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第五章 クリスマスイブ

 その日の勤務は夢の国のパーキングエリアだった。朝から小雨が降り続いていたが、クリスマスイブということもあり、駐車場は最奥のEエリアまで入れ込みを行っていた。


 休憩室には冬休み中の学生たちもいっぱいで、花山が言っていた通り朝倉桃子も出勤しており、学生たちと談笑していた。

 殿岡が縮こまってテーブルの隅っこに座っていると、事務室から顔を覗かせた明子が殿岡の隣に座り、小さな紙の包みをそっと差し出した。


「今日はイブでしょう。ケーキじゃないけど、手作りのクッキーですよ」

「あ、ありがとう」


 殿岡の頬が生娘のように赤らんだ。明子はみんなに配っているのかもしれないが、自分が忘れられていないことに胸がときめき、小さなリボンの包みを両手で握りしめて、心からの笑顔を明子に向けた。

 今日の一日が、これだけで終わっても良いと思った。いや、これが殿岡の、幸せな一日の前触れだった。


 

 ーパーカー・ポジションにてー


 朝礼が終わってカッパを着込むとキャラバンに乗せられ、Eエリアのパーカーの交代に向かった。

 通路の入口で明子が降ろされ、殿岡と花山が中継に立ち、林田と学生たちが白線に合わせて車を駐車させる。


 明子が入口に立ってくれて殿岡はホッとした。新人や慣れない学生が入口に立つと、ゲストの対応にこじれる事が多い。


 料金所から入った車はAエリアの駐車場からBを通過して、さらにC、D、Eエリアへと案内される。

 入園口からどんどん遠いエリアへと車を走らされて、余りにも遠過ぎるじゃないかと愚痴って不満を募らせるゲストが多くいる。怒ったゲストが通路の入口のキャストにクレームをぶつける。


 そんな時、不慣れな学生などがおどおど対応してしまうと、イラついたゲストは中継のポジションまで車を走らせて来る。

 そこに立つキャストが不満をもろにぶつけられて、対応に苦慮することになってしまう。ところがベテランの明子や猪熊が入口に立てば、わがままなゲストか身障車両かを丁寧に確かめて、適切にさばいて収めてくれる。

 

 殿岡は通路の中継に立ち、大きな手振りで駐車位置へと車両を誘導する。花山は大きな声でコールして、降りて来たゲストに入園口への通路を案内する。その間隙を縫って花山のおしゃべりが突っ込んでくる。


「長靴の底にホッカイロ入れてきちゃった。雨で冷たいんだもん」

 花山がカッパのフードを指先で開いて殿岡に話しかける。

「毛糸のパンツ穿いてきたのか?」


「だってまだ早いもん。一月になったら穿こうかな。ヒートテックの靴下も」

「そんな靴下あるのか?」


「何でもありますよ。ヒートテックのタイツだって、ネックウォーマーだって」

「俺、昨日から鼻風邪ひいたみたいで鼻水が出るんだ。でも、雨が降っているから一緒に垂れ流してる」


「汚いなあ。年なんだから暖かくして気を付けなくちゃあ」

「昨日、にんにく食べてきたんだけどなあ」


「葛根湯が効くってお母さんが言っていたよ。身体が温まるからいいんだって」

「それって二日酔いじゃないのか」


「違いますよ。発熱、鼻水に効くんだって。奥様に買ってもらいなさいよ」

「花山って、彼氏いるのか?」


「えっ、うーん、今日は雨が降っているからいないかな」

「そのとぼけた言い方、朝倉の影響受けていないか?」


「明日、モモちゃんと一緒にファンタジー・シアターで映画観るんですよ。夢と魔法のカタツムリって、すごい人気のアニメ映画」

「何でカタツムリなんだ」


「だって、そういう映画なんだから。殿岡さんも一緒に行きますか」

「アニメって漫画だろう。俺、ガキじゃないから」


「そんなこと言ってたら、年寄り扱いされちゃいますよ。今のアニメは映像だってストーリーだって質が高いから、アカデミー賞だって受賞するんですからね」

「アニメより紅白歌合戦の方がいいよ。でも今年は見られないな」


「大晦日は全キャストが強制出勤ですからね。ここで働いている限り無理ですよ。先月ね、年末から両親と海外旅行したいから休暇を欲しいって申請した学生さんがね、辞めてから行って下さいって事務長さんから言われたそうですよ」

