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某県S市にある国立大学に俺は通っていた。
正確に言うと通っているのだが、現在はそこに通う事が出来ないわけがある。
六月、湿気の多い日だったのを覚えている。
その日、俺は大学の講義を終え、日の暮れた道を歩いていた。既に三年程通い詰めた道で既にどの道が何処に通じているか良く覚えているし、抜け道だって地元の人間と同じくらいには知っている。
暗い夜道を街灯に照らされながらアパートの自室までの途中にあるコンビニで買った晩飯を手に、ビールを切らしていなかったか、とか部活の後輩連中はどうも酒が飲めない奴らが多くて今年の新歓は盛り上がらなかったとかどうでもいいことを考えつつ歩いていた。
そんな時だった。
ふと気が付くと辺りは暗闇に包まれていた。
突然の、明かり一つない空間に俺は居て、奈落にでも突き落とされたような不安と恐怖が湧き上がる。
街が停電になったのか、そう思い辺りを見回すが、良く考えてみればこの時期に大学の授業が終わるような時間帯になってもそうそう暗くはなりはしない。街灯が無くたって見通しが悪くなる程度でここまで暗くなることはない。
そんな事に思い至ったせいで俺は背筋が凍った。
そして暗闇の中、一つだけ存在した確かな現実感、重さが消えた。
取り乱した俺は叫び越えを上げ、そして不確かな浮遊感がしばらく続き、そして唐突に重さが戻る。
「なんだってんだよ」
思わず口走ったそれは、恥ずかしいことに声は裏返り、恐怖に打ち震えていた。
黒一色の空間。
何も見えないそこで足元を踏みしめ地面を確かめていたその時、唐突に光が戻った。
眼前に現れたのは暗い空、古めかしい、欧風の石造りの建物が連なる街だった。
道を歩く人々はこちらを軽く一瞥すると興味なさそうに自分の足をせわしなく動かしていて、そしてここが何処だか分からないくらい様々な人種が見て取れた。
その日、俺は地球上から姿を消した。
古ぼけた、だが手入れの行き届いた事務所のような場所に俺はいて、安っぽいテーブルの前に座っていた。
知り合いには決して見せたくはない不安に動揺した表情で視線をあたりに這わせて様子を伺っている。
「大丈夫? 落ち着いた?」
湯気を立てたカップを目の前に置きつつ金髪碧眼の、白人の女性はそう訊ねた。
「ええ、少しは……」
俺は直ぐにカップを受け取るとその中の黒い液体を一口含んだ。苦く独特の香りを放つそれは安っぽいコーヒーのようだが、何処か違和感を覚えた。
「突然の事に驚いたでしょう」
女性は安心させるように優しげに言い、俺の対面に腰を下ろす。
訳も分からずに門の前に立ちすくんでいた俺をこの女性が見つけ、この事務所のような場所に連れてきてくれたのだ。
「ええ、助かりました。あのままあの場所に居たらどうなっていたか」
と苦笑を浮かべる。
が、この女性はそれを見て可笑しそうに目元を細めた。
「実際のところ大丈夫だったとは思うけど、これも仕事だから」
そう言ってテーブルの上に置いてあったノートを手に取り表紙を開く。
英語で書かれた文章がびっしりと書き込まれていて、かろうじて『案内』『マニュアル』それに『手助け』の文字が書かれている事が分った。
「はぁ」と気のない返事をしつつ、場を持たせるために「日本語お上手ですね」いった。
「あら、あなたジャパニーズだったのね。チャイニーズかコリアンだと思ってたのに。私の勘もまだまだね」
女性は残念そうな表情を浮かべる。
「でも、日本語を話してますよね」
「私にはあなたがイギリス英語を話しているように聞こえているわよ」
女性はおかしそうにそう言う。
口元を良く見てみれば彼女の言葉と口の動きはかみ合っていなかった。
「どういう事です?」
「この場所は不思議な場所でね、人種や言葉が違っても何故か会話できるのよ。私に言われなくても街を歩いていたら自然に分ったことでしょうけどね」
とノートの一文を指でなぞりつつ、口元に笑みを浮かべる。
「それで、ここは何なんです」
「それは私達にも分からないの。でも、みんなはこの街をディープミストと呼んでいるわ」
ディープミストが訳されないのは彼女がそれをそういう単語として認識して話しているからなのだろう。
「えーと、取り敢えず街の名前は分ったんですけど、駅は何処ですか?」
我ながら間抜けな質問だったと思う。どうやってここまで来たかも分からないのに落ち着いてみてから真っ先に思い浮かんだのは家に、あのぼろアパートに帰る事だったのだから。
「あっはは、そんな事聞かれたのは初めてよ。そうねぇ、残念だけどこの街には駅は無いわ、それにバス停も飛行場もない。歩いて帰るしかないわね」
最初俺は彼女が冗談でも言っているのだと思ったが、実際はそうではなかったことが彼女の口から説明されることになる。
「徒歩、ですか。一応陸続きって事ですか」
「いいえ、違うの、ごめんなさい。ふふ」
女性は笑いを堪えるように顔をひきつらせ、荒い呼吸で深呼吸を繰り返す。
彼女の声色からは人を馬鹿にするような響きは無いが、流石にムッとしてしまう。
「わ、悪かったわ。そんなに怒らないで、今説明するから」
言いつつノートの間から四つ折りにされた紙を取り出し広げる。
そこには円形の中に複雑に入り組んだ街の地図が描かれていた。何度も使われていたのだろう、折り目の部分はインクが擦り切れて途切れている。
「まずは自己紹介しましょ。私はアイヴィ。このディープミストの自警団員よ」
