第三章 魔法のエリアにて(秋)
駐車場は広大で殺風景だけど、エリアごとに見渡す風景はそれぞれに異なる。鮮やかな服装の若者たちがはしゃいで叫び、歩き疲れた老婦人がしゃがんでうずくまる。
風船を飛ばした女の子が、駆けて転んで泣いているのもお構いなしに、太い腕から入れ墨をはみ出した男が、女房に悪態をつかれながら子供の荷物を抱えて無言で歩く。
乗るべきバスを探して金髪の老女がうろうろと彷徨っているかと思えば、大型バス同士がミラーを接触させて、運転手が互いに怒鳴りあう。
健康そうな若者を乗せたフェラーリが、身体障害者だと偽って車椅子の駐車場へ走り込む。
園内からはパレードの華やかな演奏とどよめきが聞こえてくる。季節ごとに趣向を凝らしたイベントが企画され、年間延べ三千万人のゲストが訪れる。
夢を見て、魔法にかけられて未知の世界を享楽している全ての人たちが、海に浮いている人工島にいる事を忘れてしまう。
湾の地底に埋め込まれた数百本のポールが人工島を支えているのだが、開園二十周年を控えて接合部分の安全点検が実施される。
人工島の周囲は分厚い鉄板の防波堤で囲われている。その周囲にたくさんの工事用タグボートが接岸されて、潜水服を着た作業員たちが浮き沈みする。魔法の国の立体駐車場の屋上からは、海面に浮き沈みする作業員の様子を観察できる。
海中での作業は大規模で、園内の施設を支えて土台となっている巨大なバージ群の接合具合の確認から始まって、補修工事や防錆作業が実施され、最後にパーキングエリアの点検が行われる予定になっている。
今日の殿岡の勤務場所は魔法エリアだったから、ロッカーで制服に着替えを終えて、東棟の脇から出発する従業員専用バスに乗って事務所に向かった。
いくつかの停留所を通過して十五分もすれば魔法エリアのバス停に着く。バスを降りて空を見上げると、涼風に捻じ伏せられて歪んだ入道雲が痛々しい。
日差しはとうに和らいで、夏から秋への寂寞を半袖の素肌にさらりと感じる。
休憩室に入ると、土曜日ということもあって学生たちの声が喧噪で、殿岡はそそくさと倉庫に逃れてバッグを置いた。
事務室を覗いてボードを見ると、最初のポジションはエントランスと記されていた。
ハロウィーンのイベントが始まって最初の土曜日だから、ゲストの出足も早く、午前中に立体駐車場はほとんど満杯で、平面の駐車場の半分も団体のバスで埋められていた。
ーファースト・ポジションー
魔法エリアのエントランス・ポジションでは、料金所から入って来るゲスト車両は正面のスロープに誘導されて、スロープの上で待機しているキャストによって立体駐車場へと案内される。
立体駐車場に収まり切れないキャンピングカーのような大型車両や送迎の車両は、左方にカーブさせて平面に誘導する。
長距離などの大型バスは、さらに右方へとターンさせなければならないので、間違いが起こらないように、エントランスをサポートするキャストが一人配置されている。
九月の海風は冷やりとするけれど、忙しく身体を動かせば残暑の熱気で汗がにじみ出る。そのうち車の勢いが緩やかになると、下着にしみ込んだ汗が冷たくなって身震いがする。その時分になると、ゲートの料金窓口が一つ閉じられて暇になる。
エントランス・ポジションで誘導していた殿岡は、ゆるゆると走る車をスロープに見送ると、サポートの必要もなく暇そうに立ち尽くしている若者に近付いて声をかけた。
「君は学生さんかい?」
「はい、そうです。三年生です」
「そうかい、君たち学生さんを見ているとね、本当に感心するんだよ。月曜から金曜日まで大学の授業を受けて、土日をここでアルバイトしていたんじゃあ、遊びたくても時間が無いだろう」