「そいつ、どうするんだろう」


「悩んだ末に、辞めちゃった」

「マジか」


 花山のおかげで五倍の速さで時間が経過して、入口の方角から交代のキャラバンが走って来た。休憩室で一息ついて、次のポジションは学生の伊達直樹と二人でA出口となっていた。

 雨の日の自転車は禁止なので、二人で歩いてポジションへと向かった。


 

 ーAポジションにてー


 伊達直樹は、かつて殿岡が三流の下の大学を受験する際には考えも及ばなかった、一流私大の三年生だと聞いている。

 殿岡にとってそのような人間は、何を考えて生きているのか想像がつかない。劣等感という意識は全くない。そもそも比較する対象だという認識がないから。そんなレベルの学生に、理屈をこねられたら答えに窮するという威圧感があるだけだ。


 この前の学生は、いかにも貧相な顔つきだったので、気安く声をかけたらロボット工学だと抜かしやがった。それにしても先入観とは恐ろしいもので、寡黙に立っているだけの伊達に理知的なオーラを感じて目をそむけたくなる。

 そんな殿岡の心情にかまわず、高齢で働く姿に敬意を表したつもりなのか、おずおずと話しかけてきたのは伊達の方からだった。


「あのう、殿岡さんは、もう長くこちらで勤務されているんですか?」

「今年の四月からだから、まだ十か月にもならない」


 紋切型の返答に気後れしたのか、言葉を継げなくてもじもじしている伊達の姿が素直に思えて、殿岡がぶっきらぼうに問いかけた。


「年が明けたら就活が始まるのか?」

「はい。僕は就活よりも、実家が農家をやっていまして、農業を継ごうかと思っています」


 意外にもロボットではなく農業と聞いて、農家の跡を継ぐと聞いて殿岡は、一流と三流がつながり一体化したと思えて急に親近感を抱いた。しかし、それも束の間の錯覚だった。


「ふん、畑を耕してカボチャや大根を作って売るのか?」

「そうです。大規模に」


「はっ、大規模に?」

「今は親父とお袋と婆ちゃんが、狭い畑で野菜を作って農協に納めています。でも家の裏に山林がありまして、平地にすれば百ヘクタールの畑地になります。これからの日本の農業は、多角的に、機能的に経営すれば重要な産業になると考えています」


 殿岡には百ヘクタールの広さがピンとこなかった。無理に想像しようとして描く畑地が狭い脳味噌からはみ出した。


「そんな面倒な事をしなくたって、山ごと売っちまえば大金持ちになるんじゃないのか?」

「売れば不動産業者に買い叩かれて、二束三文にしかなりません。幸い僕は一人っ子ですから、相続権の問題もありません。地元の銀行から融資を受けて、開墾して機械化を進めて大規模な栽培環境を整備して、新たな流通のシステムを構築すれば、小さいながらも企業として成立しますし、地方創生にも貢献できます」


「君の大学に農学部なんてあったっけ?」

「いいえ。法学部に行くか、経済学部に行くかで迷いました。僕は子供の頃から畑を手伝わされて、農協のおじさんたちにも馴染みでした。だから野菜の作り方は知っています。改革に必要なのは法律であり経営の手法だと考えました。でも今は、どちらでも良かったと考えています。大切なのは、人を動かすことのできる斬新な発想と創造力だと思っていますから」


「だったら、何でこんな所でバイトなんかしているんだ?」

「合理化された世界の農場の先進性を自分の目で確かめたくて、旅行の代金を稼いでいます。今の実家は小さい農家ですから貧乏で、大学に行かせてもらえるだけでありがたいと思っています」


