第一章 パーキングエリアに夢を託す(春)
殿岡朝夫は三流の下の大学を卒業し、場末の町工場に就職してほどほどに仕事をこなし、身の程の女房を娶らされて相応の娘に恵まれた。
ようやく定年を迎えて家にこもれば、パートで働く女房にゴミだと言われてゴキブリのようにあしらわれ、気が滅入るどころか怒りを覚える。
自分の頭脳も顔つきも三流かもしれないが、特段に低能だとも醜悪だとも思わない。強いて指摘されるなら、垂れ下がった眉毛と、泣き顔に見えてしまう怒顔が惨めったらしくて、女にもてた経験もないし、もてたいと思った欲もない。
四十歳を境に乱視に加えて老眼が進み、太い黒髪が細毛となって一本一本と抜け落ちた。還暦を迎えた今では額から脳天までがすっかり禿げ上がり、鏡を見るのが鬱陶しい。
会社の上司や後輩たちから、手際が悪いとか、薄ら禿げだと陰口を叩かれながら、後ろ指をさされて蔑まれていたことを承知している。
頭脳や性根や顔つきや親や女房や運命までも、ありとあらゆるものを罵倒して、天を仰いで海に向かって、一生に一度だけ輝いてみたいと本気で叫んだこともある。
絶望というには甘過ぎるけど、幸福と呼ぶには忌々し過ぎる。泥の濁りになじんでしまい、輝く意味もときめきも知らなくて、何かが変わって欲しいと願って叫ぶけど、変わることが恐くていじけて変われない。
そんな自分が輝ける事などある筈もない。それでも一生に一度だけ、輝いてみたいと叫んでしまう。
春うららかな日曜日、女房と娘の手荷物係として、朝早くから東京ファンタジーランドへ行くんだと言われて連れ出された。
六十歳を迎えた殿岡に、派手なアトラクションなど興味は無かったが、お祭りのような人込みと賑わいに新鮮なときめきを覚えていた。日本の街角にはないファンタジックな世界に魅惑を感じる。若いスタッフたちがカラフルな制服を着こなして、機敏に仕事をこなしているのが清々しい。
ところがよく見ると、若いスタッフたちに混じって、高齢の男性が生き生きと勤務している。洒落た帽子に燕尾のジャケットをぴしりと身に着けて、颯爽と振る舞う動作に年齢を感じさせない。
殿岡は、その男に自分を重ねて夢想した。ここならば、忸怩たる自分の三流人生をくつがえして輝けるかもしれない。最後に輝ける場所になれるのではないかと考えて胸が震えた。
それから一週間後、日曜日の朝刊に挟まれていた求人のチラシに、東京ファンタジーランドの採用広告が掲載されていた。
来年度の開園二十周年に備えたキャストの大量募集と書かれた見出しに期待して、殿岡は老眼のメガネを近づけて採用の条件に目を走らせると、『年齢は問わない』と、小さな文字だがはっきりと明記されていた。
千葉沿岸の埋立地に建設されて、すでに老朽化した公団住宅の五階のベランダから、遠くの公園に咲く満開の桜の木が一本見える。いつもは薄ぼんやりと灰色に見える花弁が、早朝の光を浴びて美しいピンクに輝いていた。
サラリーマン時代の朝はバタバタとゆとりがなくて、ただ漫然と窓越しに桜を眺めていたが、満開の桜の花弁も太陽の光を浴びてこそ美しく輝けるのだと、自分の力で輝いている訳ではないのだと殿岡は初めて気付かされて心が洗われた。
これ見よがしに咲き誇る満開の桜は眩し過ぎて、自分には似つかわしくないと思って憎らしかった。強風に吹き飛ばされて葉桜になり、毛虫に食い荒らされて蔑まれる惨めな姿に快癒を覚えた。ところが今日の気分は溌剌として、いつまでも咲き続けて欲しいと願って求人のチラシを握りしめていた。
日本最大のテーマパークである東京ファンタジーランドは、東京湾に浮かぶ人工島上に建設されている。いくつもの鋼鉄製の巨大なバージが精密にジョイントされ、大地震にも耐えられる構造として、地面からの支柱に支えられて海の上に浮かんでいる。