三流の下といえども大学生活を経験してきた殿岡は、土日を犠牲にしてまで働く彼らを本音で敬服していた。
「適当に休みもらって遊んでいますから。それより稼ぎたいんですよ。来年は就活だから厳しいけど、それが終わったら海外をぶらぶら歩いてみたいんです。格安パックの団体ツアーなんかじゃなくて、自分の計画で自分の足で」
「そうか、目標があるから働けるのか」
「殿岡さんは定年で退職されたと聞きましたけど、これまで若い人たちを部下として使ってこられたんでしょう? 面接のノウハウを教えて下さいよ」
年功序列のお仕着せ係長に、部下などいる訳ないだろう。それでも俺は歯を食いしばって定年まで持ちこたえたのだ。これっぽっちのプライドも無いから、俺だからこそできたのだ。野辺に転がる芋虫だって、そのくらいの根性は持っているだろう。
「面接か、そうだなあ、面接ねえ」
いまどきの就活でどんな面接が行われるのか、殿岡には見当さえつかなかった。いっぱしの回答を示唆できるくらいなら、自分の人生だって変わっていた。目的を持って前向きに生きようと戦うお前らには、敵わないよと空を見上げて言い放った。
「好きなこと言えばいいんじゃないのかい。下手に気取って言葉を飾ればボロが出る。社長になりたいくらい言ってやれよ。就活なんて、くじ引きみたいなもんだろうから、たくさん引いてるうちに当たりが出るよ。人より目立つ方が良いだろうから、いっそ茶髪で行ったらどうだ」
破れかぶれというか、やけくそというか、自暴自棄な殿岡の言葉に若者はピクリと反応して問い返した。
「殿岡さんは社長になりたかったんですか? 経営者になりたかったんですか?」
「なりたかないよ。なれる訳ないし。俺たち団塊世代はなあ、どんな小さな会社にだって、就職できるだけで満足だったよ。今みたいにフリーターなんて中途半端な存在なんかあり得なかった。どっかで働かなきゃ食えなかった。面接なんてなあ、ザルですくった雑魚を振るい落とすのが目的だから、よっぽど頭が切れなきゃ駄目なんだ」
「僕はロボットに興味がありまして、そのような分野を積極的に取り組んでいる企業ってどんな会社でしょうか。自動車とかはあまり気が進まないけど、殿岡さん、コネがあったら紹介して下さいよ」
ロボットといえば手塚治虫の鉄腕アトムか、真鍮製の鉄人28号しか記憶にない。そんな漫画の世界を、面接でどう繕えるのか見当もつかない。
「君は漫画を研究しているのか。そういえば、海外でも日本の漫画が注目されて、ブームになっているらしいが」
「いえ、ロボット工学です。生産性を上げるために、産業用機械の遠隔操作とか、それに人間の義足なんかも。最近は電子科学や情報通信も進化していますから、IOTも関わってくる。ロボットの知能が人間を凌駕する日が必ず来ると、僕は確信しているんですよ。だからこそ、シンギュラリティの概念を究極まで学んでみたいんです」
殿岡の脳味噌は、煮凝りのように凍結して動きを止めた。その煮凝りから滲み出た冷や汗が、辛うじて殿岡の矜持を繋ぎ止めた。それが底辺を生き抜いてきた者の、いつものやり方だと心得ていた。
「そうだ、これからの日本はロボットだ。君のように前途有望な青年は、くだらない会社に就職するよりも、大学院に進んでノーベル賞でも目指した方が得策じゃあないのかね」
三流といえども大卒として、町工場の総務に配属されて約四十年、機械に触ることも注文することもできなかったが、経営改善だとか合理化だとか、答えを見つけられない難題に苦しみ、定年間際になってようやく机上にパソコンを押し付けられた時、工場にもロボットを導入すべきだという会話を耳にしたような気がする。
