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第二章 夢のエリアにて(夏) 

 あこがれて採用が叶って入社した東京ファンタジーランドでの勤務だが、殿岡にとって初日から一か月間は毎日苦痛な日々が続いた。

 何が辛いかというと、各ポジションでの業務を確実にこなせる自信がないという不安はもちろんだが、その日に顔を合わせるキャストの、顔と名前を一致させて記憶に刻む事が難しい。


 パーキングエリアでは二百人余りのキャストが働いている。その日によって夢のエリアと魔法のエリアに勤務が振り分けられるので、毎日同じ顔を合わせる訳ではないから全員のキャストに会えるまでに半月以上を要することになる。

 ようやく一人ひとりの顔を認識しても、名前が瞬時に出てこない。土日ともなると学生アルバイトたちが勤務に加わるので、さらに記憶が混乱してしまうのだ。


 出勤しても話しかける相手はいないし、話しかけられる理由もない。休憩室の隅っこに目立たないように座っておとなしく、薄目を開けてみんなの動静を観察している。

 亀のような自分の存在が邪魔者なのか疎ましいのか、誰かに唾を吐きかけられはしないだろうか、そのようなことを考えながら、一人ぼっちの待ち時間に耐えているのが辛かった。


 

 ーベテラン猪熊いのくま源二げんじ


 そうして三か月を過ぎた頃になって、ようやく身構えていた鎧兜よろいかぶとがひび割れて、気持ちにゆとりができてスッと楽になるのが嘘のようだった。


 妙子が無邪気にジジイと呼んで、殿岡をみんなの会話に引きずり込んでくれた。腫物はれもののように尻込みしていた若者たちが、仲間の扱いにしてくれた。

 中年のベテランたちも気を許し始め、とりとめのない会話を仕掛けてくれる。中でも猪熊源二いのくまげんじのいたわりは有り難かった。


 殿岡がバスポジションに勤務している時だった。幼児の手にした風船が風にあおられ飛んでいきそうになり、慌てて手を差し伸べた拍子に殿岡の耳から無線機のイヤホンが外れてしまった。その際に、エントランスからの指示を聞き洩らしたのだ。

 隣りのエリアから様子をうかがっていた猪熊が急いで駆け寄り、呆然と立ちすくむ殿岡の脇をすり抜けグングンと直進して来るバスの前に両手を振って立ちはだかった。

 

 急ブレーキを踏んで運転席の窓から顔を覗かせた運転手は、どうしたのだと怪訝な表情で構えていたが、猪熊の要求を聞いて怒声に変わった。要するに駐車場所を間違えてしまったのだ。


 猪熊は無線でリーダーの許可を得て、駐車バスの運転手に特例だからと説明をして、送迎駐車場の端っこにバスを駐車させた。当然厳しい叱責を受けるだろうと覚悟していた殿岡は、猪熊のお陰でお咎めは無かった。


「殿岡さん、こんな事はね、一度くらい経験しといた方がいいんだよ。少しも気にしなくて大丈夫ですよ。バスの運転手もね、ゲストを運んでくれる大事なお客様だから、臨機応変に対応して、便宜を図ってやればいいんですよ」

 危機を救ってくれただけでなく、何もできなかった殿岡の責任を咎めることもなく、さりげなく気遣ってくれる猪熊の存在が心強かった。


 

 ー山内やまうち明子あきこの存在ー


 そしてもう一人、猫背の殿岡を親身に励ましてくれる人がもう一人いた。


 デビューから一週間後の朝礼だった。リーダーによる連絡や指示が行われる前に、キャストの身だしなみが必ず毎日チェックされる。

 爪が長く伸びてはいないか、頭髪が耳を覆ってはいないか、女性の化粧はどぎつくないかなど、ゲストに不快感を与えないように、厳しい規律が定められている。


 その日リーダーの視線が、殿岡の靴下に刺繍された黄色いワンポイントの絵柄を捉えた。靴下の色は黒の無地と定められている。そのルールを殿岡は承知していたのだが、慌てて家を出る際に、小さなワンポイントの絵柄までは気が回らなかったのだ。


「殿岡さん、研修の時に教えられたはずですよ。その靴下では今日の勤務は許可できませんよ。それに少し、爪も伸びているようですね」


 リーダーの宣告は無慈悲のようだが当然だった。ルールが守られているから秩序が維持されている。うっかりしましたとか、ごめんなさいとか、ここではどんな言い訳も通用しない。

 愚かさと恥ずかしさに返す言葉を失っていた殿岡に、猪熊源二が助け舟を出してくれた。


「俺が靴下の予備を持っているよ。朝礼が終わったら履き替えなよ」

「すみません、すみません、お借りします」

 

 頭の中を血が駆け巡って上気して、うつむいて指先ばかりを見つめているうちに朝礼は終わった。皆が持ち場へ向かうために動き始めた時、リーダーの脇でじっと見つめていた若い女性が駆け寄って来て、殿岡の腕を掴んで倉庫の中に引っ張り込んだ。