接合されたバージの上に土が盛られて舗装が施され、JR京葉線の舞浜駅から人工島まではゲストを乗せるモノレールが走り、首都高速湾岸道路からパークまでは二キロメートル余りの橋梁が渡されている。
夢の国と魔法の国の、二つの施設を核にして広大な駐車場が広がり、周囲にはホテルやショッピングセンターなどが年間を通して無休でオープンしている。
パークの周囲には高木の樹林と藪が巧みに重なり合って、決して外部から園内を覗き見ることはできないようになっている。それは同時に、園内で遊ぶゲストたちが一瞬でも現実世界に目が触れて、夢から覚めてしまう事のないようにとの創始者の想いが込められている。
ー面接に行くー
殿岡朝夫は、採用の面接会場に指定されているホテルの前に佇んだ。ビジネスホテルすら利用したことのない殿岡にとって、正面入り口のドアマンの存在に威圧を感じ、思わず古びた背広の襟を正し、老眼入りのメガネを鼻の上に押し上げた。
入口には面接会場という看板が張り出されていたが、ロビーを見渡して救われたようにホッとした。そこにいる人たちは、堅苦しい背広姿のビジネスマンではなくて、パークに遊びに訪れた家族連れの宿泊客の笑顔だった。
面接会場である大宴会場のドアは開け放たれ、中を覗くと若い男女でいっぱいだった。三百人、いや、五百人を超えるだろうか、若者たちの圧倒的な熱気に殿岡はしばし怯えた。
やっぱりここは、自分のような老いぼれが来る場所ではなかったのではないか。しかし、チラシには書いてあった。年齢は問わないと。
逃げて帰りたいけど帰れない。帰れば妻にゴミと呼ばれて冷たい視線に耐えながら、携帯を見ている振りを装いうつむいているしかない。
確かに三流の人生を送ってきたかもしれないが、それでも団塊世代の一人として、厳しい競争と戦いの中を掻い潜って必死に生き抜いてきたという意地がある。
働く場所はここしかないのだと、肝に銘じて周囲を見回した時、ふっと妙だなと感じたのは、化粧の匂いを漂わせてすれ違う若者たちの視線だった。
彼らには、おろおろしながら狼狽えている老いぼれの醜い姿が目に留まっているはずなのに、まるで見えていないかのように通り過ぎて行く。それは、透明人間にされたような安心感と、存在を無視された除け者としての不安感だった。
そうして採用面接が始まり、名前を呼ばれて席に着くと、三十歳を少し超えたくらいの青年が正面に座して、丁寧ながら容赦のない口ぶりで問いかけてきた。
「両手を見せて頂けますか?」
いきなり両手を見せろと青年は言った。何の理由があるのだろうかと、判然としないまま殿岡は、机の上に両手の平と表を広げて見せた。
「はい。入れ墨もありませんし、指も十本揃っております」
余計なことを口走ってしまったかと悔やんで唇を噛んで見せたが、青年の表情にかすかな笑いを認めて安堵した。
「高齢のようですが、肉体労働に耐えられますか?」
「もちろんです。足腰は堅牢にして、健康状態は良好ですから。勤務が始まれば皆勤の決意です」
「この職場では、若い上司が年長の人たちを指揮します。あなたは指導に従い、若い人たちとも協調しながら、驕ることなく勤めることができますか?」
「もちろん、覚悟のうえでやって来ました」
「職種に希望はありますか?」
「どんな過酷な職場でも厭いません。ここで働く事が夢ですから。東京ファンタジーランドで働ける事が憧れでしたから」
殿岡朝夫は青年面接官の目をしっかと見据え、こぶしを握り締めて断言した。そうして一週間後に連絡を受けて、パーキングエリア勤務のキャストだと告げられた。
パーキングといえば駐車場ではないか。セキュリティーでも清掃でも、園内勤務を予想していた殿岡にとって、パーキングと告げられて期待外れに気落ちした。ここでもやっぱり傍流なのかと肩を落とした。