そんな事に関心はなかった。若い人たちの昇進にも女性の台頭にも無関心を装い、ひたすら保身を守り続けて定年を待った。しかし今、目の前にいる学生は違う。具体的な目標を定めて、夢を描いて前を見ている。学び抜いて可能性を可能にした時、この青年は人間として輝けるのだろうか。輝くという意味は、そういう事なのだろうか。
「殿岡さん、危ないですよ。バスをターンさせますよ」
後ろに飛び退ってバスを誘導する学生が、殿岡にはすでに輝いて見えた。先程までは貧乏臭い顔つきの、親の脛をかじって生きている、空中に漂うゴミのような存在だと思っていたのに、ゴミは自分だったのだと思い直した。
魔法エリアのエントランス・ポジションの上空には、成田から飛び立つ国際線のジェット機や、羽田に向かう旅客機が途絶えることなく行き交っている。
上を見上げれば空と雲、夜空を仰げば月と星、殿岡はいつも上ばかり向いているような気がする。空は無慈悲なようで活きている。自分の存在を確かめる為に空を見上げる。
交代が来て休憩室に戻ると誰もいない。自動販売機にコインを入れて缶コーヒーを飲む。整理、整頓、清潔、清掃と書かれたポスターが、掲示板のど真ん中にピン止めされている。
隅っこに座ってコーヒー缶を舐めていると、一人二人と戻ってくるのは学生たちで、スマホやゲームの話題でやたら喧噪になる。隣接する事務室の戸口から、リーダーと雑談している明子の声が聞こえて何気なくホッとした。
ーセカンド・ポジションー
次のポジションを確認するとパーカーと記されていた。六名の名札の横にパーカーと記されて、そのうち四人が男女の学生らしかった。
倉庫の横から自転車に乗り、六人で立体駐車場へと向かう。
事務所から平面エリアの端を通って立体駐車場へ向かう曲がり角に、緊急駐車エリアの入口がある。
平面に駐車しているバスなどの出口でもあり、七階建ての第二立体駐車場へ向かう歩道とも交差している。そこはクロスと呼ばれるポジションで、一人のキャストが立哨している。
クロスのポジションに妙子が所在なさそうに立っていた。立体駐車場に向かって交代に向かう学生キャストたちを、未熟者に舌打ちをするような渋い目つきでやり過ごし、後ろからのろのろと走る殿岡を見つけて片手を上げた。
「ジジイ! 屋上から落ちて死ぬなよ」
まだ還暦にしてジジイと呼ばれることは屈辱だけど、妙子に呼ばれれば嬉しく思える。
これまで町工場の社員として総務職を全うするために、社内外の人物の性癖やら顔色を窺いながら、よそよそしさを身上として生き抜いてきたから、タメ口を利くことも利かれることもなく、親しい友などできなかった。
だから、人見知りも陰ひなたもない妙子の捨て鉢な暴言が、荒涼とした心を癒してくれる。
「妙子、何やってるんだ、そんな所に突っ立って」
自転車を漕ぎながら殿岡が言い返す。
「仕事に決まってるだろバカ。危ないだろ、後ろ向いてふらふらしてちゃあ。早く行きな。学生なんかに舐められるんじゃないよ」
五階建ての立体駐車場には従業員用のエレベーターは無い。鉄骨建屋の一層は高いので、裏階段の段数も多い。三階までは足も腰もふらつくことはないのだが、四階から屋上までに息が切れて心臓が止まる。それを悟られないように平静を装う。
屋上の風は爽やかで、ごく晴れた日には富士山の輪郭がシルエットになって浮かび上がる。
スロープから上がって来たゲスト車両を屋上の入口で受け止めて、長い直線の通路を走らせる。
第一通路と第二通路が満車だったので、最後の第三通路へと誘導していた。次々に流れて来る車両を、パーカーが左右の白線に合わせて入れ込みをする。
土日だけ勤務の学生たちは責任感も希薄で大雑把だから、とにかく適当に車を流し込んで要領を得ない。あまりにも無造作な扱いにゲストが怒る。