 やっぱり一流の脳細胞は、どこかが狂っていると殿岡は呆れて言葉を失った。どこからそんな知恵が湧き出てくるのかと、空を仰いで霧雨にメガネが濡れて溜め息をつく。


 料金所を抜けた大型のバスが、雨粒を蹴散らしながらゆっくりと近付いて来る。通路の脇を黄色いカッパを着た交代のキャストが足早にやって来る。

 


 ようやくランチの時間になって、一息つけるとホッとして休憩室に戻ると、男女の学生たちが手弁当を広げたりカップ麺を食べながら、誰はばかることのない声で本音丸出しの会話をしている。


「今日ってさあ、Eエリアまで満杯に入ってるし、絶対残業してくれって言われそうだよね」

「わたし、無理。終電に間に合わないって拒否しちゃうから。今月さあ、生理だから体調悪いって嘘ついて二度もサボっちゃった」


「私だってさあ、扶養控除の金額超えそうでヤバいからさあ、勤務を譲ってるんだ」

「さっきパーカーで酒井がさあ、誘導の仕方がドジでゲストに怒鳴られてたよ。それでグズグズ言い訳してるから、今度は言葉遣いが悪いって怒られてたよ」


「あいつ戦力外の愚図だから。足手まといで迷惑だからさあ、一緒のチームになりたくないよ」

「あいつ、就職先が決まらなくてさあ、卒業してもここのバイトを続けるらしいよ。土日だけじゃなくてフルタイムに切り替えてさあ」


「ふーん、派遣よりマシかもね。あいつの場合」

「原田なんてさあ、国立大学の院生だからって威張ってるけどね、彼女いないし童貞らしいよ」


「そうそう、見栄ばっかり張ってて空気読めないバカだからさあ、仕事中にへんな理屈こねて訳わからないこと言うし。わたしにさあ、アインシュタインの相対性理論を知ってるかって聞くんだよ。パーキングエリアのどこで役に立つのよ、そんな理論がって言ったらさあ、パーキングも宇宙と同じなんだって。あいつの頭の中を見てみたいよ」


「あのツラでよく国立大学へ行けたよね」

「顔は関係ないっしょ。ブラックホールみたいな顔してるけど」

「どんな顔だよ、それ」


「倉田くんなんか偉いよね。欠勤が出てさあ、リーダーから呼び出しの電話があれば必ず出勤して来るからね。新人にはきっちり指導してあげてるし、料金所での返金ミスもゼロだっていうから凄いわよね。今日だって間違いなく残業志願するよ。わたしは帰っちゃうけど」


 彼らの会話を聞いているのかいないのか、朝倉桃子は一人で黙々と弁当を食べていた。鮭の皮を箸ではがして口に運ぶ。白いご飯を口に頬張り小さな梅干をカリッとかじる。


 テーブルの向かい側からコンビニのおにぎりを食べながら、殿岡はそっと彼女を見つめ、目をそらす振りしてうつむいて、また見つめてうつむいて、そして見つめてくぎ付けになっていた。


 瓜実の顔に二重瞼が瞬きをする。白磁の頬に切り裂かれたような傷痕がある。他のキャストたちと敢えて迎合する気配もない。かといって孤独で寂し気な風もない。

 とても気になる存在だから、声でもかけてみたいと願ってみても、花山と接するような、あけっぴろげに親しくはないから、老いぼれから話しかけるには気恥ずかしい。


 食事を終えて、温かい缶コーヒーを喉に流し込みながら事務室のボードを見ると、殿岡と朝倉の名札の横にWポジションと記されていた。



 ーWポジションにてー


 バスエリアからの出口に、歩道が交差しているポジションがある。退出するバスと、駐車場所を行き来するゲストが事故らないように、二人がかりでバスを止めて、安全にゲストを誘導するのだ。

 閉園時間が近付くと、団体や送迎のバスが次々に退出し、ゲストもまたぞろぞろと駐車場所へと戻って行くので忙しくなる。

 

 カッパを着て二人がキャラバンに乗り込むと、サブリードの本郷が運転席に乗って車を走らせる。A出口への通路からバスポジションを抜けてWポジションの前で降ろされる。

 