それでも東京ファンタジーランドで働けることに変わりないのだからと気を取り直し、指定された日時に出社した。その日から三日間、本社ビルで入社研修が行われることになった。
採用された人たちは研修センターに集められ、五つの教室に分散されて教育を受けることになる。若い男女のリーダーたちによって、夢と魔法が織りなす未知の世界へのフィロソフィーを、様々な教材を通じて肌で感じて学ばされる。
お客様のことは、敬愛の念と親愛の情を込めてゲストと呼び、自分たちをキャストと呼ぶ。表舞台でも裏舞台でも、顧客に奉仕する心構えを肝に命じて、常に演技を心掛ける事ができるようにキャストと呼ぶのだと教えられる。
ゲストは夢の世界で妖精になり、魔法の国では王子様や王女様に変身する。キャストは全てのゲストを未知の世界へと誘うために、自分たちも変身し、キャストとしてのモラルを高めるのだと教えられる。
そのようにして創設者の理念と思想を学んでいるうちに、いつしか自分たちも妖精にされていたのです。
ー現場研修ー
本社での入社研修を終えると、いよいよ全員に制服が貸与され、それぞれの職場に配属されて厳しい現場での新人研修が行われる。
東京ファンタジーランドでは、正社員及び二万人以上のキャストが業務しているので、夢の国エリアで勤務する従業員は東棟に、魔法の国エリアの従業員は西棟に、広い二層のロッカールームが用意されている。
いずれの棟にも従業員用の食堂や売店や着替え用の制服窓口があり、中央に貫かれた広い通路には、職場ごとにデザインされたカラフルな制服を着たキャストたちで溢れている。
東棟に設けられたロッカールームで、パーキングの制服に着替えを済ませた殿岡は、指示された通りに二階の事務室で待機していると、同じくパーキングの制服を着た、大柄で腹の突き出た男がやって来た。
「殿岡さんですね。今回私が、殿岡さんの研修を担当することになった本郷です。よろしくお願いします」
四十歳くらいの温和そうな男だったが、日焼けした顔と落ち着いた態度が、いかにもベテランらしい貫禄を感じさせた。
「はい、殿岡です。よろしくお願い致します」
大仰に敬意を示すように、ペコリと深く頭を下げた。
「それでは現場に向かいましょうか。夢の国の駐車場まではね、歩きなんですよ。魔法の国の駐車場はパークを挟んで真裏になるから、従業員専用のバスに乗らないと行けませんけどね。研修は四日間です。駐車場は広くて複雑ですから、今日はまず、車で回って全体を把握してもらいましょう」
夢の国の駐車所では、ゲートの並びに事務所と休憩室が併設して建てられており、隣り合わせの倉庫のすぐ横に、白地にロゴマークが塗装された十人乗りキャラバンが三台と、軽の乗用車が二台停められていた。
本郷は軽の運転席に乗り込んで、殿岡は助手席に収まった。
「これが駐車場の見取り図です。ここは立体駐車場で、AエリアからEエリアまでは平面でしてねえ、入園口に一番近い駐車場は車椅子専用のエリアですが、その後ろのAからだんだん遠くなってEが最も奥になります。平面だけでも一万台の駐車が可能です。説明するより、自分の目で確かめて下さい」
そう言って本郷は車を走らせた。Bエリアの駐車場のパーク寄りには五十台余りの団体バスが駐車して、さらに送迎用の長距離バスが絶え間なく入退場を繰り返している。それぞれの駐車場の要所ごとに、パーキングの制服を着たキャストが立哨し、与えられた場所での役割を果たしているのだと本郷は説明する。
平面駐車場を一巡した後、人工島の外周道路に出て、魔法の国の駐車場へと向かった。外周道路を半周すると、魔法エリア駐車場のアーチが見える。
料金所のキャストに本郷が馴れた手つきで合図を送ると、いきなり正面のスロープを駆け上り、巨大な立体駐車場の中へと入り込んだ。