「おいこら、こんなに隣の車にくっつけやがって、ドアを開けて出られないだろう。どうするんだ、おい。済みませんじゃあねえよ。どうするかって聞いているんだよ」
そんなとき殿岡は、関わりたくないと尻込みをする。聞こえぬ振りをしてなるべく遠くへ逃げ出そうとする。
ゲストの怒りが高じてリーダーの耳に入れば、対応したキャストが減点となる。減点が積み重なれば、半年ごとの契約更改の際に解雇を宣告される。それが学生ならば苦言を呈するだけで、減点の対象にはなるべくもない。
意地汚くも殿岡は、まさに知らぬ振りを装って、前方の車両の入れ込み作業に張り付いたまま、横目で成り行きを見澄ましていた。
その時、通路の中継に立っていた女の子が駆け寄って、融通の利かない男子学生のキャストを押しのけると、仏頂面のゲストに頭を下げて対応した。
「お客さま、申し訳ありません。彼は入ったばかりの新人のキャストで失礼しました。面倒で申し訳ありませんが、お車を前方に誘導しますので、移動をお願いできるでしょうか。お客さまのお車は少し大きめなので、二台分のスペースを使用して頂いて結構ですから」
「ああ、そうかい。忙しいのに悪いねえ」
ゲストは納得して悪気もなく、素直に女の子の誘導に従った。女の子は後続の車両を遮断すると、男子学生に目配せをして、ゲスト車両を前方の空きスペースに誘導するように指図した。
臆するよりも、とっさの機転に美しさを見た。女の子の気迫と所作が眩しかった。普段見慣れている顔ではなかったので、学生のキャストに違いないと思った。何学年で何年ここに勤務しているのかを知りたかったが、心の中を見透かされたくないという後ろめたさに、問いかける気にはならなかった。
だからといって殿岡は、己のいじけた根性を蔑んだりはしなかった。自分の思慮した逃げ腰の行動は、その場をしのいで身を守るべく、生きるべき信条に揺るぎはなかった。
対応を終えた女の子は、再び通路の中継に戻り、何事も無かったように大きな動作で誘導を続けている。帽子の後ろに束ねたポニーテールが、頭の動きに合わせてピンピン跳ねる。颯爽とし過ぎている。こんな女性を見ていると、殿岡は無性に腹が立つ。
もしも山内明子がパーカーにいたら、彼女もまた同様に、機敏に対応したに違いない。だけど明子はこの女性とは違う。
どこが違うのか良く分からないが、姑息で愚鈍な自分のような男を受け入れてくれる明子の、彼女自身のか弱さを感じる。
しかしこの女性は、ひたすら前しか見ていない。後ろから来る者を受け入れないというか、蹴落とすことはないけれども一緒に並んで歩こうとはしない。
はなから無益な夢など描こうともしない自分のような風采の上がらない人間を見下すタイプだ。生まれてきたから生きているだけの、魅力も活力の欠片も見出せない男など、腐臭の肥溜めに唾を吐きかけるよりもたやすく無感情に切り捨てる。そんな女に思えて腹が立つ。
第三通路が中程までに埋まる頃には陽も傾いて、車両の動きも緩慢になる。屋上の階段入口に交代のキャストの姿がぞろぞろと現れてホッとする。
交代の自転車でクロスのポジションに向かうとすでに妙子の姿は消えて、男子学生が立哨していた。
休憩室に戻ると隣接する事務室から、リーダーの怒鳴り声が聞こえてきた。叱責を受けているのは二人の男子学生のようだった。
「あいつら平面の駐車場なのに、持ち場を離れて二人で私語を交わしていたらしいよ。この時間だから送迎の車も少ないから、ゲストの対応もしないで話に夢中になっているところを、本郷さんが監視カメラで見つけたらしい」
パーキングエリアにはたくさんの監視カメラが設置されているのだが、ゲストやキャストを監視するのが目的ではない。
