8 (改稿)
カタカタと、何かが揺れてぶつかる音がする。
ぐつぐつと何かを煮沸かすような音が混じっていて、酷く安心させるような、そんな音だ。
瞼を開けると、見知らぬ、白い天井がそこにはあった。
天井には白い発光パネルがあって、部屋の中を照らしている。
少し薬品の匂いがして、ここが施療院なのだと思った。
「間に合った、のか」
体には違和感があるものの、既に痛みはない。
身を起こそうとするが、右腕は引きつって思い道理には動いてくれなかった。
暫く格闘して体を起こすと、自分が病院のベッドの上に寝かされている事が分る。
白い清潔なシーツ、暖かい布団。
ベッドわきのごみ箱には乱雑に血まみれの包帯が突っ込まれていた。
「血?」
そうだ、井坂の奴はどうなった。
最悪の結末を想像して怖気が走る。
引きつる体を無理やり動かして立ち上がると、どうやらカーテンで仕切られているらしい、それを払いのけるようにして開ける。
広めのそこは、テーブルがあり、流し台があって、その前に一人の女性が立って何かをしていた。
エプロン姿の細身の女性で、その人はこちらに気が付いて振り返る。
白い肌にショートヘアの黒髪が映える美人だ、そう思った。
ただ、目を引くのは右目を覆う眼帯。
「よぉ、お目覚めか。無茶した後だ、もう少し休んでると良い。あ、それとも腹が減ったか?」
少し乱暴な言葉遣いで俺をじっと見据えながら言う。
「井坂は、助かったんですか?」
思わず声が大きくなるが、咽喉が枯れているのか思ったほど大きな声ではない。
「ああ、アイツね」
女性は少し考える風にして視線を巡らせる。
「無事といや無事だな。後で会わせてやる」
何かを作っていたらしい、背を向けると火にかけていた鍋を一混ぜ。
お玉で、用意してあった椀にそれをよそう。
「とにかく、まずは食って落ち着け」
乱暴にスプーンを突っ込むとそれをテーブルの上に置く。
それをあと二つ用意するとエプロンを脱ぎ、シャツのポケットから煙草を取り出すと火を付けて、大きく吸うと煙を天井に向けて吐き出した。
俺が戸惑っていると、その女性は肩を落とす。
「冷めちまうぞ。こっちの事は気にせず食っちまえって」
言うだけ言うと、「博士、おら、さっさと出てこい。飯だ」声を上げてどこかに行ってしまう。
一人取り残された俺は、他にすることも思い浮かばなかったせいか、大人しく椅子に座り、器に手を伸ばした。
椀に入っていたのは、シチューだった。
白く、とろみのあるスープ。
大振りにカットされた野菜に、何かの肉まで入っている。
まずはスープだけ、スプーンに少し掬って口に運ぶ。
クリーミーな、ほんのりとした甘みのある良く知った味が口の中に広がる。
これ、本物のシチューだ。
感動を口にしようとした時だった。
ばたばたという足音、そして
「儂の席に勝手に座るな!」
甲高い声に邪魔され、ぎょっとなってスプーンを取り落しかける。
振り返れば、小学生くらいの小柄な少女が肩を怒らせて俺を睨んでいた。
「博士、一回くらい良いだろ」
呆れ調子で先ほどの女性が博士、と呼んだ少女の肩を掴む。
少女は、輝くような銀の髪と真紅の瞳が目を引く、美少女と呼んで差し支えないくらいの、息を飲むほどの容姿をしていた。
ただ、体格に似合わない丈の白衣を着ている事が不思議だったが、今は気にしても仕方がないだろう。
「悪かったよ」
席を立つ。
「わかればいいんじゃ。全く、ジュウヤみたいな横柄な口を訊いてからに」
少女は鼻を鳴らしつつも開いた椅子に座ると、まだ手のついていないお椀を引き寄せて自分の前に置く。
「ったく、子供みてーなことして」
眼帯の女性はため息をつきつつ、博士と呼ばれた少女の向かいに座る。
「空いてるとこならどこでもいいぞ」
「あ、ああ」
俺は空気に飲まれつつも、先程のシチューが気になって空いている席へと腰を下ろした。
「んじゃ、いただきます」
女性が言うと、少女もそれに続いた。
俺も続いて言うと、食事に取り掛かった。
正直、この二人が誰でも、とにかく目の前の食事で空腹を満たしたかった。
食事が終わり、一息つく。
「こやつは良く食べるのぉ」
少女は見た目に似つかわしくない口調で俺をしげしげと眺めつつ。
「三日も寝てたからな。あ、暫く食ってねー奴にこういう食事ってまずいんだったか?」