まだゲスト車両が駐車されていない四階の、直線三百メートルもある通路を一気に走り抜けると、下りのスロープから出口を避けて平面の駐車場へと向かった。そこには団体のバスや、立体駐車場では収まり切れないキャンピングカーなどの大型車両が数台駐車していた。
さらに道路を隔てて、その日は使用されていない七階建ての第二立体駐車場へと案内された。車から降りた本郷は、夢と魔法の両エリア合わせて二万台以上の車両を収容できる事や、五十か所以上もある勤務場所の目的や役割の説明をしてくれた。
たかが駐車場だとあなどっていた殿岡は、とんでもない認識違いに不安を抱いた。
広大な駐車場にばらまかれたキャストたちは、みんな違う役割をになって業務している。ただ突っ立って何も考えず、車両を誘導しているだけではないのだ。
夜になれば退出の車両が集中するから、同じ場所にいても動作のやり方が変わってくるので、臨機応変に道を作って車両の流れを変えなければならない。そんな器用な事が自分にできるのだろうかと、三流の意識が不安を煽る。
最も脅威に感じたのは、ゲスト車両が入場して来るエントランス・ポジションでの役割だった。
ゲスト車両がゲートで駐車料金を支払う際に、身体障害者を乗せていないか、車椅子を使用するか、あるいは送迎の為だけに入場してすぐに退出するのか、時にはホテルの駐車場と間違えて入って来るゲストもいる。
そのような車両には、料金所のキャストがフロントガラスのワイパーに、赤や青や緑や白色などのタグを挟んで区別をするのがルールとなっている。
エントランス・ポジションに立つキャストの役割は、途切れることなく入場して来る車両のフロントガラスに、タグが付けられたかどうかを、そのタグは何色かを、目を凝らして確実に見分けなければならないのだ。
ゲートまでの距離は二十メートル以上もあるので、夜になるとさらに見分けが困難になる。さらに土日ともなると、料金所は四か所も五か所も開かれている。そして、青いタグが付けられたら車椅子専用の駐車場所へ、白いタグなら送迎車の通路へと、色違いでそれぞれの場所へと誘導しなければならない。その他に、バスやバイクも入場して来る。
「ファンタジーランドの駐車場はすべて一方通行になっていますのでねえ、一旦入場すると一般の駐車場所へ案内され、あとは出口へ向かうしかない。往路だけあって復路は無い。逆走はできないから、ここで誘導する通路を間違えるとやっかいな事になるんですよ。途中のポジションで中継しているキャストが、ゲストから厳しい叱責を受ける事もありますから。殿岡さん、大丈夫ですよねえ。しっかり頑張って下さいよ」
一日目の研修が終わった時に、殿岡の額には脂汗が滲んでいた。明日からの研修は、実際に現場に立って、それぞれの場所での役割や目的を理解してもらいますと本郷に言われた。
殿岡はキャスト募集のチラシを見た時に、園内で遊ぶ楽しそうな親子連れや恋人たちの笑顔を思い浮かべた。彼らを案内するキャストたちの表情も生き生きとしていた。
そして、願いが叶って入社して、本社で行われた入社研修では、幸福とか夢とか出会いとか魅惑的な言葉に乗せられて、自分たちも妖精になれるかもしれないと淡い魔法をかけられていた。
ところがパーキングに来て二日目、初めて現場に立たされて、はっきりと幻想から目が覚めた。ここは確かに夢と魔法の国で未知の世界かもしれないが、それを享楽できるのはゲストであって、我々は夢さえも見てはならない、裏方の労働者なのだという現実のギャップを思い知らされた。
別れ際に本郷はつぶやいた。そのギャップに耐えられず、現場研修期間中に辞めていく奴もたくさんいるんですよねえと。
