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後編  泥口の悲恋と、ひとつの恋のはじまり。

21


 で、その翌日。

副部長は何事もなかったかの様に登校してきた。

朝、校門の前で彼女とばったり出くわした時には、向こうから声を掛けてきてくれた。

「…もう、具合は大丈夫なんですか?」

「うん。へーきへーき。元気過ぎてさ、今朝も朝ごはんを四杯もお代わりしちゃったよぉ」

「…嘘でしょ?」

「ほんとほんと。今日も元気だお米が美味い!なんてね」

「…太りますよ?」

「へーきだよぉ。むしろ、もうお腹がまた空いてきちゃったくらいだし」

倉澤副部長はからからと笑ったけれど、僕は笑えなかった。

そこに文ちゃん先輩がやってきた。

「…倉澤さん。倒れたと聞いたのですが、もうよろしいのですか?」

「あ、鬼橋さん!ごめんね?何だか心配かけちゃったみたいで」

「昨日の授業のノートはとっておきました。後で教室でお渡しします」

「あ、ありがとー!さすが会長、頼りになるぅ」

「いえ…その、クラスメイトとして当然の事です」

そんな二人の会話を横で聞いている僕。…うーむ。やっぱ文ちゃん先輩ってば、言葉の端々に、副部長に気を遣っている雰囲気があるんだよなあ。何となくだけど。

一昨日の夜は一応謝ったけど、まだ釈然としない部分はある。

いつでも直球勝負!なのが文ちゃん先輩のいい所だと思う。なのにどうして副部長にだけは、ああも奥歯に衣を着せた様な物言いになるんだろうか。

その原因は、どうやらあの泥口にあるらしい。それは間違いないだろう。

…倉澤副部長もあの化物を見た。でも本人はどうもそれを覚えてはいないらしい。

鮎子先生の言ってた様に、それはたぶん、あまりの恐怖の為に、それを心の奥底にしまい込んで封印してしまっていたからだろう。これは分かる。何となれば、他ならぬ同じ経験をしたこの僕だって、最初はあれが現実に起きた事だったのか、それとも夢の中の出来事に過ぎなかったのか戸惑ったものな。

文ちゃん先輩は、副部長が泥口に襲われて、その記憶を失っているという事を何らかの事情で知っていて、彼女がおぞましい記憶を呼び起こさない様に配慮していたんだ。

…うん。ここまでは分かる。文ちゃん先輩がその事実を知り得たという理由だけは除いてね。

 でも、ここからが疑問。

まずはその「文ちゃん先輩が、副部長が泥口に襲われたという事実を知っていた」という点はあえて除外して考えてみる。

もって回った様な態度であるというのは、まあ気を遣っているからだとしても、文ちゃん先輩はなぜにそこまで、この件に関して責任を感じる必要があるのだろうか?

…生徒会長としての責任感?いやいや、それは違うぞ?

もし悩む理由がそれだとしたら、彼女はもっと違うアプローチを取っていた事だろう。

そう、彼女が僕に最初に近づいてきた時の様に、きっと副部長にも質問攻めして、その上で警察か自治体に通報するとかして、公的に動いていたことだろうさ。

もし文ちゃん先輩の行動原理が「生徒会長」としての責任感に依る物なのだとしたら、彼女が僕に取ってきた様な展開になったであろうことは想像に難くないんだ。

ところが、文ちゃん先輩の取ってきた態度を振り返ってみると、どうもそういった感じでもないんだよな。

彼女らしくもない消極的な態度。しかもそれが特定の個人にのみ向けられているという点が気に掛かっているんだよなあ。

文ちゃん先輩の性格からして、もし仮に副部長の記憶を呼び覚まさせないつもりならば、むしろ積極的にフォローすると思うんだ。それこそ、副部長が余計な事を考える余裕もないくらいに。

…でも、実際はどうだった?

僕が知る限り、文ちゃん先輩は副部長を避けてばかりいた。…同じクラスであるにもかかわらず。

でも、それは「ある時」を境に変化したことで、それまではごく普通に接していたという。

前に副部長が言っていたじゃないか。文ちゃん先輩とあまり話さなくなったのは…


『…そうねえ…鬼橋さんが生徒会長に当選した頃、かなあ…?』


…ここまで推理を働かせてみれば、文ちゃん先輩が生徒会長選に出馬する前に、副部長との関係を一転させる様な、何らかの出来事があったとみて間違いはなかろう。

ここの時系列に、たとえば仮に「副部長が泥口に襲われた」という場合を当てはめてみようか。

文ちゃん先輩自身も前に言っていた様に、生徒会長に立候補したのは「取り返しのつかない過ちを犯した償いの為」だったという。

…「取り返しのつかない過ち」って何だ?

さっきの「副部長が泥口に襲われた」という事実と関係する事?

しかしそれは、あくまでもその「仮定」を当てはめた場合でしかない。

でも、「文ちゃん先輩がその事実を知り得た」という時点で、この可能性は非常に大きな物になるのも確かだ。

つまり、「副部長が泥口に襲われたのは、文ちゃん先輩が犯した『取り返しのつかない過ち』が原因だった。だから負い目を感じた文ちゃん先輩の態度が消極的な物になった」という事ではないのだろうか?

…まあ、これはあくまでも仮説にすぎないけど…

それと、もうひとつの疑問もある。こっちはもっと単純だ。

副部長が泥口に襲われたとして、彼女はどうやって助かったんだ?

僕の時と同じ様に、あの正体不明の「蝙蝠女」に助けられたのだろうか?

いや、そもそも、あの蝙蝠女って一体何なんだ?

泥口だって得体がしれないけれど、それ以上に訳が分からないのはこっちの方だ。

宇宙人?悪魔?謎の未確認生物?

泥口の様な妖怪じみた奴だって闊歩してるのだから、妖精がいても不思議じゃない。

少なくとも、神様とか天使の類じゃあないだろう。

…腕を大鎌にして振り回していたのだから、神様は神様でも、死神の方かもしれない。

あああ、何もかもわけが分からない。

泥口と出くわしてから、わけが分からない事態に巻き込まれてしまっている。

…僕ぁまだ16歳。高校1年だぞ?

高校生活がこんなにハードな物だなんて思ってもみなかった。

…最初の年からこんな調子で、あと2年間やってゆけるのだろうか?

「…君?」

ん?

「志賀君?」

気がつくと、文ちゃん先輩が僕の顔を怪訝そうに見つめていた。

「…どこか…具合が悪いのですか?」

「……」

僕も彼女を見つめる。

…昨日の一件があったし、どうも話しづらいな。

「…。何でもないっす。じゃ、僕はこれで」

僕は深々と一礼すると、自転車を押してその場を離れた。

「あ…志賀君?」

後ろから戸惑った様な文ちゃん先輩の声がしたけれど、僕はそれを無視した。

そんな彼女に、副部長が「…ケンカでもしたの?」なんて聞いてたみたいだった。

 昼休みになっても、僕は内心のもやもやを持てあましていた。

今日の廊下は何やら騒々しい。何人もの走る音や喧騒めいた声が飛び交っていた。

…人の気分が晴れないって時に限って騒々しいなあ。ちったぁ空気を読めなどと、内心勝手に憤ってみたりもする。それを口に出すことはしないけれど。

それでもお腹は減る。

恋に恋する乙女でもあるまいし、悩みで食事が喉を通らない…なんてこともない。

どんなに落ち込んでいても、育ち盛りの男子高校生に昼飯は欠かせないものだ。

ふと、先日もらった文ちゃん先輩のバターおにぎりの味を思い出して、ちょっと切ない気持ちになったけれど。

今日は母のお手製弁当を持ってきていた。母のお弁当といえば、大抵が唐揚げとハンバーグのローテーションだった。どちらも好物だったし、味付けも僕の好みを把握してくれていたので文句などなかった。…母の味付けの美味しさに気づいたのは、ずっと後になってひとり暮らしをはじめてからの事だったけれど。

今日はハンバーグの番だった。均等にカットされたハンバーグを口に運んでいると、例のぼったくりパン屋の所に買い出しに行っていた森竹が戻ってきた。

奴の手には、僕も先日渋々買う羽目になったあんドーナツ1個。

「いやー参った参った」

「ん?どうしたん?今日はやけに小食じゃないか。それとも買い損ねたのか?」

「…さっき、俺が速攻で飛び出したの見てただろうが?」

ああ、そういえばそうだったな。

「俺はダッシュであのくそ不味いパン屋の元に駆けつけた。事件が起こったのはその時だ」

何だい。ずいぶんと仰々しい物言いだな。

「現場はすでに大勢の生徒が押し寄せていた。そりゃあ大変な騒ぎだったぞ?晴海並みだ」

晴海…って、ああ、コミケの事か。ウチの部の先輩の作ったサークルが、今度そこに何かの同人誌を出すとか言ってたっけ。

「そんなの、いつもの事じゃないか」

「そりゃまあ、その通りなんだが…今日はちょっとひと悶着あってな」

「ほうほう」

「一人な、パンを10個くらい買い占めてたのがいてな、最後は他の奴と取り合いになって、ケンカになったんだ」

「…ずいぶんと殺伐としてるなあ。誰だ、その食い意地張った奴は?」

「お前んトコの副部長さんだよ」

…え?

「あの先輩、『それもあたしンだー!』なんて怒鳴っちゃってさ。もう手には山ほど抱えてるってのによ?」

「それって…倉澤副部長の事だよな?」

「あ、そうそう。その倉澤先輩。あの人、しまいにゃ3年生の柔道部の先輩をブン殴っちまってさ、先生まで駆けつける騒動になっちまったんだよ」

ああ、さっきの廊下の騒ぎはそれだったのか。

「で、倉澤先輩は?」

「生徒指導の中山と学年主任の石沢が生徒指導室に連れてった。後は知らん」

副部長…昨日の夜とか今朝の事もあったし…イヤな予感がする。

「なあ志賀?」

「ん?」

「…あの先輩ってさ、前からあんなに狂暴だったっけ?」

「い…いや、そんな事ないはずなんだけど…」

異常な食欲…そして狂暴性。

やはり、おっちゃんの話を思い出してしまうんだよな。

ましてや、副部長も泥口に襲われたらしいし…

…もう一度、あの話を思い出してみよう。

あの昔話と今回の副部長に、何か共通する事はないだろうか?

半世紀前に、実は泥口に食い殺されたらしい(?)安仁和尚さんの事は分からないけど、弥平のケースの場合は、狂暴化して奥さんと子供を食っちまった挙句死罪になった。

弥平が泥口になったのは死んでからの事だ。

…まてまてまて。もっとよく考えてみよう。

安仁和尚だって泥口になったのかもしれないけど、それは亡くなって埋葬された後の事みたいだし…

ん…?もしかして「泥口」って細菌か何かが原因で感染す(うつ)るのかもしれないけれど、その後で一度死ななければ発症(?)しないのかもしれない。

この辺り、医学的根拠とかはまるで分からないけれど、たとえばゾンビみたいに、死んだ人間がそうなる…って奴じゃないのか?

たとえば「泥口菌(仮称)」なんてのがあって、それに感染した人間が死亡して…

えっと、脳死状態になったりした後で、その細菌が活性化して身体を変質させちゃうとか…?

…うん。われながら素人としては大胆な分析だ。もっともらしい…気がする。

でも。もしもこの考えが正しいのならば…倉澤副部長の場合は違う気もする。

だって、副部長は死んでなんかいないのだし…

…やっぱ、僕の考え過ぎなのかなあ。

あの異常な食欲だって、きっと別に理由があるのだろう。

深く考え過ぎない様にせねば…な。

一応、僕だって反省文出した身だ。その相手様の事を悪く言うモンじゃないし。

 何となく時間は過ぎてゆき、やがて放課後になったけれど、今日の僕は、美術室に足を向けたくはなかった。

事情をよく聞きもしないで難癖をつけてきた太田先生に会いたくなかったというのもあるけど、それ以上に副部長と顔を合わせるのが気まずかったんだ。

…こうなると、僕も部長を避けてた文ちゃん先輩の事を悪く言えないよなあ…

……よし。サボろう。

僕は教室のロッカーの所に置いておいたギターを持って、久しぶりに北校舎の屋上へと向かった。

北校舎の3階にある美術室の脇を通る時は、ちょっと緊張したけれど。

お向かいの音楽室からは、いつものフォークソング部の演奏も聞こえてこなかった。

今日はあちらさんも休部なのだろうか?…何にせよ、今はあまり人目には付きたくなかったので、かえって好都合ではあったけれど。

そのまま屋上に出る扉を開けて表に出た僕は、いつもの場所に腰を下ろした。

ギター・ケースから愛機を引っ張り出し、音叉でA音を出してチューニング。

6本全てを調弦し終えてから改めてギターを構え、右手の親指にサム・ピックをはめる。

左手は何のコードも抑えず開放弦のままで、右親指を6弦から1弦にむけてストローク。

…じゃらん。

ここの所忙しくて、あまり弾いてやれなかったわりには、わが愛機は以前と同じ鈴の鳴る様な音を奏でてくれた。

何のコードにもならないその響きだけでも、僕の心は躍った。

僕は本当にギターの音が好きなんだな、と思う。

親の話では、僕が3歳の頃に太田市の呑龍様にお参りに行った事があるそうだけど、その時に買ってもらったでんでん太鼓を、僕はずいぶんと永い間後生大事に叩いていたそうだ。

うん、あの太鼓の事は微かに覚えている。

太鼓の皮の部分にクレヨンで落書きして、父に怒られたっけなあ。

僕は昔から「音の出るオモチャ」が好きだったみたい。

それがいつの間にか、太鼓からギターに換わっただけの事かもしれない。

だから僕にとってのギターは、子供が夢中でトントン叩いていたでんでん太鼓とおんなじ。

「志賀はギター握らせとけば、とりあえず泣き止む」なんて言ったのはわが悪友森竹だけれども、うん。あながちハズレでもないと思う。

よし。準備ができた。

僕は一度深呼吸すると、スリー・フィンガー奏法でアルペジオを弾きはじめた。

「四月になれば彼女は」。フルで弾いても2分足らずの短い曲だけど、6弦から1弦までくまなく、かつネックを握る左手もロー・ポジションから7フレット付近まで動き回る忙しい曲だ。その上ポール=サイモンは、このせわしいフレーズをを弾きながら、その上歌まで歌ってしまうのだから恐れ入る。

以前夢中で練習したおかげで、今では僕も弾きながら歌える数少ないレパートリーに加える事ができたけれど、その出来はと言えば、いくら何でもご本家には遠く及ばない。

最近ではウォーミング・アップの代わりに弾く事も多くなった。

一曲、弾き終えてから気がついた。

…はは。何のことはない。これって、半月くらい前の自分に戻っただけじゃないか。

いつもここには僕一人で来ていた。ここは僕だけの練習場所。

そういえば鮎子先生と身近になれたのも、この屋上が最初だったんだっけ。

…それと。文ちゃん先輩とも。

あの時、文ちゃん先輩にはまず怒られたっけな。

それから、色々な事があった。

引っ張りまわされたり、勉強見てもらったり。

もうずいぶんと前の事に思える。実際はほんの半月前の出来事なのに。

今になって分かる。あの二人と深くかかわる前までは、ここで一人ギターを弾いている自分に、ただ酔いしれていただけだったのかもしれない。

…孤高を気取っていただけだったんだ。

人様に認めてもらおうとする努力から逃げだして。

それでいて、妙なプライドだけは無駄に高くて。

そんな自分を認めたくないから、「孤独な自分」を恰好いいなんて思い込んで…さ。

僕は…馬鹿だ。

(わら)っちゃうよ。ああ、嗤っちゃう。(わら)っちゃうのではなくて。

…あの、楽しかった数日間に戻りたいと思った。

…今またあの時と同じ様にギターを弾けば、あの楽しい時間を取り戻せるかもしれない。また鮎子先生がここにやってきて、僕のギターに合わせて歌ってくれるかもしれない。

僕はそう思ったんだ。

藁にもすがる思いで、僕はもう一度、あの時の様に「スカボロー・フェア」を弾いてみることにした。

そうさ。あの時ここで、この曲を弾いた事で、僕は鮎子先生と話すきっかけができたんだ。

カポタストを7フレットに装着して、あの独特のイントロを弾いてみる。

そのまま歌も歌わずに数コーラス弾いてみる。

やがて、最後のハーモニクス音で曲を弾き終えたけれど、周囲には誰の気配もなかった。

冷たい風が、体の中にまで浸みこんでくる様な気がする。

「…はは。そうだよな。そうそうやってきてくれる事もないか…」

僕は空を見上げた。もう薄暗くなってる。これから冬至の日までは、陽は短くなる一方だ。

もう、グラウンドで練習する体育会系の部活の声も聞こえない。

時折、遠くから聞こえるのは、巣に帰ってゆくカラスの鳴き声くらいだった。

それでも、どんな声も聞き漏らすまいと僕は耳を澄ませていた。

「…わぁ~れぇ~をよぉ~んだか~」

ふと妙に(かしこ)まった、それでいて少々ふざけている様な、耳に馴染んだあの声が聞こえた。

…きてくれた!