 交代を済ませて前任の二人がキャラバンに乗って戻って行く。閉園時間にはまだ少し早いので、団体の大型バスに動く気配はない。


「よろしくお願いします」

 小雨も止んでフードを取って、朝倉桃子がちょこんと頭を下げた。

「うん」

 殿岡が応えて頷くと、彼女は歩道の通路にゲストがいないことを確かめて、おもむろに近付き話しかけてきた。


「殿岡さん、お正月には初詣でに行くんですか?」

「面倒だから行かないよ。女房と娘は近くの神社に行って、毎年破魔矢を買って来るけど」


「わたし、正月明けで閑散期になったら、長野の更埴に行きます」

「更埴って、白いあんずの花が咲くところ?」


「はい。母の実家が更埴だから」

「君は桃から生まれたんじゃなかったっけ?」

「はい、モモです」


「スモモ?」

「違います。モモです」


「モモ?」

「はい、モモですよ」


「モモはあんずが好きなのかい?」

「四月になると村中の丘が薄桃色のあんずの花でいっぱいになるんです。すっごくきれいですよ。あんずの花の下を歩いていると、わたし、ニンフになれるんです」


「妊婦?」

「ニンフです。あんずの花の妖精かな」

「ふーん」


「殿岡さん、あんず好きですか?」

「食べたことないよ」


「六月になると実家のおばあちゃんが送ってくれるから、殿岡さんにもあげますよ」

「うん、楽しみだな」


「殿岡さんて、伊達くんに似てる」

「えっ、伊達直樹に?」


「この前ね、エントランス・ポジションで誘導していた殿岡さんの後ろ姿がそっくりだった」

「ふーん、後ろ姿か」


「颯爽としていましたよ。殿岡さんて、若いですよね」

 尾ひれをくねらせて清流の川面に跳ねる小鮎のように、屈託のない彼女の心はピチピチと躍動している。

 泥臭い沼の淀みで息苦しく生き抜いてきたナマズのように、愚鈍に委縮する自分のような老いぼれを、彼女はためらいもなく受け入れてくれている。

 

 とぼけているようで途方もない個性の強さと、新鮮な未知の若さに惹きつけられる。彼女が新人だった雨の日に、落雷の閃光に戦慄していじらしく身を寄せてきた彼女の肩を抱き寄せて、そっと握りしめた手の温もりを決して忘れられない。


「あっ、三日月だ!」と、小さな手で指をさす。


 雨が止んでどんよりと垂れ込んでいた雲が、夜風に吹かれて流されていく。切り裂かれた空間が虚ろな雲を追い払うように、そこだけ漆黒の空が広がり、くっきりと三日月が黄色い光を放って浮かび上がっていた。


「私たち、月の砂漠の旅人みたいですね」

「う、うん……」


「殿岡さんは金の鞍に銀の甕……」

「じゃ、じゃあ、モモは銀の鞍のお姫様か………」


「ふふふっ」

「………」


「ラクダに乗って、どこか遠くへ行ってみたいなあ」

 少女の瞳が夢を見ている。月光を浴びてさすらう砂漠の果てに何を求めているのか見ているのか、殿岡は金の鞍に乗って可憐な瞳を凝視するだけだった。

「あっ、月が雲に隠れてしまいそう」

 

 そのとき雲間の三日月から一本の黄金の矢が放たれ宙を舞い、殿岡の心臓をブスリと貫いた。ホウセンカの実がはじけてほのかな香りが渦巻くような、初老の恋の芽生える音がバチンと聞こえた。


「あっ、先頭のバスが動き出しましたよ。あれは団体の七台口ですよ。殿岡さん、歩行者の誘導をお願いしますね」

 そう言うと桃子は通路の真ん中に立ち、歩道に近付くゲストの歩みを図りながら先頭のバスの動きをうかがった。

 

 幼児を連れて歩みの遅いゲストを殿岡が止めている間に、桃子は誘導ライトを回転させて七台のバスを退出させた。潮が突然引き始めたかのように、一台また一台とバスの退出が始まった。