なぜ本郷は、自分にそんな事を言うのか。高齢だから鬱陶しくて、役に立つどころか足手まといに迷惑だから、今のうちに辞めてしまえとでも言いたいのか。
そう勘ぐれば彼の言葉の端々に、丁寧なようでぞんざいな、サソリの牙のような嫌味を感じる。そう考えれば意地が湧く。これまでにも、無知と無能に後ろ指をさされて罵られ、くじけそうな心を何度も耐え抜いて生きて来た。不肖ながら団塊世代を代表し、三流なりの意地を通して頑張り通してやって見せたい。
それだけではない。めげて諦めて家に帰ればゴミになる。こっちの脅威や不安よりも、ゴミの恐怖の方が侮蔑的で恐ろしい。
それから殿岡はやけくそだった。間違えても、怒鳴られても、狼狽えてもたじろいでも踏ん張った。その姿勢を見て本郷も本気になった。
ー新人デビューー
そうして無事に四日間の現場研修を終え、いよいよデビューの日を迎えることになった。
午後勤務の殿岡は、午後三時から朝礼が始まるので、余裕をもって二十分前に休憩室に入ると既に数人の男女が出勤していた。
新人という立場に加えて高齢を過剰に意識する殿岡は、休憩室の長椅子の隅に目立たぬように、卑屈な思いで息をひそめて始業の時間を待っていた。
そのうち人も増えてきて、部屋中が和やかな会話で賑わってきた。犬のウンチでも転がっているかのように、殿岡は一瞥されて無視されるので、そっと上目遣いに壁面の掲示物を眺めながら疎外感に耐えていた。
研修中は本郷にくっついて、いわば彼に守られている存在だったが、今日からは一人で戦わなければならない。それも慣れるまでの辛抱だと、委縮した神経を鼓舞するだけだった。
五分前になるとみんな休憩室を出て、倉庫の壁際に集まり朝礼が始まる。リーダーによって当日の園内情報や、パーキングエリアの注意事項が説明される。
新人の殿岡は、専門用語ばかりが飛び交うリーダーの説明の半分すらも理解できない。不安は募るがいちいち質問するのもおこがましいので、素知らぬ顔で目を伏せていた。
最後にサブリードの本郷が挙手をして、新人を紹介しますと言って殿岡を正面に手招きをした。
「今日がデビューになります殿岡朝夫さんです。わずかな研修期間だけでは、難しい対応や非常時の処置までは体験できません。みんなも研修明けの初日は、不安でいっぱいだったはずです。間違った判断をして失敗したり、困っている様子を見かけたら、皆さんで助けてあげて下さい。殿岡さんも不明な点は遠慮なく訊いて下さい。質問して恥ずかしくないのは、新人のうちだけですからね。では、よろしく」
ーファースト・ポジションー
こうしてパーキングエリア勤務の第一日目が始まった。
その日に出勤しているキャストの名札が、事務室のホワイトボードに掲示される。勤務の交代は一時間から二時間のスパンで行われ、名札の横に次の勤務場所が随時記される。
殿岡の名札の横にはパーカーと記されていた。他に五名の名札の横にもパーカーと書かれている。その内の一人と思われる男性から声をかけられた。
「殿岡さん、僕もパーカーですから一緒に行きましょう。朝礼で説明されたように、この時間の駐車場所はCエリアですから、チャリで交代に行きますよ」
事務所わきに自転車置き場があり、二十台ほどが整然と並んでいる。殿岡はみんなに遅れないように、端っこの一台を引き出してペダルを漕いだ。
Cエリアでは午前勤務のキャストが六名、絶え間なく通路に流れてくるゲスト車両を手際よく、白線に合わせて駐車誘導を行っていた。
彼らからそれぞれの無線機を素早く受け取って、すぐさま誘導の交代を行う。一列に前後二台ずつ、きっちり白線の枠内に車両を収めなければ車列が乱れる。パーカー全員が息を合わせて、機敏に動かなければ誘導作業に支障をきたしリズムが狂う。
「殿岡さん、もっと左へ行って。左ですよ、左へ。車が白線からはみ出しちゃって、接触しそうだよ。もっと右手を高く上げて、大きな動作で誘導しないと、ああ、その車はこっちだよー」