エリア全体の駐車状況を常に把握して、ゲスト車両の入場や退出をスムーズに行うために、車両の流れを考慮して迅速な指示を出せるように監視するのが目的なのだが、レンズを望遠にすれば遠くの人物の表情までも細かく確認できるので、サボっているキャストがいれば目に留まってしまう。
「目を付けられていたんだよ、あの二人は。仕事の要領も悪いし、覚えようともしないしさあ、遊びながら稼ぎに来ているって感覚じゃない」
カップ麺にお湯を注ぎながら殿岡は、彼らのひそひそ話を小気味好い思いで聞いていた。いつまでも続くリーダーの叱責の声が、さながら子守歌に擬した快感だった。それは自分が当事者ではないという安堵感と、苦悶する弱者の姿を嘲笑う歓喜雀躍の驕りだった。
他人の失策や不幸を喜び含み笑う人間の性、それが殿岡には強過ぎるのかもしれない。より人間的なのかもしれないし、三流だからこその下卑た心得なのかもしれない。
いずれ譴責の針地獄から二人が解放されてしまうと、風船がしぼんだように気が抜けて、全てが霧消して素面に戻る。
ランチ休憩を終わって次のポジションを確認すると、殿岡朝夫の名札の横に南出口と記されていた。
ーサード・ポジションー
五階建ての立体駐車場から退出するゲスト車両は、一階と二階は北出口へ、三階から五階までは南出口へと通じている。
夢エリアの立体駐車場の出口と違って、出口と外周道路の間に歩道は無いので特別な配慮は必要ないが、薄暗い照明を目印に急カーブさせることになるので、危険のないように赤灯のライトで誘導しなければならない。
出口の周囲は藪に覆われ、駐車場の照明に誘われて藪蚊が集まる。襟首から指先まで虫よけのスプレーをたっぷり吹きかけて交代に向かう。
再び自転車でクロスのポジションを通って立体駐車場の裏道を走る。前方に誘導ライトを振り回している黒い背中が小さく見える。近付いて背中に声をかける。
「妙子、交代だぞ」
「おう、ジジイじゃないか」
妙子が振り向いて額を突き出す。
「見ろ、蚊に食われた。こっちも」
「妙子の血を吸ったのか? 死んでるよ、その蚊は」
「人の血を毒みたいに言うな。ジジイこそ死ぬなよ」
妙子が戻って行くと静寂になる。ゲストの退出時刻にはまだ早い。駐車場からの明かりは樹木と藪にさえぎられて縞模様にほの暗く、外周道路のポールのライトはおぼろげで、沈黙の闇と時間が訪れる。
だからほとんどのキャストたちは、ただひたすら時間の経過を待つだけでは勿体ないと考えて、瞑想にふけって充実できる。
愛とか希望とか夢を見ている若い男女や、豊かな過去や思い出を抱いて生き抜いてきた中年たちは、一人きりで思考を集中させるには絶好の場所でもある。
夢や希望とかろくな過去しか持たない殿岡には、耽られるような瞑想も無く、ひたすら藪蚊と戦っていた。
九匹目をバチンとひっぱたいて、手首に張り付いた血だらけの蚊をつまんでふと考えた。定年までの自分の人生は何だったのだろうかと。
人に尽くすという殊勝な考えは皆無だし、仕事に熱中することも無かったから、裏切られた事は無いし上司に期待されることもなく大きな失敗も無い。
生まれた時から脳味噌が中途半端に眠っているから知能が不全のまま機能しない。知恵が回らないからいつまでも三流のまま人望がない。そんな男が女にもてる道理がない。
提出書類や難しい課題はいっぱいあったが、逃げて回って誤魔化し切った。そのくらいのずる賢い知恵だけは回る。だから、定年間際に係長の肩書を名刺に付されたが、まやかしの肩書に部下などいない。
血だらけの藪蚊と自分が重なった。この蚊は新たな血を求めて、のこのこと此処へやって来た。自分もそうではなかったかと殿岡は考えた。ここで経験する人生は、これまでとは少し違うのではないか。