 彼女は自分のバッグから爪切りを取り出すと、殿岡の手を取って親指から小指まで、伸びている爪を手際よく切ってくれた。

 結婚してから一度でも、足の指でも鼻毛でも、女房に切ってもらった事などありはしない。女性に手を触れられるのは、健康診断で血を抜かれる時に、看護師の白衣を羽織ったおばさん以外に思いつかない。


「アキ、これを履かせてやりな」

 女の子に黒い靴下を放り投げて、猪熊は倉庫から出て行った。

「ありがとうございます」


 アキと呼ばれた若い女性は、殿岡の代わりにお礼を言って、爪切りを終えると殿岡の身体を支えるように、靴下の履き替えを助けてくれた。

 そのとき殿岡は夢を見た。キラキラと輝きながら舞っていく、桜の花吹雪を見たような気がした。


「慌てなくても大丈夫ですよ。私も殿岡さんと同じA出口のポジションですから。自転車で一緒に行きましょう」

 


 A出口のポジションでは常に二人のキャストが勤務する。入場して来る車と退出する車が交差するので、衝突しないように交互に誘導する要のポジションなのである。


「遅くなってごめんなさいね」

 アキと呼ばれた女性は、ポジションに着いて素早く自転車を降りると、午前勤務のキャストから無線機を受け取る。自分の持ち場を定めて素早く車両の誘導を始める。

 殿岡も自転車を降りて、交代を済ませて周囲を見渡す。女性と向かい合う場所に立ち、二方向から流れ来る車両にもたつきながらも誘導を始める。

 

 半時間を過ぎて、入場して来る車も退出する車もまばらになると、女性は持ち場を離れて殿岡の傍に近付き、初めて笑顔を見せて話しかけてきた。


「殿岡さんは、パーキングを希望して来たんですか?」

「い、いえ、特に職種は希望しなかったんだけど、園内かなって思っていたから、ちょっと意外だった」


「そうですよね。わたしも園内のアトラクション希望で面接を受けたんですよ。その時は分からなかったんだけど、わたしの面接官がたまたまパーキングエリアのマネージャーだったから、すっかり騙されちゃったんですよ」

「騙された……?」


「はい、そうなんです。アトラクションの希望者は今回すごく多いから、採用は難しいかもしれないねえって言われて。だけど、もしもパーキングエリアの勤務で良ければ、今、決めてあげられるよって。パーキングには若い女の子がたくさん勤務しているし、みんな女性には優しいからきっと楽しく頑張れるよって。それに、パーキングで経験と実績を積んで、アトラクションに移動するキャストもいるって言われて即決したんですよ。ずるいでしょう。その時、わたしの友人は園内勤務に採用されたんですから」


 歯切れ良い口調が小気味よかった。自分みたいな黄昏たそがれ男に、一生懸命に話してくれる彼女の唇が愛おしかった。わずかに残るニキビの痕を化粧で舐めて、尖り鼻に二重瞼が彼女らしさを引き立てていた。

「あの、さっき、猪熊さんからアキって呼ばれていたけど」


「はい。わたし、山内明子やまうちあきこです。高校卒業して勤務したから、もう七年になります。もう二十五歳なんですよ。みんなからアキって呼ばれていますから、殿岡さんもそう呼んで下さい」

「あの、アキさんは、あのう………」


「わたし、まだ独身ですよ」

 殿岡の質問を見越して山内明子は応えて言葉を継いだ。


「母子家庭なんですよ。ていうか、生まれた時から父親がいないんです。だから子供の頃は、ずっと憧れていたんです、父親という存在に。でも、今は何とも思いません。学校の先生や友達のお母さんによく訊かれたんですよ、お父さんは病気で亡くなったのって。わたし、答えられなかった」

「病気じゃなかったの?」


「結婚する前に母が父を捨てたんです。だから、母はとても気が強いんですよ。ここで一緒に働いていた男の友人を家に連れて行って、母に紹介した事があるんだけど、そんな給料で女を養っていけるんですかって迫られちゃって。それ以来、その子は私を避けて口も利いてくれないんですよ。笑っちゃうでしょう」


 笑えなかった。自分の心臓をアイスピックでプスリと突き刺されたようで笑えなかった。彼女を養えなくて逃げ出した男の子よりも、母に捨てられた父親を思い描いて笑えなかった。

 

 生まれてから社会に出るまで、幸か不幸か殿岡は何も考えずに生きてきた。宿題を忘れても平気だったし、遅刻をしても気にしなかった。成績が悪くても咎められはしなかったし、苛めにも合わなかった。

 努力すべき目的が無かったから、競争心とか頑張る覚悟とかが根付かないまま大人になった。感情が希薄だったせいか、他人を羨む気概もなかった。生きるために懸命に戦うという自覚がまるで無かったから、誰からも無視されてきた。その成れの果てが今だ。


 しかしこの娘は、生まれた時から自分の運命と戦っている。生まれた時から父親がいないという心の在り方が殿岡には理解できない。

 母親だけが働いて生活を支える。赤ん坊の頃から男の匂いがしない。炭酸の抜けたコーラのような家庭だろうか。心にひずみは無いのだろうか。孤独な嘘にまみれて卑屈に悩んだ事は無いのだろうか。どうしてこんなに明るく親切に振る舞えるのか。自分の姿が愚鈍な豚に思えてしまう。