二十歳くらいの男がイラつきながら声を荒げる。
「殿岡さん、危ないよー。そこはいいから、あっちへ行って。もうすぐ次のアイルへ移るから、そっちで待機して下さい。違うよ、隣の列ですよ、隣のー」
長い時間が経過して、ようやく次の交代がやって来た。無線機を渡して自転車に乗り、みんなから怒鳴られ睨まれ邪険にされながらも、とにかく仕事をやり終えたような気分でゆっくりとペダルを踏み込んだ。そして休憩室に戻って入ろうとした戸口で、声高の悪口が聞こえて足がすくんだ。
「いくら二十周年で人手不足になるからってさあ、あんな高齢のおっさん雇ってどうするんだよ。新人だからって言うから我慢しているけどさあ、足手まといで、ウザいんだよなあ」
殿岡はそっと外に出て倉庫に回り、汗を拭きとる振りを装い静かに呼吸を整えた。そして、唇をかみしめて一つひとつの作業を振り返る。
自分のどこが悪かったというのか。動作が緩慢なのか、要領を得ないのか、新人ならば当然の事だろう。彼らが嘲るように怒鳴っていたのは、もたつき、よろめく老いぼれ男を、蛆虫のように嫌悪するからに違いない。それならば、それで良い。思いっきりウザいと思わせておけば良い。厚顔面皮に生きて来られたのは、三流だからこその強みだからと開き直った。
まだ太陽は頭上にある。この太陽が夕焼けとなり、西に沈んで夜が更けるまで、今日の仕事は終わらないのだ。
これほど一日を長く苦しく感じることはない。だけどこれまでもそうだった。耐えて潜んでいるうちに、自分の存在は透明になり、すべては時間が解決してくれる。自分をなだめて汗をぬぐった。
どこのポジションに立っていても緊張の度合いは変わらない。夕方を過ぎると歩道を行き交うゲストの数も多くなる。あたかも村の神社の縁日の賑わいのように、幼児の手を引く母親の姿や子連れの夫婦が楽しげに目の前を行き過ぎる。
もしやゲストから呼び止められて、面倒な質問を受けはしないだろうかと不安になる。十時の閉園時間が近付くと、バッテリー上がりの車両が数台あって、ゲストから対応を頼まれる事があると研修中に本郷から聞かされた。
無線のスイッチを外線に切り替えて、セキュリティー本部に連絡して依頼を乞うのだと教えられた。はたして上手くできるだろうかと不安になって、思わず周囲を見回して気が張りつめる。
勤務中に先輩のキャストが近付いて来れば、自分の立ち位置や動作に不備があるのではないか、注意を受けるのではないかと身が縮む。全てのキャストが先輩だから、おどおどと顔色をうかがいながら身を引き締める。
休憩室では隅の長椅子の端っこで、じっと座って時間に耐える。気まずい存在にならないように、死人のように気配を消して息をひそめる。
ーラスト・ポジションー
ようやく迎えた最後の勤務場所は、最も恐れていたエントランス・ポジションだった。無線機を手渡されて緊張の表情をあらわに示すのだが、交代の男はすげなく去っていく。
すでに閉園時間が間近なので、入場して来る車の多くは送迎のゲスト車両と長距離バスだ。送迎の車両には白いタグが付けられ、車椅子送迎には青いタグが付けられる。満月の明かりを背に受けながら、殿岡は料金所から入って来る車両のフロントガラスを凝視していた。
そんな時、駐車場側の通路から駆け寄って来るゲストから突然声をかけられた。
「ちょっと、すいませーん」
殿岡が思わず振り向くと、旅行鞄を引きずる若い女性が手を振っている。
「すいませーん、夜行バスの乗り場はどちらですかー?」
「はい、えーと、あ、高速バスですよね。はい、この駐車場の通路を真っ直ぐ進んで、突き当りを、えーと、右に曲がるとバスが見えますから。あのう、出発の時間は何時ですか?」