動機はどうあれ夢を持たない人間が、希望を抱いて応募してきた。ここには会議も書類もノルマも無い。自らの任務を創出する課題も義務も責任もない。出社すれば必ず決まった仕事が待ち受けている。考える必要も悩む心配もない。
時給のバイトだからといえばそれまでだけど、たまたまパーキングエリアに配属されて、人との出会いに恵まれているような気がする。
自分の思想や性格までも変わるとは思えないが、人生の矛先が思わぬ方向へずれて流れているような、可能性という言葉が見えてくる。
とりとめのない思考にかまけているうちに時間はきっちり経過して、交代に来たのは先程リーダーに叱責されていた馬鹿面の学生だった。殿岡は無線機を放り投げるようにして渡し、口も利かずに自転車を漕いだ。
休憩室に戻って次のポジションを確認すると、立駐入口と書かれていた。
ーフォース・ポジションー
立体駐車場の一階の入園口側の通路に、身体障害者専用の駐車エリアが設けられているのだが、夜の七時を過ぎると入場して来る車よりも退出する数が多いので空きスペースが多くなる。
頃合いを見計らって、それまで四階や屋上に案内していた一般車両を一階へと切り替えるのだ。
立駐入口のキャストが車両を通路へと誘導し、奥で待機するフロアパーカーのキャストが空いているスペースに駐車させることになる。
休憩を終えた殿岡が倉庫脇の駐輪場に行くと、すでに一人の女性が自転車にまたがっていた。ちらりと見えた横顔は、屋上でパーカーをしていた際に、怒るゲストに駆け寄って機敏な対応を見せたポニーテールの学生らしき女性だった。
彼女が漕ぐ自転車の後ろに殿岡は追い越すことなく従った。出口かクロスにでも行くのかと勘ぐっていたら、立駐入口を抜けて一階の通路へと入って行った。
「チッ」と、殿岡は舌打ちをした。
立駐入口とフロアパーカーのキャストは、無線機を通じてお互いに連携して作業を行う。お互いに助け合わなければならない場面もある。
暇になれば密かに私語を交わせる場所でもあるので、嫌いなキャスト同士だとやりづらい。
奥で交代を終えたその女性から、無線機で呼び掛けられた。
「立駐入口さん、奥の二ブロックはまだ閉じていますが、手前の空き台数は十二台です。よろしくお願いします」
「はい」
きっちりと状況を連絡してくれた彼女に、殿岡は不愛想に返事を返した。事務室のボードを良く見ていれば、彼女の名前を確認できたのだけど、学生は月に数回しか勤務が無いので、顔を合わせる機会は少ない。いちいち記憶するのが面倒だから、名前も顔もその日限りだと見放している。
ときおり入場して来る車両を送っているうちに、通路から彼女の姿が突然消えた。どうしたのかと案じていたら、無線機のイヤホンから彼女の声が飛び出した。
「リーダーかサブリードの方、緊急連絡です。身障者通路北側の一号自動販売機にコインを入れても缶ジュースが出てこないとお客さまからのクレームです。早急に返金対応をお願いします。金額は二百円です。それまで他のお客さまがこの自販機を使用しないように待機しますので、車両の誘導は立駐入口さんでお願いします」
「了解。今すぐサブリードの本郷さんに、お金を持たせて行かせるよ」
殿岡が答える前に、リーダーの声がイヤホンに飛び込んだ。それにしても、連絡の要領が良過ぎはしないかと殿岡は思った。
もしも自分が対応する羽目になり、リーダーに連絡をするとなれば、北側とか、一号とかまで気が回らずに、金額さえも、問われるまで報告できないに違いない。自販機で待機するなど論外だ。それをこの女性は要領も良く的確に、一発で報告を終えてしまった。
自分は屋上でのパーカーの、融通の利かなかった男子学生と同じではないか。いや、確実にそれ以下かもしれないだろう。