「あとで、殿岡さんのメルアド下さいね」

 殿岡は、彼女の言葉に耳を疑った。交差して走り抜けた車両のエンジン音に塗れて聞き間違えたかと思って問い返した。

「えっ、メルアド?」


 いつも首からぶら下げている殿岡のガラパゴス携帯に、何人の女性のメルアドが登録されているというのか。考えなくとも直ぐに分かる。女房と娘以外にあり得ない。

 女性からメルアドを求められるなんて、生涯考えた事もないハプニング、いや、アクシデントだろうか。


 殿岡は「はい」と応じたが、彼女からメールが届くことも、彼女にメールを発信することも永遠に考えられないと確信していた。社交辞令とはこういうものだと、この程度のことは社会で学んできたつもりだから。

 それでも羨んでみたこともある。若い男女は会話をするように、気楽にメールを交信して意思を通じ合っている。そこに自分を置き換えて、若い女性と自らの姿を思い浮かべて身がすくむ。

 不謹慎にも、破廉恥にも、セクハラを意図してよだれを垂らす醜い老人の姿が目に浮かぶ。

 


 ーランチタイムー


 とりもなおさず三枝妙子や猪熊源二や山内明子の優しい励ましを受けながら三か月を経て、ようやく殿岡は休憩室の空気にもなじめるようになってきた。

 真夏の太陽は日差しが強く日照時間も長い。夕日が沈む直前にランチの時間が回ってくる。帽子の内側に噴き出た汗を拭いながら休憩室に入ると適度な冷房が心地良い。


 バッグからカップ麺を取り出した殿岡は、お湯を目いっぱい注いで麵をすする。いつものように黙ってズルズルと麵をすすり咀嚼そしゃくしていると、周囲の話し声が耳に入って聞き耳を立てる。

 

 二万人余りのキャストが東京ファンタジーランドで働いている。その七割か八割が学生を含めて二十代の若者たちではなかろうか。彼らの会話や噂話を総括すると、どこか似たような世界があったような気がする。


 たくさんの若い男女が日常的に接すれば、様々な恋愛が生まれて交際が始まる。自由奔放な触れ合いのなかで、同棲や不倫や嫉妬や破滅が繰り返される。それはあたかもマスコミのゴシップとして報じられる、華やかな芸能界の縮図ではないか。


 新人が入れば男は女を値踏みして、女は男の器量を推し量る。食べ飽きた恋は腐肉のように捨てられて、新鮮な香りの出会いに目を輝かせる。

 飽食しているのか飢えているのか、不器用な団塊世代の殿岡には分からないが、傷ついた小魚たちの群れのようにも見える。

 


 江川俊介と三枝妙子も、そのような小魚たちの一組かもしれない。二人は半年前から西船橋のアパートで同棲していると、猪熊源二が言っていた。


 江川の父親はメキシコのホテルに店を構えて、日本からの観光客や企業を相手に宝石商を営んでいたという。メスティソの血が混じる江川の顔は赤黒く、濃い眉毛と真っ白い歯並びが顔つきを引き締めている。二十七歳という若さと陽気な振舞いが、風貌をより多感に見せている。それが魅力に感じてしまうのか、女性たちからイケメンとニックネームで呼ばれているのだ。

 

 妙子は高校を卒業したと言いながらも、ろくに漢字も読めない不良の匂いのプンプンとする感情むき出しの奔放さだから、感情を抑えて陽気な江川と、あけっぴろげに容赦のない妙子の感性が、一時の微妙な相性と重なって仲良く寄り添っているのかもしれない。


「おい江川、そんな物ばっかり食ってると、そのうち栄養失調になってくたばっちまうぞ」

 カップラーメンの残り汁をジュルジュル流し込んでいる江川に、勤務から戻って来たばかりの猪熊が声をかけた。


「猪熊さん、他人のことなんか言えないんじゃないですか。健康診断の結果が出たんでしょう? また、お咎めがあったんじゃないんですかね、健康管理室から呼び出し食らって」

 したり顔で江川が切り返すと、開き直った素振りで猪熊が愚痴る。


「やかましい。この年になるとなあ、病気の無い奴が異常なんだよ。それが一つ増えたぐらいで、大騒ぎする方がおかしいんだよ」

「また一つ増えたんですか? いい加減に酒も煙草もやめないと、本当に病院行きですよ」


「うるせえ。いまさら酒がやめられるか。人間をやめちまえって事じゃねえか。お前もなあ、今のうちに規則正しい食生活を送ってねえと、身体中の血が泥みたいに濁っちまって、皮下脂肪も溜って動けなくなるぞ」