「九時五十分です」
「ああ、それならまだ十五分ありますから、慌てなくても大丈夫ですよ」
腕の時計をちらりと見ながら殿岡は応じた。
「ありがとうございましたー」
そのやり取りのわずかな時間に、料金所から飛び出したゲスト車両が一台、バスの駐車場に向かって走り過ぎた。
あっと、気付いたが手遅れだった。途端に無線機のイヤホンから、バスポジションのキャストの怒声が飛び込んできた。
「エントランス、何をやっているんだー! 送迎車両がバスの方へ流れて来たぞ」
「す、すみません」
「逆走は禁止だから、Aエリアの後方に通路を作って車をエントランスに戻すから、気を付けて誘導してくれよ。分かったかー」
「は、はい。分かりました」
殿岡が、バスポジションから送られて来る車両に気を取られている隙に、バイクが一台ドドドッと反対車線に走り抜け、身体障害者用のエリアに向かってしまった。
殿岡は、送られてきた車両を送迎通路へ誘導するのに精いっぱいで、走り去ったバイクの対応などできはしない。
「エントランス! どうしてバイクがこっちへ来るんだー! 中継ポジションさーん、バイクの通路を変えて下さーい」
反対車線の中継ポジションに立っていたキャストが、大の字に体を張ってバイクを止めると、ぴょこんとゲストに頭を下げて、別の通路にバイクを誘導している。
「す、すいません」
殿岡が無線機の送話口に向けて謝っている間にも、料金所からゲスト車両や長距離バスが入場してくる。無線機のイヤホンからは、何やら騒がしく声が聞こえてくるが、聞き分けている余裕すらない。
そんな時、通路の中継ポジションに立っていたキャストが応援に来てくれた。近付いてきた顔をよく見ると、小柄な若い女の子だった。
エントランスを横切る大型バスが目の前をカーブして、その陰に隠れて入場して来たゲスト車両を見失いそうになる。女の子は素早くバスの後ろに回り込み、フロントガラスに付されたタグを瞬時に見分けると、赤灯の誘導ライトを振り回して送迎の通路に案内する。
小柄なくせに大きな動作で、機敏に視線を走らせて車両を確実に振り分ける。パニくっていた殿岡の全神経に、一瞬の安らぎが取り戻された。
「エントランス・ポジションの人、しっかり確認して、間違えないで車を流して下さいよ。ゲストに怒られるのは俺たちなんだから」
イヤホンからは新人の怯えにも容赦なく、冷やかしの洗礼として嫌味な忠告の言葉が投げつけられる。
「うるさいなあ! ちゃんと流れてんだろ! あたしが手伝ってんだから」
無線機の送話口に向けて女の子が怒鳴ると、イヤホンから罵声も雑音もピタリと消えた。彼女は視線をゲートに据えたまま、ときおり横目で殿岡を見る。
「おじさん、年はいくつなの?」
気丈に鋭い眼光に悪意は感じない。ぞんざいな言葉遣いに、むしろ人懐こさを覚える。
「はい、六十歳になったばかりです」
女の子の気勢に気おされていた殿岡は、畏縮した風を装って敬語を使った。
「あたしに敬語なんかいらないよ。六十歳かあ、ジジイじゃないか。あたしは二十二だから、娘というより孫かなあ」
敬語は不要だと即座に女の子は言い切った。その言葉の率直さが、一太刀の剣のように殿岡の胸に突き刺さった。
現場で勤務しているみんなから、疎外されているような雰囲気を殿岡は察していた。そんな時には、若い男女でも学生にでも、とりあえず敬語で対応していれば、恨まれることも憎まれることも無いだろうと安易に考えていた。
敬語をバリアにして保身を図る。心の脆弱さや劣等感を、上目遣いに語調を変えて、その場を誤魔化し取り繕おうとする。ガキの頃から身に着けていた蒙昧な浅知恵を、この女の子は本能的に見破っている。その奔放な生き方に、殿岡は羨望し己を恥じた。