美しいもの、優れたものを見ると腹立たしくなる。石をぶつけて破壊したくなる。美しいものが傷つき汚れ、優れたものが破滅した時、自分の優位性が証明されたような癒しを覚える。いま目の前にあるものは、反吐が出るほど許し難い。
劣等感などという感情は、生まれつき持ち合わせてはいない。嫉妬も無いし羨望も無い。そもそも優等生とか完璧とかいう概念は自分の中に存在しない。だから、その存在そのものが許せない。殿岡の心に潜む歪み根性が、ひねくれた怒りや憎しみを誘発させる。
彼女が学生だとすれば、いま真剣に何を学び、今後どんな男に巡り会い、どんな人生を送るのだろうか。そしてどのように壊れていくのだろうかと、皮肉な妄想を思い浮かべて弄んでみる。
空を見上げればカラスが一羽、立駐入口の木立の上をかすめて飛んでいく。月の明かりを受けて黒い背中がきらりと映える。暗闇にカラスの黒はそぐわない。臓腑の腐りかけた屍をついばむ怖気が走って胸糞悪い。
殿岡が生まれ育った北海道の、野付半島の先端に広がるトドワラを思い出す。不毛な残骸となったトドマツの枯れ木の上から、干からびた獲物を求めてゆらりと飛び立つカラスこそ、マクベスに殺戮をそそのかす魔女を連想させるにふさわしい。
大学時代に先輩から、君はシェークスピアも知らないのかと揶揄された。ハムレットもリヤ王も読んだことがないのかと、大げさに唇をゆがめてあざけり笑われた。
俺と同じ三流の下の大学生のくせに、北海道の田舎町には図書館すらも無かったのかと、都会ヅラして虚仮にしやがった。
ならばマクベスを読めと、二浪の同級生が薦めてくれた。初めて接した西洋文学に、物語の筋や重さや美しさよりも、みなぎる陰湿な闇の暗さが心に震えた。カラスが空を舞う時は、殺戮を予感させる不吉な前兆だとシェークスピアは教えてくれた。
カラスが消えたスロープ下のクロスポジションに、交代に向かう四台の自転車が現れた。二台は出口の方向へ走り去り、一台が殿岡の前で止まって、もう一台は通路の奥へと走り抜けた。
「カラスの小便に気を付けろよ」と、言い捨てて、交代の男子学生に無線機を渡して自転車の向きを変えた。
休憩室に戻ると学生たちも疲れを見せて寡黙だったが、事務室で監視モニターを見詰めるリーダーとサブリードの会話は甲高く、ゲスト車両の退出が一気に始まったことを意味していた。
人工島から湾岸道路へと結ばれる橋梁の幅は三十メートルもあり、通常は片側四車線で通行されているが、午後十時を過ぎると四車線はそのまま高速道路へと繋がり、往路の三車線は復路となって一般道へと車線が変わる。
いずれにしても、東京ファンタジーランドに訪れて退出するすべての車両が、閉園と同時に橋梁の入口へと一斉に集中することになる。それを少しでも緩和するために、夢エリアのパーキングのリーダーは出口の調整をする。
調整された車両の一部が魔法エリアの外周道路に流されて来る。その流れ具合を判断しながら魔法エリアのリーダーもまた、出口の方向を変えて調節をしなければならない。
ーラスト・ポジションー
殿岡が今日の最後になる勤務場所を確認すると、送迎ポジションとなっていた。
閉園時間が間近になると、園内で遊んでいる家族を迎えに来たり、忘れ物をしたり、翌日の前売り券を購入するなどのゲスト車両がたくさん入場して来る。それらを送迎車両として平面の専用エリアに誘導して駐車させる。
同時に同じ通路を通って高速の長距離夜行バスが入って来るので、バスポジションのキャストと協力し合って振り分ける。
殿岡が平面に向かうとバスポジションの猪熊が、赤灯のライトを振って高速バスを誘導していた。