 江川の隣でコンビニ弁当を開いていた妙子が、猪熊をなだめるように口を挟んだ。


「まさか癌で死ぬわけじゃないんだろう、オヤジ。いつまでも男やもめで突っ張ってるから、身体に蛆が湧いてガタがくるんでしょうよ。かあちゃんが死んでもう十五年になるんだろう。その年ならまだいけるから、老人専門の婚活でもやってみなよ。あたしが婚活サイトで探してやろうか」


「お前なあ、可愛い顔してんだから、少しは年寄りをいたわって、優しい言葉の一つくらいかけてみせろよ。健康診断のたびにメゲてるんだから。俺はもう五十二だぞ、いまさらババアを相手に婚活なんてできるか」


「だったらさあ、やせ我慢してクソ臭い納豆ばかし食ってないで、食べ放題のバーベキューで旨い肉でも食べて酒飲んで、生きられるだけ生きたらいいじゃないのさ。健康診断の結果なんて気まぐれだからさ、あたしのメンスと同じだよ。周期的におかしな血が流れて出るんだよ。そのたびにメゲてたんじゃあ、チャリのペダルも踏めなくなるよ」


「そうだなあ、妙子の言う通りかもしれねえなあ。チャリのペダルも踏めないようじゃあ、パーキングの仕事は勤まらねえもんなあ。だけどなあ、医者から小言を言われるなら仕方がないと我慢するけど、事務の奴らに呼び出されて、罪人扱いされたかねえよなぁ」

 白髪交じりの頭を撫でながら、唇を歪めて弱音を吐露する猪熊に、妙子の言葉が追い打ちをかける。


「安心しな、オヤジ。死んだら、あたしが骨を拾ってやるから。棺桶だけは自分で買って用意しとけよ」

 休憩室に爆笑が広がり、みんなが食事を終わる頃には陽はとっぷり暮れて、各々が赤色の誘導ライトと夜間用の蛍光ベストを持ち出して、ホワイトボードで次の勤務場所を確認する。

 


 ーランチ後のサード・ポジションー


 殿岡朝夫と林田高志はやしだたかしの名札の横に、バスポジションと記されていた。


 林田は気さくな細身の中年で、高齢の殿岡には気を使って親切なのだが、選り好みの激しい性格の故か、嫌悪な態度を露わに示す相手も多く、リーダーを困らせる時もあるらしい。


 殿岡は林田に声をかけられて、一緒に自転車でバスポジションへと向かった。駐車エリアのすべてのポールにライトが灯され、夜の勤務の佳境に入ることを知らされる。空を見上げると月、そして雲。


 交代を済ませてバスの状況を把握するために、二人で駐車場を一巡したところで各々の定位置に着くと、しばらくして林田が近寄って来た。

「今日は二時間しか眠ってないんで、休憩でおにぎりを食べたらもう、目が開かなくなっちゃいましたよ」


「今日って、昨夜は寝てないんですか?」

 殿岡が問い返すと、小さな嘆息をもらして林田がしゃべり始めた。


「いやあ、殿岡さんだから話せますけどね、ここだけの給料じゃあ子供を養っていけないじゃないですか。ですからね、ここで勤務を終えたら浦安のコンビニで深夜勤務をしているんですよ、朝の九時まで。女房は土木の現場で働いていましてね、出勤の日も時間も不定期なんですよ。しかもパートだから給料も安い。小学生の男の子がいますから、お金が掛かるんですよね。私ね、大学を受けたんですが、見事に落ちて浪人もできないから、運送会社に入ってトラックの長距離をやっていました。女房とは九州の飲み屋で出会った腐れ縁ですよ。それから腰を痛めちゃいましてね、しばらくは頑張ってみたんだけど、無理だと思って辞めました」


「そうですか、腰を痛めたんじゃあ辛いですね。ここでの勤務は大丈夫なんですか?」


「ここでは適当にやっていますから、平気ですよ。でもね、長距離の運転はとても耐えられなかった。ところで失礼ですけど殿岡さん、ご夫婦円満ですか?」


「円満というより、まあ無風というんでしょうかねえ。お宅は円満じゃあないんですか?」


「女房がねえ、休みの日とか遅出の日とか、朝起きてくれないんですよ。不貞腐れているのか何なのか、朝飯も昼飯もろくに作ってくれないし、久しく口も利いてくれません」


「共稼ぎなら仕方がないでしょう。奥様も苦労でしょうから」


「いやいや、長男がまた大変でしてね、小学校から何度も呼び出しくらって、遅刻だ、ケンカだ、万引きだって、いつも私が謝りに行くんですよ」


「なかなか頼もしい息子さんじゃありませんか。ひ弱に苛められて泣いて帰って来るより、余程いいじゃありませんか」


「いやいや他人事だと思ってそう言われるけど、学校もPTAには弱いですからねえ。いろんな役員がいまして。この前なんか校長まで出て来て、一度PTAの役員をやってもらいたいなんて脅されて、断るのに往生しましたよ。ところで殿岡さんは奥様と、あっちの方は元気にやっておられますか? 月に一回とか、まさか週一はないですよね、そのお年ですから」