「…鮎子先生。どうせまた僕の上にいるんでしょ?」

ちょっと強がって皮肉めいた口調をしたものの、内心では嬉しくて、情けない事にちょっと涙が出てしまった。でも、いくら何でも「我を呼んだか」はないと思う。

「…当たり。くすくす」

予想通り、彼女の声は僕の頭上、給水槽の付近から聞こえてきた。その声の中に「悪戯がばれちゃった?」みたいな照れが混じっていた…と思えたのは気のせいだろうか。

それにしても、一体どうやってこの屋上にある給水槽に登ったのだろうか。あそこに上がるには、屋上に出てから僕の目の前をよぎって、給水槽の点検用に壁に設置されている梯子を登らなければならないのだが。

「とうっ」

鮎子先生は、あの時と同じ様に、またもやそこから飛び降りた。

脳裏をよぎる既視感。

まるでスローモーションの様に、風に翻ったスカートの中から、魅惑的な太腿が見えた。

…相変わらず、紺のストッキングの破壊力は絶大だった。

すとん、と屋上のタイルの上に降り立った鮎子先生は、僕の視線に気がついたみたいだ。

「…。えと、『いやーん、まいっちんぐ』?」

…何て棒読みな台詞なんでしょ。

それから、その台詞言いながら人差し指で自分の頭を突っついて「…あれ?こういう時はこれでいいんだっけ?」とか自問自答する様な仕草はしないでください。

…いやだから、「どう?」みたいな顔で僕に感想を求めるのもナシですってば。

…ああもう、今のがウケなかったからって、次の手を考えてないでくださいな。

「…40点ですね。それ以上は差し上げられません」

「それじゃあ赤点じゃない。くすくす」

「…でも追試はしません」

「何それ。あはははは」

いつも以上に愉快そうな鮎子先生の声につられて、僕も苦笑してしまった。

「…元気、出たみたいだね」

「ええ、まあ。何とか。…でも『我を呼んだか?』はないですよ、いくら何でも」

「だめかな?」

「…ちょっと悪役っぽいです。悪のボスか邪悪な魔神みたいに聞こえます」

「うー…あながちハズレでもないんだけどなあ。それ」

「鮎子先生は悪い事したんですか?」

「うん。いっぱい、いーっぱいやってきたよ」

…何で、そんなに嬉しそうに言うのかな、この人。

「…いっぱい、いっぱいやってきた」

急に真面目な顔になる鮎子先生。…こんな顔は初めて見た。

その視線は僕ではなく、どこか遠くの何かを見つめていた。

僕の知る限り、鮎子先生という人は美人で優しくて、いつもくすくす笑っていて。

ちょっとトボケた様な素振りも見せるけれど、いつだって周りに気を遣ってくれていて。

悩んでいる人にも的確なアドバイスをくれる、全校生徒の憧れの養護の先生だ。

…その鮎子先生の言う「悪い事」?ちょっと気になる。

「ところで、今日は絵、描かないんだ?」

「色々とあって、ちょっとモチベーション下がっちゃって…」

「文ちゃんのこと…かな?」

「え、ええ…まあ。この前のことがあってから、ちょっと気まずくて」

「まあ、そうでしょうね。…あの絵はもう一度描かないの?」

「うーん…アレ、僕の中にあった気持ちを全部ぶつけてましたから、もうおんなじのは描けないと思います」

「残念だったね。いい絵だったと思うよ、あれは」

「あはは。一端絵にしてしまったら、もうどうでもよくなってしまって…実はあんまり惜しいとも思わないんです」

「うーん…『私の頭の中には、数限りもない美しい絵が秘蔵されていた。私は試みに絵筆を取って、その中の一つを画布の上に写してみた。……気のついた時はもう間に合わなかった。……同時に頭の中のすべての美しい絵もみんな無残に塗り汚されてしまった』って奴かな?」

「あ、それ、寺田寅彦ですよね?」

「そう。よく知ってるね」

「大好きなんですよ、寺田寅彦。でも、そういうのとも、ちょっと違うんですよね。むしろ逆です。絵にしてイメージが崩れてしまったんじゃなくて、絵にした事で自分の中の踏ん切りがついたというか」

「くすくす。キミのそういう自分の気持ちに素直な所、どことなく寺田先生に似てるから、ちょっと思い出しちゃったんだ」

鮎子先生は遠い目をして笑った。…遠い思い出を振り返る様に。

「…鮎子先生?」

「何?」

「まるで本人と会った事があるみたいですね」

「うん。昔ちょっとお世話になった事があって…あ」

鮎子先生は、そこで言葉を途切れさせた。さもありなん。それは失言である。なぜならば。

「…寺田寅彦は昭和10年の大晦日に亡くなってますよ?もう何十年も前の人です」

僕としては、ジョークに対する軽いツッコミ程度のつもりだったのだけど。

「あ…あーそうそう。そうだったよね。あははははー」

鮎子先生は、普段の彼女からは想像もつかないくらい狼狽していた。何でだ?

あ、そういえば気になってた事もあったんだ。

「そういえば、先生は前にもサイモン&ガーファンクルを生で観た事があるなんて言ってましたけど…その時、先生は何歳だったんですか?」

鮎子先生は、気まずそうに視線を宙に泳がせたまま。

「15・6年も昔の事ですし、先生もまだ10歳前後のはずですよ?」

「あー、うん。そういう事になるかなあ…あはは」

まるで、こっそりとやった悪戯がばれてしまった子供の言い訳みたいな事を口にする鮎子先生。

「…先生って、ホントは何歳なんですか?」

「れでぃーにとしをきくものじゃないよ」

動揺しているのか、返事も棒読みになってる。

「先生、まるで見た目よりも、ずっと年上みたいじゃないですか」

「あ…あははははー。それ、わたしの嘘って事にしておいてくれると嬉しいなあ」

照れ臭そうに、手をばたばたと振りながら鮎子先生。

「嘘だったんですか?」

「あーそうそう。嘘よ嘘。わたしは嘘をつく癖があるんだ。困っちゃうよねー」

「鮎子先生は大嘘つきなんですか」

「そうよぉ?わたしの言う事はみーんな嘘。純情な男の子を騙しちゃう、とーっても悪い女なの、わたしは」

「とてもそんな人には見えません」

「そう思わせないのが嘘つきのテクニックだもの」

…僕はずっと鮎子先生に騙されていたのだろうか?本人が言う様に。

先生には色々と助けてもらった。それは嘘じゃない。

先生のくれたアドバイス。それを実行したら悩みも消えた。これも嘘じゃない。

先生は何かと文ちゃん先輩を庇っていた。まるで実の姉の様に。

そんな先生だからこそ、文ちゃん先輩は「おねえちゃん」と呼んでいたのだろう。

…あの文ちゃん先輩が、だ。

「あの」文ちゃん先輩が、あんなにも慕っている鮎子先生なんだ。

…本当に、ただの嘘つきなのか?

鮎子先生が嘘つきだなんて、本人がそう言ったところで、鵜呑みにする事はできなかった。

…たとえそれが荒唐無稽な話だったとしても。

知り合ってまだ日の浅い僕はともかく、あの文ちゃん先輩が慕う人が、嘘をつく様な人のはずがない。

僕はすぅ、と深く息を吸い込んで言った。

「…僕は信じません。文ちゃん先輩を見てれば分かりますよ」

鮎子先生は一瞬、目を大きく開いたかと思うと苦笑した。

「あはは…そこで文ちゃんの名前を出すかあ。…参ったなぁ」

案の定、鮎子先生にとっても、文ちゃん先輩という存在は、決して軽い物ではなかったという事なのだろう。

それは、二人がこれまで培ってきた「絆」。

お互いを姉妹の様に思いやってきた「歴史」は、鮎子先生でも裏切れないと思った。だから、あえて彼女の名前を口にしてみたんだ。

「文ちゃん先輩が『おねえちゃん』って呼ぶ人が嘘つきだったら、それは文ちゃん先輩の人を見る目がないって事、ですよね?」

「うーん…まあ、そういう事になるかなあ」

鮎子先生は照れ臭そうに、あるいはくすぐったい様な表情になった。

「鮎子先生は、文ちゃん先輩も騙していたって事ですか?」

「…志賀くんは、文ちゃんが人に騙される様な子だと思う?」

「思いません。だから鮎子先生が嘘つきだって事も信じられないです」

「そうだよねー。文ちゃんだものね…参ったなあ…本当に参った。志賀くんって鈍いくせに、妙な所で鋭かったりするから、騙そうにも騙せないな」

…それはどうも。

「それに」

「それに?」

「キミのギターを聴いてると、嘘をつこうとすると心が痛んじゃうから、嘘がつけない」

「それは嘘ですよね?」

「あはは。分かる?」

「そこまで人の心を打つ様なギターじゃないことくらい、自分でも分かりますよ」

「くすくす。でもね、キミのギター…というより、キミ自身に興味があったのは本当」

「どうしてですか?」

「毎日、放課後に屋上から聴こえてくるキミのギターは、いつも寂しそうだった。誰にも聴いてもらえなくて、せつなそうだった、それでも、ギターが好きなんだなあって気持ちは伝わってきたよ?…どんな子が弾いてるのかなって興味がわいてきて、話しかけてみたらこんな子だった」

…僕ぁ、一体どんな風に見られてたのだろうか。

「ヘソマガリで意地っ張りで、そのくせ寂しがりで人と話す事が好き」

…否定できない。

「関心のない事にはまるで無頓着なのに、興味がわくと、とことんのめり込む」

その通り…だよなあ。

「そういう所は、文ちゃんとそっくり」

「…は?」

それはどうだろう?少なくとも、僕は文ちゃん先輩ほどまっすぐじゃないけど…

「文ちゃんってね、ああ見えてけっこう頑固だしヘソマガリなんだ。だから自分の決めた事は何が何でも守ろうとするし、人の言う事にも耳を傾けなかったりするしね」

うーん…言われてみれば…そういう所もあるかも…

「うーん…たしかに意地っ張りな所はありますよね…時々、真面目過ぎるし」

「そう思うでしょう?」

「はい」

「だからキミと文ちゃんは、気が合ったんだと思うよ」

「そうでしょうか」

「だって、キミと会うまで、文ちゃんがここまで心を許した男の子はいなかったもの。見ていて、微笑ましいなって思ってたの」

そう言われると嬉しい様な恥ずかしい様な。だけど…今の僕にはちょっと切ない気持ちにもなるけれど。

「文ちゃんがここまで心を許した男の子を騙そう…なんて、やっぱよくないよね」

鮎子先生は何か決心した様に、うん、と頷いた。

その時だった。

「きゃああああぁぁぁ…!」という悲鳴が聞こえたのは。


22

 

悲鳴は僕たちのいる屋上のすぐ階下、美術室から聞こえてきた。

それは聞き覚えのある、うちの部の女子の声だった。

僕と鮎子先生は顔を見合わせると、すぐに階段を駆け下りた。

…イヤな予感しかしない。

踊り場を横切り、最後は階段を飛び降りる様に駆け下りた僕たちは、躊躇うことなく美術室のドアを開けた。

部室の中では蒼木部長や室崎くん、塚村さんをはじめとする数名の部員たちが、硬直したまま立ち尽くしていた。

彼らの視線は、等しく一点に向けられていた。

その視線の先には。

…何だアレ…何なんだアレは。

それは、僕はもちろん、さすがの鮎子先生でさえ絶句してしまうほどの異様な光景だった。

赤、青、黄色、茶色、黒、白。橙、緑、ピンク紫空色朱色…色、色、色!!

様々な色が、美術室の床の上に不規則に撒き散らされていて。

その中心には、それらの色合いに(まみ)れた倉澤副部長が座り込んでいた。

副部長の全身は、床に塗れた色合いがごっちゃになっていて、まるで迷彩服でもまとっているかの様だった。

その表情は恍惚としていて、壮絶な色気さえ放っているかの様だった。

…いや、アレは色気じゃない。もはや妖気といった方が相応しいだろう。

彼女は舌舐めずりをして、手にもこびり付いた色をただぺろぺろと舐めている。

そうか。あれは絵具なのか…って、絵具?!

その絵具はどれも油彩用だった。

油絵具は有害物である。あの独特の色彩を出すために、カドミウムやクロム、鉛といった人体に有害な化合物が成分として含まれているのだ。そんな事は幽霊部員に過ぎないこの僕でさえ知っている。

ましてや副部長ともあろう人が、それを知らないわけがない。

何でそんな物騒な物を、この人はああも美味そうに舐めているのか。

「きゃあっ!」

「く…倉澤君、やめろ!やめるんだ!」

部の女子や蒼木部長が必死に制止する声の響く中、副部長はにぃ…と(わら)うと、近くに落ちていた一本の瓶を手にして、一気にラッパ飲みしてしまった。

部室内に、さらなる悲鳴が響く。

副部長は、空になった瓶を無造作に放り投げた。

コロコロ…と転がってきた空の瓶は、僕の近くで止まった。

僕はその瓶のラベルを見て驚愕した。

ラベルには「STRIPPER:ストリッパー」と書いてあった。

ストリッパー。パレットやイーゼルなどにこびり付いた油絵具を落とすのに使う剥離剤。

水溶性の水彩絵具と違い、一度乾燥してしまったら水では洗い落とせない油彩絵具を落とすには、この剥離剤を使う必要がある。

油性の絵具を溶かすために、この剥離剤の成分にはジクロロメタン(塩化メチレン)とかセロソルブ(エチルグリコール)といった、これまた有害な有機溶剤が含まれている。そういえば石油から造られるパラフィンワックスなんてのも含まれているはずだ。

理系でもない僕が、なぜそんな事を知っているかと言うと、これは単純に経験からくる物だった。生まれてはじめて油彩を描いた後、やはりはじめてこの剥離剤を使ったのだけど、何の予備知識も持たなかった僕は、迂闊にも軽い気持ちでこの薬品に素手で触れてしまい、その結果、大事な指先が無惨にも(ただ)れてしまった苦い思い出があったからだ。

…あの時は散々だった。おかげでおよそ2週間も、僕はギターを弾く事もできなかったのだから。

それでも何とかギターを弾こうと手にしたのだけれど、ピッキングする右手の指先も、指板を押さえる左手の指先も、弦にちょっと触れるだけで激痛が走ったものだ。

…そんな事があったので、僕はこの剥離剤に対しては今でも怖れを抱いている。

油彩を描きたくない理由のひとつ。いや、それが最大の理由といってもよかった。

そのストリッパーを、今、副部長は飲み干してしまった。

皮膚に付いただけでも危険な劇薬を、だ。

口内の粘膜は…気管は大丈夫…なのか?

しかし副部長はまた嗤った。

「…あひゃひゃひゃひゃひゃ…ぅいひひひひひひひぃぃ…」

口内に残っていた剥離剤が、口元からだらだらと垂れる。

言葉も出ないで立ち尽くす僕たちを横目に、副部長はさらに絵具を手に取った。

今度はカドミウム満載のバーミリオンだ。

副部長はキャップを開けて…たまたま少し固まっていたのか、なかなか出てこない中身に業を煮やして力任せにチューブを引きちぎってしまい、指で拭い取る様にして絵具を舐めている…とても美味そうに。

それはもはや「ヒト」とは言えない。

そこにいるのは、かつては陽気で気さくで後輩思いの先輩だった事もあるというだけの獣。

「倉澤由美子」と呼ばれた時もあったというだけの、ただの一匹の獣に過ぎなかった。

「…もっと…もっとちょうだぁい…お腹が減ってたまらないの…」

その獣は、ニンゲンの言葉を話してはいた。

しかしそれは本能のみに従い、理性を失いかけている野性の咆哮に近い物だった。

その声は濁っていて発音もよく聞き取れない。やはり、剥離剤のせいで喉が炎症を起こしているのだろうか。

彼女が口を開く度に、口内に残っていた剥離剤が、あたかも(よだれ)のごとく垂れる。

やや赤い色をしているのは、さっき口にしたバーミリオンなのか、それとも出血による物なのか…いずれにせよ、その不潔な涎は、周囲に吐き気を催す様な悪臭を放っていた。

その「獣」は時々ごほごほと(むせ)て、何か色のついた塊を吐き出した。

…「獣」が今までひたすら食べていた食物の残渣(ざんさ)の塊が、絵具で着色された物だった。

…おっちゃんから聞いた、あの掛軸の弥平の話を思い出す。

やはり倉澤副部長も…泥口に「感染」していたのだろうか?

