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第六章 大晦日と新年会

 クリスマスのイベントは終わったけれど、大晦日までの五日間は学校の冬休みということもあり、園内のみならずパーキングエリアも多忙で気は抜けない。

 東棟の通路とロッカールームもざわざわと落ち着きがなく、いよいよ年末の雰囲気がみなぎっていた。


 魔法エリアのバス停で降りた殿岡は、冷たい風が首筋をかすめて肩をすくめた。休憩室に入ると愛子の甲高い声が聞こえる。

 奥のテーブルに目をやると、パンフレットを広げて江川と向かい合わせにハイテンションに振る舞っていた。


「ここだよ、ここ。ガーリックのピラフが人気なんだから。俊ちゃんは餃子が好きなんだから、トリプルガーリックの餃子風ピザもあるんだよ」

「なんだよ、トリプルガーリックって。ニンニク丸ごと入ってるんじゃないのかい」


「いいから行ってみようよ」

「どこだよ?」

 近隣のグルメ店が紹介されているパンフレットを江川が覗き込むと、愛子が地図を指差しながら額を寄せて頬が触れそうになる。

 そこに妙子が休憩室に入って来て、二人の姿を見咎めるように睨み付け、江川の隣にズンと腰を下ろした。


「妙子か。料金所の交代か?」

 江川が視線を向けると、ぶんむくれた表情の妙子が応じる。

「そうだよ。何だよ、そのパンフは?」


「お台場あたりのグルメミャップだよ」

「あたし行かないよ、お台場なんかに。破いて捨てな、そんなパンフなんか」


 愛子はプイと顔をそむけると、テーブルに広げたパンフレットの端をさっとつまんで立ち上がった。それを隣のテーブルに広げて学生たちの間に割り込んだ。


「伊達くんってさあ、実家が農家だったわよね」

「あ、はい」


「パンプキンとピーマンと新鮮なアスパラでさあ、お台場でバーベキューやろうか」

「えっ、はい、でも…………」


「何よ、その顔は。まあ、いっか。朝礼の前にさあ、私が身だしなみチェックしてあげるから手を見せてごらん。爪の長さオッケー、髪の毛もオッケー、靴下オッケー、あとは笑顔だよ」

 伊達を弄ぶように大笑いする。愛子のはしゃぐ姿を見て妙子が苦々しい表情でつぶやく。

「あいつ嫌いだよ」

 

 始業の五分前になると一人二人が動き始め、促されるようにみんながぞろぞろと休憩室を出て倉庫脇へと向かう。

 そのとき休憩室の入口のドアがバタンと開き、ゼイゼイと息を切らした桃子と花山が飛び込んできた。


「間に合ったー」

 タイムレコーダーに身分証のカードを通して、二人は倉庫にバッグを放り投げ、あたふたと朝礼に加わった。

 


 ーバスがスロープを上るー


 リーダーの点呼によって全員の出席が確認される。いつもの平日よりも学生を含めてメンバーの顔ぶれが多い。


 猪熊が屈伸をして足腰をほぐし、明子はサブリードの本郷に耳打ちされて頷いている。

 愛子は伊達の隣に寄り添って、リーダーの連絡事項を聞いているのかいないのか、しきりに流し目を送って気を引いている。その仕草が悩ましく、また疎ましく感じられるのは自分だけだろうかと、殿岡は冷めた感覚で周囲を見回していた。

 

 朝礼が終わるとみんなが其々のポジションへと交代に向かう。倉庫脇から事務室を通って顔を出すと、ゲート前の広いアスファルトが陽に反射して、眩い白さに視界を奪われて目を細めてしまう。

 

 愛子がエントランス・ポジションのキャストに手を振って交代を告げた。そして、エントランスをサポートするポジションでは伊達が交代の無線機を受け取っていた。

 二人を横目で見ながら殿岡は、平面のバスポジションへと男子学生と二人で歩いて向かった。団体バスの数は思ったほど多くはなかったので、そこからエントランス・ポジションの様子がはっきりと観察できた。

 

 料金所から入って来た車のフロントグラスに緑色のタグが付されると、エントランスの誘導を受けて伊達が平面へとターンさせる。


「あっ、あれは……」

 バスの動きに気を取られていた殿岡は、背後の学生が指差す驚きの声に振り返った。


 東京ファンタジーランドの駐車場に赤や黄色いフェラーリなど珍しくもないが、ウエッジシェイブのデザインに鮮やかな赤が塗装されたランボルギーニ・カウンタックの車体は異彩を放ち、さすがに男子学生の興奮を揺さぶるに充分だった。

 

 車高の低いシャコタン車両は、スロープから立体駐車場へ入る際に車の底をぶつけてしまうので、平面のエリアへと案内される。


 殿岡は学生に指示を与えて、慎重に誘導して大型車両の白線に収める。跳ね上げられたガルウィングのドアから中年の男性が出て来ておもむろに、白いレザージャケットの胸に手を当てて助手席の女が出て来るのを待つ。


 左ハンドルの助手席に座る女の姿態は殿岡たちの眼前だった。セミスーツの短いスカートから右足を出して地面を踏む。低い座席の奥のバッグを探して前かがみになり、尻に食い込むパンツが丸見えになって殿岡は目をそらした。


 ミニスカートにパンツが見えないからこそ価値がある。隠秘な価値を曝け出してしまえば情味が無くなる。いくら三流の殿岡でさえも、見苦しさに反吐を覚えて目をそむけたくなる。そう思いながらじっと見ていた。

 


 ゲストが去ってエントランスの方に目を向けると、三か所の料金窓口が開かれていた。料金所のゲートを抜けて次々に車両が入場して来る。


 ほとんどの車両は正面に誘導されてスロープを上る。愛子が両腕を大きく振り回しながら、機敏に動いて誘導している。

 フロントガラスに青いタグが付されていれば、身体障害車両の旨をマイクで告げる。そして、スロープ上のキャストが通路を変えて一階に誘導する。白いタグが付されていれば送迎車両だと告げて、左方へカーブさせて平面に案内する。


 伊達は彼女をサポートする役割だから、長距離バスがカーブして入って来たら立ちふさがり、さらに右方へターンさせて送迎バスエリアへと誘導する。たどたどしい動きだが真剣さが見える。


「大変そうですね」

 エントランス・ポジションを眺めていた学生が、彼らの目まぐるしい動きを眺めて殿岡につぶやいた。

「時間の波があるから、あと三十分もすればピタリと落ち着くよ」

 

 殿岡が予想した通り、二十分後には料金所前の車列は途切れ、三か所だった料金窓口の一つが閉ざされた。

 とたんにエントランス・ポジションは暇になり、緊張を解かれたというよりも、頃合いを見計らっていたように、愛子がサポートのポジションに立っている伊達に近付くのが見えた。


 愛子がおしゃべりを押し付けて、受けに回ってたじろいでいる伊達の様子がありありと覗える。愛子のおしゃべりは限りなく夢中になって、とぎれとぎれに入って来る車両を適当に片手であしらうように誘導していた。

 ゲストの車両は正面のスロープへ、駐車の場所を知り尽くしているバスの誘導は運転手に任せて勝手にターンさせていた。さすがに殿岡も、忌まわしい思いで凝視していた。

 

 事件が起きたのはその時だった。料金所から入って来たゲスト車両がスロープに向かって走る。同時にもう一方の料金所から入って来た大型バスが、先行して走るゲスト車両の後ろを追いかけて正面のスロープ目がけて進み始めた。

 慌てた愛子がバスに走り寄ろうとしたが間に合わず、大型バスはゆるゆるとスロープを上り始めた。

 

 思わず「あっ」と一声あげて絶句した殿岡は、急いで無線機のマイクに向けて叫んだ。


「バスがスロープを上っている」

 料金所から妙子が飛び出して、サポート・ポジションで呆然と立ちすくむ二人をにらんで怒鳴りつけた。

「何やってんだ、お前らはー!」

 

 殿岡の無線を聞いて事務室から飛び出したリーダーは、スロープを上るバスを唖然として眺めながら、無線器で全員に指示を飛ばした。


「バスがスロープを上っている。立駐入口とスロープ上のキャストは急いでバスを止めろ。バックのままでバスをスロープから下へ下ろせ。ゆっくり下ろせ。ゆっくりだぞ。料金所は一旦閉鎖して、エントランス・ポジションに車を入れないように」


 殿岡はエントランスまで走って行き、青ざめてなす術を知らず狼狽(うろた)える愛子をあえて無視して、口を開けて立ち尽くしている伊達に立ち位置を指示しながら下りてくるバスを待った。


「おーい、バスを下ろすぞー」

 スロープ上にいた猪熊の声が無線に入った。


「猪熊さん、よろしく頼みますよ」

 ベテランの猪熊がスロープ上に立っていたことで、リーダーの声も安堵していた。


「運転手さんには取り敢えず説明しておいたけど、下での誘導はしっかり頼むよ」

 猪熊の合図でゆっくりとエントランスまで下ろしたバスの運転手に、改めて妙子が丁寧に順路を説明していた。そして、向きを変えて動き始めたバスを伊達が平面にターンさせ、殿岡が駐車位置へと誘導して事なきを得た。

 

 殿岡が運転手に自分たちの不手際を詫びると、そのバス会社は初めての入場で、運転手も助手も実習のために来たのだと説明してくれた。客を乗せていないのが幸いでしたと運転手は言って笑った。