この子は三流の大学さえも出ていないかもしれない。そんな小娘に何気もなく、姑息で小ずるい急所を突かれて羞恥を覚えたのだ。
彼女の車両の誘導は余裕をもって正確だった。その合間に声をかけてくる。
「あたしは三枝妙子だよ。だから、妙子って呼んでいいよ」
「はい、妙子さん」
「だから、敬語はいらないって言ったでしょう。呼び捨てでいいんだよ。あたしもジジイって呼ぶからさあ」
「あ、うん、分かった」
妙子の遠慮の無いタメ口に、ようやく殿岡は心のバリアを解き放つことができた。
「ねえ、その年で、何でパーキングなんかに来たのさぁ?」
「まだ働きたいからだよ。足腰は丈夫だし、健康だし、脳味噌だって適度に刺激を与えてやらないと惚けてしまうからね。俺たちのこと、団塊世代って呼ばれているけど、まだまだみんな元気だよ。ジジイだなんて思ってないから」
「六十歳なんて見えないよ。うちの親父よりも……」
「妙子の親父さんは何をしているんだい?」
「脳卒中で倒れちまって病院で寝てるよ」
「ふーん、そうか」
娘というには若過ぎるが、孫というには年齢が過ぎる。美人とは言えないまでも、小太鼓のバチが弾けてしなりそうな頬の張りと、危なっかし気な黒目の輝きに情味を感じて可愛らしい。そんな彼女が自分と対等に働いている。それがこの職場の適宜なバランスだと改めて思う。
夜の十時半になると駐車場の入場口が閉じられる。エントランス・ポジションのキャストは料金所のライトが消えたのを確認すると、明朝の入れ込み作業の為にコーンを移動して通路を整え直さなければならない。
何もできずに、ただ突っ立っている殿岡を尻目に妙子は、小柄な身体の両手にコーンを抱えて動き回っていた。
「ジジイ、帰ろう」
作業を終えた妙子は、殿岡にひと声かけてさっさと休憩室へと引き上げて行く。
全員が戻り、終礼を終えると、一人ひとりが順番にタイムカードを切り、親しい者同士が小さな塊になってぞろぞろと東棟へと引き上げて行く。
みんなが切り終わるのを待って殿岡は、一人ぼっちで事務所を後にして東棟へと向かう。ロッカールームに戻ってふと見ると、殿岡のロッカーの斜め後ろで妙子が着替えをしていた。
ロッカールームに男女の区別は無いけれど、東の端に男性用の、西の端に女性用の着替え室がある。そこで着替えをするのがルールとなっているのだが、そこまで行くのが面倒だから、ほとんどの男女が目の前のロッカーで着替えを済ませてしまう。
「お、ジジイじゃないか」
制服のズボンを脱いでチェックのスカートを手にした妙子が、殿岡の姿を見つけて呼びかけてきた。
「今日は妙子のおかげで助かったよ。ありがとうね」
「気にすんなよ。新人の時は誰だって同じだよ。めげて辞めんじゃないよ、ジジイ」
「妙子がいてくれれば心強いから辞めないよ」
「ハハハッ、毎日が一緒の勤務とは限らないよ。明日は雨で強風だってさ。ゲストは少ないだろうからパーキングも暇だよ」
見上げて話す妙子の顔をよく見ると、目尻の横の小さな黒子がやけに気になる。スカートに小柄な足を無造作に突っ込んで身を整える、何でもない仕草に若さゆえの色気をふっと覚える。というか、こんな光景をかつて目にした機会があっただろうかと首をかしげる。
「駅前の満開の桜の花も散っちゃうね」と妙子が言いながらスニーカーに片足をぐいぐい突っ込む。
「そんなに風が強いのかい。明日の勤務はどっち?」
「魔法のエリアだよ。ジジイは?」
「妙子と一緒だ。よろしくね」
「うん。じゃあね、また明日」
妙子がロッカーの扉を閉じて出て行くと、グルグル唸る換気のモーター音と周囲の話し声が雑音となり、再び悲壮な孤独感が蘇る。
第二章では「夢の国エリア」、第三章では「魔法の国エリア」の勤務の流れを描写しています。
第四章から足早にストーリーが展開し、最後にヒロインの秘密が明かされます。