でも、僕の仮設だと、一度死ななくては発症しないはず…

それはあくまでも、素人の僕の発想だけど…

「獣」は鮎子先生の方を向くと奇声を発した。威嚇しているのだろうか。

周囲の部員たちは思わず身構えた。

すると「獣」はもう一度シャア!と吠えると、油絵具と嘔吐物の海に座り込んだ姿勢のままから驚異的な跳躍力を見せた。およそ3m以上はジャンプしただろうか。

「獣」は言葉も出ない僕たちの間を抜けて、開けっ放しだったドアから廊下に飛び出していった。

「ま…待て倉澤君!」

蒼木部長が叫んだ時には、すでに副部長の姿は見えなくなっていた。

「あ…志賀君!彼女を追ってくれ!」

部長は入口付近に立っていた僕に指示した。

「あ…はい!」

答えてから、僕は隣の鮎子先生を見た。

「わたしも一緒に…」

鮎子先生が頷いて言ったその時、どさっ、と何かが倒れる音がした。

見ると、部の女子数名が倒れていた。緊張が解けてしまったのだろうか。

「先生!?」

蒼木部長の声に、鮎子先生は彼女たちの所に駆け寄った。

「志賀くんは彼女を探しなさい!わたしも後からすぐにゆくから!」

倒れた女子の脈を取りながら、鮎子先生が叫ぶ。

「分かりました!」

廊下に出た僕は周囲を見回した。

副部長が去った方角はすぐに分かった。絵具に塗れた靴の跡が、床に残っていたからだ。

副部長は僕たちが駆けつけてきたルートを逆走していったらしい。

…つまりは屋上へ。

そういえば悲鳴を聞いてすぐに飛び出したから、屋上の扉はそのままで開けっ放しになっていたはずだ。

…どういうことだ?

これでは、自ら逃げ場を塞いでしまった様なものだろうに。

そんな事さえ判断できないほど正気を失っているのか、それとも…

僕は足音を立てない様、慎重に階段を一段ずつ登り始めた。

踊り場はなるべく壁側に背をつける様にして、前方の広い視界を確保しつつ、背後からの襲撃にも備えながら進む。

……。

今になって、何か武器になりそうな物でも持ってくればよかったと後悔した。

時すでに遅し。

踊り場をぐるぅりと回り込み、また階段を一段ずつ進む。

…もちろん、どんな音も聞き漏らすまいと、耳にも神経を集中させている。

…じゃらん。

ふと、ギターの音が聞こえた。

…しまった!大事なギターをあそこに置きっ放しにしていたんだ!

何たる不覚。

…そうじゃない。

屋上には、間違いなく「誰か」がいて、僕のギターを鳴らしたんだ。

なぜ鳴らせた?

…決まってるじゃないか。おそらく追手…この僕を挑発するため…だ。

絵具を無頓着に混ぜ合わせた汚い色の足跡は、屋上へと続いている。

僕の位置からでは、屋上の扉の先は死角になっていて見えない。

僕は腰をかがめ、最後はほとんど這う様にして階段を登った。

もちろん、相手は追手が来ることに気づいているだろうけれど、奇襲を受けない様、用心するに越したことはない。

階段を登りきる。周囲には誰の気配もなかった。

神経を集中させながら、扉の外側の様子を窺う。

外の景色はもう薄暗くて、よく見えなかった。

…「逢魔が時」って奴か。

目を凝らしてみると、大事な僕のギターが、少し離れた所の転落防止フェンスに立て掛けられてあった。

ああっ!何という事だ!ネックには無残にも、絵具に塗れた手形が残されている!

無造作に握ったんだな…ちくしょう…!

…こうすれば、逆上した僕が、何にも考えずに飛び出してくると思ったのだろうか?

とっても悔しいけど、そんな手には乗るものかよ。

…そんなあからさまな罠に、みすみす引っ掛かる僕じゃねーぞ?

僕は自分の上履きを片方だけ脱ぐと、扉の外に向かって放り投げてみた。

相手も緊張して待ち構えているのなら、何か動く物に、咄嗟に反応してしまうだろうと思ったのだけど…

ころころころ。何事もなく、上履きは屋上の中央付近に落ちて転がった。

…誰もいないのか?

…いや、そんなはずはない。ギターだって、元の位置とは違った場所に置かれている。

少なくとも、「意志」を持った何者かがいることは間違いない。

薄暗くてよくは分からないけど、足跡は間違いなく扉の外に向かっていた。

恐る恐る、扉の所まで近寄ってみて、外の様子を窺ってみる。

この位置になれば、屋上の周囲に死角はない。

師走の冷たい風が吹き込んでくる。寒い。

目を凝らして屋上の隅から隅まで凝視したけれど、先輩らしき人影は見当たらなかった。

…やはりいないのか?

僕は扉から一歩、外に出てみた。もちろん注意は怠らない。

もう一度周囲を見回してみたけど、どこにも姿は見えなかった。

…まさか、フェンスを飛び越えて飛び降りたのか?それも考えられるけれど…

さっき、美術室で見せた副部長の跳躍力は凄まじい物だった。

あの時彼女は、完全に座り込んだ姿勢から、いきなり数mもの跳躍を見せたのだ。

アレはもはや、ニンゲンの限界を超えているだろう。

僕は上履きが転がった場所まで一気に駆けてゆき、慌てて靴を履き直すと、大事なギターの所に走り寄った。

あーあ。僕の愛するギターは、10フレット付近にべったりと絵具がこびり付いていた。

すっかりサイケデリックなデザインになってしまった…こりゃ、なかなか落ちないぞ。

…だから油彩はキライなんだ。

ギターを手にした僕は、再び扉の近くに戻り、その近くに放置されていたギター・ケースに愛機を収納した。

…それにしても、副部長はどこに消えたんだ?

振り返って、もう一度屋上の周囲を見回したけれど、その姿はどこにもなかった。

…ここじゃないのか?と思ったその瞬間、

シャァァァァァ…

…え?この奇声は…?

気がつくのが一瞬遅れてしまった。

声は…僕の頭上から聞こえていたのだった。

しまった!給水槽の影かっ!?

迂闊だった。

ちょっと考えれば分かりそうな事だった。

だって、ここで鮎子先生と会った2回とも、先生だってあの場所から僕に声を掛けてきてたじゃないか。

あそこまでどうやって登るか、という事さえクリアできれば、あの場所は格好の隠れ場所となる。

僕は給水槽のある場所を見上げた。

…いた!

二度あることは三度あると言うけれど、三度目に僕がここで出会ったのは、鮎子先生とは似ても似つかない「獣」だった。

奴は…副部長だった「獣」は、給水槽の上に四つん這いになって僕を威嚇していた。

その瞳に光は失われ、だらしなく開いた口元からは絵具の混ざった涎を垂らしていた。

背筋に悪寒が走ったのは、吹きつける冷たい空っ風のせいだけではない。

僕は言葉も出なかった。

奴が次の瞬間にどんな行動をとるか、その一挙一動を見逃すまいと思った。

でなければ…殺される。

いいや、おっちゃんから聞いた弥平の話が本当なら。

そして僕の仮説が正しいのなら。

…僕は、喰われる…!!

だから僕は、奴の動きを察知しなければならなかった。

「……」

「獣」が嗤った様な気がした。

次の瞬間、奴は大きくジャンプした。

くそっ!あまりの速さに、目が追い付かない!

僕は一瞬、奴の姿を見失ってしまった。

「しまった!」

そう思った時には、背後に気配を感じた。

その直後、背中に鈍痛を覚えた。

まるでハンマーで金床を打ち付ける様に、容赦のない一撃!

肩甲骨の辺りに、骨が砕けた様な痛みが走る。

「…ぐぁッ!!」

激痛の後に、息もできなくなった。

あまりの衝撃で気管が圧迫されてしまったみたいだ。

僕はよろよろと前にもたれ込んだ。でもここで倒れるわけにもゆかない。

くらくらする頭を何とか振り向かせると、そのすぐ先に「獣」の顔があった。

奴は大きな口を開けて、今にも僕に飛びかかろうとしていた。

喰いつかれたら終わりだ!

僕は咄嗟に奴の胸倉を掴み、自分は腰をかがめて、奴の身体を背中に背負い込む様な姿勢を取った。

あとは突進してくる「獣」の勢いを利用するだけ。

「せいやっ!」

僕は掛け声とともに、「獣」をそのまま、壁の方に向けて投げ捨てた。

…父の強引な勧めではあったけど、町道場で柔道をやっててよかった。

中学卒業と同時にリタイアした身だけれど、僕の体は、まだ型を覚えてくれていたらしい。

やっててよかった伝統武芸。

しかし「獣」は猫の様に俊敏な仕草で宙を舞い、壁にぶつかる瞬間、その壁を蹴ってこちらにまた向かってきた!

三角飛び!?…そんなんアリかぁ…!?

今度は投げの姿勢を取る間もなかった。

「獣」は僕の肩に飛びつくと、そのまま後ろに回り込んで、僕を羽交い絞めにする。

副部長は、女の子とは思えない力で僕を締め上げた。そのまま自分の方に引き寄せてくる。

「ぐふっ!!」

息が詰まる…呼吸ができない…

しかも僕の首筋のすぐ近くには、「獣」の大きく開いた口が迫っている。

…このままではマジで喰われる…!恐怖に駆られた僕は、左の肘で「獣」の腹部を思いっきり肘鉄を喰らわせた!

「ギャア!!」

クリーンヒット!

さすがの「獣」と化した副部長にも、これは効いた様だ。

女の子のお腹を傷つけるなんて、本来ならば最低の行為かもしれないけれど、今はそれ所ではない。

自由の身になった僕は、げほげほと咽る。

対する「獣」も僕から手を放して、よろよろと後退した。そしてげほっ!と咳をすると、口からまた何かを吐き出した。

やったか…?

「…くん…」

……え?

「志賀くん…酷いよ…痛いよぉ…」

「獣」は、いや倉澤副部長は、腹部を手で押さえながら、弱々しい声で呻いて顔を上げた。

その瞳には涙を浮かべている。

あ…正気に戻った…のか?

「せ…先輩、すみません…ちょっと力入れ過ぎちゃって…」

「ふぇ…気持ち悪いよぉ…うぇ…ごほっごほっ」

「あ…あの、大丈夫ですか?鮎子先生、呼んできましょうか?」

さすがにちょっとやり過ぎてしまった。いくらなんでも、相手は女の子だぞ?

僕は苦しんでいる副部長に近寄った。

「…大丈夫じゃない…」

僕は、苦しそうにしている副部長の背中をさすった。

「うう…お腹の中身、みーんな吐いちゃったよぉ…」

副部長の顔が苦痛に歪む。

「吐いちゃって…お腹…すいちゃっタヨ…」

え…?

副部長は僕の右腕を掴んだ。

副部長…いや、「獣」の瞳が再び狂気の色に染まる。

「…オイシソウ…いひひ」

え…え…えええ…?!

「獣」の口が大きく開かれた。

「くそっ!放せっ!放せったら!」

僕は掴まれた腕を引き離そうと力を込めた。でも、「獣」の腕の力はあまりにも強くて、まるで微動だにしない。

ええいっ!それならばっ!

僕は「獣」の腕を、自由になっている左腕も使って両手で掴み返した。

そのまま、自分の身体を軸に回転させる。ちょうどハンマー投げの要領だ。

力はあっても相手は女の子、体重は軽いから、こうすれば体重差のある僕の方が支点になる事ができる。

最初は力任せに抵抗していた「獣」だったけれど、次第に回転のスピードが速まってゆくにつれて、その足元がふらつきはじめた。

傍から見れば、まるで仲のいい男女がふざけてダンスでも踊っている様な、マヌケな構図に見えるかもしれないけれど、残念ながら、僕と目の前のパートナーとの間にあるのは甘い睦事なんかじゃない。

「獣」の足元に隙ができた。…今だっ!

僕は急に腰を落として、「獣」の足を払った。こういう機転も柔道の乱取稽古で覚えた小技だった。

柔道凄い。日本の国技だけの事はある。目指せロサンゼルス。頑張れ斉藤、勝利だ山下。

「獣」はバランスを失って転倒した。やった!…って、あれ?

奴は、それでもまだ僕の腕を放さなかった。

むしろ僕の方までバランスを失って、引きずられる様な態勢になってしまった。

…ふいに身体が軽くなった。

そう思った時には、僕の身体は空中に放り出されていた。

一瞬の事でよく分からなかったけれど、「獣」はどうやら転んだ瞬間に、その馬鹿力で僕を力任せに投げ飛ばしたらしい。

…こ…ここで手を放すかぁ…!?

投げ飛ばされた僕の身体は、転落防止のフェンスを軽々と越えて、外側に飛び出した。

視界いっぱいに、夜空の星々が広がる。

…うわぁぁぁぁぁぁ…!!落ちるっ…?

無我夢中で手をバタつかせたのがよかった。

藁をも掴む思いで伸ばした腕は、ぎりぎりで屋上の縁を掴むことができた。

かなりのスピードで投げ出されただけに、縁を掴んだ時の衝撃も相当なものだった。

おまけに、さっき「獣」の襲撃を受けた時に強打された背中にも激痛が走る。

何とか転落するのだけは避けられたけれど、僕は屋上の縁に宙釣りになってしまった。

…どどど、どうしよう…

下を見下ろせば、すっかり薄暗くなったものの、アスファルトで舗装された駐車場の白いラインがはっきりと見えた。

…いったい何mくらいあるんだろう…落ちたら…やっぱ死ぬよな?

一瞬、階下にベーターカプセルでも落ちてないか?なんて考えたけれど、僕ぁ、光の国から僕らのために、きたぞ我らの光の超人でもないからなあ…

視線を上に向ければ…え?

僕を投げ飛ばした「獣」は、もうすっかり回復していた。

それどころか、すでにフェンスの上に立って、宙釣りの僕を狙っていた!

その大きく開かれた口の中で、焼け爛れた長い舌が淫靡に動いていた。

「…せ…先輩っ!倉澤副部長!?」

ダメもとで、僕は呼びかけてみた。こうすれば、もしかしたらさっきみたいに正気に戻ってくれるかもしれない。

「…?」

「獣」は首を傾げた。僕の声が届いたか?

「肉…オイシソウ…喰イタイ…」

…ダメだ聞いちゃいない。

「獣」は何の躊躇もなくフェンスから飛び下りると、屋上の縁に降りる。

そのまま中腰になって、僕の近くに顔を寄せてきた。

再び大きく開かれた口が、僕の目の前に迫っている。

嘔吐物の物凄い悪臭が鼻をつく。

近い近い近い近い近い…!!

もうダメか…!?

「獣」が僕に喰らいつこうとしたその瞬間。

どん!という衝撃音が聞こえたかと思うと、「獣」の身体も空中に舞った。

…?何が起こったんだ?…吹き飛ばされたみたいにも見えたけど…

「獣」は、ばたばたと泳ぐ様な仕草で宙に浮かんでいた。

その身体が僕の脇を落ちてゆく瞬間、「獣」は僕の左側の靴を掴んだ。

二人分の体重が僕の腕に負担をかける。

…ただでさえ背中が痛いのに、これではあまり持たない。

「獣」は僕の身体をよじ登ろうとしてきた。

僕は足をバタつかせて抵抗する。その動きで靴が脱げた。

靴を掴んでいた「獣」は、そのまま下に転落していった。

どさっという鈍い音。

「獣」の身体は。不自然な姿勢で地面に叩きつけられた。

彼女の身体から、真っ赤な染みが広がってゆく。

それが、「獣」と化した倉澤副部長の最期だった。

…助かった…

安堵できたのもつかの間だった。

激痛で腕に力が入らなくなっていた僕も、縁から手を放してしまった。

落ちる…!!

「ぅぅぅわぁぁぁぁぁぁ…!?」

僕も、さっきの「獣」の様に、宙を泳ぐ様に腕をばたつかせた。

次の瞬間、僕は誰かに抱きしめられていた。…え?

何だか覚えのある、温かくて柔らかで、何だか幸せな気分になれる様な感触があった。

僕を抱きしめてくれていたのは鮎子先生だった。…しかも、上半身裸の。

え…?

慌てて周囲を見回す。

僕の身体は、いまだに空中にあった。

鮎子先生…?何で…?