「バスが通過しますので、しばらくお待ちくださーい。ご協力ありがとうございまーす」

 大きな声でゲストへのリピートコールを始めた頃に、交代のキャラバンがやって来た。横扉を開いて殿岡が運転席のすぐ後ろの座席に飛び乗ると、桃子が隣に並んで肩を寄せた。

 

 十人乗りのキャラバンだから、一人が前席に座ればもう一人は、たいてい後部の座席に座って股を広げてくつろげる。それでもわざわざ隣に座って身を寄せるのは、思慕の情と親密さの度合いを窮屈な姿勢で推し量ることになる。


 桃子が先に前席に座っていれば、シャイな気後れと恥ずかしさで、殿岡は間違いなく後部の座席に座っただろう。桃子の何気ない気遣いが嬉しかった。


 腰がくっつき、肩が触れ合い、車がカーブすれば手も触れる。小雨に濡れたカッパ越しに感じるはずのない桃子の腰の温もりを、殿岡はほのかに感じて奇跡に思えた。



 ー盗難車騒ぎー


 朝倉桃子の次のポジションはDエリアの中継だった。殿岡は身体障害者用エリアのパーカーだったが、夜になって入場車両がほとんどいなくなり、Eエリアの中継ポジションへと移動を命じられた。


 AエリアからB、Cエリアを通ってぶらぶら歩いてEエリアへと向かう途中に、ポール下で桃子が途方に暮れた表情で、一人の男性ゲストと向き合って問答していた。

 どんな問題でも無線でリーダーかサブリードに問い合わせれば解決できる。そう思ってやり過ごそうとした殿岡の耳に、尋常でないゲストの悲壮な怒声が聞こえて立ち止まった。


「もういいから警察を呼んでくれ。これだけ探して見つからないんだ。俺はたしかにこのあたりに停めたんだ。間違いなく盗まれたんだ。早く警察を呼べ」


 たいていのゲストは駐車場に車を停めると、ワイワイはしゃぎながら駐車位置を確かめることもなく、ルンルン気分で入園口へと急ぐ。

 夢エリアの駐車場は特に広くて複雑だから、昼間の景色が夜になると闇に呑まれて一変する。赤い車も黄色い車もみんな色を失って無彩色になり、駐車場所の位置も方向さえも見失ってしまう。


 せめて料金所で受け取った駐車券さえ手にしていれば、入場の時間が刻印されているのでどのエリアに駐車したかの予測がつくのだが、このゲストは駐車券を車のサイドボードにでも置きっ放しで、車を停めたエリアも通路の番号も、入場した時間さえも記憶に無いに違いない。


 そうなると、どんなベテランキャストでも駐車場所の見当がつけられない。無線でリーダーに相談したところで答えなんか見つからない。だから、こんなゲストには、絶対に関わりたくない最悪のケースなのだ。

 

 いつもの殿岡ならば、とっくに耳をふさいで立ち去っている。しかし今、目の前で最悪のゲストに対峙(たいじ)して、対応を迫られ窮しているのは桃子だ。無視して逃げ出せば何か大切なものを失ってしまいそうだ。だからといって自分に何ができるのか。


 そのとき桃子と目がかち合った。困窮に救いを求める桃子との視線に火花が散って、蛮勇が逆巻く血となり身体が動いた。

 殿岡は駆け寄ると、桃子を横にどけてゲストの正面に立った。


「あ、あの、お客さま、駐車場は大変広いので、も、申し訳ありません。けど、ご安心ください。この駐車場で過去に盗難は一度もありませんので」

「本当か、本当に盗難じゃないと断言できるのか。あんた、責任持って言えるのか」


「は、はい、必ず。セキュリティーが常に監視しておりますので、お客さまの車は必ずこの駐車場のどこかにあります。私たちが必ず探しますのでご安心ください」


 そう言ってゲストをなだめると、無線でリーダーを呼び出して、事情を説明してEエリアでの役割を解いてもらった。


「あの、お客さま、この駐車場は料金所から入ってAのエリアからEまであります。あちらにバスの駐車場がありますが、そこを通られた記憶とか、午前だったか午後だったかのご記憶はありませんか。それから、あの、失礼ですが、お車のナンバーと色と車種を教えていただけませんか」