自警団、と言う言葉に少し興味を惹かれるが、今度はこちらが名乗る番。
「俺は吉住直衛。学生をやってます」
現状でその肩書が役に立つのかは不明だが、相手も役職を名乗ったのだ、それくらいは良いだろう。
「学生、やっぱり若いのね。高校生くらい?」
「いえ、大学生です」
以前聞いた話だと、海外の人から見ると東洋人は若く見える事が多いということだから自分もその例と同じく若く見られていると言う事なのだろう。
「そうなの? 見えないわね。あ、気を悪くしないでね。どうも日本人の学生って本当に若く見えるから……。えっとそれで、まずはここ、ディープミストについて。この地図の通りに壁に囲まれた場所で、この壁から外には出られなくなってる。SF映画とかファンタジー映画とか見る? なら想像しやすいんだけど、ここは異世界みたいなものだそうよ」
と広げた地図に描かれた円の淵を指先でなぞる。
異世界、という言葉に俺は徐々に思考が緩慢になっていくのを感じる。
「でも、ここから出る方法があるの」
と地図の中に幾つか印されている三角の中から一回り大きい黒塗りの三角を指さす。
丁度地図の真ん中にある。
「ここには地下に向かう階段があって、そこをどんどん下って行くとこの世界の出口がある。そこを通り抜ける事が出来れば元の世界に帰れるって事になっているわ」
「まった、待ってください。元の世界って何なんですか、まさか本当に異世界?」
途中、彼女の、アイヴィの言葉が頭に入ってこなかったが漸く思考がそれに追いついた。
「さっき言った通りよ。地球上ではないし、先輩達が調査した限りだとどうやってもこの街を囲う壁は壊せないし、手順以外で外に行くことはできないの」
「……手順ってのは?」
「さっきも言ったけど、この都市の地下へと潜って行って出口までたどり着くこと。なんだけど、最初は、……ここに訓練所があるんだけど」と地図の北側に指先を移動させ「そこで戦えるように鍛えてからになるわ」
「戦う? 鍛える? そんな必要が?」
「あるのよ。ちょっとファンタジー染みて来るんだけど、地下階層には魔獣とか妖魔とか呼ばれる凶悪なのが居てね。少なくともそいつ等と対峙して逃げ切れるくらいにはならないと生きて出られないのよ」
「はぁ」
と俺は力なのない返事をする。
「もしかして、話についてこられなかった? でもそのうちここの生活に慣れるわよ」
アイヴィは自分がこの場所に来たときの事を思い出したのか口元を歪めつつ無理やり笑みを浮かべた。
それから、この街での生活について教えてくれた。
誰が造ったのかも分からないこの霧の街、ディープミストは人が生活するために必要な施設が一通りそろっていた。
食事処に生活用品を扱う雑貨屋、地下を抜けるために必要な技術を得るための訓練所。各施設で使う為の通貨すら用意されていると言う。
「何のためにこんな世界が……」
俺の呟きにアイヴィは、そうね、と漏らした。
それから、席を立ちつつ広げたノートを閉じる。
「さて、それじゃ訓練所に案内するわ。あそこに行けば暫くの生活は何とでもなるから」
「ああ、ありがとう」
自警団の詰所を出ると先を歩くアイヴィを追った。
ディープミストの街の上空はガラスのような素材で覆われており、向こう側は暗がりが広がっていて星明りもない。
そんな街をガス灯の明りのみが通りを照らす。
古びた欧風の街並みは濃い陰影を作り、重苦しい雰囲気を作り出していた。
街の建物、その脇の排水溝からは白い煙のような、蒸気が湧き上がってきた。
「この霧が出始めたら、そうね、元の世界で言うところの夕方頃だと考えてちょうだい。生活のサイクルを作る目安になるから。それと、あそこに見える塔」
と足を止めて振り返り、背の高い塔を指さす。その壁面には巨大な時計が設えてある。
「目がいいならアレを参考にするのもいいかも。時計持ってたらこの世界の時間に合わせておくと後々便利よ」
時計塔は周辺に背の高い建物が見当たらない上にライトアップされていてよく目立つ。具体的な高さは分からないが、見通しの良い通りに居れば時計が無くても問題なさそうだと考えつつも腕時計の時間をそれに合わせていく。
「一日は二十四時間でいいのか」
うっかり素の口調が出てしまうがこの際だ、繕う必要もないだろう。
「ええそうよ」
アイヴィはそれを気にした様子はない。
「出来れば数日で帰りたいんだがなぁ」
ぼやき声に合わせるように、街中に鐘の音が鳴り響く。
大気を震わせるその音に思わず空を見上げた。
それは暫く続き、そして再び静寂が訪れる。
「今の音……」
「帰還者が出た事を知らせる音よ。あの鐘の音はそれを教えてくれるの」
アイヴィは時計塔の方に向くと目を細めた。
「わかるのか」
「ええ、鐘の音の回数でどれだけの人が帰還に成功したかもね。今のだと六回なったでしょ。一人が成功すると三回鳴り響くから今のだと二人ね」
ニコリと微笑んで俺の肩を叩く。
「あなたも、いずれはここから出ていけるから腐らないで頑張ってね」
「そう、だな」
頷き通りの先を見据える。
通りの先には街明りに照らされた一際大きな洋風の王城のような建物。
夜を示す霧が出始めた事によって宙に浮いているようにも見える。その威容を示す建物こそが訓練所だと言う。
これからあそこで生きて帰るための研鑽が始まるのか。
思考が追いつかないまま碌でもない状況に巻き込まれた不安を頭の隅に追いやるように、深呼吸を一度、吐き出す息に乗せて追い出す。
それから拳を強く握った。