彼女は僕と目が合うと、くすくすと笑った。

「…間一髪って所、かな?これでキミを助けるのは2回目だね」

「え…2回目…?」

鮎子先生の背中には、蝙蝠の様な大きな翼が羽ばたいていた。

「…こ…蝙蝠女…?」

鮎子先生が…あの夜僕を助けてくれた「蝙蝠女」?

『あーあ。こんなことなら、あの時助けなきゃよかったかなー』

…前に保健室前の廊下で会った時に、鮎子先生が僕に言った言葉。

僕はてっきり、絵の描けない僕にくれたアドバイスの事だと思っていたのだけれど…

「…むー。『蝙蝠女』は酷いなあ」

鮎子先生は、ちょっとむくれていた。


23


地上に舞い降りた鮎子先生は、僕を裏口から明りの消えた保健室に案内した。そして、

「ちょっと待っててね?屋上の痕跡、すぐに消してきちゃうから」

と言って、再び翼をはためかせて飛んでいった。

…何が何だか分からない。

「化物」と化した倉澤先輩。

殺されそうになった僕。

…そして、前にも僕を助けてくれた「蝙蝠女」の正体が…鮎子先生?

その鮎子先生は、ほんの数分で保健室に戻ってきた。

手には僕のギター・ケースを手にしている。

外からは救急車の音や騒ぎを聞きつけた喧騒が聞こえてくる。

「騒がしいなあ」

鮎子先生は保健室のカーテンを閉じて、入口の鍵も掛けてしまった。むろん、明りは消したままだ。

「面倒だから、しばらく隠れてましょ」

僕は鮎子先生を見た。あの蝙蝠の様な翼はもう無くなっていたけど、相変わらず上半身は裸のままだった。

カーテン越しの外灯の明かりで、彼女の細身で美しい肢体のシルエットが浮かび上がる。

…あの」

「何?」

「…服、着てもらえませんか?ちょっと…目のやり場に…」

「え?…ああ、ごめんね。純情だね、キミは。…ちょっと待っててね」

鮎子先生はくすくすと笑いながら、ベッドを囲むカーテンの陰に隠れた。

「…翼を出す時は、わざわざ服を脱がなきゃならないんだもの。ちょっと不便よね」

僕は目を逸らしたままだったけれど、耳に入ってくる微かな衣擦れの音が艶めかしい。

…むしろ余計に想像力が働いてしまう。

服を着た鮎子先生は、僕の所に戻ってきた。

「今度はキミの番ね。…酷い有様ねぇ…くすくす」

言われて僕は、改めて自分の服を見た。

…言われてみれば、これは酷い。

倉澤副部長との格闘で、制服はすっかり絵具塗れだったし、それよりも肩の辺りに、まだ鈍い痛みが残っている。

あ…上履き!副部長が転落した時、僕の上履きを掴んでいたはずだ。

「はい、これでしょ?」

例によって、僕が口にも出さないのに、鮎子先生は僕の上履きを差し出してくれた。

「あ…ありがとうございます。でも、どうして僕が考えてる事が分かるんですか」

「あはは。前にも言ったでしょ?『志賀くんは顔を見れば分かる』って」

「そういうものですか」

「うん。そういうもの。くすくす」

鮎子先生は、僕の肩に手を触れた。その辺りがじんわりとした温かくなってきて、痛みが急速に和らいでゆく。…「気功」って奴なのかな?

「次は制服ね」

鮎子先生は、今度は絵具塗れの制服に手をかざした。・・・え?

彼女が手をかざした辺りの絵具の汚れが、みるみるうちに消えてゆくではないか?

「先生…これってどういう…」

「ん?証拠隠滅。倉澤さんがあんな事になっちゃって、追いかけた志賀くんの有様がそんな状態だったら、キミが彼女を乱闘の末に突き落とした、なんて事になっちゃうかもよ?」

「…それは…困ります」

「でしょ?」

言いながらも、鮎子先生の作業は続いた。ややあって、僕の制服の汚れは完全に消えた。

「消えましたね」

「うん。大したものでしょ?」

「はあ…でも、どうやって消したんですか?」

「んと…『気功』って奴?」

「嘘だ」

「あはは。バレたか」

「普通は疑います」

「えー、そんな疑い深い子は、もう助けてあげないよ?せっかく、今度はこのギターの汚れも取ってあげようと思ってたのに」

それは困る。

「…ごめんなさい。もう疑いません」

「くす。素直ないい子は大好きよ」

鮎子先生はケースからギターを出すと、先ほどと同じ要領でネックの絵具の跡を消してくれた。…本当に、いったいどういう事なんだろうか…?

「はい。おしまい。これでもう大丈夫」

「あ…ありがとうございます」

僕はギターを受け取って、ケースにしまった。

「…後は何か疑われたら、『追いかけたけど、見当違いの方角を探していた』とか言ってトボけちゃいなさい」

「…そ…そんなんでいいんですか?人が死んだのに?」

「ヘンに正直に言った所で、面倒な事になるだけよ?」

「ま…まあ、それはそうでしょうけど…あ、そうだ!」

「何?」

「上履きも取ってきてくれたという事は、副部長の…死体も先生は見た…んですよね?」

「うん。しっかりと見たよ?その後すぐに人が駆けつけてきたから、すぐに逃げちゃったけどね」

鮎子先生は、まるでちょっと庭の花壇の様子を見てきたよ、なんて感じの口調で言った。

「…驚かないんですね」

「何が?」

「人が…生徒があんな事になって死んだのに」

「うーん。でも、『アレ』はもうニンゲンじゃないしなあ。それは、襲われたキミ自身が一番よく感じたんじゃない?」

「…それはそうですけど…」

人の死を、まるで何事もなかった様に話す鮎子先生だって人間離れしている、よなあ…

「…先生は、いったい何者なんですか?さっきの話だって…」

そうだ。副部長との騒動があったおかげですっかり忘れていたけれど、あの時、鮎子先生は何を言おうとしていたのだろうか。

僕は、鮎子先生をまっすぐに見つめた。

さっき、鮎子先生は何かを決心した様に思えた。

それがどんな内容だろうと、僕は受けとめるつもりでいる。

まっすぐに向かい合おうと思ったんだ。

こういう所は、文ちゃん先輩から受けた影響が大きいと思う。

ましてや、僕は二度も鮎子先生に命を救われた。その鮎子先生の言う事だ。僕は彼女の言葉を受け止めなくてはいけないと思うんだ。

僕の視線に、鮎子先生は大きく息を吐き出して、こう言った。

「…ね?昔話をしようか」

「昔話?」

「そう、昔話。興味がなかったら忘れてくれてもいいよ?」

「どんな話なんです?」

「カミサマと女の子のお話」

鮎子先生は淡々と語りはじめた。


「…昔むかし、はるか何億年も昔。この地球と言う星に、どこからか一人のカミサマが降り立ったの。カミサマは地球をとても気に入ってね、自分の住みやすい様にセカイを作り変えた。空気を作り、海を作り。ほんのちょっぴりだけ陸地も作った。一通りの仕事を終えたカミサマは、やることがなくなって、自らが作った海の底の神殿の中で眠ることにしたの。それからカミサマはずっと夢を見続けてる。カミサマの夢はどんどん広がっていって、生命が誕生して進化して…やがて夢の中で生まれた生命体たちは、いつしか文明を、そして文化を持つ様になった」


「…ずいぶんとスケールの大きな夢物語ですね」

「そう?じゃあ、今度はもっとずっとスケールの小さな話ね。ある時、一人の女の子がそのカミサマの声を聞いた。巫女だった女の子は、カミサマの呼び声に導かれて、遠い遠い海の果てに出かけていった。でも彼女の乗った船は時化(しけ)に遭って、深い深い海の底に沈んでしまったの」

「…その女の子は…死んじゃったんですか?」

「死んだよ。死んじゃった。彼女の亡骸はそのまま深淵へと沈んでゆき…やがて深い深い海の底にある、カミサマの眠る神殿にたどり着いた。カミサマは驚いたみたい。だって、自分の夢の中の住人が、まさかここにやってくるとは思わなかったもの。自分の寝床に落ちてきた女の子の亡骸に、だからカミサマは話しかけたの。

『娘よ、お前はなぜこんな所にやってきたのだ?』

娘は死んでいたけど、カミサマの問いかけにはきちんと応えなくてはいけなかったから、心の声でこう答えたの。

『わたしは巫女です。巫女はカミサマの呼び声に応えなくてはいけません。わたしをここに呼んだのはカミサマではないですか。でもわたしは死んでしまいました』。

『それはかわいそうな事をした。お前はもう死んでしまった。ニンゲンではなくなってしまったではないか』

女の子は言ったよ。『カミサマ、わたしはどうすればよいのでしょう?』

泣きそうな女の子に、カミサマはこう言った。

『ならば娘よ。お前に私の力を貸してあげようではないか。お前はこれから私の目となって、この夢の中のセカイを見続けなさい。私の耳となって、ニンゲンたちの紡ぐ物語を聞き続けなさい。私の心はお前の心。私が夢見るセカイは、お前が夢見るセカイ。私が本当に目覚めるその日まで、この夢のセカイを見届けなさい』

…だからその女の子は、今でもどこかで、このセカイの移り変わりを見続けているの」


全ての物語を語り終えた鮎子先生の瞳は、どこか遠い所を見つめいてた。

「…不思議な物語ですね。じゃあ、僕らがいるこの世界って、結局はそのカミサマが見ている夢の中の事でしかないっていう事ですか」

「そう」

「…そのカミサマって、何て名前なんです?」

「ニンゲンの言葉では正しく発音できないよ」

「『呼び声』に応えたという巫女さんは…?」

「ん?」

「…その『呼び声』を聞いた巫女さんって、どんな人だったんですか…?」

「彼女は、信州下諏訪に古くからある、小さな小さな神社の宮司の娘だったの。諏訪湖の高島城跡を見下ろせる丘の中腹にあったお(やしろ)でね…名前は剣城(つるぎ)神社って言ったの」

え…それって…

「つるぎ…神社…剣城…鮎子…!?」

「そう。…その巫女の名前は『鮎子』って言ったんだよ」

「…って事は、まさか先生がその巫女…?!」

「くすくす」

あまりにもスケールが大きくて、しかも荒唐無稽な話だった。

にわかには信じがたい。信じがたいけれど、ついさっき、鮎子先生は嘘つきじゃないなんて言ったばかりだったし、今でもそう思っている。

もちろん、この話が鮎子先生の誇大な妄想に過ぎないという可能性だってあるけれど。

…これはただのオカルト話なのか。それとも鮎子先生の言った事は事実なのか。

僕は混乱した。

「…志賀くんって、女の子の気持ちなんかにはてんで疎いのに、まさかと思える様な事を知ってたりもして、そういう所には油断できないし、興味もわいたんだよ?くすくす」

そういう鮎子先生は、心底楽しそうにも見えた。

「…キミも、『こっち側』に近い存在なのかな?ニンゲンのセカイの中では」

「…僕は、オカルトの類は信じない事にしてます」

「ああ、そうだったね。くすくす。キミたちが『泥口』って呼ぶ、あんな化物を見ちゃった後でもそう言えるんだから大した物だと思うよ?くすくす」

…何だか馬鹿にされている様な気もする。ちょっと腹が立ってきた。

「だから、もちろん僕がそんな話を信じないという事もご理解していただけますよね?」

「うん。だって最初から、『興味がなかったら忘れてくれてもいいよ』って言ったもの」

鮎子先生はあはは、と心底おかしそうに笑った。

「じゃあ、この後、秘密を知ってしまった僕をどうしますか?殺しちゃうんですか?」

…これは冗談のつもりだった。いくら何でも、まさかそんな事はないだろうと、タカをくっていたのだけれど、

「うーん…わたし自身は秘密だなんて思ってないし、ばれても構わないと思ってるんだけどね…色々とあるのよ、『こっちのセカイ』も」

鮎子先生ははぁ、とため息をついた。マジかい。

「…まさか『鮎子先生秘密教団』なんてのがあるとか?」

一応、カミサマなんだから、そんなのがあってもいいとは思う…我ながら単純なネーミングだとは思うけれど。しかし鮎子先生は苦笑して、

「そんなのは別にないよぉ。今のキミを狙うとしたら…文ちゃん…かな?」

……は?

何で文ちゃん先輩の名前が出てくるんだ?

「…どういう事です?」

「文ちゃんの家、鬼橋家は和歌山の旧家なんだけどね、あそこの家の者とはちょっとした縁があって、半世紀くらい前から、代々わたしに仕えてくれてるんだ」

…なるほど。あの時文ちゃん先輩が言ってたのは、そういう事だったのか。

『鬼橋の家は代々、おねえちゃんの側にいますから…』

その前に鮎子先生も言ってたっけ。

『文ちゃんの一族を昔から知ってただけ』

二人とも、最初から嘘は言ってなかったんだ。

それに、僕自身も言った覚えがある。

『それじゃあ、まるで鮎子先生が物凄いおばあちゃんみたいじゃないですか』って。

…まさかあの軽口が、実は思いっきり的を得ていたなんてね…

改めて鮎子先生の顔を見る。どう見てもお若い美人さんだ。本当にそんなに高齢なのか?

半世紀も前から文ちゃん先輩の一族を知っていたとなると…最低でも5~60歳は越えているんだろうなあ…あるいはもっと上なのか…

改めて鮎子先生を見る。

うん…肉感的な唇も、お肌の艶も、どう見ても20代前半です、はい。

「あー、志賀くん、今わたしの事をおばあちゃんだなんて思ったでしょお?」

気がつくと鮎子先生の綺麗な顔が目の前にあった。鋭い。さすがはカミサマ。

「くすくす。まあその通りなんだけどね、わたしはもう76歳だもの。戸籍上は」

明治生まれでしたか。…何とまあピチピチな高齢者ですこと。

「は…はあ、恐れ入ります。で、文ちゃん先輩が何で僕を狙うんですか?」

そうだ。当面の問題としては、そこが知りたい。

「『鬼橋 文』という名前はね、鬼橋一族の中でわたしを守護するために生まれてくる運命を持った少女が受け継ぐ名前なの。あの子はその4代目」

4代目…?

「そう。代々の『文ちゃん』の中でも、あの子は特に頑固でね…もしあの子に、キミがわたしの秘密…素性を知ったなんて事がばれたら…」

「どうなるんです…?」

「キミの言った『秘密教団』みたいな役割を果たそうとするでしょうね、くすくす」

「口封じって事ですか…」

…そりゃあないぞ?僕ぁよりによって、文ちゃん先輩から命を狙われる事になるのか?

あの真面目な文ちゃん先輩の事だから、一度決めたら間違いなくそうするだろう。

「あ、そうそう。『鬼橋 文』という名前を継いだ子はね、代々強力な魔導師でもあるよ。攻撃魔法、呪術・占星催眠操心何でもござれのオールマイティー。マジック・エリート」

「…いやだから僕はオカルトの類は…」

「まあ、そう思うのならそれもいいけど、用心だけはした方がいいのはたしかね」

…敵は文ちゃん先輩、ですか。

…どうも、僕はこの二人と知り合ってから、信条に反してオカルトめいた事にやたらと縁ができてしまったみたいだ。

「口封じ…そんなのはゴメンです」

「それはそうよね、くすくす。キミだって、黙っておとなしく殺されたくはないでしょ?」

「もちろんですよ!」

「じゃあ、こういう手もあるんだけど?」

「…は?」

「『口封じ』には『口封じ』…ってね?」

「は…はあ…どういう事ですか?」

「それはね…?」

鮎子先生の肉感的な唇が、僕の耳元で囁いた。

「…………」

…え?…えええ??

い…いやいやいや。違う違う違う違いますよ?それは無理、無理ですよセンセイ?

それはいくら何でも難易度が高いというか無理ゲーというかカミカゼ特攻隊というか…とにかく一介のコウコウセイにゃそれはちょっと無理ですってば?

ましてや相手はあの文ちゃん先輩だ。…そんな事したら殺される、間違いなく死亡率がグン!と上がるのは間違いない。

「火に油注ぐ事になるじゃないですかあ!」

「うーん…そうかなあ。いい手だと思うんだけどなあ」

こ…この人は…

僕たちが保健室でこっそりと、およそ現実離れした物語に興じているうちには、おそらく副部長の遺体を乗せたであろう救急車は学校を出て行った。それでも校内では駆けつけた警察が現場検証の真っ最中だったし、校内に残っていた生徒たちの間には動揺が広まるばかりだった。それを躍起になって鎮めようとする先生方もまた混乱するばかりで、そんな中を、僕たちは人目につかない様に外に出てみた。

校庭でざわめく生徒の中に美術部の仲間を見つけた僕たちは、そこに駆けつけた。

「…どうしたの?何があったの?」

なんていけしゃあしゃあと聞ける鮎子先生は、やはり只者ではない。

「ああ先生!副部長が…倉澤先輩が…!!」

女子たちは泣き崩れていた。鮎子先生がその女子の肩に優しく手を置く。

蒼木部長も、うなだれて押し黙ったままだった。

文ちゃん先輩は…?