 エントランスからは、妙子の甲高い怒鳴り声が聞こえてきた。

「あんた、さっきから見てたけど、持ち場を離れて新人の学生と、いつまでもいちゃいちゃ話してんじゃないよ。あんたのせいで、わたしまで責任負わされちまうじゃないか。現場で私語は禁止だって分かってんだろ、うすらバカ。バスの運転手にも詫び入れて来なよ。自分のミスで危ない目にあわせてごめんなさいって言って来いよ。バスをスロープに上げる奴なんて初めてだよ。やる気が無いならとっとと帰れよ。みんなに迷惑をかけるんだから。黙ってないで、何とか言いなよ」


 リーダーは妙子の怒りをさえぎって、愛子と伊達に注意を促した後に、再び料金所を開けるように指示を出した。

 その日はこの事件が噂になって、さすがの愛子も(しお)れていたが、謙虚に反省しているのかどうかは不明だった。



 ークロス・ポジションにてー


 休憩を挟んで殿岡の次のポジションはクロスだった。平面エリアに駐車している車両はすべてクロスを通過して出口へ向かい、すぐ目の前を走り抜ける外周道路の車両と合流することになる。


 年末もせまって毎日のように第二立体駐車場までも使用されているので、そこから外周道路をまたいで入園口へと通じる専用の歩道をゲストが行き交う。

 バス停やホテルへの近道ではないかと間違ってうろつくゲストに案内をする。


 そこはスロープの斜め下に位置しており、休憩室から立体駐車所や北出口、南出口へと交代に向かうキャストは、必ずクロスを横切ることになる。

 

 ゲストの往来も落ち着いた頃、立駐五階のパーカーに向かう自転車が次々に通過して行った。そしてしばらくすると、交代を終えたキャストたちの自転車がバラバラと戻って来る。


 取り残されたように最後の一台が、右手を振りながら走って来るのでよく見ると、殿岡の前でキュキュッと停まったのは桃子だった。


「モモじゃないか」

「そうですよ、あっ……」

 何か言おうとした桃子の顔がいきなり青ざめて、ふらりと重心を失い自転車にもたれて咳き込んだ。


「モモ、大丈夫か?」

 殿岡は自転車のハンドルをしっかりと掴んで、片足立ちによろめく桃子の細身を胸で支えた。一瞬うつろになった桃子の瞳から精気が失せた。


 喉を詰まらせるように咳き込んで苦し気だったが、殿岡にもたれてじっとしているうちに血の気が戻って正気を取り戻した。

「ごめんなさい。ちょっと目眩(めまい)がしちゃって」


「このまま、しばらく休んでていいよ」

「うん。もう平気だから大丈夫。今日、遅刻しそうだったから、絹ちゃんとバス停から必死で走って来たから、そのせいかなあ」


 姿勢を立て直そうとする桃子の身体は華奢(きゃしゃ)に感じて頼りなげだった。それでもすぐに笑顔を取り戻して、甘えるように話し始めた。


「今日のお昼ね、ファンタジーホテルのビュッフェで女子会だったんだよ。わたし、ワイン飲んだら酔っぱらっちゃった。赤ワインと白ワインも、絹ちゃんが飲もうって言うから。アキさんや妙子さんも一緒だったよ。バイキングだったからね、お腹いっぱいになっちゃった。でもそのあと出勤だったでしょう。絹ちゃんとのんびり着替えてたら遅刻しそうになっちゃった」

「そうかあ」


「アキさんは、今日はお休みだからお買い物に行くんだって。それからね、昨日、長野のおばあちゃんから電話があってね、もう雪が降ってきたよって、寒いんだから」

「ふうん、更埴こうしょくも雪かあ」


「そうだよ。殿岡さんも風邪ひかないように気を付けなくちゃ」

「そんなことより、こんな所でいつまでもおしゃべりしてちゃあ、モモのランチの時間が短くなっちゃうよ」


「うん。あのね、あのさあ、大晦日の勤務が終わったら、一緒にカウントダウンの花火を見て帰りましょう。絹ちゃんも一緒だよ」

「うん、いいよ。モモと一緒だったら。でも……」

 殿岡は即答しながらも一瞬の間を置いた。


「でも、何ですか?」

「あの……」


「なあに、気になるなあ」

 以前に花山絹江と同じバスに乗り合わせた時、桃子と二人でカウントダウンの花火を見るんだと言っていた。花火なんかつまらないと花山にはいなして見せたけど、あれ以来殿岡はずっと考えていた。桃子と一緒なら花火も楽しいと。桃子が自分を誘ってくれないだろうかと、淡い期待を抱きながら待ち望んでいた。


 それだけではない。小さな欲をきっかけに、男のたくらみは果てしなく膨れ上がる。花火を見た後に、桃子と新年の乾杯をして朝まで過ごすことができるなら、生涯一度の煌めく夢の感動に、全ての過去を捨て去ることができるかもしれないと思いを馳せた。

 

 考えるだけで自分からは仕掛けられない筋書きの、重い引き金を桃子が期待通りに引いてくれた。もう逡巡の必要がなくなったから言い出せる。決意をまさぐる一瞬の間だった。


「モモ、その後って、花山と約束とかあるの?」

「何も」


「だったら、花火の後、駅前のカフェバーで乾杯とかしないか。花山と一緒でもいいから」

「わー、いいですよ。乾杯しましょう」


 殿岡は気抜けして嬉しさが込み上げた。呪縛を解かれた煩悩が感動の渦を巻いていた。

「じゃあ、また後でね」


 姿勢を立て直した桃子がペダルに足を掛ける。自転車の向きを正して殿岡がハンドルから手を放すと、サドルの上に桃子のお尻がちょこんと乗っかっていた。そのお尻を殿岡は後ろからポンと叩いた。


「痛い」と言って、振り向いて桃子は笑った。

 殿岡にとってこれまでは、若い女の子のお尻に手を当てるなど狂気の沙汰だった。たとえ冗談であれそのような真似事をしただけで、セクハラだの痴漢だのと訴えられて、馘首されて刑務所のブタ箱にぶち込まれていただろうと殿岡はしみじみ思う。

 


 歓送迎会の席で猪熊はビールを呷りながら、酔いの気勢で若者たちを相手に檄を飛ばしていた。スキンシップこそが親愛の情を示すコミュニケーションの基本じゃないかと。

 明子でも妙子でも誰にでも、キスまではできないが、手だって頬っぺただって触り放題だと。そうやってきちんと示してやらなくちゃあ、こっちの気持ちが相手に伝わらないんだと。それが俺たち先輩高齢者の特権ってもんだから、文句があるならお前らもやってみろと。


 だけど殿岡は気付いていた。猪熊はスキンシップの相手をきっちり見定めて選別していることを。だから彼女たちからセクハラと揶揄されて咎められることはない。しかしそれが、男女の親密さを穿うがつバロメーターだとうそぶける強さこそが、猪熊の胆力だと畏怖できる。


 殿岡も声に出して叫びたかった。俺だって痴漢は犯罪だと承知している。だけど団塊世代の俺たちに、セクハラなんて言葉など存在しないし無用なのだと。卑猥そうな目付きで俺を見つめるなと。

 見知らぬ女の尻を触れば痴漢かもしれないが、桃子の尻をポンと叩いてたしなめられたとしても、それは破廉恥な痴情ではなくプラトニックな愛情なのだと、なおざりな世間に向かって叫びたかった。

 

 突然、目の前の藪から物凄い勢いで子ネズミが通路に飛び出した。向かいの藪に逃げるように飛び込んだ。同じ藪からザバッと音を立てて猫が飛び出して、子ネズミを追いかけて藪に飛び込んだ。


 瞬時の出来事に殿岡は呆然と立ちすくみ、急いで藪に駆け寄り背をかがめて覗き込んでいると、お尻を棒でコツンと小突かれた。


「何をしているんですか、そんな恰好で?」

 言われて振り返ると、桃子が誘導ライトの先で殿岡のお尻をコンコン突いている。

「モモ、びっくりするじゃないか」


「だって、交代ですよ」

「今ね、子ネズミを追っかけて、猫がここから飛び込んで行ったんだよ」


「いやだー。子ネズミ食べられちゃったの?」

「分からないよ」


「猫が出てきたら、わたし、やっつけちゃう」

 桃子に無線機を渡しながらそれとなく目を合わせ、うっすら化粧の頬と唇に健気な色香を感じて可愛いと思った。やるせない気持ちが無性に抑えきれなくて、桃子の手を包むように無線機を手渡して温もりを感じる。桃子はニッと笑って白い歯を見せた。


 交代の自転車に乗ってスロープ下をくぐり平面に出ると、沈む夕日にバスも車も一様に赤く染まって反射していた。



 ースロープ・ポジションで思うー


 ランチが終わり事務室のドアを開けると、ゲート前はすでに暗闇だった。料金所の窓口を照らす薄青色のスポットライトと、雲間の月明りが魔法の国への舞台装置だった。


 殿岡はエントランス・ポジションのキャストに横目で挨拶をして、ゆっくり歩いてスロープを上る。スロープ上のキャストと引継ぎをして無線機を受け取る。

 

 料金所から入場したゲスト車両はスロープを上り、まず一階駐車場へ向かう通路へと誘導されるが、一階が満車になれば二階の通路へ、そして三階、四階へと順に通路が変更されて、最後に五階の屋上駐車場へと案内される。