「まあ、気の向いた時という感じですかね」


「そうですか。私なんか女房と一年くらいセックスレスですからね。だからここの勤務を終わった後に、深夜で勤めているコンビニの若い娘とたまにやっているんですよ。実は今朝も九時に上がって、二人でそのままホテルに行ったもんで、睡眠不足なんですよ」


「元気ですねえ。というより、若い女の子にもてて羨ましい限りですねえ。まさか奥様公認の不倫ですか」


「うすうす知っているというか、まあ、知っていますね。だからどうするって気もないんです。やっぱり若い子がいいですよ。アキちゃんや妙子が前を歩いている姿を見かけると、後ろから抱きしめてオッパイを握りしめてやりたくなりますよ。やっぱり小柄な若い子が好きですねえ」

 

 殿岡は、林田の生き方と自分の過去を比較した。自分と同じ三流レベルの人生かもしれないと思ったが、いじけ腐って輝けない自分よりも、奔放に人生を楽しんでいる林田に敗北感を抱いてしまった。


 彼の生き方が真っ当に正しいとは考えないし、妬ましいとも思わない。ただ、野生の小獣のように自由気ままに生きていける本能的な行動力と特異な自信が、惨めったらしくも既成の枠からはみ出せなくて、うずくまっているだけの自分を嘲笑っているように思えてならない。


 趣味も無ければ特技も無い、ましてや女にもてたいと期待した事もない。酒といえば焼酎ばかりで、ブランデーやシャンパンの味すら知らない。赤とか白とかワインを嗅いだ香りも遠い昔に忘れてしまった。 

 可能性とか興味とか、努力を強いられそうな試みには腰が引ける。何事にも懐疑的で不器用な性格だから仕方がないと決め込んで、ひたすら三流という立場に馴染んで生きて来た。だから余計に、林田の生き方に卑下されているような虚しさを覚える。

 ただ一つ救われるのは、今の生活から逃げ出すことができない林田と、希望を求めて飛び込んできた殿岡の、決定的なモチベーションの違いによる優位さだった。

 

 キャストは時給のアルバイトだから、テーマパークの華やかさに憧れて入社した若者たちも、昇給のない生活が将来の希望に結びつかないことに気付き、新たな世界に望みを託して去っていく。

 ところが四十代や五十代の人たちは、厳しい社会の様々な現実に直面し、そこから逃れて辿り着いたついの職場だから、諦観の境地にして辞めて行く人は少ない。四十歳の林田高志も、五十二歳の猪熊源二もそうだろう。


「殿岡さん、交代が来たようですよ」

 遠くに見える自転車の、小さな二つのライトを指差して林田が囁く。一人での勤務場所では交代の時間までが長いけれど、二人で無駄話をしているといつの間にか時間は過ぎる。

 バスの通路と歩道の間を抜けて、ゲストの流れを避けながらライトが近付く。雲間に漏れる月明かりでは、よほど近付かないと男女の区別さえもつかない。


「お疲れさまです。殿岡さん、交代ですよ」

 二台の自転車が止められて、林田の方へは男性が走り寄り、殿岡に声をかけてくれたのは山内明子だった。


「何か引き継ぎはありますか?」

 明子の問いかけに、無線機のイヤホンを耳穴から取りはずしながら、言葉を上ずらせて殿岡が応じる。


「特に何も……。あっ、あの、アキさん、送迎のバスが増えてきたから、団体のバスに戻るゲストも増えてきたから、気を付けて……」


 妙子や他の女性たちには気後れすることはなくなった殿岡だが、明子と向き合った時にだけは上気して、ぎこちない言動になるのがもどかしい。

 恋を知らないうぶな少年が、年上の女性を見初めて顔を赤らめる場面だろうか、それとも恋を失った青年が、諦めきれない罠に嵌まって落ち着きを失った瞬間か、いずれも違うような気がする。かつて殿岡が体感したことのない、不可思議な心の動揺だった。


 明子は父親という存在に、強い憧憬を抱いているはずだ。その既成の額縁に、殿岡の穏やかな姿を嵌め込んでいるのだろうか。殿岡と同じ勤務の日には、ポジションでも休憩室でも必ず寄り添い、何かと気遣いを示してくれる。娘でさえも見せたことのない豊麗な眼差しが、小賢しく底辺ばかりを睥睨へいげいしてきた殿岡の精神を錯乱させる。

 後ろから抱きしめて乳房を握りしめたいのは、林田ではなくて自分の方ではないのかと、殿岡は胸の内で赤面していた。


「はい、了解です」

 そう言って配置に着く明子を残して、自転車のペダルを踏み込んだ。



 ー休憩室での噂話ー


 休憩室に戻ると熱中症対策の塩飴と、数本のスポーツドリンクがテーブルの脇に置かれていた。塩飴を一粒口に放り込み、ドリンクを一気に喉に流し込む。全身の毛穴から滲み出た汗と引き換えに、胃から腸へとジワジワと水分が吸収される。

 