 

 それから殿岡は、桃子と二手に分かれてゲストの車を探して回った。ゲストの為ではない、桃子への一途ないたわりのために、馬鹿だからこその一心不乱な持久力を掻き立てて、逃げ腰のずるさを殺して広い駐車場を駆けずり回った。


 夜陰の雨滴に晒された車体の色は消されて、白と黒にしか判別がつかない。休憩時間を犠牲にしてまで殿岡は、ナンバープレートの数字と車種を頼りに、一台として見逃すことのないように注意深くエリアの通路をぐるぐると回った。

 

 三十分たっても四十分過ぎても見つからず、本当に盗難だろうかとの不安をかすめながら探して歩いてへとへとになった一時間後に、ゲストの車をようやく見つけた。


 無線でリーダーに連絡してゲストと桃子と落ち合った。胸をなでおろして車に乗り込むゲストを後にして、殿岡が桃子に顔を向けると、彼女は目の前にちょこんと立って、神妙な顔つきで見つめていた。

 殿岡には、やり遂げたのだという達成感が自信となってみなぎっていた。


「良かったね、モモ。見つかって」

 と言って桃子の鼻先をピンと弾くと、こわばっていた頬をどっと緩めて、はちきれそうな笑顔を見せてくれた。

 そして、喉の奥まで見えるほどに大きく口を開いて、「本当に良かった。ありがとう」と言って喜ぶ桃子の笑顔は本物だった。それは自分だけに向けられた、感謝と信頼と安堵のこもった清々しい本物の笑顔だった。

 

 かつて六十年余を生き抜いて、自分に向けられた笑顔はすべて狡猾な嘲りと悲哀に満ち満ちていた。どいつもこいつもみんな皮肉な作り笑いに唇が引きつっていた。

 本物の笑顔が羨ましいと思いながらも、傍目はために見ぬふりをしてやり過ごす。それが三流の烙印を認めて去勢された男の宿命だと納得していた。


 わざわいを転じて福と為すと、歓送迎会で猪熊が論じていたけれど、禍は永遠に禍だからこそ宿命という言葉があるのではないかと殿岡は心の内で反論していた。

 いま初めてそのことわざの真意が読めた。禍を転じる為には、強い意志と目的と努力が必須なのだということを体感できた。その成果として、永遠の諦観がくつがえされて夢を得られた。


 もう一度、桃子と顔を見合わせた。二重瞼が一線になり、膨らんだ頬に霞める月の光が小さな傷痕を浮かび上がらせていた。

 


 ー桃子の身分証ー


 その日の終礼を終えて事務所を出ると、桃子と花山が最後に出て来る殿岡を待っていた。

「一緒に帰りましょう」

 と、花山が誘ってくれた。


 先日、明子が誘ってくれたのは、倉庫から出てくる妙子を待つための成り行きだった。だけど今日は、人違いでも偶然でもない。


「Wポジションの歩道でさあ、小さな男の子が迷子になっちゃって、あたし困っちゃった」

「それで、どうしたの?」

 花山の愚痴っぽい話に桃子が応じる。


「無線でリーダーに相談したらね、名前と年齢と誰と一緒に来たかを聞いて、その子の服装を詳しく報告しなさいって言われてさ、それできちんと報告したらね、家族が探しに来るかもしれないから、そこを動かずに子供と手をつないで相手をしてなさいって言われたんだよ」

「家族は来たの?」

「来たよ。ホッとしたよ。だって、来なかったらさあ、迷子センターに連絡したり、あたし、今ごろ残業してるよ」

 

 花山と桃子の会話は弾んで切れ目がない。殿岡は二人の会話を聞き流しながらも蚊帳(かや)の外だとは思わなかった。その証拠に、東棟のローカールームに着くと花山が、早く着替えて一緒のバスで帰りましょうと誘ってくれて、殿岡の顔を見つめた桃子が「うん」と、大きく頷いた。