 その都度の通路を分岐させる作業をスロープ上のキャストが行う。車は絶え間なく入場して来るので、朝から夕刻までは多忙なポジションだが、夜になると暇になる。


 スロープ上はテニスコートの二面分くらいの広さはあるだろうか、エントランスとの高低差は七メートル程もあり、上から見下ろせば水門に黒々と堰き止められたダムの水面を眺めているようで、車の動きが小さな笹舟の浮遊に見える。

 

 右手からは、園内で催されているイベントの賑わいが音楽に乗せられて流れてくる。左方に目を向けると、東京湾の彼方に顎先を伸ばした房総半島の街灯りに、赤青の航行灯を点滅させながら旅客機が羽田空港の滑走路へと消えていく。


 風の強い日には前から横から容赦のない寒風を吹き付けられて、厚手の防寒着やマフラーで覆ってさえも役に立たずに震え上がるのだが、幸い今夜は風も無く、海も凪いで穏やかだった。

 

 車の動きが絶えると夜の静寂さが時間を遮りまどろみを誘う。雲があるのか闇の空に星は見えない。おぼろにひしゃげて弱々しく淡い光を放つお月様を見つめて記憶を辿り、殿岡が回想するのは桃子との接点であり触れ合いだった。


 桃子が紛失した身分証をクリーニングセンターで見つけ出した時、規則違反の厳しい叱責を受けてうつむきながら、いたずらっぽく見つめる桃子の瞳に心が燃えた。あの日から、桃子は殿岡にべったりとくっついて、人目もはばからずに甘える姿勢をエスカレートさせていった。

 

 あの翌日の朝礼に臨んだ時に、桃子は右隣の花山とおしゃべりをしながら、殿岡の右腕に自分の左腕を絡ませていた。

 周囲の視線に息をひそめてうかがう殿岡にとって、何気ない桃子の仕草が自慢でもあり恥ずかしくもある。そんな殿岡の杞憂に桃子は構う風もなかった。

 

 風の強い日にゲストが持っていた風船が飛ばされて、殿岡は慌てて追いかけて蹴つまずいて植え込みの藪に頭から突っ込んだ。

 そうして手にした風船の糸を幼児に渡したら、母親は風船よりも老いぼれの殿岡の身体を気遣ってくれた。

 休憩室に戻った殿岡の顔の擦り傷を見た桃子は、消毒だからと言って両手に化粧水を塗りつけて、殿岡の頬をやさしく撫でてくれた。桃子の瞳と、柔らかい手の平の温もりが、何よりも傷への消毒だった。

 

 休憩室ではいつも背を丸めて隅っこの席に座っている。そんな殿岡の姿を目ざとく見つけて桃子は必ず隣に座る。


「メルアド」

 ぶっきらぼうに桃子がつぶやいた。

「はっ?」


「だから、メルアド」

 殿岡がおずおずと二つ折りのガラ携を取り出すと、桃子は自分のスマホと殿岡の携帯を操作して二人のアドレスを交換してしまった。


 五秒もしないうちにピピピンと受信音がするので携帯を開いた。一通のメールが届いていたのでボタンを押すと、朝倉桃子からと表示されていた。


 驚いて隣に座っている桃子に顔を向けると、何も言わずに見つめ返しているのでメールを開いた。

「初メールだよ! よろしくね」


 メールにはメールで応えねばならない。世情に疎い老いぼれだって、そのくらいのマナーは分かる。かといって、若い娘にどんな言葉で返信すれば喜ばれるのか、気の利いたセリフなどとっさに思い付けるはずもない。

 

 女房から稀に受信することがあったとしても、「分かった」「無理だ」の一語で済んでいた。それがメールの返信だった。桃子からの初メールに、そんな落魄の一語で軽蔑されたくはない。


 短い返信の一文を求めて、躍起に血を巡らせて記憶の引き出しを開け放つ。どんなに頭を捻くり回しても、浮かんでくる言葉は見つからなかった。そんな殿岡に追い打ちをかけて着信音が鳴り響く。ピピピン、ピピピンと鳴って携帯を開く。


「今日のランチタイムは一緒だよ」

 殿岡はまた返信の画面に切り替えて、何度も書いては消してまた書いて、ようやく発信のボタンを押した。

「モモを食べたい。じゃなくて、モモと食べたい」


 額にぬめる脂汗を指で拭って溜息をついた。

「時間だから、殿岡さん行こう」

 

 そうして次の勤務を終えてまた休憩室に戻って来ると、すでに桃子はテーブルの隅で弁当を広げ、彼女の隣に座った男子学生はカップ麺の茹るのを待っていた。


 桃子は無理やり学生を押し退けて、隣に座るようにと箸の先で殿岡をうながした。高齢の殿岡を気遣ったのか遠慮したのか、学生が別のテーブルへと移動してくれたので、殿岡は桃子の隣に座ってコンビニで買ったおにぎりのラップをはがして口に運んだ。


「モモが弁当作ったのかい?」

「ううん、お母さんが作ってくれたの」


「おいしそうだね」

「梅干、食べたい?」


「このおにぎり、梅干かもしれない」

「食べたくないの?」


「た、食べたい……」

 言われるままに開いた口の中に、真っ赤な梅干を箸でつまんで放り込まれる。


「しょっぱ……」

 クルミの殻と同じにしわくちゃになった渋面を、桃子に向けて睨み付ける。

「わたし、さっきB出口に立っていたらね、蚊に刺されちゃった」


「いる訳ないだろ、真冬に蚊なんか」

「だって、いたもん」


 箸を置いて前髪を右手で持ち上げ、おでこを殿岡の目の前に突き出した。そこには小さな赤い痣があったが、蚊に刺されて腫れ上がった痕ではなかった。

 殿岡が人差し指を伸ばしてそっと痣に触れようとすると、鼻先に触れる化粧の匂いに女を感じて翻弄される。繊細に白い薄絹の肌と白桃の唇、その唇に自分の唇を合わせたいと思う切ない欲望の昂りを抑える。


「わたし、パリに行ってみたいな」

「どこのパリ?」


「フランスのパリに決まってるでしょ」

「なんでパリ?」


「映画で観たんだ。凱旋門から続くプラタナスの並木道。世界で一番美しい大通りなんだよ。オー・シャンゼリゼーって口ずさんで素敵なカフェやアーケードを眺めながら歩いてみたい」

「ふーん、シャンゼリゼか」


「歩道にせり出したテラスレストランのテーブル席でね、オマール海老のムニエルやガーリックバターのエスカルゴを、並木道を歩く人たちを眺めながらゆっくりと噛みしめて頬張るの」

「いつかきっと行けるよ」


「連れてってよ」

「えっ、無理でしょ俺なんか。舞浜駅前のコンビニのテーブル席ならいつでも連れてってあげるよ」


「夢がないなあ。わたし、整形しようかな」

「どこを?」


「鼻。クレオパトラはわたしより一センチも高かったんだよ」

「モモはクレオパトラじゃなくていい」


「わたし、金髪に染めようかな、きゃりーぱみゅぱみゅみたいに」

「きゃりーぱみゅぱみゅじゃなくていいから染めなくていい」


「ピアスしようかな、耳に穴を開けて」

「開けなくていい。牛の鼻じゃないんだから」


「なんで、しなくていいばかり言うの?」

「今のままのモモが可愛いから、整形なんかしなくても、化粧だってしなくたって大好きだから」


 言ってしまって己の言葉を疑った。可愛いとか大好きだとか、自分の辞書から永遠に抹殺されていたはずの言葉だった。それを何のためらいもなく口にしている自分が信じられなかった。怒張した血管が額も頬も赤らにさせて、握っていたおにぎりをポロリと落として正気に戻った。

 

 殿岡は己の卑下も羞恥も桃子の気丈な心に委ねていたのだ。桃子は不思議な女の子だけど強い信念を持っている。桃子が自分に甘えていると考えたのはとんでもない思い違いで、本当に甘えていたのは殿岡の脆弱な精魂だったのだ。


 桃子はしかめっ面をして、殿岡の耳たぶを引っ張ってささやいた。

「もうすぐ大晦日だよ」

「う、うん、一緒に乾杯しような」

 まぶしい程の笑顔で桃子は頷いた。


 スロープを這って冷たい風が舞い上がる。思わずマフラーを締めつけて首筋に突き刺さる冷気を遮断する。ふと幼いころの記憶が蘇る。脳裏に焼き付けられた烙印のように、いくつになっても忘却できない事がある。

 

 北海道の東端に鯨の鼻毛のように突き出た野付半島は殺伐として、夏でも冷たい風が吹き抜ける日には飛ぶ鳥さえも行方をさえぎられる。

 半島の付け根の町はずれに古びた廃寺と墓地があった。女はいつもそこにいた。つぎはぎだらけの装いに、大人なのか少女なのかの見分けがつかなかった。


 女は墓地でおにぎりを食べていた。食べ終わると墓地の奥の林へと入って行った。後をつけていると思われるのが嫌だったけど、女は男と戯れていた。いつの間にか二人の姿は消えていた。


 墓地には苔むした墓石や無縁仏が雑然と並んでいた。草むらの小さな石くれのような墓石の前で、女は背中を丸めて屈み込んでいた。近付くと女は振り向いて、合わせていた手をほどいていきなり小石を投げつけてきた。