僕は彼女の姿を探して、周囲を見渡してみた。

彼女は転落現場の近くで、警察の人と何か話している最中だった。

毅然とした態度で、いつもの彼女らしくて、ヘンな話だけど、ちょっと安心してしまった。

文ちゃん先輩は、一瞬、僕の方を見たけれど、またすぐに警察の人との話に戻った。

目が合った時、文ちゃん先輩は、僕よりも隣にいる鮎子先生の方を見ていた様に思えたのは気のせいだったろうか。

結局、その日は、校内に残っていた生徒は一斉に、強制的に下校させられる事になった。


24


 翌日。1時限目は全学年の授業が中止になって、体育館で全校集会があった。

開設してまだ3年目の新設校で起きた最初の「大事件」という事で、校長や生徒指導の先生方による「事情説明」みたいな物があったけれど、どうやらこの事態は、表向きは「不幸な転落事故」という事になったらしい。おかげで僕の練習場でもある屋上は、当分の間は立入禁止になってしまった。

とはいえ、人の口に戸は立てられないもので、瞬く間に彼女に関する様々な噂が生徒間に広まったのだった。

いわく、『倉澤副部長は最近、恋愛問題で悩んでいたらしい』

いわく、『その相手は3年の蒼木部長で、彼が卒業後にカナダに留学してしまうことを気にしていたらしい』

いわく、『悩みのストレスで過食症になっていたらしい』

いわく、『最近は感情の起伏が激しくて、先日も学校で倒れて翌日も休んだそうだ』

いわく『ここ数日は言動もおかしくなっていて、部室でヒステリー起こして後輩の絵を破り捨ててしまった事もあったそうだ』…ああ、これは僕の事だな。

事を荒立てたくない先生方の思惑をよそに、どうやら生徒の間では、「彼女は恋愛関係で悩んだ挙句に飛び降り自殺してしまった」という事になったみたいだ。

しょせん噂という物はいい加減な物で、およそ時系列も滅茶苦茶、どこまでが本当なのかも定かではないけれど、僕の知らなかった情報もけっこうあった。

へえ…副部長は蒼木部長の事が好きだったのか。

その事が気になったので、昼休みに塚村さんに聞いたら、

「そうだよ。知らなかった?」なんて言われた。

「存じ上げませんでした」

「しがんは鈍い」

「…仕方ないだろ?僕ぁほとんど部室に顔を出さなかったんだから」

「それでも鈍い。女の子の気持ちが分からないゆーれい部員の鈍感やろー」

…うーん。否定はできない。文ちゃん先輩が、何であそこまで副部長の事を気遣っていたのかだって、とうとう分からずじまいだったしなあ…

放課後。

昨日の出来事の影響は、校内のあちらこちらに様々な影響を及ぼしていた。

さっきも触れたけど、まずは屋上への当面立入禁止。これは痛い。僕の貴重な練習場が使えなくなるのは厳しい。…まあ、これは仕方がない事だとも思うけれど。

次に、午後5時以降、生徒が校内に残る事も禁止されてしまった。校門の前には先生方が下校する生徒を逐一チェックするという念の入れ様。

新設校という事もあって、こういった不測の事態への対処という物が、まだきちんと確立されていないのだろう。

対処といえば、部の顧問の太田先生辺りが、また僕に何か言ってくるかもしれないと内心びくびくしていたのだけど、太田先生は今日は学校を休んでいた。…というよりも、副部長の遺体が運び込まれた病院と警察を行ったりきたりして、事後の処理などに追われているらしい。

副部長の最期について、その真相を知っているのは、おそらく僕と鮎子先生くらいだと思う。…いや。もしかしたら、文ちゃん先輩も気づいているかもしれない。

副部長の死については、実の所あまり実感がなかった。僕は案外、冷酷な人間なのかもしれない。

あるいは身の回りで次々と起こる理解を超えた出来事に、神経がマヒしてしまっているのだろうか。

…とはいえ、後ろめたさだってある。

副部長の死の直前に彼女と関わっていたのは僕だったし、事故とはいえ、彼女が転落したのは僕との乱闘がきっかけだったのだし。

あの時、副部長はほとんど理性を失っていた。鮎子先生の言う通り、「もうニンゲンじゃない」状態だった事は間違いなかった。殺されそう…いや、喰われそうになってまで、その相手を気遣えるほど、僕は善人でもない。

フェンスの上で僕を狙っていた副部長を吹き飛ばしたのは、やはり鮎子先生だったそうだ。

僕の怪我や制服の汚れを落とした不思議な力、あの力のパワーを上げて一気に放出すれば、ちょっとした遠隔攻撃にもなるのだそうだ。

先生本人は、あの技を「鮎子さんぱんち。」と名付けているそうだけど…もうちょっとカッコよさそうな名前はなかったのだろうか?

もっともっとパワーを上げれば、山に風穴を開けることもできるとか。というか、以前、実際にやったことがあったそうだけど。

副部長を吹き飛ばしたのは、先生に言わせれば「手を団扇代わりにして、ちょっと(あお)いだくらい」なのだという。…恐るべし「鮎子さんぱんち。」。

それはそれとして、後ろめたさがあったのも事実だから、僕は先生方が待ち受ける校門を抜けて下校するのにも躊躇していた。

だから、どうせなら下校時間ぎりぎりまでネバって、最後の最後まで教室に居座ってやろうと思ったんだ。

他の生徒たちはほとんどまっすぐ下校してしまったらしい。

まあ、それはそうだろう。あんな事件の後じゃあ、学校に残っているのも、あまり気分のいい物でもなかろうしね。

…すっかり人気のなくなった夕暮れの教室で、僕はこっそりとギターを弾いていた。

ほぼミュート(消音)させて弾いていたのだけれど、途中で巡回の先生の足音が聞こえたので、慌ててロッカーに隠れて身を潜めたりもした。

…さすがにギターはマズいか。読書にしよう。

カバンの中には、タニス=リーの「冬物語」を持ってきてある。彼女の幻想的な作風は昔から好きだったけれど、よもや自分自身がこんな不可解な出来事に巻き込まれてしまうとは思いもよらない事だった。まさにファンタジー小説じみた出来事である。いやいや。これはどちらかと言うとホラー小説の範疇だよな。

下校時間までは…あとちょっとか。この本の後半に収録されている短編の『アヴィリスの妖杯』くらいは読み切れるかなあ。

僕は(しおり)を挟んであるページを開いて、読書に没頭しようと思ったのだけれど。

「…志賀君。やはりキミはまだ残っていたのですね」

その聞き覚えのある声に顔を上げて振り向くと。

教室の入口に、文ちゃん先輩が立っていた。

「…お話があります。ちょっとお時間をいただけますか?」

「あー、でも、そろそろ下校時間ですけど…」

「…大丈夫ですよ。下校時間を設定して先生方に進言したのは私ですし、最終的に校内のチェックをするのも私の役目です。…私が黙っていれば、問題ありません」

逆光になった夕陽のせいで、文ちゃん先輩の表情は分かりにくい。しかし、どことなく、いつもの文ちゃん先輩とは雰囲気が違っているのは感じ取れた。

「…それに、今この校舎内に残っている生徒は、私とキミ…二人きりだという事も確認済ですから、問題はないのです」

問題がない…って、何の…?

『今のキミを狙うとしたら…文ちゃん…かな?』

鮎子先生の言葉が脳裏を掠めた。

「あ…あの、僕、そろそろ帰りますよ。お…お先に失礼しま」

僕の言葉が終わらないうちに、文ちゃん先輩は教室の扉を閉めてしまった。

…あ。ヤバい。

文ちゃん先輩は、自分のメガネを外して、ゆっくりとこちらに歩いてきた。

よくよく考えれば、文ちゃん先輩の素顔を見るのはこれが初めてだ。

…うーむ。ある程度は予想していたとはいえ、可愛い。

はっきり言ってしまおう。好みである。

小振りな唇も。

さらさらした長い黒髪も。

そして…ただでさえ意志の強そうな瞳に、たとえ異様な気配が宿っていたとしても。

そう。今僕の前に立っている彼女は、いつもとは全く異質な雰囲気を漂わせていた。

彼女の瞳には、いつも凛とした意志が感じられた。常に前を見据えて、どんな事にもまっすぐに立ち向かおうとする「決意」の様な物が見てとれた。

僕が彼女に惹かれるのは、たぶんその瞳に魅力を感じたからなのだと思う。

…ところが、今の彼女は違った。

いや、その瞳に宿る強い意志は、何ら変わらないと思う。

しかしその意志は、目の前の物にまっすぐ立ち向かおうという物ではなく。

…目の前の物を排除しようという、冷徹な意識を含んでいる様に思えた。

文ちゃん先輩は、外したメガネを制服のポケットにしまうと、背中から何か布を出して広げ、それを身にまとった。その間も、ゆっくりと僕に近づいてくる。

それはマントだった。

とんがり帽子こそ被っていなかったけれど、それは間違う事なき、僕があの日、最初に彼女に出会った時にイメージした「魔女っ子スタイル」その物だった。

「…魔女っ子…」

「いいえ、魔女っ子ではありませんよ志賀君。私の家は代々、魔導師の家系です」

そ小さなの口元からこぼれるのは、あくまでも冷静な…いいや、何の感動もない平坦な口調だった。やはり、いつもの文ちゃん先輩ではない。

「魔導師…?」

「魔の領域に導く者。それが魔導師です」

「魔の領域に導く者…?」

「スカボロー・フェア」の歌詞に出てくる、意地悪な質問をする妖精の事を思い出してしまった。でも、僕の前に立ち塞がるのは悪戯な妖精ではなく、冷徹な意志を持った少女だ。

「…お話というのはですね」

僕のすぐ近くにやってきた文ちゃん先輩は、左手を軽く振った。

シャキン!と音を立てて、袖口から何か棒の様な物が飛び出した。

アニメなんかで魔女っ子が使うステッキ…ではなかった。

それは長さ50センチ程度の小さな棒だったけれど、その先端には鋭い刃が付いていた。

反対側の握りの先には、小さな髑髏の意匠が三つ彫られている。

全体としては槍の様な形状だったけど、それにしてはやけに短い。

槍として使うなら、その実用性はあまりなさそうだけど。

「昨夜の事です」

「副部長の…事ですか」

「それもありますが…鮎子おねえちゃんの事で」

「鮎子…先生が、どうかしましたか?」

「…志賀君。キミは鮎子おねえちゃんの事を、どこまで知ったでしょうか?」

「ど…どこまでって…?」

ヤバい。鮎子先生が言ってた通りだ。文ちゃん先輩は、僕が鮎子先生の秘密を知った事を問い詰めてきているのだ。

…どう答えればいいのだろうか?

鮎子先生が言うには、文ちゃん先輩は先生の秘密を守ろうとする一族の出身だそうだ。

あまり正直に答えても、きっとロクな事にはならないだろう。第一、彼女が手にしているあの槍の様な物の存在感が半端ではない。

「…ええっと…」

「申し訳ありません志賀君。私がお尋ねしたのは、あくまで形式的な物です。すでにキミが鮎子おねえちゃん…御主(おんぬし)様のご素性を知ってしまった事は、有力な情報筋より確認済でしたから」

…やっぱ、文ちゃん先輩の背後には、そういった組織みたいな物があるのか?

「昨夜、電話で鮎子おねえちゃんご本人から聞いたので、間違いはありません」

…はぁ?

…目が点になった。あの先生、何を考えてんだぁ?

『わたしの秘密…素性を知ったなんて事がばれたら…』

なんて、よく言えたものだ。…自分でカミングアウトしてどーすんだ!?

…楽しんでる。あの人、ぜぇーったいにこの事態を楽しんでるよ?

「キミにお尋ねしたのは単なる確認の為ですから、ご気分を害されたのなら申し訳ありません。その点については謝罪いたします」

文ちゃん先輩はぺこりと頭を下げた。こういう所はあくまでも律儀なのであるけれども。

「で…ではそういう事で。お疲れ様です、僕ぁこれで…」

「お帰りになるのですか」

「あ…はあ。今日はこれからちょっと町内会の寄り合いがありまして」

「誠に恐縮ですが、そのご予定はキャンセルしていただかなくてはなりません。なぜなら」

「な…なぜなら…?」

「なぜならば、今、この場でキミには死んでいただかなければならないからです」

…言っちゃった。言っちゃいましたよ、ついに。

鮎子先生に告げられて以来、予想してはいたけれど、やっぱそう来ちゃいますか。

僕の死刑宣告を告げるその声は、極めて冷静な物だった。

…鮎子先生は、僕は文ちゃん先輩にとって「一番身近な男の子」なのだと言った。

アレって嘘だったのか?

まあ、たしかに鮎子先生は自分の事を嘘つきだ、なんて揶揄してはいたけれど。

およそ現実離れした様なオカルトチックな内容の方は真実で、取るに足らない様ないち高校生の恋愛事情の方で嘘をつくなんて…ホント何考えてるんだあのカミサマ代理は?

…いやいやいや待て待て待て。よく考えてみようじゃないか志賀義治?

塚村さんには「鈍感やろー」と言われたこの僕ではあるけれど、今までのお付き合いの中で、文ちゃん先輩の真面目さはよく分かっているつもりだ。それに…時折見せる可愛らしさも。…自惚れかもしれないけれど、彼女の僕に対する好意的な物を感じた事だって一度や二度ではない…はずだ。あのバターおにぎりの味は忘れていない。

…ようし。

(おとこ)、志賀義治。イチかバチか、一世一代の賭けに出てみようじゃないか。

担保は…僕の命。これは格好をつけているんじゃない。失敗すれば、彼女が手にしている剣呑な凶器が、問答無用で僕の胸に突き刺さるかもしれないし。

僕は一度、大きく深呼吸した。

「あ…文ちゃん先輩!」

「はい?何でしょうか志賀君?命乞いならば、他ならぬキミの最期のお言葉です。謹んで拝聴させていただきますけれど」

「あ…あのっ!」

…心臓の鼓動が高鳴ってゆくのが分かる。

「はい?」

「すっ…」

「す、ですか?」

「…あのっ、すっ、好きです鬼橋 文さんっ!僕とお付き合いしてくださいっ!!」

最後の言葉の辺りは、肺の中の空気を全て吐き出す様に叫んだ。ああもう、顔の火照りが抜けてくれない。これだって僕の心が震えてあふれ出した物、なんだ。

そう。これまで女の子にゃからっきし縁のなかった、この僕の一世一代の告白だ。

…文ちゃん先輩はどう出るか。隠そうともしない殺意は…

さすがの文ちゃん先輩も、意表をつかれたのか、その瞳を大きく見開いてこちらを見た。

「…そうでしたか。キミのご好意は本当に嬉しく思いますよ志賀君」

…思いが届いた?

「私も、キミには思う所がかなりありますよ。男の子に対して、こんな気持ちになってしまったのは生まれてはじめてでした。キミの事が気になって、眠れない夜もありました」

「あ…文ちゃん先輩!じゃあ…」

「…ですから、この様な結末になってしまった事は、本当に悲しむべき事です」

…え?

「私も、キミのご好意に応えたい気持ちは大いにあります。…けれど」

「け…けれど…?」

「私が鮎子おねえちゃん…御主様の守護者(ガーディアン)、『鬼橋 文』として生を受けた以上は、その持って生まれた使命を果たさねばなりません。・・・私の胸の中に指令が走るのです。『御主様の秘密を知ってしまった者は、潰せ、壊せ、破壊せよ』…と。それが『鬼橋 文』の名を受け継いで生まれた私の使命…私の宿命なのですから」

…またそんな、黒い身体に光が走ってる人みたいな事を…

…交渉決裂。

僕の賭けは物の見事に失敗してしまったのだった。

「ではお覚悟を。志賀君。キミが亡くなった後で、私は最大限の喪に服します」

文ちゃん先輩は、手にした槍っぽい物を構えた。鋭い切っ先が鈍く光る。ヤバい。

「…そんなの…偽善じゃないですか!」

「…偽善、とは?」

「そんな事されたって、当の僕ぁ、ちっとも嬉しくありませんよ!」

「…理解します。私とて決して嬉しくはありません。悲しいだけです」

「…だったら何故!?」

「それが『鬼橋 文』としての宿め…」

「そんなん知りますか!」

「知らない、と言われましても。キミには死んでいただくしか選択肢はありません」

…ああああ。何て融通の利かない人なんだ。この期に及んで腹が立ってきたぞ?