 部屋の隅に腰を下ろし、帽子のひさしをうちわ代わりに風を送っていると、隣に座った女の子たちの話し声が耳に入る。


「遠山くん、来月で辞めるらしいよ、知ってた?」

「うっそー、いつかリードになりたいって、園内研修や臨時講習なんかにも積極的に参加して頑張っていたのに。その事、アキさんは知ってるのかな?」


「だって、アキさんから聞いたんだもの。アトラクションの彼女と付き合っていてさあ、結婚したかったら普通の会社の正社員になって、一人前の給料を貰えるようになりなさいって、檄を飛ばされて決心したらしいよ」

「マジ? それで就職先を見つけられたの?」


「うん。飲食関係っていうだけで、詳しいことは分からないよ」

「いつから付き合っているんだろう、その彼女と」


「園内研修で知り合ってからね、半年前から同棲しているんだってさ。ブスだって妙子が言ってたよ」

「彼は真面目で気が弱いからねえ。せっかく七年も頑張ってさあ、もうすぐサブリードになれそうだっていうのにね」


「妙子がね、あたしが結婚してやるから、そんな女と別れちまえって冷やかしてるらしいよ」

「遠山くんってさあ、アキさんと同期入社でしょう。何となく仲良さそうだからさあ、もしかしたらって思っていたんだけどなあ。見当違いだったか」


「あのさあ、来週の火曜日にね、アキさんちでケーキ作るんだけど、一緒に行かない?」

「へえ、いいなあ。チーズケーキとか作りたいなあ。でも、その日は出勤だからダメだよ」

 

 とりとめのない彼女たちの会話はあどけなくて心地良い。それに比して、テーブルの向こうから聞こえてくる男たちの会話には剣呑な、どす黒い嫌味や妬みがみなぎっている。


「尾車さんのラブレター事件を知っていますか?」


「みんな知ってるよ。祥子が受け取ったラブレターを妙子に見せたものだから、あっという間に噂になってリーダーの耳にも入ってしまったんだろう。尾車さんも、いい年こいて、何で書面になんかしたんだろうなあ。メールじゃ気持ちが伝わらないと思ったのかねえ。祥子だってびっくりしただろうよ、二十も年が違うおっさんから、そんな手紙を受け取ったんだから」


「問題はその後ですよ。祥子を倉庫裏に呼び出して、なぜ手紙を妙子に見せたのかって厳しく詰問して怒鳴りつけたから、祥子は泣き出しちゃって、サブリードの本郷に相談したら、そんな精神状態じゃあ仕事に差し支えるからって、その日は家に帰されたんですよ。当然リーダーやマネージャーに報告されて、尾車さんは呼び出されて注意を受けたらしいけど、次の契約更改はヤバイという噂ですよ」


「泣かしてしまったんじゃあまずいだろうよ。イジメやセクハラはご法度だからな。ここは厳しいからねえ。俺らキャストには何の権利も反論もできねえから。あの年でクビになったんじゃあ、辛いだろうなあ、尾車さんは」


「ところがねえ、尾車さんはマネージャーに貸しがありますからねえ」

「何だよ、貸しって?」


「尾車さんは岐阜県の飛騨高山の生まれでしてね、毎年春と秋に高山祭が開催されるのは有名でしょう。その祭りの屋台が曳き回される絶好の通路に面した場所に、尾車さんの実家の建屋があるらしいんですよ。からくり人形の屋台なんかが十台以上も曳き揃えられて、夜には百個もの提灯がともされて、そりゃあ豪華絢爛らしいですよ」

「それが貸しと、何か関係があるのか?」


「高山祭の前日から、毎年マネージャーを泊まらせて郷土料理の接待をしているんですよ。マネージャーだけじゃありませんよ、アトラクション担当の女性たちも一緒らしいですよ。尾車さんの奥様が先に帰省して準備を整えるそうだから、まあ大変でしょうねえ」

「なるほど、それでこの件はうやむやってことか」


「いや、一応マネージャーとしての立場がありますからねえ。契約更改までに祥子の気持ちの動揺を取り払って、イジメではなかった風に装えれば、事なく済ませられると考えているんじゃないでしょうか」

「ふーん、出来合いの契約更改ってことか。来月が楽しみだなあ」

 

 岐阜の郷里では神童と呼ばれ、一流の大学を卒業して一流の企業の営業として、銀座も赤坂も自分の庭のようだったと常々尾車は豪語していた。そんな英雄が、定年を待たずにこんな場所で時給のバイトに甘んじているのは特別な理由があるはずだ。


 美しい伊万里の絵皿の白ぶちに、ピシリとひび割れが生じて価値が失われる。価値あるもの、美しいものが傷付いて、瓦解していく姿が無性に嬉しい。

 そもそも価値のない殿岡にとって、価値あるものは目障りで、比較されるのが鬱陶しい。ところが、価値あるものに亀裂が生じ、じわりじわりと壊れて行く様を冷ややかに眺めていることは、背筋が震えるほどに快癒を感じる。

 これ以上壊れることのない己を、卑下する必要も無くほくそ笑むことができるのは、まさにその事実を実感できる現実だった。尾車の過去など知らないが、男たちの話には、くさい臭いがほとばしる。

 