 女の瞼に溜まっていた涙がこぼれ落ちて墓石に舞った。女は泣いていた。それを見られて睨み付けられ、いきなり小石をぶつけられたのだ。石が眉間に当たり鼻血が流れ出して逃げて帰った。


 廃寺に行くとまた女がいて、殿岡を見つけて手招きをする。女は赤い服とつぎはぎのスカートを穿いて、近付くとすえた臭いが鼻を突いた。それでも近付くと優しく微笑んで殿岡の頬にそっと手を当てた、その手の温もりを忘れない。


 いつか寺からも墓地からも、女は消えてしまった。どんな顔立ちだったか思い出せないけれども、いつもその女と一緒に生きてきたように殿岡は思う。なぜか桃子の存在が、その女の面影と被ってしまう。

 


 また一つ、羽田空港へと機影が滑る。防波堤に撥ねる飛沫に乗って潮の匂いが鼻孔をくすぐる。雲が消えて上弦の月のそばにひっそりと星が光を放っている。

 神も仏もくそだと排斥して生きてきた。神に背を向け、仏に見捨てられた殿岡が、初めて神を信じてつぶやいた。

 桃子との出会いは偶然ではない、神様から自分に与えられた最後の贈り物に違いないと。これまで蓄積されてきた神への呪いと憎しみが、眩いほどの桃子の笑顔を見返りにして、すべてを帳消しにして許せると思った。


 スロープ下からゆっくりと歩いて上る人影が見えた。ようやく交代の時間がきたようだ。



 ー大晦日の緊張ー


 そして迎えた大晦日、殿岡は新人初日の緊張感を思い出して、出勤前から身震いがしていた。


 大晦日は東京ファンタジーランドで働く全社員、全キャストが出勤となる。どんなベテランでも一年で最も緊張する一日となる。

 だから大晦日の勤務を経験するまでは、一人前のキャストとはいえないのだと、先輩に言われて脅されたことを思い出す。

 

 舞浜駅で電車を降りるとホームはいつもと変わりはないが、改札を出てモノレールに向かう通路はぎっしりと混雑していた。

 従業員専用バス乗り場も長い列ができて、それぞれの職場での話題が耳に入って緊張の度合いが伝わってくる。


 制服に着替えを済ませて、東棟から夢エリアの事務所まで歩く間にたくさんのゲストとすれ違う。いつもの家族連れや女高生や若者たちと同じはずなのに、今日だけはなぜか違う空間の、異なる人種に思えてしまう。

 

 休憩室の扉を開けるとムッとして、淀んだ熱気に気圧される。テーブル席は埋め尽くされて、居所もなくあぶれたキャストたちは倉庫脇で立ち話をしている。


 桃子は明子と花山に挟まれて、身動きもできないほどに身を細めてソファーに座っていた。殿岡を見つけた桃子は手招きもできず、笑顔で挨拶を交わしてくれるだけだった。

 殿岡は気を利かせて倉庫脇に行き、朝礼が始まるのを待った。


 朝礼ではリーダーも興奮気味で、身だしなみのチェックもそこそこに、午前中のアクシデントや引き継ぎ事項を詳細に伝えて指示を出す。

 号令一下、それぞれの持ち場へと散会して行くのだが、大晦日にしか設定されない臨時のポジションがいくつかあって、そこに宛がわれたキャストたちがサブリードの本郷から、場所と役割の説明を詳しく受けている。

 


 ー大晦日のパーカーー


 殿岡はキャラバンに乗り込んでEエリアのパーカーに向かう。いつもの二倍のキャストが乗っている。その中に猪熊と林田がいて心強い思いに緊張が安らぐ。


 キャラバンはAからEへと続く駐車場の大外の通路を走り抜ける。Bエリアにはすでに団体バスが百台以上も駐車していた。さらに送迎バスもいつもの三倍のスペースが確保されている。

 

 Eエリアに到着すると、猪熊が飛び降りて入り口のキャストと交代した。三本の通路に同時に入れ込みをしているのを見て林田が続いて飛び降りた。素早く交代をして猪熊と息を合わせて交互に車を流す。


 残りのキャストは、三本の通路で入れ込みをしているキャストたちとそれぞれ交代をする。その合間にも次々にゲスト車両が走り込んで来る。そして入れ込みは、次の通路、また次の通路へと移動して行く。

 

 いつもは穏やかな林田が、若いキャストの動きにイラついて怒鳴りまくっている。無線機のイヤホンからは大勢の声が乱れ飛び、とにかくみんなが走って息継ぐ余裕もない。

 そんな時、殿岡が誘導していたワンボックスがピタリと止まり、運転席の窓が開いて声をかけられた。


「あのう、放送局の取材の車なんですけどねえ。撮影機材を運ばなきゃいけないから、入園口の近くに停めさせてもらえるって聞いて来たんだけど……」

 ふざけんなバカ、この忙しいタイミングにとんでもない車が紛れ込んで来やがって、と憤りながらも車両を通路の前方に移動させ、問答無用の口調で運転手の男に告げた。


「ここから逆走での誘導は無理ですから、いったん退出してもらって再入場をお願いします。その際に、取材の旨を料金所のキャストに必ず伝えて下さい。そうしないとまたここへ案内されてしまいますから」


「伝えたんだけどなあ」

 と、ぶつぶつ言いながらも、仏頂面で断言される高齢の殿岡に気圧されたのか、黙って頷いて出口へ向かって走り去った。


「Eエリアはもうすぐ満杯だよ」

 猪熊が無線機に告げるとリーダーからの指示が出る。


「Cエリアからのリパークを準備する。二人ほどCへ移動させて、空き台数を確認させてくれ。本郷さんもよろしく頼む」

「林田さん、ここは俺一人で何とかするから、あんたは殿岡さんを連れて移動してくれ」


 猪熊の指示に林田が了解して頷く。殿岡が手招きされて合図を送り、走ってCエリアへと移動する。エリアの最前列から通路ごとに、駆け足で空き台数を数えて記録する。


 キャラバンを飛ばしてサブリードの本郷が駆けつけて、Cエリアへの駐車入口を開放する。誘導順路を確保するために、殿岡は両手に持てるだけのコーンを抱えて駆けずり回る。厚着の防寒着の下から熱気のこもる汗がじわじわと滲み出て背筋を流れる。

 

 暇なときには時間が止まって持て余すのだが、集中して激しく動き回れば時計の針が十倍進む。あっという間に交代の時間を知らされて、自転車を下りたキャストたちがばらばらと駆けて来る。


 交代した自転車を漕ぎながらエントランスの方を眺めると、十か所ある全ての料金窓口が開かれて、車両同士がもつれるように絡み合い、競い合うように誘導通路へと流されている。

 この勢いがいつまで続くのか、はたして全ての車両を収容できるのだろうかと恐ろしく不安になる。

 


 大晦日の交代時間は必ず変則になると聞いていたが、休憩の時間もでたらめだった。わずか五分でトイレを済ませ、次のポジションへと急き立てられる。


 入園口から駐車場へと繋がる通路はどこもゲストでいっぱいだった。空港を往復する送迎バスや、長距離の高速バスからもぞろぞろとお客が吐き出され、人工島を一巡するモノレールの窓からも、手を振っている子供たちの姿が見える。


 行く年と来る年の時間の狭間を、夢と魔法の世界に浸って楽しんでいく、どの顔を見ても浮かれて華やかに嬉し気だった。

 その反動をキャストがになう。臨時のポジションに加えてどのポジションでも人手が足りないから、二時間待っても三時間経過しても交代が来ない。忘れられてしまったのだろうかと不安になった頃に突然交代が来る。


 ランチだと言われておにぎりを半分食べたら次のポジションだと告げられる。無理やり頬張り呑み込んで、流し込んだお茶にむせて咳き込みながら飛び出して行く。誰がどこのポジションにいて何をしているのかなんて、さっぱり見当もつかない。

 

 そうして夜の九時を過ぎた頃に、ようやく駐車場は静寂になる。それでも何が起こるか予測がつかないのが大晦日だから、最後まで油断ができないので気を抜けない。


 静まり返ったパーキングエリアに、園内からのイベントの賑わいがとたんに大きく響いて聞こえる。園内の大晦日のすさまじさを感じて、今の穏やかさは仮の静寂かなと不安をあおる。

 だから最後のポジションを無事にこなし、深夜勤務のキャストたちへと交代を終えた時には、いきなり緊張が緩んで溜め込んでいた熱い息をホッと吐きだす。

 


 ー大晦日の夜ー


 殿岡が交代を終えて休憩室に戻ると、桃子が両手を広げて飛びついてきた。上気して頬は紅潮し、息切れぎみの口を押えて訴えるように何かを言いたげだった。


「大丈夫だった?」

 と、声をかけると、桃子のおしゃべりはマシンガンの掃射だった。


「大丈夫じゃないよ。わたし、中国語で話しかけられちゃって、漢字で書けば少しは理解できるかなと思ってメモしてもらったんだ。ちょっと悩んだけど、団体で来たバスを探してるみたいだったから、わたし、バスエリアを走り回って書かれた文字のバスを探してたのに、いつの間にかその中国人はいなくなっちゃったんだよ。バスはどんどん入って来るし、大変だったんだから。それからね、A出口で退出車両の誘導してた時にね、ワンボックスの車が後ろのドアを開けっ放しで出て行こうとするからさ、わたし、身体を張って止めたんだよ。轢かれそうになっちゃったけど、ゲストに何度も頭を下げてお礼を言われた」