 早々に着替えを終えて三人でバス停に向かった。ようやくバスが到着して昇降口の扉が開いたとき、バッグの中を掻きまわしていた桃子の顔が青ざめた。


「モモちゃん、どうしたの?」

 心配そうに花山が声をかける。

「無い。身分証が無い」


 身分証を提示しなければ従業員専用のバスには乗れない。人工島から舞浜駅まで、海をまたいで掛けられた二キロ余りの長い橋梁には歩道など無い。明日の出勤にも差し支えてしまう。

 

 武蔵野線の最終電車に乗り遅れてはいけないからと花山だけをバスに乗せ、殿岡は桃子と二人でロッカールームに走って戻った。


 ロックを解いて桃子のロッカーを開き、隅から隅まで探したが見つからない。もう一度バッグの中身を全部出して、内ポケットも確認したが見つからない。


「無い。どこにも無い。どうしよう」

 途方に暮れて暗澹(あんたん)として、桃子は通路にしゃがみ込んでうなだれる。


「モモ、事務所に忘れてきたんじゃないか?」

「絶対にない。だってタイムレコーダー、身分証で切って出たんだもの」


「そうか。そうだなあ。じゃあ、事務所からここまで歩いて来る間に落としたか?」

「ありえない。バッグを腕に持って、何も触っていないもの」

 

 そのとき殿岡はハッとして、いつもは血が通っていない脳細胞に閃光が走った。キャストが勤務を終えてロッカーへ戻って来た際に、汗や埃で汚れた制服を脱いで、洗濯された新しい制服と交換をする場合がある。


「モモ、ロッカーで着替える時に、制服の交換をしたか?」

「した。したよ」

 殿岡は桃子の手をつかんで、ロッカールームの向かいにあるクリーニングセンターの入口へ走った。

 

 制服の洗浄と安全を管理するクリーニングセンターでは、キャストが常に清潔な制服を身に着けて勤務できるように、すべての制服が洗浄されて管理されている。汗や埃で汚れた制服を、いつでも交換できるシステムになっているのだ。


 ただし、盗難防止などの目的で、一旦脱ぎ捨てた制服を再度取り戻すことはできない規則になっている。だから、どのような理由があって説得しても、再入室は絶対に禁止だと断られてしまう。

 それを承知で殿岡と桃子は、センターの入口で係りのキャストに頼み込んでいるのだが、断固として拒絶されていた。


「何度言えば分かるんですか。規則は絶対ですから、ダメなものはダメなんですよ。この書類に名前と日付と紛失物を記入して下さい。運が良ければ一週間後には渡せるでしょうから」


 それでも殿岡は頼み込んだ。何度も頭を下げて、今まで誰にも見せた事のない悲愴な顔つきで懇願した。


「あなただって分かるでしょう。身分証を失くしたらどんなに困るかを。しかも、そこのボックスのどこかに入っている事は確実なんですよ。パーキングの制服だけチェックすればいいんですから」

「いい加減にしてください。ルールを破ればどんな事になるか分かっているでしょう、あなたたちも」


「そうは言っても、お役所じゃないんだから、一分だけ下さい、一分でいいですから」

 脳天に炎の血をたぎらせた殿岡は、返事を待たずに係りのキャストを押し退けて、罰則を覚悟で室内に飛び込んだ。桃子も一緒に飛び込んだ。


 いくつものボックスの中からたくさんの制服を選り分けて、パーキングの上着とシャツとズボンのポケットを無我夢中でまさぐった。


 係員が怒って制止する手足を邪険に振り払い、上半身をボックスの中に突っ込んでより分けた。

 一分が経過し、二分が経過し、そしてようやく桃子の口から叫び声が上がった。


「あった! あったよ」と、叫んで桃子は身分証を手にかざし、満面の笑顔を殿岡に向けた。桃子が脱いだ制服の、ズボンのポケットから身分証が見つかったのだ。


 殿岡の顔もほころんだ。桃子の為に心からの笑顔を見せられた。他人の為にこんなにも喜べる、初めて知り得た感情だった。


 二人の喜びの十倍ほども、クリーニングセンターの責任者からきつい叱責を受けたけど、それ以来、彼女は心を開き、娘のように、恋人のように懐いて慕ってくれた。



 

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