「じ…じゃあ、最期の最後に、ひとつだけ教えてください!」

「お聞きしましょう。何でしょうか?」

「倉澤副部長」

…ぴくん。

今は亡き副部長の名前に、文ちゃん先輩は微かに反応した。

「…倉澤さんが…どうされましたか」

「…前から気になっていたんだ。文ちゃん先輩。あなたはどうして、ああも副部長の前では態度がおかしかったんですか!?」

「そ…それは…」

「…あの時の文ちゃん先輩は、ちっとも文ちゃん先輩らしくなかった。まるで腫れ物に触る様な…何かに怯えている様な感じでした。それが気になって気になって…

その理由を知らなけりゃ、心残りで死んでも死にきれない…」

…咄嗟に出た言葉だけれど、これだって本心だ。

「あ…あの…私は…」

文ちゃん先輩の様子が、目に見えて弱々しい物に変わった。

無機質に思えたその瞳に「感情」が戻っている。

…からり。

槍もどきが手から離れて床に落ちた。ほぼ放心状態である。

副部長の件は、文ちゃん先輩の心によほど深い影を落としているらしい。

「わ…私…まさか…あんな事になるなんて…」

あんなこと…?副部長が発狂して亡くなった事だろうか。

「倉澤さんが襲われたのは…私のせい…」

文ちゃん先輩の肩は、小刻みに震えていた。

え…?泥口が副部長を襲ったのは、文ちゃん先輩のせいだって言うのか?

「ど…どういう事ですか!?」

思わず、文ちゃん先輩の両肩を揺さぶってしまう。

「ごめんなさい…ごめんなさいごめんなさい…」

彼女の瞳に涙があふれた。心の震え。抑えきれない感情の吐露だ。

「…もぅ志賀くん!あれだけ言ったのに、また女の子をいじめちゃダメでしょお?」

突然、教室の扉が開いたかと思うと、白衣をまとったカミサマ代理がそこに立っていた。

…はぁ?

鮎子先生の突然の登場に、僕も文ちゃん先輩も固まってしまった。

「女の子を泣かせちゃう男の子はモテないよ?ダ・メ・だ・ぞ?ぷんぷん!」

…突然現れたかと思えば、何を言い出すのかこの人?カミサマ?は。

…考えてみれば、この蝙蝠女ことカミサマ代理が焚きつけた様なものじゃないか?

「鮎子先生…?」

「おねえちゃん…御主様?」

「もう、文ちゃんも志賀くんも、ケンカなんかしちゃダメだよ?」

「鮎子先生!『秘密がバレたら』なんて言ってて、自分でバラしたでしょ!?」

その結果が刃傷沙汰一歩手前である。教師としてそれはいかがなものか。

「うーんと、だって文ちゃんから直々に聞かれちゃったら、嘘はつけないものねぇ…」

…僕にはいいのか?

「だーってぇ、文ちゃんと10年前に約束してたんだもん。『もう嘘はつかない』って」

…いや、そこで互いの絆の深さを強調されましても、新参の僕はどうせよと。

「…そうでした」 

文ちゃん先輩が、床に落ちていた槍もどきを拾った。

「…危うく自分を見失う所でした。そうです。どんな事があっても御主様の秘密を守り抜く。…それが鬼橋 文として生まれた者の宿命…」

文ちゃん先輩は再び槍もどきを構えた。

その瞳は、また無機質な物に戻っている。…むしろ、こっちの状態の方が、ご自分を見失っておられると言ってよろしいのではございませんでしょーか?

…せっかく何とかなりそうだったのになあ…

「あれ?逆効果だった?」

何となく気まずそうな鮎子先生。

「ええ、ええ、そうですよ!どうしてくれるんです!?」

「仕方ないなあ」

鮎子先生はぱちん!と指を鳴らした。すると何もない空間から、得体のしれない物が飛び出してきた!

それは蝙蝠の様な翼を生やした真っ黒な化物だった。悪魔の様な姿だったけど、その顔には目鼻がなく、鋭い牙を生やした口があるだけだ。全体的には翼を生やした鮎子先生みたいな姿をしていたけど、こちらはもっとマッチョで男性的なフォルムをしていた。

化物は迷わずに文ちゃん先輩に襲いかかった。

「御主様!何をなさるのです!?」

そう言いながらも、文ちゃん先輩は槍を身構える。

化物の鋭い爪が文ちゃん先輩に振り下ろされた。それを彼女は槍もどきで撃ち払う。

文ちゃん先輩の脇に隙ができた。そこにすかさず化物の回し蹴りが飛んでくる。

今度は避けきれない。もろに蹴りをくらった文ちゃん先輩は弾き飛ばされて、教室のロッカーに激突した。

「あ…文ちゃん先輩!」

僕は思わず駆け寄ろうとした。

「あのね志賀くん?何をしているの?」

振り向くと、鮎子先生が呆れた様な顔をしてこっちを見ていた。

「いやだって文ちゃん先輩が…」

「ここは一目散に逃げる所でしょ?」

「そうは言っても…」

「大丈夫。殺さないから。いいから逃げなさいって」

ずいぶんと物騒な事を言う養護教諭もいたものだ。

「ほらほら。早くしないとキミ、また狙われちゃうぞ?くすくす」

ど…どうしよう…殺さないと言ったって、あんなマッチョな化物にかかったら、いくら文ちゃん先輩でも無傷というわけにもゆくまいし…

「……」

床に倒れたままの文ちゃん先輩が、何かを呟いた。

すると手から離れて床に転がっていた槍もどきが勝手に浮かび上がった。

シュン!と音を立てたかと思うと、槍もどきは化物の頭に突き刺さる。

化物は声もなく悶絶して、その姿は次第に消えていった。

槍もどきだけが床に落ちる。

「ほら!もたもたしてるから。ナイトガーントくらいじゃ文ちゃんの足止めにもならない」

文ちゃん先輩はふらつきながらも立ち上がった。

よろめきながらも、槍もどきの落ちた場所に歩いてゆく。

…こりゃ、やっぱここは鮎子先生の言う通りにした方がよさそうだ。

「せっ、先生!ここは失礼しますっ!」

僕は慌てて扉に突進した。

「待ちなさい志賀君!」

槍もどきを手にした文ちゃん先輩も、僕を追いかけてくる。

僕は何とか廊下に飛び出した。

人気はない。

西日が差しこんできて、一面は朱く染め上げられていた。

「じゃあねー志賀くん。生きていたら、また紅茶を淹れてあげるねー」

後ろからは、鮎子先生の呑気な声が聞こえていた。

…ろくなフェアウェルじゃない。

「いざとなったら、前に教えてあげた方法使ってみてねー?」

…絶対やんない。


25


 僕はとりあえず、南校2階の廊下をひた走った。

駆け足は決して速い方ではなかったけれど、今はそんな事を言っている場合ではない。

背後には文ちゃん先輩の気配を感じる。小柄な彼女の足音は軽く、そして俊敏な物だった。

最初、彼女と僕の間はけっこう離れていた。いくら何でも、これなら距離を稼いで逃げおおせる…なんて考えていたけれど、それはあまりにも軽率だった。

後ろの様子を確認しようと、走りながら振り返った僕は驚愕した。

文ちゃん先輩はマントをひるがえしながら、瞬く間に距離を縮めてきている!

前傾姿勢で突き進んでくる疾風。

その文ちゃん先輩は、廊下の壁に近づいて…何て事だ!壁を駆け上がり、天井を逆様になったままで駆けてくる!?あ…あ…ああ…あんなのは反則だよなぁ!?

彼女の動きに合わせて、視線をたどってゆく。

その視線は僕を追い越した先で止まった。

猫の様な身のこなしで天井を蹴った彼女は、僕の目の前にゆっくりと降り立った。

…息ひとつ切らしちゃいない。

僕をまっすぐに見つめるその瞳は、相変わらず無機質な冷たさを秘めていた。

「…もう逃げられませんね?」

くそう…どうしたものか。…あ?

視線を右にやると、そこは一階への下り階段だった。

一気に飛び降りようか?…いや、それはリスクが大きすぎる。

あの身のこなしだ。僕が飛び下りて態勢を立て直す前には、あの槍もどきが飛んでくるだろうさ。哀れ僕ぁ、さっきの化物の二の舞になるのが関の山だろう。

じゃあどうする…?

僕が戸惑っているうちに、文ちゃん先輩が突進してきた!

手前3mくらいまで接近してきた彼女は、そこで床を蹴って宙に舞った。

鋭い切っ先が僕に迫る!

「うわひゃああああああ!!」

情けない声が廊下に響いた。あ、僕の声か。

無我夢中で仰け反ったのがよかった。間一髪、槍もどきの切っ先は僕の胸を掠めていった。

僕はそのままバランスを崩して尻餅をついてしまったけれど、文ちゃん先輩の身体はそのまま階段の下へ落下していった。

…安心したのもつかの間だった。

落下した文ちゃん先輩は、空中で身体の向きを変え、踊り場の床を蹴って、再び僕の方にジャンプしてきたではないか!?…これは猫以上の身のこなしじゃないか…!?

すとん。

文ちゃん先輩は、床にへたり込んだままの僕の前に降り立った。

そのまま、僕に覆いかぶさる様に跨ってきた。これでは逃げられない。

「…手間をかけてばかりで申し訳ありません志賀君。なるべく、手短かに済まさせていただきますね」

「…ご…ごゆっくり…で構いませんよお…」

「お気遣いは無用です。では」

文ちゃん先輩は、両手で槍もどきを掲げた。あとは一気に振り下ろすつもりなのだろう。

…逃げ様がない。もうダメか?

しゃあない。僕は覚悟を決めた。

僕は死ぬ。殺される。命を奪われてしまうんだ。

意外にあっさりと、自分の死を受け止める気になった。…淡白なAB型だからかな?

どうせなら、これから僕の息の根を止めようとしている女の子の顔を見て死のうと思った。

ましてや、これまであまり女の子と縁のなかった僕だ。その僕がはじめて親しくなった女の子。世話焼きで頑固で一徹で…とってもまっすぐな女の子。時折見せてくれる優しさと気遣いが嬉しかった。可愛らしいと思った。

…そんな子に殺されるのは本望?それとも無念というべきなのだろうか。

不思議と、彼女を恨む気にはなれなかった。

文ちゃん先輩は、自分の「使命」とやらに忠実なだけなのだろう。

でも…あの槍もどきに貫かれたら…痛いだろうなあ。

意識を失うまで、どのくらい時間が掛かるのだろうか。

その最期の時まで、僕は彼女を見つめていよう。この世の手向け、って奴だ。

そうしたら…文ちゃん先輩はどう思うかな?

恨みがましい目で見られていると思うだろうか。

いやいや。当の本人には、そんなつもりはまるでありませんのでご安心ください。

…さあ、ひと思いにやってくんな?こちとら覚悟はもうできました。

「……」

ところが。

槍もどきを振りかざしたままで、文ちゃん先輩は固まっていた。

…どうしたのだろう?

よく見ると、彼女の瞳には涙があふれていた。

無機質な瞳はそのままだったけれど。

泣いている…?

その小さな肩も小刻みに震えていた。

「…僕を…殺さないんですか?」

「殺します。殺しますから、もうちょっと待っててください」

その口調は冷静なままである。ただ、その涙だけが不釣り合いだった。

槍もどきは、なかなか振り下ろされてこない。隙だらけじゃないか。

もしかして…僕は助かる?

お互い見つめ合う。涙にあふれた彼女の瞳に、僕が映っていた。

僕は思いついて、両足で彼女の右足を挟んで身体を捻った。

いわゆる「かにばさみ」って奴だ。どうにもカッコ悪い技だけど…そもそもこれは技なのだろうか?

「ひゃん!」

咄嗟の事だったので、文ちゃん先輩も対処が遅れたみたいだ。バランスを崩した彼女は、可愛らしい声を挙げて転倒した。

そのまま、今度は逆に僕が彼女に覆いかぶさる形になった。念のために両手首は押さえつけさせてもらった。

…ちょっと待て。これは見ようによっては、僕が文ちゃん先輩を押し倒しているみたいにも見えてしまうかもしれない。

「…く。やりますね志賀君」

この期に及んでも、文ちゃん先輩の瞳は無機質な物だった。

「…御主様の秘密を守るためなのです。不本意ではありますが、どうあってもキミの口を封じなければなりません」

口封じ…口封じ…?

前にも聞いたことのあるその言葉が、耳に蘇ってきた。

あ。そうだ。

鮎子先生が言ってたその「方法」。

鮎子先生が言ってたのは…


『口封じ』には『口封じ』。


…どどどどどうしよう。

鮎子先生の「提案」は、経験浅い・・・いや、まるで皆無な16歳の童貞小僧には、あまりにもハードルの高い内容だった。おいそれとできる物ではない。かといって、いつまでもこのままの姿勢でいるわけにもゆかない。試すなら…今この時しかない。

…ちょっと邪まな考えも浮かんだ。

どうせ殺されるのならば、もう一度「賭け」に殉じてみるのもいいかもしれない。

「…志賀君?」

不審そうな目で僕を見る文ちゃん先輩。その通りですよ文ちゃん先輩。これから、誠に不本意ながらも、とっても不審で失礼で無礼でハレンチな事をさせていただくのですから。

…ごめんなさいは言いません。こっちも命懸けなんです。

意を決して、僕は身動きのとれないでいる文ちゃん先輩の唇を奪った。

ロマンチックでも何でもない、ただ不器用で粗暴なだけのキス。

鮎子先生の言っていたのは、こんな手段だったのだ。

…何が『うるさい女の子の口を封じちゃうのは、これが一番なの!』だよまったく。

「…んん~っ!ん~んっ!」

必死に顔を背けようとする文ちゃん先輩。でも、純粋に力比べなら僕は負けません。

抵抗する文ちゃん先輩。僕はそれでも唇を合わせたままだった。

次第に彼女の抵抗が弱くなってきた。

僕はようやく唇を離してみた。押さえつけた手は放さなかったけれど。

文ちゃん先輩は潤んだ瞳で僕を見つめていた。

無機質だったその瞳には、いつの間にか「感情」が戻っていた。

「…っく」

「…え?」

「ひっく…ひっく…」

あ、ヤバい。これは泣く。

「あ…あの、文ちゃん先輩?」

「ふぇぇぇぇぇぇ…」

小さな女の子の様に泣きじゃくる文ちゃん先輩に、僕はどうしていいのか混乱しながらも、今まで以上に愛おしさも覚えてしまったのだった。

 もはや抵抗する気配もなくなった文ちゃん先輩の手を放す。

僕は上半身を起こして、彼女を見つめた。

…泣かせてしまった。

子供の頃、ほんの軽い気持ちで近所の女の子をからかったら、その子がいきなり泣き出してしまった事があった。後で母に物凄く怒られてしまったけれど、それよりも、僕自身が泣かせてしまった少女自身に対して、とても申し訳ない事をしでかしてしまったのだ…という罪悪感の方が大きかった。

それ以来、僕は女の子だけは泣かしてはいけないという事を胸に刻んでいたのだけれど。

…でも今、その禁忌を破ってしまった。それも自らの意志で。

しかも相手は文ちゃん先輩。どこまでもまっすぐで、どこまでも包容力あふれる優しい先輩…僕が泣かせてしまったのは、そんな女の子だったのだ。

僕は泣きじゃくる文ちゃん先輩の涙をぬぐった。

一瞬ぴくん!と彼女は身体を震わせたかと思うと…その次に飛んできたのは、小さな手のひらだった。

ぱちん、と小さな音を響かせて、手のひらは僕の頬を打った。

文ちゃん先輩に叩かれるのはこれで2回目だけど、前の時よりも痛みは感じなかった。

すん、すん、とまだ泣きながら、文ちゃん先輩も上半身を起こしてきた。

たぶん、次にくるのは僕への罵倒だろう。それも覚悟できている。これで決定的に文ちゃん先輩には嫌われてしまうだろう。…命を奪われなかった代償ではあるけれど…それはそれで悲しい。

文ちゃん先輩はまだ潤んだままの瞳で、僕の胸に顔をうずめてきた。

彼女は小さな拳で、僕の胸をポカポカと叩いてくる。

時々聞こえてくる微かな息遣いが艶めかしかった。

僕はどうしていいか分からないまま、彼女にされるままでいた。

「…ありがとうございます」

文ちゃん先輩は、僕の胸に顔をうずめたままで、ぽつりとそう言った。

……は?

「ありがとうございます。助かりました」

「あ…あの…?」

ど…どういう事なんだ?