 上気していたのは桃子だけではない。休憩室に戻って来るキャストたちのどの顔も、一年最後の大仕事をやり切ったんだという満足感で笑顔も声も弾けていた。

 終礼は慌ただしく簡潔だった。リーダーの勤務は元旦の朝まで続くから、エリアを映し出すモニターから目を離せない。

 

 タイムカードを切ってみんながぞろぞろと通路へ出て行く。彼らの後ろ姿を見つめて殿岡はつぶやいた。俺たちの大晦日はこれから始まるのだと、つぶやいて殿岡の胸は震えて燃えた。


 カウントダウンの花火を楽しみにしていた花山は、従妹たちが泊まりに来ることになったので先に帰らなければならないと、数日前に桃子に断りを入れていた。


 桃子から聞いて殿岡の心は弾けて揺らいだ。カウントダウンの花火を見終えてカフェバーに行き、三人で新年の乾杯をしようというのが当初の筋書きだった。

 花山がいないのならば予定を変えて、花火なんか見ないで二人でカフェバーに行こうと透かさず殿岡が言い出して、ためらいもなく桃子が快諾した。この筋書きこそが、大胆にも殿岡の描きつくした極めつけの奇跡的な展開だった。


 花山が消えたことによって桃子を独り占めにできる。一年最後の大晦日の、東京ファンタジーランドの夜だからこそ、一生に一度だけの夢に輝ける。

 洒脱な話題も情報も持たない。二人だけの会話を上手くこなせる自信はないし経験もない。何にもないから委縮して、期待に不安が混濁して卑屈にもなる。それでも殿岡の頭の中は、明日の勤務よりもこれから始まる桃子と二人だけの乾杯こそが、生涯初めての輝きを賭けたイベントだった。

 

 学生たちが列をなして東棟までの通路を歩く。明子や花山たちに挟まれて、桃子のおしゃべりが聞こえてくる。通路脇の駐車場にはぎっしりとゲスト車両で埋まっているが、一人としてゲストの姿は見当たらない。


 東棟に入ると通路も売店も食堂も、私服に着替えたキャストたちでいっぱいだった。ロッカールームの入口で桃子が目配せをして、バス停での待ち合わせを確認した。

 


 バス停に行くとすでに桃子が待っていた。意外にも人影は疎らで、バスも閑散として殿岡と桃子は後部座席に腰掛けた。そういえば入園口前の広場にたくさんの人だかりがあった。ほとんどはカウントダウンの花火を待つ私服のキャストたちだったのかと今気が付いた。

 

 舞浜駅前で降車すると、ここでも花火の打ち上げを待つ人たちでいっぱいで、その人波を縫ってカフェバーに入ると、やはりというか意外にも空席が目立っていたので、窓際の小さな丸テーブルを選んで桃子と向かい合って腰を下ろした。


 差し出されたメニューを開き、桃子は春雨のエスニックサラダとイカのリング揚げを注文した。そしてビールのグラスジョッキをカチンと合わせて乾杯をした。


「ふうーー」

 深呼吸の勢いで身体中の疲れを吹き飛ばすように、桃子は気持ち良さそうにビールの呼気を吐き出した。

 そのとき殿岡は、桃子の瞳の潤いを見つめて思い浮かべた。高校時代に親父に連れられて札幌の美術館を訪れた時だった。芸術家の描いた絵には、人の心を捉えて離さない、感動と慕情を募らせる作品が稀にあることを知った。風景画でも人物画でも、ふと出会った瞬間に心が強く揺さぶられ、その絵の前に釘付けになる。


 女性の顔は神の造作に違いないけど、美しさの観点は人によってみんな違う。それでも美しいと思える女性の顔立ちは、芸術家によって描かれた絵画のように愛されて、いつまで眺めていようが決して見飽きてしまうことはなく、印象までもが色褪せることもない。

 理論や言葉では言い表せないが、いま眼前の桃子の表情が、自分の心を釘付けにしている。


「モモ、食べなよ」

「うん。わたしね、正月の繁忙期が明けたら長野の更埴に行く」


「そう言ってたね」

「十日まで働くけど、それから一か月間ほど休暇をもらったの」


「えっ、一か月も、何で?」

「この傷のこと、訊きたい?」

 と言って、桃子が自分の頬を指差し、殿岡がコクンと頷く。


「父は長野の病院でレントゲンの技師をしていたの。だから兄を医者にさせたくて強要してたんだけど、お兄ちゃんは父に反抗して中古のバイクを買って一人で暴走してた。わたしも兄と一緒にバイクに乗りたくて免許を取って、二百五十CCのバイクで兄と一緒に山道を走った。お兄ちゃんはね、医者にはなりたくなかったけど東京の大学には行きたかったんだ。でも父に反抗して勉強を怠けるから成績も上がらなくて、きっと葛藤して悩んでいたんだわ。激情して山道を激しくローリングする兄を必死で追いかけているうちに、わたし、曲がり切れずに転倒しちゃって、割れたミラーの破片が飛んで頬に突き刺さった」

 

 殿岡はあらためて桃子の頬を見つめたが、ミラーの破片にしては、傷痕は鋭く長過ぎた。

「それでバイクを辞めたのかい?」


「ううん、わたしが辞めたらお兄ちゃんは一人ぼっちになってしまう。長野の高速道路を百五十キロで走行中に、路上に転がる砂利石に気付いた時はすでに遅かった。避けそこなった兄のバイクは走行車線を横滑りにブレーキ痕を残して倒れた。兄の身体は頭から路上に打ち付けられて、わたしはずっと後ろからそれを見ていた。追い付いて兄を抱き起こそうとしたけれど、生きているのか死んでしまったのか、何も手当てができない自分が情けなかった」

「助かったの?」


「昏睡状態のまま病院で眠っていたわ。でも死んじゃった。わたし、お兄ちゃんを救いたくて医者になろうと思ったんだけど、それは無理だから看護師になると決めたの。路上に流れ出た血の色を見て、看護師だったら応急の処置ができてたかもしれない」

「……」


「わたし高校を卒業して長野の看護学校へ行った。でもね、看護師の資格を取らずに卒業してしまったの」

「なんで資格を取らなかったの?」


「それは秘密だよ」

「なんで秘密なの?」


「わたし、看護師の実習中にね、メスで自分の頬の傷痕を切り裂いたの」


 モモの手にした鋭利なメスが、殿岡の心臓を切り裂いた。二重に傷つけられた桃子の頬の傷痕には、底の知れない秘密がある。ぼんくらな脳細胞でもそのくらいの衝撃は受け止められるが、桃子の秘めた謎の正体まではつかめない。

「どうして切ったの?」


「だから、それは秘密だよ。でもね、やっぱり資格を取ることにしたの。この一か月で集中して勉強し直して、取れるかどうか分からないけど頑張ってみる。そう決めたんだ」

「モモはお母さんと一緒に住んでいるんだよね」


「そうだよ。葛西のアパートに住んでるよ」

「お父さんは長野の病院でレントゲンの技師をしているんだろ。どうしてお母さんだけモモと一緒に葛西なんかに……」

 

 そのとき窓のガラスがきらりと光り、ドドーンという音が人工島上に轟き渡った。カウントダウンが終わって新年を知らせる花火が連発で打ち上げられると、カフェバーの中でもあちこちでグラスを合わせる乾杯の音で賑わい始めた。


「殿岡さん、乾杯しよう」

「うん」


 桃子は一気にビールを飲みほすと、プハーと息を吐き出し二重瞼の目を細め、喉仏まで見えるほどに破顔して、闇雲の可愛さで頬を膨らませる。


 花火を見終えた若者たちが一斉にカフェバーに押し寄せて、たちまちテーブル席は満席になり喧噪になる。いつもの殿岡ならば、群れ集まる熱気と噪音に呑まれて逃げ出したくなる。

 明らかに今夜は違う。酒のグラスや料理を盆にのせて動き回るスタッフたちのいとわしさや、耳たぶにへばり付きそうで焦燥とする若者たちの会話の苛立ちが、あたかもこの場を繕う演技の背景でもあるかのように、二人の時間を盛り上げてくれていると思える。


 殿岡と桃子は周囲の喧噪を弄ぶように、目を見合わせてまた乾杯をして、赤のグラスワインを二つ注文した。


「夜になるとね、あんずの丘の上に星が降ってくるんだよ。空一杯にきらきら、きらきら、輝くんだ」

「ふーん、行ってみたいな、モモの故郷へ」


「お母さんの故郷だってば」

 桃子のおしゃべりは軽快で止め処ないから、殿岡はそのつど相槌を打ちながら、慣れないワインをちびりと喉に流し込む。

 確実に時は過ぎて行く。一瞬一瞬が眩くて、今夜ほど貴重な時の短さを感じたことはない。

 

 初めて桃子と出会ったときに、不思議な女の子だとふっと感じた。それが秘密の正体なのか見当もつかないが、この子のために命をかけても良いと思った。思っただけの投げやりで、時間を忘れてお酒を飲んだ。生まれて初めて本物のデートを知って、恋だか愛だか分からないが、心の揺らぎを実感できた。


