿岡の姿を代替にして、伊達直樹への叶わない望みを託した慟哭の言葉だったのだ。


 いきなり背中を抱きつかれて訳も分からず首をひねると、右目の端に桃子のぶっきらぼうな素顔があった。笑ってはいなかった。桃子は両腕を殿岡の胴回りにからませて、横腹を小突いて弄んでいた。あのとき桃子は、殿岡を抱きしめていたのではない。伊達直樹を抱きしめていたのだ。

 そういえば、殿岡の後ろ姿が伊達に似ているといつか桃子が言っていた。自分の身体も心も全てが伊達の身代わりとして、幻の影武者を演じていたのだ。無神経に無粋な殿岡は、桃子の真意を察せずに、今の今まで彼女の甘い行為に浮ついていた。

 

 棺の上に折りたたまれて置かれた紺色の編み物には、毛糸のフリンジがついている。それは、誰にもあげられないマフラーじゃない。伊達直樹の為に、心の想いを紡いだマフラーなのだ。

 希望という権利を剥奪されて、夢を見る未来さえも許されず、はかない時間との格闘にあらがいながら、苦悶の義務だけを背負って朝を迎える。


 ただ凡庸に夢も希望も諦めて生きてきた殿岡の生き様とは決定的に基点が違う。絶対に打ち砕くことのできない生死の壁を眼前に突き付けられて、桃子は小さな力で戦っていた。その戦いの質の深さを、苦しみの重さを推し量るには、殿岡の脳細胞では理解の限界を超えている。いや、誰の頭脳をもってしても、同一になれるはずなどあり得ない。


 明子は閉じた手帳を母親に手渡して、深々と一礼をしてハンカチを出し、頬に溢れる涙を拭った。明子にならって妙子も一礼をして、殿岡も、祭壇の上に据えられた黒い額縁の中の桃子の瞳を目に焼き付けて、「さようなら」とつぶやいて大広間を後にした。


 殿岡は、あんずの丘の空を見上げて桃子を探した。ちぎれ雲が浮かんでいるだけだった。そのうちの一片が、次第に形を変えて桃子の笑顔に重なり輝いた。



 三か月後、東京ファンタジーランドは何事もなかったかのように再開した。パーク入口のアーチには、「夢と魔法と未知の世界へようこそ!」と、カラフルな書体で標語が描かれている。学生や恋人たちや家族連れが、俗な雑事を逃れるために、再び夢を求めて訪れる。

 

 しかし殿岡には、どうしても()に落ちないことがあった。あの時夢エリアのA出口には二人のキャストが立哨していた。なぜ桃子だけが逃げ遅れたのか。


 桃子は動揺したのか亀裂を見つめて立ちすくんだまま、いくら大声で叫んで呼び掛けても逃げようとしなかったと、もう一人のキャストが証言していたという。


 もしや桃子は、駐車場の地面が張り裂けた時、亀裂の中に自らの命を投げ打ったのではなかろうか。生きることを拒まれた憎しみと絶望に、自らのパンドラの箱を開いたのではないのか。

 未来を予知する希望だけが残された箱の底を海に求めて、桃子は希望を求めて沈んで行ったのではないのか。ハッとして考えて、殿岡は身体中の血が止まり凍りつく。

 パリのシャンゼリゼのポプラ並木の大通りを夢見て、オー・シャンゼリゼを口ずさみながら一人ぼっちで歩いていたのか。いや、そんな事は決してあるはずがない。今でも手首の温もりが、しっかりと殿岡の手の内に張り付いている。

 

 古びた公団住宅の五階のベランダから、遠くの公園に咲く満開の桜の木が一本見える。今はすでに葉桜になってしまったが、更埴のあんずの丘では、薄紅に色づいたあんずの実が陽を浴びて輝き、今にも収穫されているのだろうか。

                                          終


最後まで読んでいただき有難うございました。


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