「よお、殿岡さん。送迎の車が溢れそうだから、隣のエリアも開けて使った方が良さそうだねえ。学生の連中は要領を得なくてがさつだから、でたらめに入れ込んで無駄なスペースばかりできてこの有り様だよ」
猪熊が愚痴る通り、送迎エリアの車は斜めに駐車していたり、車線をまたいで二台分を使用していたり、バスの通路にはみ出しかけていたりして乱れていた。
男子学生と交代を終えた殿岡は、猪熊と一緒に隣のエリアを開放し、コーンの位置を整え直して新たに入場してくる送迎車両の誘導を始めた。
本来、送迎の車両は十分間だけ無料と規定されているのだが、迎えのゲストが現れるまで動く気配はないし、強いて追い出すこともしない。
それでも閉園時間を過ぎて十時半頃になると、ほとんどの車両は退出してしまう。その時間には外周道路が渋滞で、出口のポジションに立たされているキャストたちはリーダーの指示で通路を変更したり、元に戻したりの対応に追われて大変だけど、平面駐車場は閑散として仕事の終わりを感じてホッとする。
「今日も終わったねえ」
送迎エリアの乱れたコーンを並べ直しながら猪熊がつぶやく。
「夢エリアの車両はほとんど捌けたようだから、もうすぐ外周の渋滞も終わりそうですね」
無線機で激しくやり取りされる会話を耳にして、殿岡がつぶやく。
「出口はちょっとだけ残業になるかな。わしらは戻りましょうや、時間だから」
帽子を脱いで猪熊が言い添える。
「秋の定期募集で、パーキングにも新人が入って来るらしいですよ。若いのが四、五名だってリーダーが言っていたねえ」
「そうですか。学生もいますかね?」
「学生はねえ、本気で仕事に取り組もうとしないからねえ。週に一度か二度しか来ないから、礼儀も気力も気配りもなしに、存在しているだけで給料が貰えるものだと決め込んでいやがる。真剣に仕事の要領を覚える意欲が無いんですよ。覚えたつもりが次の週には忘れてしまっているしね。まあ、みんながみんな、怠け者ってことじゃありませんがね」
「東京ファンタジーランドでバイトをしたという実績だけで、就活に有利だという噂もあるようだけど、本当にそれだけで評価してもらえるんでしょうかねえ」
「もらえんでしょう。人事担当者の目は節穴じゃないから。ここの教育システムは企業の人事も興味を示しているようだけど、あくまでも人材育成の評判であって、バイト学生の評価ではありませんからね」
「猪熊さん、今日ねえ、随分しっかりした女の子が同じチームにいましてね。多分学生だと思うけど、初めて見た顔なので分からないんですがね、パーカーでのゲスト対応もてきぱきしていたし、自動販売機の報告も正確だった」
「ああ、あいつはね、女のくせに理工学部の四年生ですよ。一年の時から真面目に出勤しているから、他の学生と違ってリーダーの受けもいいんですよ。しばらく就活で休んでいたけど、就職先も決まったようだから年内で辞めますよ」
「理工系ですか。ロボットですかね」
「さあねえ。男がだらしなくなってきたから、女が管理職になって男を顎で使う時代になった。やっぱり女はしおらしく、男を立てて優しくあって欲しいもんですなあ」
コーンを整えて平面からエントランスに向かうと、立駐やクロスのキャストたちも戻って来た。ゲートの先に見える外周道路では、夜行バスや退出車両で渋滞していた。
終礼を終えて事務所を出ると、駐車場の勤務エリアにいるよりも、なぜか暗く寂しさを感じる。
東棟行きのバスを待つ停留所では、アトラクションなど園内勤務のキャストたちも集まって来る。猪熊がいて学生たちもいるのだが、残業だろうか妙子がいない。
半年前の殿岡は、停留所の端っこの柱の陰に佇んで、バスが来るのをじっと孤独に待っていた。ようやく勤務や雰囲気に、慣れてきたのだとしみじみ思った。