 娘よりも年端のいかない生娘に、心の高ぶりを感じて胸が震える。桃子の瞳はあんずの丘の夕空に輝く一番星のように煌めいていた。そして殿岡もまた、生まれて初めて煌めくダイヤモンドの輝きを知った。幸せとはこういう事だと初めて思った。



 ー正月開けて閑散とー


 正月が明けて五日も過ぎると、東京ファンタジーランドは園内外ともに閑散となって静まり返る。事務所へ向かう出勤通路からは、Aエリアの半分もいかない入口あたりに数名のパーカーが退屈げにたむろしている。

 長い祭りのあとの虚ろな静けさに、動きも精気も失われている。

 

 休憩室まで閑散として、テーブルの上には封を切られたホッカイロの束が無造作に置かれ、妙子が一人でスマホをいじっているだけだった。

 学生たちは学校へと戻り、多くのキャストはこの時期を狙って長期の有休を取る。休暇を取っても居所もなければ行く場所もない殿岡だけは、殊勝に出勤して時給を稼ぐ。


 朝礼も長閑(のどか)に気抜けして、サブリードの掛け声でのんびりと屈伸運動をして、腕を回して首を捻ってリーダーの合図で持ち場へと向かった。


 殿岡が向かうA出口は二人で勤務するポジションながら、動きのない閑散期だから一人での立哨だった。そこからバスポジションの様子がよく見渡せる。

 数台の団体バスが駐車しているだけで、ゲストの動く姿はまるでない。自転車で交代に向かったキャストの様子がはっきり見える。午前勤務のキャストから無線機を受け取っているのは愛子と江川だった。


 交代を終えた二人は動く気配もなく、愛子が江川に寄り添うように話し込んでいる。一月の冷たい気流に乗って、焼け付くように熱気のこもった会話の内容が、殿岡の耳にも届いてきそうな愛子の姿態がくっきり見える。


 バスより向こう側の駐車エリアには、一台の車も人影もない。風も聞こえず空気も見えない。殺風景なコンクリートが剥き出しになり、外壁に連なる樹林のこずえが欠伸をしている。つられて殿岡も、バスポジションの二人を眺めて欠伸を繰り返す。

 

 そんな時、バスの後方からBエリアを突っ切って社有車の軽トラックが走って来た。赤い三角コーンを積載して倉庫へ向かうのだろうか、運転席にはサブリードの本郷がハンドルを握っていた。


 軽トラックが殿岡の目の前を通過してエントランス方向へとターンする時、助手席に乗っていた妙子が身を乗り出すように立ち上がり、殿岡に向けて思いっきり両手を振って、目いっぱいの笑顔を見せて叫んだ。


 閉ざされた車窓から妙子の叫び声が聞こえるはずもないけれど、「ジジイ元気か、凍えて死ぬんじゃないよ」と、毒づいているようにも思えたし、「あたしがついているから安心しな」と、言っていたようにも思う。

 いずれにしても一心不乱にけれんみのない、はちきれそうな妙子の笑顔は一閃の光となって心を癒す。


 軽トラックは一瞬にして通り過ぎてしまったが、妙子のけなげに愛くるしい激しさが、愛子の忌々しさを吹き飛ばすに十分だった。


 その一方で、ずっと気になっていたのは桃子のことだった。朝礼前ギリギリに駆け込んできた桃子が、どこのポジションに行ったのか分からない。

 同じチームではなかったから、休憩もランチもすれ違いになる。せめて交代時にでも顔を合わせられたら嬉しいと願っていた。

 


 ーエントランス・ポジションにてー


 休憩になって事務所のホワイトボードを確認すると、桃子はバスエリアと隣接する送迎ポジションにいることが分かった。

 殿岡の次のポジションはエントランスと記されていたので、またすれ違いになってしまったかと溜め息をついた。


 殿岡は一息ついてトイレを済ませ、背中にホッカイロを一枚張り付けて防寒着を羽織った。

 マフラーを首に巻き付け、おもむろにエントランス・ポジションに出たのだが、料金所前エリアのどこを見渡しても交代すべきキャストの姿が見当たらない。


 入場して来るゲスト車両もいないので、とりあえずエントランスの中央にポツンと佇んでいると、何と料金所の窓口から林田が飛び出して、慌てて手を振って駆け寄って来た。


「やあやあ、どうもすみません。交代ですか?」

 林田が右手を上げて頭を下げる。


「いやいや暇なもんで、まったく動きがないから冷たい風が身に沁みますよ。料金所が風よけになりますから、アキちゃんと新年会の話をしていたんですよ」

「そういえば来週の金曜日でしたねえ新年会は。盛り上がりそうですか?」


「ええ、新年会はいつも大荒れですからねえ。今回も六十人は超すでしょう。殿岡さんも出席されますよね?」

「ええ、予定してますよ。それにしてもここは風が巻いて冷えますねえ」


「そうですよ。こんな日には水筒に熱燗あつかんでも入れて、こっそり飲めれば身体の芯から温まりそうですけどね、ははは」

 林田の冗談は、本当に冗談なのか、本気で規則を犯しているのか、悪げのない薄ら笑いに判断を逸らされる。きっと水筒の中は日本酒か焼酎の熱燗だろう。

 


 一時間も冷たい風にさらされていると、鼻水が鼻孔に溜ってグチュグチュになる。ティッシュでかんでもぐしょ濡れになって、鼻汁でポケットが濡れてしまうので、天を仰いで鼻水を喉から口に流し込み、一気にペッと吐き捨てる。


 首筋をマフラーで押し付けながら、ぼんやりと料金所の入口を眺めていたら、突然キュキュッと軋めくブレーキ音に驚いて振り返ると、自転車にまたがった桃子がニッコリ笑って人差し指と中指を立てていた。


「モモ、びっくりするじゃないか。こんな所にチャリで入って来て、リーダーに見つかったら怒られちゃうぞ」

 殿岡の懸念などお構いなしに、桃子は自転車の前輪を殿岡の股座に挟み、ハンドルのバーを両手で握らせる。


「大変だったんだから聞いて。車の下からピーピー鳴き声が聞こえるから調べてくれってゲストに声をかけられたんだよ。わたし、車の下を覗いたらね、ハクビシンの子供がいたんだよ」

「ハクビシンが?」


「そう、ハクビシンだよ。わたし、子猫だと思ってサブリードの本郷さんに連絡したら飛んで来てね、ボンネットを開けて追い出そうとしたけどよく見えなくて動かないの。本郷さんが車の下を覗いたらね、シャーシの上に乗っかって、顔だけ出しているのは猫じゃなくてハクビシンだって。確かにニャーとは鳴いていなかった」

「それで、どうしたの?」


「ゲストに頼んで警笛を鳴らしたり、エンジンかけてもらったけど駄目でね、殺虫剤を思い切り吹きかけて棒でかき回したら飛び出してどこかに行っちゃった。ハクビシンなんて初めて見たよ」

「噛みつかれなくて良かったじゃないか」


「本当だよ。あのね、今日寒いから、絹ちゃんは毛糸のパンツ穿いてるんだよ。わたしはヒートテックのタイツだけど」

「……」


「わたしね、こう見えてもおっぱい大きいんだよ」

「桃くらい?」


「みかん」

「そんなことより、モモは明日から一か月以上も休暇だろ」


「うん。しばらく会えないね。寂しい?」

「寂しいよ。新年会でも会えないし。そういえばねえ、伊達直樹がモモのこと凄く気にしてたよ。あいつ、モモのこと好きなんだろ。もしかして、彼と付き合ってるのか?」


「知らないよ、伊達くんなんか」

「ほんとに知らないのか? ほっといていいのか?」


「わたしさあ、今月の星座の運勢、五つ星だったんだよ。恋愛運をみたらね、自然に流されていたら何もできないから、積極的に誘わなきゃダメだってさ。ブーだよね。もうすぐ旅立ちの時が来るでしょうってさ」

「それって、試験に受かって看護師になって病院に勤務するってことかなあ。とにかく合格したら乾杯しよう」


「わたし勉強始めたのが遅かったから、合格したら奇跡か天才だよ。でもやれるだけはやったし一月も頑張るし、受かっても落ちても悔いはないと思う。だからどちらに転んでも、その頑張りに乾杯して欲しいよ」

「うん、試験が終わったら乾杯しよう」


「絶対だよ、約束だよ」

「約束するよ。モモの頑張りに、きっと女神がやさしく微笑んでくれるよ」


「そんな女神いるのかな」

「いるよ。モモが看護師になったら、もう会えなくなるのか?」


「そんなことないよ。いつだって会えるに決まってるでしょ」

「そっか。モモ、こんな所でいつまでもおしゃべりしてたら、ランチの時間がなくなっちゃうぞ」


 サドルの上の小さなお尻をポンと叩いて殿岡が促すと、桃子はオーバーパンツのポケットに片手を突っ込んで何かを取り出した。


「殿岡さん、こっち向いて」

 桃子は自分が使っていたホッカイロを振りかざし、殿岡のタートルの襟首にそっと挟んでマフラーをキュキュッと締め付けた。


 目の前に桃子の瞳と唇がある。マスカラのまつ毛と黒目がまばたきをして、すぼめた唇から温かい吐息が吐き出され、殿岡の冷え切った鼻先に触れて芳香を放つ。

 いじらしくて何気ない人懐こさを、抱きしめたいほど可愛いと思う。何を失っても惜しくはないから、この瞬間を永遠に閉じ込めてしまいたいと願ったところで、何もできないことが狂おしい。せめて手袋を脱いだ生肌の手で、桃子の頬を両手で挟んで撫でまわしたい。