 ーラスト・ポジションー


 ふと部屋の掛け時計に目をやると、針が休憩時間の終わりを示している。ボードでポジションを確認した殿岡も、誘導ライトを手にしてぞろぞろと、皆の後ろについて出口へ向かう。


 ラストのポジションは立体駐車場の出口で、妙子と二人での立哨だった。一、二階の車両が右の通路に合流され、三階と四階の車両は左の通路に合流される。そして二本の通路が出口で合流して車道へと繋がるのだが、出口と車道の間には歩道が横切っている。その歩道に自転車や歩行者たちが通り過ぎる。


 無灯火や二人乗りの自転車、スマホを手にして周囲の動きに無関心な歩行者、人工島にいる人たちは、みんな大切なゲストに違いない。彼らの安全を守るために、誘導ライトをかざして出口の車をそのたびに停止させる。

 

 十時を過ぎると一斉に退出の車両が殺到して、反対の歩道の様子が見え難くなる。出口の両端に立つ殿岡と妙子は、大きな声をかけ合って自転車や歩行者の動きを伝える。

 小柄ながらも妙子は敏捷で、殿岡の背中に迫って突っ込んで来た自転車を、機敏な動作でさばいて見せる。呆然と口を開けてもたつく殿岡を、眉をしかめて睨み付ける。


 車道の向こうには防波堤の切れ目があって、駅まで続く長い橋梁が黒いシルエットとなってアーチを描いているのが見える。

 等間隔に灯されたライトの並びが、あたかも龍の背中を連想させる。そしてその上を這うように、ゲストを乗せたモノレールが駅に向かう。

 

 立体駐車場からほとんどの車両が出尽くして、妙子は赤く灯った誘導ライトをくるくる回して弄んでいる。襟首に痒みを覚えて手をやると、藪蚊に刺された肌が平たく腫れている。爪で引っ掻いて傷ついた肌に汗が沁みて痛痒い。


 最後のポジションでは交代が来ないので、時間を見計らって勤務を終える。妙子がじれったそうに腕時計を何度も見直す。暇になって動きが止まると、なかなか時間も進まない。

 ようやく最後の勤務を終えて休憩室に戻ると、テーブルの上はきれいに片付けられて、疲れている筈のみんなの表情は、一日の仕事を終えた充足感でほころんでいる。

 


 ーアフターワークー


 一日の反省や注意を交えた終礼を終えて、いつものようにタイムカードを切って事務所を出ると、歩道の先で山内明子がバッグを持って一人で佇んでいた。


「あっ、殿岡さん、一緒に帰りましょう」と、声をかけられ面食らった。

 明子が自分を待っていたのか。いや、そんな事はあり得ないといぶかったが、自分の後ろには誰もいる筈がない。明子には父親がいないから、自分を慕って待っていてくれたのだろうか。


 かつて女性を待たせた経験も、声をかけられた事もなく年を重ねた殿岡にとって、でき得る判断はそこまでだった。

 だから単純に嬉しかった。夢にさえ見たこともない現実が、卑賎な疼きを湧き上がらせて、殿岡の頬を緩ませ歩みを大股にした。


「アキさん……」

 不惑の笑みを浮かべて歩み寄ろうとしたその時、明子の笑顔が消えて殿岡の顔から視線がそれた。視線の先には倉庫から飛び出して来る妙子が見えた。一瞬の胸のときめきが冷や汗に変わった。


「なんだ、ジジイも一緒に帰るのか」

 妙子が見上げて邪険に言うので、殿岡も問い返す。

「倉庫で何していたんだよ?」


「忘れ物だよ」と妙子は言って、小さく折り畳んだ黄色のカッパを見せてバッグに仕舞った。

「昨日の雨で濡れたから、倉庫で乾かしていたんだけどさ、休憩時間に仕舞うのを忘れていたんだよ」

 

 そう言うと妙子は明子と並んで、さっさと前を歩き始めた。二人の弾む会話の後ろで、すごすごと殿岡は口も挟めずに歩くしかなかった。

 時折、明子が気を使って振り向くだけで、彼女たちの話題に踏み込める程のネタも甲斐性もないことを殿岡は自覚している。


「ねえ、ジジイ。腹減ったからメロンパン食わせろよ」

 いきなり妙子が振り向いて言った。

「メロンパン?」と、殿岡は聞き返す。


「駅前のコンビニは夜中の十二時までやっているんだ。あそこのメロンパンは美味しいんだよ。イチゴ味とか抹茶メロンもあるんだよ。ねえ、アキ」


「あんた、殿岡さんにたかっちゃダメでしょう」

 明子を制して殿岡は喜んで応じた。

「うん、メロンパンおごるよ」


「やったー! コンビニの横のテーブル席で食べて行こうよ」

 やったー、と喜んだのは妙子よりも殿岡だった。これまでの殿岡の人生で、女性と席を同じくして食事をしたのは、小学校の給食の時以来に記憶はない。さらに言えば、気の向かない結婚式での披露宴だったろうか。