「ほっとけ、死にかけても治療してやる」
少女はとんでもない事を言う。
俺は、二人のやり取りに呆気にとられていたが、言うべきことはまずは一つ。
「助けてくれてありがとう。食事も」
と頭を下げる。
「気にするなよ、ここじゃ助けられてもお互い様だ」
女性はニヤリと笑う。
「なーにがお互い様だ。助けたのは儂じゃろ」
少女はふふん、と胸を逸らす。
「俺は、コイツが博士の実験材料になるのを助けたんだ。勘違いするな」
女性は吐き捨てるように言う。
「勘違いじゃと、明らかに自分の事を良く見せようとしただろう」
俺は再び置いてきぼりになる気がして無理やり言い合いに割って入る。
「俺は、吉住直衛。二人の名前を聞いても?」
止まらない可能性もあったが、やってみるもんだ。
二人は言い合いを辞めて、こちらをみる。
「あー、悪かった。自己紹介か、悪くない。……俺は、ジュウヤだ」
俺が口調に違和感を覚えているのに気が付いたらしい。
「口調が乱暴なのは気にするなよ」
黒シャツの女性、ジュウヤは苦い顔をして付け加えた。
「ふん、その言葉遣いではせっかくの見た目も台無しじゃの。ワシはハルマート。まぁ博士と呼んでくれればいい」
少女、もとい博士は続けて「昼寝」と言うと、席を立ちさっさと部屋を出て言ってしまう。
「あの、さ」
「なんだ」
ディープミストでの生活がそんなに長くない俺でも何となく気が付いていた。
「ここ、どこだ?」
施療院じゃない事に。
ジュウヤは少し考えるようにしてから口を開く。
「博士の持家みたいなもんだ。良くなるまではそこのベッドを使うと良い」
と奥に三つ並ぶベッドのうち、一つを指さす。
「助かる。けど、俺がそこで寝てても大丈夫なのか?」
井坂のヤツも寝かされているだろうし博士とジュウヤの寝床とか足りるのだろうか。
「俺達は別に部屋があるからな。そいつは、まぁ、飾りみたいなもんだ。博士の趣味で雰囲気付けに置いてるだけだし」
ジュウヤはテーブル脇の棚から灰皿を取り出すと煙草に火をつけ、
「ああ、そうだった。お前の荷物やら着替えはベッドの下にまとめて置いてある。それと」
と銅貨を三枚ほどテーブルに置く。
「コイツはお前の回収袋に入ってたのを換金しといたものだ。足の速いモノが多かったからな、勝手にさせてもらった」
それを俺の前に手で押しやる。
「何から何まで、お礼の言葉もない」
受け取ると、掌に握り込んだ。
「礼なんていいさ。こっちも偶の来客だと思えば気にもならない。……さて、少し気合入れるか」
呟くように言って立ち上がり、タバコの火を消す。
「お仲間に会わせてやる。そいつを仕舞って来い」
俺の手を指さして言った。
「俺はその時不在だったから詳しい話は知らないんだが、ウチの前でその井坂ってやつを背負ったままここに来て、博士が見つけると同時にコイツを頼むって気を失ったんだと」
地下室へ降りる階段を進みつつジュウヤは俺がここにたどり着いてからを説明する。
「お前の方は怪我は酷かったが、状態もそれほど悪くなかったから処置は後回しにして、取り敢えず井坂ってやつの治療を優先したんだと。アイツは怪我も相当だが、衰弱も酷かったらしいからな。ま、お前の方はそれで助かったんだが。それで、だ……」
足を止めて振り返り、俺の事をじっと見つめる。
いや、睨む、と言った方がしっくりくるか。
どこか神妙な空気になる。
「そんなに酷い状態なのか?」
硬い声が反響する。
「いや、怪我は治った。まぁ、見た方が早いか。驚くなよ」
階段を降りきると、六畳間程の部屋に出る。
コンクリートのような質感の壁材が剥き出しの部屋は薄暗く、中央には大小幾つものケーブルにつなげられた淡く輝く巨大な円筒形の水槽があった。
その円筒形の水槽に合わせてか天井は見上げる程高い。
そして、その水槽の中には、一人の少女が浮かんでいた。
長い茜色の髪は揺蕩うように水中で広がり、ほっそりとした手足に華奢な肩や胸、腰を隠すものは何も無い。
目を閉じたままのその少女の顔に、長い睫が影を作っていた。
ジュウヤは水槽の前まで来ると振り返る。
「井坂君だ」
コツン、と水槽を叩く。
目が点になる、と言うのは言い得て妙だ。
実際なってみると、まさに視線は動かず、ただ見るだけ。
思考は介在せず、ただ写したものを脳が処理する。
思考停止。
間抜けなツラが水槽に映りこんでいた。