…あんな蛮行に及んで、よもや感謝されるとは思わなんだ。

その時、階段を上がってくる足音が聞こえた。ヤバい。先生の誰かだったりしたら、この状況をうまく説明できる自信がまるでない。


26


 僕たちはそっとその場を離れて、近くの教室に身を隠した。

「…すみませんでした。突然、あんな事を仕出かしちゃって…」

僕は恐る恐る、彼女の顔を見た。明りも点けてない薄暗い教室の中だったけれど、彼女の髪はくしゃくしゃだったし、涙の跡も酷い事になっているのはよく分かった。

「…いいのです。私だって、志賀君の事を殺そうと思ってましたから」

「本気…だったんですね?」

「…『鬼橋 文』としてはその通りです。御主様…鮎子おねえちゃんの秘密を守る。それが代々受け継がれてきた魔導師『鬼橋 文』としての使命なのですから…でも、キミの知っている『文ちゃん先輩』としては…そんな事…できるわけがなかった…だから…」

「…だから?」

「私は、自分自身に暗示を掛けたのです。…『御主様の秘密を知ってしまった者は、潰せ、壊せ、破壊せよ。代々の“わたし”は、ずっとソうしてキたじゃナいか。…そレハ正シイ事。大事ナ事ヤラナクテハイケナイ事』…」

そう呟く文ちゃん先輩の瞳が、また無機質な物に変わりはじめていた。

「文ちゃん先輩!」

僕は彼女の肩を揺すった。

「…!」

我に返った文ちゃん先輩は、僕の胸にまた顔をうずめてきた。

「…いけませんね、まだ暗示に引きずられてしまいます」

僕は彼女の肩を抱いた。そのとっても小さな肩は、小刻みに震えていた。

「…しばらく、こうしていてください。私が…私のままでいられる様に。キミの事が好きな私のままでいられる様に…あ」

しまった!という顔になった。

「…あの…こう言うのも何ですけど…」

「はい?」

「…もう、お気持ちはいただいてます…その…さっきの教室で、もう」

「…あ」

どうやら、暗示にかかったままの時の記憶も、しっかりと残っているらしい。

「ああああ…あの、その…」

真っ赤になって俯いてしまう文ちゃん先輩。ああもう可愛いなぁ。

「そ…そう言う志賀君だって!…最初に言ってきたのはキミじゃないですかぁ!」

「あ…あの時は必死で…無我夢中で…」

「え…あれはその場しのぎの詭弁だったのですか、志賀君?」

「いっ、いいえっ!まったくの本心ですっ!赤心ですっ!嘘偽らざる僕の気持ちです!」

「嬉しい…」

そのまま僕の胸の中で、文ちゃん先輩はそっと目を閉じた。

さっきまでの殺気が嘘の様な、甘い時が過ぎていった。

窓の外を見ると、もう真っ暗だった…あれ?

真っ暗な夜空を背景に、翼を羽ばたかせた鮎子先生が、握った右手の拳の親指をぐっと突き出してこちらを見ているのが見えた。満面の笑顔である。

・‥何が「グッド!」だよ、まったくもぅ。

全てはお節介なカミサマ代理が仕組んだ事じゃなかったんですか?…あぁん?

それよりも、せめて空いている左手で胸を隠してください…裸なんですから。

鮎子先生は、後の事はよろしくねーとでも言いたいのか、一度ウィンクして投げキッスをすると夜の静寂(しじま)の中に飛び去っていった。…無責任だなあ。紅茶の約束、忘れてません?

「…どうかしましたか?」

不思議そうな顔で僕を見る文ちゃん先輩。

「何でもないです。ちょっと、外で蝙蝠が飛んでただけでした」

「くす。鮎子おねえちゃんだったりして」

やっぱ鋭いなあ。

「…鮎子先生とは、もうけっこう永いお付き合いなんですか?」

「おねえちゃんは…もう10年ちょっと前から私を見守ってくれているのです」

「ずっとあの姿のままで…?」

「ええ。昔からあのお姿でした。はじめてお会いした時にはキス…されちゃいました」

キス、という言葉の所で、文ちゃん先輩は少し頬を赤らめた。さっきの事を思い出したのだろうか。

「唇に?」

「いっ、いいえ!頬にですよ!…私の唇を最初に奪ったのは…」

僕をじぃーっと見つめる熱い視線。…はは、困ったぞ。

「…すみません反省してます。はい」

僕はうなだれた。

…完全敗北だな、こりゃ。

「…私は…こんな幸せな気持ちになってはいけない…と思ってました」

「…副部長の…事ですか」

「…はい」

「よかったら…僕に聞かせてくれませんか」

僕は文ちゃん先輩の肩を優しく抱きしめた。彼女の身体の震えが伝わってくる。

「聞いて…いただけますか。私の過ちを…」

「ええ」

「私は…倉澤さんを見殺しにしてしまったのです」

「見殺し…?」

「キミの言う『泥口』…あいつはキミを襲う前から、時々姿を現していました。最初は生徒たちの単なる怪談話だと思っていたのですけれど、クラスメイトの倉澤さんまで目撃したと言うので…」

「でも、副部長が襲われたんだとしても、無事だったじゃないですか?」

「そうじゃないんです…!」

彼女の肩がぴくん、と震えた。

「そうじゃない?…だって副部長は…」

「そうじゃないんです…最初、彼女は遠くからあいつを目撃しただけだったのです。彼女からその目撃談を聞いた私は、その『泥口』が実在するのなら、『鬼橋 文』であるこの私が退治してしまおう…最初はそんな軽い気持ちでした。私の魔力のちょうどいいトレーニングになる…そんな浅はかな考えでいたのです…」

うーん…僕はオカルトなんて信じないけど…さっきまで色々と見せつけられた超常現象の数々は説明できないし、もしもそんな常人を超えた力を持っているのならば、そう思っちゃうかもなあ。

「…私はその化物を目撃したという倉澤さんに話を伺い、化物が出没しそうな場所を特定してみました。…志賀君、キミが襲われたという、あの新幹線の側道沿いの小さな橋。あそこです」

…そういえば、半世紀前に死んだという安仁和尚も、そこで襲われたみたいだしなあ。

あの辺りが泥口の生息地…なのだろうか。

「私は、『あの場所が恐ろしくて、もう通れない』と怯える倉澤さんに、以前と変わらずにあの場所を通る様に暗示をかけたのです…」

「それって…囮に…?」

「…はい。愚かにも、私は彼女を囮に使ってしまったのです…もちろん、いざとなったら私の力で、彼女の身を守れるという自信があったのです。下校する彼女を、毎日側道の陰から見守る日々が続きました」

「その…マントを羽織った姿で?」

「はい。毎日、彼女が無事にご自宅に戻るまで、ずっと」

…なるほど。自転車を届けたあの日、側道で見かけた影は文ちゃん先輩だったのか。

「一日、二日、三日…一週間二週間。あいつはずっと姿を見せず、そのまま1ヶ月が経過しましたけれど、何事も起きはしなかったのです…でも」

文ちゃん先輩の瞳は、どこか遠くを見つめていた。

「…平穏な日々に、私は油断していたのです。もう何事も起きないのだろう…と」

「……」

「その油断が命取りでした。すでにルーティン・ワークとしか思えなくなっていたあの日」

「泥口が現れた…?」

「はい…あの日、あいつは現れました。それも突然。あの小川の底の深淵から。倉澤さんの悲鳴を耳にして私が駆けつけたその時には…」

僕にしがみつく文ちゃん先輩の小さな手に力が入る。僕は彼女の髪を優しく撫でた。

「…その時には…全てが手遅れでした…倉澤さんの身体は…」

……え?

「倉澤さんの身体にあいつが喰らいついて…喰いちぎって…お腹が…腕が…足首が…ああ!!」

「落ち着いてください文ちゃん先輩!」

「だって指が、髪の毛が目が口が…いやぁぁぁぁ…!」

「文ちゃん先輩!!」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃ!!!!」

「しっかりしろ!文っ!だいじょうぶ!僕が、僕がいるから!」

…思わず呼び捨てにしてしまった。

名前を呼ばれた時、彼女は大きく身体を震わせた。

『僕がいるから』

図らずも、その言葉は、僕が視聴覚室で取り乱した時、彼女が僕にかけてくれた言葉と同じ響きを持っていた。

ややあって、乱れていた彼女の息が安定してきた。

「…志賀君の胸、広くて大きいんですね」

「恐れ入ります」

くす、と文ちゃん先輩は小さく笑った。

「…取り乱してしまいました。申し訳ありません」

「いいんですよ。僕ぁ、もっとみっともない有様を晒してましたし。それよりも…副部長は…?」

「…私は無我夢中で、あいつ…泥口に魔力を放ちました。持てる魔力を放ち続けました…やがてあいつは彼女の肉片…身体を吐き出して去ってゆきました」

…あれ?ちょっと待てよ?

文ちゃん先輩の話で引っ掛かる所がある。…何だろう?

「ばらばらになった倉澤さんの身体に、私はただ謝る事しかできませんでした…頭の中が真っ白になって何も考えられなくなって…」

…という事は…倉澤副部長は…とっくに死んでいた…って事か?

「ただ泣きじゃくる私の前に鮎子おねえちゃんがやってきてくれて…言ってくれたんです。『だいじょうぶ。わたしが彼女を元の姿に戻してあげるから。だからもう泣いちゃ駄目』って」

…あのカミサマ代行、そんな事もできるのか。…まあ、鮎子先生が言うには、このセカイはカミサマの見ている夢の中に過ぎないそうだからなあ…そういうのもアリ、なのかもしれないけれど…でも、彼女が生き返ったって事は…

「…鮎子おねえちゃんの言った通り、私の目の前で倉澤さんの身体は見る間に元通りになってゆきました。そして完全に元通りになった後で、おねえちゃんは倉澤さんの記憶を封じてさえくれたのです」

「…ちょっと待ってください。副部長は泥口に喰われて…一度死んだんですよね?」

「はい。でもおねえちゃんが蘇らせてくれて…」

うん。それは分かった。あのカミサマ代理?代行?…どっちでもいいけど、鮎子先生が副部長を生き返らせた…って事は…

あくまでも僕の仮説ではあるけれど、泥口に喰われて死んだ者は…その死後に…

いやいやいや。しょせんは、アレは素人の仮説だけど…この心によぎる不安は何だ?

その時だった。

教室の外で慌てた様な足音と、何人かの先生方が騒いでいる声が聞こえたのは。

その中の一人は、顧問の太田先生の物だった。

動転して裏返った様な太田先生は、こう言っていた。

『大変だ!倉澤の遺体が病院から消えた!どこにもない!消えちまった!!』


27

 

 翌日。僕は文ちゃん先輩と示し合わせて、いつもよりずっと早く登校した。

朝6時半。校内にはまだ朝練の生徒どころか先生方も来ていない。

文ちゃん先輩を通して鮎子先生にも連絡してもらい、保健室で合流する事になっていた。

僕が保健室前の廊下に行くと、律儀な文ちゃん先輩はもう先に来ていた。僕の顔を見ると、彼女はちょっとだけ顔を赤らめたので、こっちも何だか照れ臭くなってしまった。

無理もない。昨夜のすったもんだなんて、そうそう経験できるものじゃないし、実際、僕だって昨夜はほぼ眠れなかったし。

「あ…あの、志賀君。お…おはようございます」

「あ…いいえこちらこそ、何と言うか、はあ、ごきげんうるわしゅうございます」

「あの…昨夜はその…お手数をおかけしまして…きょ、恐縮です…」

「あ…そんなお気遣いなく、僕の方こそ大変な失礼を…その後、お変わりございませんでしょうか」

「いえ!…その節は大変なご厚情を戴き、私としても誠意をもって今後に臨ませていただきたく…」

「…そのまま名刺交換でもやっちゃえ」

何だかジト目になった鮎子先生が、いつの間にか僕たちの間に立っていた。

僕も文ちゃん先輩も硬直する。…いつの間にいたんだろう。

「先生!」

「おねえちゃん!」

「せーしゅんしてるねー。うんうん。善きかな善きかな。もっと照れ合っちゃいなさいな」

嬉しそうだなあ鮎子先生。

「…で、せーしゅん真っ最中のカップルさんたちが、何の御用かな?デートの手順のご相談?おススメのスポット?あ、いくら何でもまだ一線は越しちゃあダメよお?さすがにそういうのは、先生感心しないなあ。それ以外の事なら、この鮎子先生にどーんと任せちゃいなさい?先生、なーんでも相談に乗っちゃうから」

鮎子先生はぽん!と胸を叩いた。

…何だこのテンション高いカミサマ代行さんは。昨日までのノリとずいぶん違うぞ。

「おっ、おねえちゃん!!」

文ちゃん先輩は子供みたいに鮎子先生をポカポカ叩いている。…こちらもイメージが変わってしまった。…まあ可愛いからいいけど。つか余計にポイント高かったりする。

「…それで志賀君、こんな朝早くから何の用なのかな?本当は」

顔だけは真面目になってこちらに聞いてくる鮎子先生。でも、まだ文ちゃん先輩にポカポカと叩かれているままなのは、ちょっとカッコ悪い。

「…とりあえず、保健室に入りましょう」

僕はため息をついた。

カーテンが引かれたままの室内に入ると、ひんやりした空気が肌に染み込んでくる。

「…まだ寒いね。ストーブ点けよっか?」

「いえ、誰かきたら困るので…人にはあまり聞かせたくない話ですから」

「じゃあ、明りも点けない方がいいね」

「そうですね」

「…で、お話ってなぁに?」

「…実は…亡くなった倉澤副部長の事で…」

僕はあくまでも仮説ですけど、と断ってから、僕が知りえた事実、そして推測をかいつまんで話した。

寺のおっちゃんから聞いた200年前の弥平の話と、半世紀前に死んだ安仁和尚の死因およびその後の不可解な遺体消失事件との間の共通性。どちらも彼らが一度死んでから蘇ったとしか思えない。

そしてあの化物「泥口」との関連性。

仮に「泥口菌」なんて細菌みたいな奴があるとしよう。弥平は空腹のあまりに口にしていた土から、安仁和尚は泥口に喰いつかれて致命傷となった脇腹の傷から、この「泥口菌」に感染したのではないか?

で、その細菌は次第に感染者の肉体と精神を蝕んでゆく。最期はおそらく死に至るのだろうけれど、何らかの条件が合ったりすると、その死後も細菌の活動は進行してゆく…

むしろ活性化してゆくのかもしれない。そして、その終着が…あの姿。


『その姿、蛇若しくは百足、注連縄に似て鎌首上げ蠢く。手足の類は見当たらず、痩躯泥に塗れて悪臭を放つ。頭に目玉無けれども大口有り。人の如き歯を打ち鳴らして犬、馬、牛、人を喰らへり。故に是を泥口と呼べり』


僕はあの掛軸にあった言葉を思い出して口にした。

前に比べれば恐怖心も薄らいできたとはいえ、やはりあの姿を思い出すと嫌な汗が出る。

「…それと倉澤さんに、どういう関係が…?」

「副部長は…泥口に喰われ…襲われて、ばらばらにされたんですよね?それから鮎子先生の力で蘇った…つまり、その『泥口菌』の進行は、その後もずっと続いていたと思うんです…一度死んだ事で、より活性化して…」

「…もしかしたら、あの子の肉体を再構築させるのに使った、私の力の影響もあるかもしれないね?」と鮎子先生。

…その発想はなかったな。

「…ありえますね。そして僕が描いたあの絵。あの絵が、鮎子先生が封印したという副部長の記憶…というか恐怖心を呼び覚ましてしまって、一気に細菌の進行を活性化させてしまった…僕の勝手な推測ですけど…」

「…なんてこと…」

文ちゃん先輩は口元を押さえながら震えていた。

鮎子先生は、ただ黙って目を閉じている。

僕は続けた。

「そして副部長は…屋上から転落して…二度目の死を迎えた。昨日、太田先生が話していたのを耳にしたんですけど…副部長の遺体は、司法解剖のために運び込まれた病院の安置室から忽然と消えたそうです…そして病院の裏庭には…どこまで続いているのか分からない穴が開いていたとも聞いてます…」

「…志賀君のお話と…そっくりなんですね…」

「…僕もそう思いました…」

「倉澤さんが…泥口になってしまった…?」

文ちゃん先輩の震えが止まらない。僕は彼女の肩に手を置いた。

「文ちゃん先輩は…副部長を安易な気持ちで囮に使ったから、こんな事態を招いてしまったって、ずっと後悔してますよね?鮎子先生は一度死んだ副部長を、たとえ善意とはいえ、その力で蘇らせた結果、事態を悪い方向に向かわせてしまったかもしれない。そして僕は…あの絵を見せた事で、副部長の悲劇を招いてしまった…いわば」

「…いわば、『共犯』…なんですね…私たちは…この件に関して…」

文ちゃん先輩がうなだれて言った。

「そうかもしれませんよね…」

「じゃあどうする?…やっつけちゃうの?」

それまで無言でいた鮎子先生が、おもむろにそう言った。

「おねえちゃん!そんな言い方って…!」

「それとも放っておく?私はそれでも構わないけど…それだとアレはまた誰かを襲うかもしれないね。第二、第三の倉澤さんみたいな子が増えるかもしれないなあ」

文ちゃん先輩と同様、この発言には僕も反発を覚えた。だって、副部長をこんな事に巻き込んだのは…僕たちなのだから。

「そ…そうだ!鮎子先生。先生の…その『力』で何とかなりませんか?…たとえば副部長を元に戻すとか…?」

「無理ね」

先生の返事はシンプルで冷酷な物だった。

「志賀くん。キミは昨夜見た夢が気に入らなかったからといって、じゃあその夢の内容を交換することができる?…つまりはそういう事。一度起きてしまった事実は換えられないの」

「だけど…先生は一度、副部長を生き返らせたじゃないですか!?」

すると鮎子先生は、ちょっと困った様に笑った。

「ああ、あれね?…だって、『生き返らせて』はいないもの」

…え?