「よっし」

 と言って桃子は右手を挙げて、自転車のバーから手を放した殿岡の右手にハイタッチをする。


「ありがとう、モモ」

 殿岡のか細い声が聞こえたのか聞こえないのか、自転車はゆらゆらと休憩室へと戻って行った。桃子が去ったエントランスの真ん中で、木の葉が舞って渦巻いている。

 生まれてきて良かったと心から思える。ほのぼのと込み上げてくる幸せを噛みしめることができる。


 これまでに良いことは何も無かった。なぜ人間は生まれ、なぜ生きなければならないのかを考え続けて生きてきた。何の期待も無かった。

 夢や希望はおろか、情緒も悲哀も嫉妬も憧憬も無い。良心が無いから呵責が無い。善意が無いから思いやりが無い。何もかもが失せているのに、欺瞞に詭弁を弄して何を礎にして生きねばならなかったのか。それはただ単純にして、死ぬことが怖かったからだけの理由に過ぎなかった。

 

 六十歳を過ぎると死の恐怖も薄らいでくる。棺桶を担いで歩いているような気さえする。自分が三流だからこそ希薄な未来に絶望できて、生きる気迫を失えるのかもしれない。そんな殿岡にただ一つ、羨望という感情だけが残っていた。


 人間はみんな、生まれた時からそれぞれ違う知恵と能力と運命を与えられて生きている。虫や野菜や樹木でさえもそうかもしれない。ひまわりの花は太陽に顔を向けてのびのびと育つと言われるが、モヤシは暗闇の中でこそ成長できる。


 自分は日を浴びたのか浴びなかったのか、それさえ分からずに生きてきたけどただ一つ、輝いている奴が羨ましかった。希望とか幸せとかを、軽はずみに無抵抗に望めなかった。だけど一度だけ輝いてみたかった。北の夜空に輝く北極星のように。

 いま目の前に桃子がいる。輝いているのは桃子なのか自分なのか分からないが、生きる気概が湧いてきた。



 ー新年会ー


 新年会は一月第三週の土曜日に開催された。学生たちの出席を配慮して、パーキングの飲み会は金曜日か土曜日に設定されるのが習わしとなっている。

 午後勤務のキャストの終業時間は夜の十一時だから、夜を徹して始発電車が走り始める早朝まで続く。

 

 猪熊に誘われてバスに乗り、駅前の雑居ビルの地下にある居酒屋の暖簾をくぐると江川が出迎え役で、入口脇に置かれた長テーブルに明子と妙子が座って会費の徴収をやっていた。


「猪熊さんと殿岡さん、頂きました」

 明子の声で、名簿にチェックを入れていた妙子が顔を上げた。

「おっ、来たかオヤジ、遅いじゃないか。ジジイ、飲み過ぎて死ぬんじゃないよ」


 出席の按配を名簿で確認している猪熊を残して、殿岡は宴会場へと入って行った。若者がかたまるテーブル席を避けて、林田や中年の顔ぶれが目立つ席を選んで腰を下ろした。

 

 すでにテーブルの上には数十本のビール瓶や突き出しが並べられ、乾杯の音頭を待ちかねていた。

 頃合いを見て猪熊が開会の挨拶を済ませ、本郷の音頭で乾杯が終わると一気に酒宴は盛り上がった。林田と殿岡の間に猪熊が割り込んで胡坐をかくと、林田がビールを注ぎながら話しかけた。


「ご苦労さまです。猪熊さん、体調はどうですか」

「良かないよ。健康管理室に呼び出されて説教されて、毎月病院に通って処方薬を貰ってるけど、会社の健康保険組合にしてみりゃあ迷惑な話だろうよ。医療費ばっかり掛かってさ」


「俺も今年で四十歳になりましたよ。誰が見たってみすぼらしい中年だから、これから人生の下り坂ですよ」

「何言ってるんだ、まだ四十だろう。俺が四十になった時にはなあ、ずいぶん年寄りになってしまったと思って三十歳の頃が懐かしく思えたけど、五十歳になった時には四十歳の頃が若かったと思えてねえ。六十、七十になった時には、五十の今をきっと若かったと思うに違いないんだ。だからな、今を青春だと思って自由に生きればいいんだよ」


「まあそうですかねえ。とても青春だとは思えないけど、やり残して後悔するより、やり尽して死んだ方がましってことですかねえ」

「お前は若い女しか眼中にねえからなあ。まあいいから飲め」


「ところでこの寒いのに、タグボートからたくさんの潜水夫が海に潜って補修の作業をしているけど、なんで埋め立てじゃなくて海に浮かぶ人工島にしたんでしょうねえ」

「お前ねえ、ここの親会社を知らないのか。製鉄、造船、建設まで抱える大コンツェルンだぜ。鉄を作って巨大なバージにして連結すりゃあ島ができる。造船業界の技術だよ。湾の底にも数百本の鉄のポールが埋め込まれてるんだ。舞浜の道路から二キロ以上の橋梁と、駅からモノレールが繋がっている。自分で作って自分で修理して、グループ企業で利益を還元しているって仕組みだな」


「へえ、たこが自分の足を食らって飢えをしのいで、また足が生えてくるってことですか」

「蛸が自分の足を食うのか? 生えねえだろうよ、トカゲじゃないんだから。でもまあそんなとこだな。大きい声じゃ言えないけどな、園内の鉄板は厚くて頑丈だけど、駐車場のバージは適当らしいぞ。だから修理の点検も、一番最後の三月頃になるらしい」


「そうですか。でも百人以上の潜水夫が作業しているんじゃあ人件費も膨大ですね」

「何言ってるんだ。一日に十万人ものゲストがあぶく銭を落として行くんだぜ。俺たちの日給を差っ引いたって島が沈むことはないんだよ」

 

 殿岡は黙って二人の会話を聞いていた。すると正面に座っていた色黒の小柄な男性が口を挟んできた。


「毎日たくさんの客が来て、ほとんどがリピーターだっていうけど、何回来たって同じような乗り物に同じようなイベントなのに、彼らは何を楽しみに来るんでしょうかねえ」


「決まってるじゃねえか。ガキは夢を刻んで記憶に残し、恋人同士は二人だけの記念日にする。みんな思い出を作りに来るんだよ」

 即座に猪熊が諭すように返答して続けた。

「良かれ悪しかれ人間はたくさんの思い出を作って記憶する。それを糧にして生きている。記憶が消えたら人間じゃあなくなっちまう。思い出が無かったら、人生そのものが不毛で味気ないじゃねえか。そうは思わないかい」


「それは良い思い出を持っている人間だけが決めつけられる、思い上がりの屁理屈ですよ。俺なんか、どこの記憶をほじくり出したところで、ろくに惨めな思い出しかないんですよ」

「あんた、どこの生まれだい?」


「山谷ですよ。小学校の給食費を親父が払ってくれないから、お前なんか豚の餌でも食ってろよって先生に嫌味を言われて教室の隅っこに蹲っていた。妹と二人で田んぼの蛙を捕まえて帰ったけど、ガスが止められていたからコンロで焼けずに、生でかじって吐き出した。雨の日は日雇いに出られず親父がイラついて酔っぱらって殴るから、押し入れの中で妹と二人でぶどうパンを食べているところを見つかって、スーパーで万引きしたとゲロしたら、そんな物より酒を万引きして来いとひっぱたかれてぶどうパンをぐしゃぐしゃに踏みつけられた。親父を殺してやりたいと思った。お袋は俺たちなんかとっくに捨てて逃げちまって顔さえ覚えちゃいない。俺の着ている服が臭いと言って誰も寄りつかなかった。妹はやせ細って死んじまった。だから俺は町を出て行った。飲み屋街の早朝にゴミ箱をあさっていたら声をかけられて、ついて来いと言われたけど俺は逃げた。ヤクザにされて指を切られるのが恐かったから。世間の奴は怠け者だとか間抜けだとか勝手なことを言いやがるけど、他にどんな生き方があったのかって、俺なんかには見当もつきませんよ」


 その男性にビールを注ぎながら猪熊が言い放った。

「あんた、まだ三十代だったよなあ。人生の半分も生きてねえうちから不幸ぶるのはおこがましいぜ。こうやって酒も飲めるし飯も食える。俺たちと同じように五体満足に身体を使って働けて、きっちり給料を貰えてるじゃねえか」


「俺はもうすぐ四十歳ですよ。これまで何の生きがいもなく、ドブの中から這い上がれないヒキガエルみたいに、ちっぽけな希望さえ見つけられずに生きてきた。やりがいとか思い出とかいう言葉には関係ないんですよ。だから嬉しそうな顔をしてここに遊びに来るゲストたちが、別世界の人間のように思えるんですよ」


「あんたねえ、三枝妙子を知ってるよなあ。あいつの親父は脳の病気を患って、目が見えて、意識はあるけど、口がきけなくて手足が動かせないから自分で飯も食えねえんだ。植物人間だったら意識がないから苦しむ事もないけどよう、自分の気持ちも伝えられなくて、死にたいと思ったって自分で命を絶つ事もできねえ、生き地獄みたいなもんじゃあねえか。高校時代に妙子はグレて、隠れてバイトしていたキャバクラに、激怒した親父が連れ戻しに行った時に脳卒中で倒れたんだよ。だからあいつはねえ、ここの仕事を終わったらコンビニの深夜勤務をやって、その金をぜんぶ治療費だって母親に渡しているんだよ。なんとか高校だけは卒業して、真面目になってここで働いているんだ」