「早く着替えて、バス停で待ってるよ」

 妙子が叫んでそれぞれのロッカールームに別れる。夜とはいえ三十度を超える昼間の外気が尾を引いて、東棟に入ると一瞬の冷気が肌に触れてホッとする。

 しかしそれも束の間で、ロッカールームに向かうとキャストたちのこもった熱気が満ちて、冷房装置はグルグルと喘ぎながら充分な効果など期待できない。

 

 殿岡と妙子はロッカー前で背中合わせに着替えを済ませ、人工島から駅までの従業員専用のバス停に行く。明子はすでに停留所で待ち受けて、猪熊や林田の姿も見掛けたが、彼らを無視して最後部の座席を三人で占領した。


 動き出したバスが長い橋梁を渡り始めると、後部座席の窓越しに東京ファンタジーランドのイルミネーションが湾上に浮かび上がってどんどん小さくなっていく。


 駅前のバスターミナルで降りて階段を上ると、正面のコンビニにはまだたくさんの人影が見えた。レジの横にパンコーナーが設けられ、そこに三つのメロンパンが売れ残っていた。

 コンビニ横のテーブルで、三人はメロンパンをぱくついた。


「今日、江川くんは休みだったの?」

「ずる休みだよ」

 明子の問いに、妙子は素っ気なく答える。


「どうして、ずる休みなんだ?」

 殿岡が素早く言葉を挟む。ここで会話に割り込まなければ、明子と妙子のやり取りに疎外されて、一人でメロンパンをかじり続けることになる。

 自分から話題を切り出せる程の素養もないし勇気もない。だから、出された話題に乗じて闇雲に入り込むしか術を知らない。若い女の子が二人かたわらにいて、同じテーブルを囲んで会話ができる。ワクワクしてドキドキする。せっかくメロンパンで愉悦のチャンスを得られたのだから。


「あいつさあ、お金の認識が甘いんだよ。あたしの稼ぎとあいつの稼ぎを一緒の財布に入れようって言うんだよ。あいつの親父は昔メキシコで宝石売って稼いだらしくてさあ、息子に厳しくしないから、お金にだらしがないんだよ。痛くもない腰が痛いって顔してさあ、あたしの稼ぎでゲーセン行って遊んでいるのさ」

「あんたが好きになったんだから仕方がないけど、彼は本気で結婚を考えているのかしら」

 

 たしなめるように明子が言ったが、殿岡には、人を好きになるという感情が立体的に理解できなかった。

 明子にほのぼのとした憧れを抱いたけれど、それは好きという感情とは程遠い。その感情と結婚とが、具体的に結びつかない。


「彼の親父さんはお金持ちなんだろ。それじゃあ帳尻が合わないのかな?」


「殿岡さん、そんなの無茶ですよ。二人で生活していかなくちゃいけないんだから。江川くんが本当に妙子の事を思っているなら、真剣に働く覚悟を持ってくれないと」

 殿岡のちぐはぐで無責任な言葉を否定して、明子がぴしりと言い切った。


「金銭にルーズな奴って性格だから、結婚しても絶対に変わらないよ。俺は見合いの結婚だから、好きって感情がよく分からないけど、同棲なんかやめて別れてしまえよ」


「だからさー、あたしだって悩んでいるんだよ」

 論理的には単純なのに、好きという感情が分からないから悩む理由が理解できない。それでも殿岡は一生懸命考えてみた。好きとか恋とか愛という言葉は知っているが、一つ一つを実証できなくて空回りする。

 明子のことを好きだと思う。妙子のことも好きだと思う。だけども結婚には結びつかない。だったら、妙子が悩んでいるのは好きではなくて恋なのか、それとも愛か。実績のない底辺の頭脳でグルグル思考を重ねていたが、情動をつかさどる本能は、そんな妙子の悩みよりも、若い二人の女性と一緒に語らいメロンパンを頬張っていられる喜悦に満ち溢れていた。


 そのうち終電の時間が近付いて、メロンパン・パーティーはお開きになった。三人で駅の階段を上がると、ゲストに混じって勤務上がりのキャストたちでホームはいっぱいに混雑していた。

 武蔵野線の最終電車に二人を見送ると、ホームはいきなり閑散として、次に来る京葉線の電車を待つ客がまばらに並んでいる。

 

 東京方面から滑り込む京葉線の座席は埋まり、右手で吊り革をつかんで窓外を眺める。ホームの灯りが遠ざかると突然の闇に閉ざされ、窓のガラスが黒い鏡へと変化する。そこに映し出された己の姿に直面して驚愕する。


 これまでまじまじと眺めたことは無かった。目尻が、頬が、唇が歪み、額から頭頂まで禿げ上がった醜い老いぼれの姿、この風体をさらして明子や妙子とメロンパンを食べていたのだ。

 思わず殿岡は目をそむけた。そむけても目の裏に焼き付けられた残像は消せない。三流の成れの果てに追い打ちをかけられた酷さに運命を呪う。


第三章では魔法エリアでの勤務の流れと主人公の心情についての記述です。第四章からストーリーが足早に盛り上がっていきますが、ここまではその伏線としての勤務情景が主体になっています。

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