「妙子さんが、そんな苦労を背負ってるなんて知りませんでした」


「俺はねえ、妙子の事なんかどうでもいいんだよ。親父の今の姿だよ。ただベッドの上で生き続けるだけで、明日も明後日も永遠に変わらないんだよ。俺なんかが言うのも何だがねえ、世の中にはどん底の悲劇を背負いながら、どうにもできねえ奴がいるんだよ。どんなにもがいても叫ぼうとしても、どうにもならない奴らが稀にいるんだよ。人生を他人のせいにして嘆いているようじゃあ、いつまでたっても良くはならねえよ。こうやって酒を飲んで、くだを巻いていられるんだ。まだ三十後半の若さだったら、幸せになれる運命を秘めて抱えているんじゃないのかねえ」


「今だってサラ金の取り立てが来る。早朝を狙って来やがる。壊れそうなアパートのドアを叩いて叫ぶ。逃げ出したいけど金が無い。いまさら俺なんか、幸せを求めようなんて思えませんよ」


 不貞腐れて言い捨てる男性の横顔を見ながら殿岡は考えた。この男も妙子の父親も猪熊も、一様ではないが不幸という因果を体感している。そして彼らは一律に、不幸なりの感慨があり慟哭があるはずだ。その感情の存在が妬ましく羨ましい。


 断じて自分が不幸になりたいとは願わない。苦しいことも辛いことも嫌だ。これまで自分が不幸と感じたことは一度もない。苦悶も無いし悲しみも無いが、快楽も達成感も幸せもない無味乾燥な生き様だった。

 他人の不幸には不実な快楽が伴って、苦渋の加減が重いほど興味深い。その人間ドラマのヒーローに憧れながら照れ隠しに心を歪めて嫉妬している。


 自分の人生観は自分で持てば良い。責任とか猜疑とか関係なしに、人間は馬鹿こそ幸せになれる権利があるのではないかと思考する。頭の切れる奴は己の宿命さえ変えようとする。だから挫折に翻弄されて苦しむことになる。馬鹿は浮世のはぐれ雲だから、川面に浮かぶ病葉わくらばのように流されていく。蔑まれてもそれに悩まず、いびられてもそれに気づかず、これが人並みだよと承服して生きて行ける。良い思い出などどこにもない。この男と自分とは、どこかが似ていると殿岡は思った。

 

 コップのビールをグイと喉に流し込んで、ふと人の気配を感じて隣席に目をやると、伊達が正座して殿岡の様子をうかがっていた。

「あ、殿岡さん、どうも、失礼します」


 伊達が差し出したビール瓶の口に、殿岡はグラスを合わせて恐縮した風に頭を下げた。

「あのう、ちょっとお尋ねしてもよろしいでしょうか」

 ビール瓶をテーブルに置いて伊達が遠慮がちに切り出した。


「朝倉桃子のことかい?」

 図星を突かれることを予期していたかのように、伊達は一文字に口を結んで頷いた。

「はい。彼女は殿岡さんにだけは心を許しているようで、どんな事でも話しているのではないかと思いまして、相談に乗っていただけないかと……」


「いいよ。だけど君も知っての通り、彼女は来月中旬に看護師の資格試験を受けるから、それまで会えないよ」

「はい。僕は今年四年生になりますので、就活に備えてもうすぐここを辞めなければなりません。その前に、彼女の真意を知りたいのです」


「就活って、君は百ヘクタールの山林を畑地にして、農業を経営するって話じゃなかったっけ」

「そうです。農業技術の検定も取りたいし、いきなり起業なんて無理ですから、まず就職して金融や流通のシステムを実社会で経験したいのです」


「ふーん、彼女と結婚を考えているのかい?」

「実は去年の暮れに、彼女にそれとなくプロポーズしました。彼女が看護師でも構わない。農業の経営は自分一人でもできる。将来の夢や構想を具体的にすべて話して、大学を卒業するまで付き合ってくれないかと。そして就職して生活の目途がついたら、一緒に生活して欲しいと打ち明けました。だけど、彼女の態度が曖昧なのです。嫌われているならきっぱりと諦めがつきますが、はぐらかされてしまうのです」


「どんな風にはぐらかされるんだ?」

「わたしには看護師になれる資格なんてないかもしれないとか、山を切り開くって事は木を殺すってことかしらとか、未来に夢を紡ぐことができるって素敵なことだわとか、そして突然、マフラーを編んでいるんだとか言い出すのです。もうすぐ編み上がるけど、誰にもあげられないマフラーだって。どういう意味なんでしょう。彼女が僕を嫌いじゃなくて、今は決心がつかないというのなら、僕はいつまでも待ちます。彼女が僕をどのように考えているのか、真意を知りたいのです」

 

 伊達の話を聞きながら、殿岡は二か月ほど前の光景を思い浮かべていた。それは従業員専用の売店でのことだった。


 東京ファンタジーランでは、ハロウィーンやクリスマスなどのイベントごとに毎年違うパッケージの菓子類やチョコが発案されて、大量に製造されて販売される。しかしイベントが終了すれば販売できずに廃棄となる。廃棄するくらいならたとえ半額でも原価でも、売れ残りとして社員やキャストに販売できれば喜ばれるし意義がある。


 それはハロウィーンが終わって一週間が過ぎた出勤前での事だった。八百円のチョコ缶を二百円で投げ売りしていると林田から聞いて、たまには女房と娘にキャラクターの絵柄の入ったチョコでも買って、好い顔でも見せてやろうかと殊勝な気持ちを起こして売店を覗いた時だ。


 たくさんのキャストで混み合う中に、伊達と桃子の姿を見かけたのだった。仲良さそうに人気キャラクターのぬいぐるみを手にしたり、売れ残りのクッキーなどを物色している二人の姿は羨ましいほどあどけなく、爽やかな若さを感じてほのぼのとした。


「あっ、殿岡さんだ」と、桃子が気付いて手を振ってくれた。殿岡は笑顔で頷いたけど、戸惑いを隠せない様子の伊達の表情に、何となく気まずい居心地の悪さを感じて、そそくさと買い物を済ませて立ち去った。


 老いぼれの場違いな存在をわきまえて、殿岡は気を利かせたのだが二人への嫉妬はかけらも無かった。それは太刀打ちのできないほどに爽やかな、伊達の人柄のせいだったかもしれない。


「彼女は君に好意を抱いていると思うよ。それ以上は俺にも分からない」

「彼女が二月に戻ってきたら、僕の気持ちの真剣さを伝えてはいただけないでしょうか。もしできれば、彼女に結婚の意思があるのかどうかを、いえ、付き合ってもらえるかどうかだけでも……」

「ああ、いいよ」


 伊達の誠意に悋気(りんき)の恨みを感じることはなかった。むしろ桃子の幸せを願うなら、彼こそがふさわしいのではないかと殿岡には思えた。

 農業だの経営だの難しい論理は分からないが、百ヘクタールの土地を持ち、一流の大学に入って高邁な理想を描いて燃えている。特別に風采が良いとは思わないが、自分よりも十倍も顔立ちは凛々しく整っている。なぜ桃子は彼のプロポーズに応じないのか。しょせん男女の相性などは、経験値のない殿岡の埒外(らちがい)にある。

 

 伊達がそっと立ち上がろうとした時だった。真ん中あたりのテーブル席から、ひときわ甲高い叫び声が上がって一瞬酒席がシンと静まった。


「俊介相手にストーカーだなんて、美人ぶってのぼせ上ってんじゃないよ。どんなツラして言ってんだよ」

 叫んでいたのは、ビール瓶を右手に掴んで立ち上がった妙子だった。


「うるさいわね。あんたとなんか話してないわよ。わたしは俊ちゃんと飲んでいるんだから、幹事のくせに無理やり割り込んで邪魔しないであっちへ行ってよ」

 激しい口調で言い返したのは、すでに泥酔モードの愛子だった。


「あたしの前で馴れ馴れしく俊ちゃんなんて呼ぶんじゃないよ。当て付けがましいったらありゃしない。この前アキと一緒にケーキを作ろうって約束しながらすっぽかして、俊介と会ってたっていうじゃないか。孝介とも伸吉とも付き合ってるって噂じゃないか。女王様気分で二股も三股もかけてるんじゃないよ」


「誰が女王様ですか。そんな事どうだっていいでしょう。あんたに関係ないんだから」


「関係なかないよ。どんな神経してんだよ、あばずれ女。伊達くんにもちょっかい出しちゃって、スロープにバスまで上げるんじゃないよ、間抜け」


「やかましい!」

 スロープにバスの一件まで持ち出されてブチ切れてしまった愛子は立ち上がり、怒声を上げてコップのビールを妙子の顔面にぶちまけた。


「何すんだよ!」

 叫んで妙子も握っていた瓶のビールを愛子目がけて振りまいた。


 幹事の明子が飛んできて、江川と猪熊もビールまみれで暴れる二人を取り押さえ、恒例の新年会は和やかなうちに朝を迎えて始発電車が走り始めた。




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