「わたしがやったのはね、ばらばらになった倉澤さんのパーツをつなぎ合わせて、肉片に残っていた記憶の断片から、『倉澤由美子』という人格を再構成しただけ、そういう意味では、彼女は『生き返って』はいないんだけど」

「そんな…そんな事って…うっ!」

文ちゃん先輩は真っ青になって、口元を押さえながら部屋の片隅にある水道の所に走っていった。僕も吐き気を押さえるのがやっとだった。

…そういえば鮎子先生は、今まで一度も『生き返らせた』とか『蘇らせた』とは言ってなかった…ただ『元の姿に戻した』とか『再構成した』としか言っていない…

「カミサマと言ってもね、万能の存在じゃないんだよ?…志賀くんの時にしても同じ」

え…どういう事なんだ?

「ねえ志賀くん。不思議に思わなかった?」

「何が…ですか」

「キミがあの泥口?への恐怖心を克服できた事」

「それは…先生も言ってたじゃないですか。僕が恐怖心をあの絵に転換させたことで克服したんだって…」

「うん。その通り。そこはわたしも評価してる。キミはオカルトを信じないというけれど、それだって、そういった方面への抵抗力が強いという事が影響しているのかもしれないね。…でもね」

「でも…何ですか?」

「実はね…泥口?に襲われた時、恐怖でキミの精神も一度壊れかけてたの」

え…?

「さすがに、キミの精神も耐え切れなかったのね。…ねえ志賀くん。あの夜、何か夢を見なかったかな?」

そういえば…蝙蝠女…鮎子先生に助けられた夢を見た気がする。

夢の中で、僕はばらばらの肉片にされてしまった…って…え、それって…?

「あの夢はねえ、倉澤さんの肉片に残っていた『記憶』を参考にして、わたしが作った物なんだよ」

…あれは…副部長が経験した内容だったのか…あんな…悍ましい経験を…

「ニンゲンはね、それ以上は危険だと脳が判断する様な記憶には、それを思い出させない様にフィルターを掛けて崩壊を防ぐ力を持っているのよ。血液の中の抗体みたいな物ね。壊れかけているキミの精神を守るためには、より強い恐怖をイメージさせて、それより先の消失点(バニシング・ポイント)に近づけないための『壁』を、キミの心の深淵に作らせる必要があったの」

「壁」…か。そういえば思い当たる事もあった。

まだあの絵を描き上げる前は、泥口の事を考えると、いつも最後は霞がかかった様に記憶がぼんやり薄らいでしまっていた。「壁」とはよく言ったものだ。

「…だからこそ、わたしが作ったその壁を、自力で乗り越えてしまったキミは凄いと思ったの。…大抵は倉澤さんみたいに、自身の抱えている深淵に引きずり込まれちゃうんだもの」

あの悪夢は、副部長の体験した事実を再現した物だった…

僕はもう、返す言葉がなかった。

「…もう、安らかに眠らせてあげましょう…倉澤さんを。それがこの件に関わった私たちにできる、最後の責任だと思います」

そう言ったのは文ちゃん先輩だった。


28


 放課後。姿をくらました副部長を探す探索がはじまった。

とはいえ、どこをどう探してよいのか、皆目見当はつかなかったけれど。

僕たちは、まず彼女の遺体が運び込まれたという病院に足を運んだ。

おそらく副部長が開けたであろう穴は、病棟の奥の裏庭にあったけれど、そこはもう「立入禁止」のロープが張ってあって、詳しく確認する事はできなかった。僕たちの位置からでは、穴がどちらの方角に向かっているのかすら判らない。

僕たちはここでの調査を諦め、学校に戻った。

もっとも、例の午後5時閉門はまだ解除されておらず、いつまでも学校に残っているわけにもゆかない。

…うーむ。序盤から躓いてしまった。どうやって副部長を探せばいいのだろう。

僕は文ちゃん先輩たちと別れて、教室に置いたままだったカバンを取りに行くことにした。

用を済ませて、南校舎2階の生徒用通用口に戻ると、蒼木部長も帰る所だった。

「あ、部長、お疲れ様です」

「ああ…志賀君か」

部長はすっかりやつれてしまっていた。無理もない。僕みたいな幽霊部員と違って、部長は副部長と共に過ごしてきた時間は疎かにできたものではないだろう。それに校内に流れている噂では、副部長はこの蒼木部長との恋愛問題で悩んだ挙句に自ら命を絶ったという事になっているみたいだった。副部長の気持ちは今となっては知る由もないけれど、進学を控えたこの大事な時期に、そんな噂の渦中に置かれてしまった部長の心中や察するべし。

二人並んで階段を下りながら、僕は部長を見た。目の下に隈ができていた。

「志賀君…僕はどうしたらいいんだろう…」

部長は僕の方も見ないでつぶやいた。

「倉澤君があんな事になってしまって…部長として、いや仲間として、僕は何もできなかった」

「…部長に責任はないと思います」

「そうだろうか」

そうさ。この人のいい部長には何の責任もない。責任があるとしたら…僕たち三人の方だ。それを口にしてあげられないのは申し訳が立たない。

「そうですよ」

「いや…やはり僕が、もっと彼女の気持ちを正面から受け止めてあげていればよかったんだ…」

…あの噂、根拠があったのか。

「あの日…彼女が僕に告白してくれた日。僕は嬉しかった。でも、まだ留学も確定していなかったから、僕は不安になって、答えを曖昧にしてしまったんだ…」

部長の留学が決まったのはたしか夏の頃だったから、副部長がまだ泥口に襲われる前の事なのだろう。

「…その後、副部長は何か言ってましたか?」

「倉澤君は…それからも変わらずに僕をサポートしてくれたよ。『答えが出るまで待ってますから』って言ってくれてね…留学先も決まったし、僕が参加できる最後の活動になる1月の部展が終わったら、僕も彼女の気持ちに応えるつもりでいたのに…」

蒼木部長は涙ぐんだ。

一人の不幸は、連鎖的に他の誰かをも巻き込んでしまう。「他人の不幸は蜜の味」なんてたわけた事を言う奴もいるけど、そういう奴は自分が不幸に見舞われた時、どんな顔をするのだろうか。

不幸なんて気まぐれな奴は、いつ、どこで襲いかかってくるか分からない。たとえどんなに善行を重ねていようと、奴に魅入られてしまう人だっているんだ。

…そう、まさしく「不幸」な事に見舞われてしまうのだ。

僕の目の前で肩を落として泣いている先輩の様に。

僕たちにできる事は、この不幸の連鎖を、これ以上広めさせない事だ。

バス通学の部長を県道沿いの停留所まで送った後で校内に戻り、駐輪場に向かう途中で、僕はふと、ある事を思いついた。

自転車に乗って帰宅するまで、その思いつきをもっと深く追及してみた。

うん…あるいは…そうかもしれない。

帰宅してすぐに受話器を取り、覚えたばかりの文ちゃん先輩の家の電話番号をダイヤルしてみた。

数回の待機音の後で、相手はすぐに出た。

『はーい。はいはい。鬼橋でーす。どちら様でしょ?』

…文ちゃん先輩のご家族にしては、ずいぶん軽いノリだな。

「…えっと、鬼橋さんのお宅でしょうか。僕、文ちゃん先輩…いえ、文さんの後輩で、志賀と言います。文ちゃ…文さんはお帰りでしょうか?」

『あー、学校の子ね?失礼しました。わたし、文ちゃんの母の唯です。いつも文ちゃんがお世話になってまーす。ちょっと待っててね?…文ちゃーん。お電話ですよー』

受話器の向こうで、『はーい、ママぁ。いま行きます』なんて聞きなれた声が聞こえた。

…ママぁ?

…またひとつ、知られざる文ちゃん先輩の一面を知ってしまいました。

ろーんどんぶりっじ・いず・ぶろーきんだぁーうん。

「鉄血宰相」のイメージが、どんどん音を立てて崩れてゆく。もはや屋台骨すらない。

『…お電話換わりました。文です』

「…ママ、でしたか」

『しっ、志賀君…!?何で!?…ええっと…聞こえてましたか?!』

「…ええまあ、それとなくとゆーか何となくとゆーか聞くとは無しにとゆーか」

『いっいえ!あれは母がそう呼ばないと返事してくれないと言うか、いつもじゃあ、ええ、そう、いつもじゃあないんですよ?』

…うーむ。慌てふためく文ちゃん先輩も可愛い。

でも、自分からネタを振っておいてなんだけど、今はそれどころじゃあない。

「ごめんなさい文ちゃん先輩。ふざけ過ぎました。それよりも、副部長の件で」

『…!?何か分かりましたか?』

急に真面目な声になる文ちゃん先輩。こういうON/OFFをはっきりできる所はさすがだと思う。

「今日、あれから蒼木部長と会って話したんですけど…蒼木部長と副部長との噂はご存知でしたか?」

『え…ええ。耳にしていますけど…それが何か?』

「僕は思うんですけれど…副部長、まだ蒼木部長に未練とかあるんじゃないかって」

『む…?志賀君、それはどういう事でしょうか?』

「部長の話だと、副部長は部長からの告白の返事を待っていたみたいなんです」

『なるほど…という事は…戻ってくるかもしれませんね、倉澤さん…』

「可能性はあると思うんです…ただ、泥口と化した副部長が、その時にどういった行動に出るのかは…」

『…蒼木さんの身辺を重点的に警護した方がいいかもしれませんね…鮎子おねえちゃんには、私から連絡しておきます』

「お願いします」

『それと志賀君』

「はい?」

『…ひとりで無茶はしないでくださいね…?』

不安そうな文ちゃん先輩の声に、僕はもちろんです、と応えた。

ともあれ、これでとりあえずの方向性は決まった。もしかしたら見当違いなのかもしれないけれど、何のプランもなく闇雲に動き回るよりはましだろう。

次の日。再び早朝に保健室で待ち合わせた僕たち三人は、お互いの役割を確認した。

まさか大勢の人目がある日中には、副部長はやってはこないだろう…とは思う。

泥口の習性はよく分からない。夜行性かどうかすら定かではない。

僕も、そしてまだニンゲンだった副部長も、奴を目撃したのは陽が落ちた後の事だった。

でも、あの掛軸によれば、泥口化した弥平が姿を現したのは日中だったそうだし…

ただ、蒼木部長の事を覚えているのならば、白昼堂々とやってきたりしたら、どういう結果になるかくらいの分別はつくだろう…か?

「それは男の考え方だけどね」と鮎子先生。

「…女の子ってね、思い込んじゃったら怖いのよ?くすくす」

「安珍と清姫」。「八百屋お七」。「番町皿屋敷」に「お岩さん」に「牡丹燈籠」。「今昔物語」とか「雨月物語」の中にも、想いのあまりに異形と化してしまった女の人の話は数多い。

文学の中ではわりと目にするモチーフだけど…まさか自分の周りでそんな生々しい事が起ころうとしているなんて、誰が想像つくものか。

ましてや、ほんのつい最近まで女の子とはまるで縁遠かった童貞の小僧に、そんな複雑な男女の機微が分かるわけがない。

「…これからは、もうちょっと分かる努力もお願いします」と、これは文ちゃん先輩。

…善処いたします、はい。

結局、校内全般は鮎子先生、放課後の部室ではこの僕が、そして下校途中は文ちゃん先輩が、それぞれ分担して部長をこっそりと警護する事になった。


29


 何事もなく数日が過ぎた。

相変わらず、副部長の姿が目撃されることはなかった。

文ちゃん先輩は、「そもそも今回の事態を招いたきっかけは、私の油断です。今度こそ気を抜く様な無様な油断はいたしません!」と気合十分だった。

とはいえ、本来通学路の違う部長と同じバスに堂々と乗ってゆくのはあまりにも不審に過ぎるので、彼女はその機敏な動作で、毎日バスを追尾していたのだった。これではさすがに疲労も溜まってくるという物だろう。

一度、文ちゃん先輩に聞いたことがある。「いざという時、戦えるんですか?」と。

すると彼女は、「これがあります」と、あの槍もどきを見せてくれた。

長さは50センチくらいの小さな棒きれだけど、先端には何やら複雑な文字がびっしりと刻まれた鋭い刃が付いている。もう片方の端、握りの部分は紫色の紐が巻かれてあって、握りやすくなっていた。こちら側の先端は小さな髑髏の意匠が三つ彫られている。あの時はよく見えなかったけれど、この骸骨の目の部分には、エメラルドか何かの宝石が埋め込まれていた。

「これは『フェッチ棒』という魔力を秘めた道具です…本当はもっと悍ましい方法で作られるのですが…これは私なりにアレンジして作った偽物ですけれど」

フェッチ棒…って、たしか木でできた、犬用のおもちゃの事だよなあ。ペットの犬が、がじがじ齧ってる骨みたいな奴。

「よくご存知ですね。名前はそこから取りました。なかなか壊れないのが長所です」

そういう文ちゃん先輩は、何だか嬉しそうだった。ご自慢の逸品らしい。

「投げてよし、突いてよし。手頃な大きさで使い勝手がいいですし壊れにくい。それに」

「…それに?」

「これは本来、亡者用の武具なのです。彼らには絶大な威力があるのですよ?…人間相手には、ただの刃物程度の威力しかありませんけれど」

「対ゾンビ兵器」って事か。今回の副部長の様なケースには最適なのかもしれない。つい先日、これで命を狙われた身としては少々複雑な心境でもあるけれど。

「…それよりも志賀君。心配なのはキミの方です。もし倉澤さん…泥口がキミの方に現れたら…」

「あ、その時は大声で鮎子先生呼びますって」

「…本当に、ひとりで無茶はしないでくださいね?」

文ちゃん先輩は、僕の手を握りしめた。

 気がつけばもうすぐ終業式だ。色々とあったけれど、来月の部展は開催される事になった。副部長の遺した作品も「遺作」として展示される予定だそうだ。

僕も、また新たなイラストを描かなくてはならなくなり、部長の密かな警護を兼ねて部室に籠る日々が続いた。

部長も毎日部室に来てはいるけれど、創作の方はまるで進んではいないみたいだった。

僕は僕で、ギターが弾けないのは正直辛い所だけれど、目の前の諸問題をクリアーせねば、練習にも実が入らない。それになあ…

「…はぁ…」

落ち込むに十分な理由がもうひとつできてしまった。ため息のひとつも出る。

「しがん。元気ない」

塚村さんが僕の顔を覗きこむ。

「…そう見えた?」

「見えた。ひと晩経った夜店の綿菓子みたいにしょぼい顔」

「…うるさいな」

「あれはあれでまた独特の食感があっていいけど、今のしがんはただのヘタレ」

「やかましい。こっちはこっちで色々と事情があるんだ」

「試験結果」

「う…」

塚村さんの言う通りだった。先日、期末試験の結果が出たのだけれど、いつもの様に文系科目はまあそこそこの成績だったものの、文ちゃん先輩があれだけ精魂込めてご教授くださった理系科目が、見るも無様な結果となってしまったのである。…どんだけ理系に嫌われてるんだ僕ぁ。…きっと前世で理系の教科書でも殺したに違いない。

そのうち、背負った理系の教科書が「…こんな月の夜でしたなあ」なんて言ってくるかもしれない。

文ちゃん先輩に何て謝ろうかと落ち込む僕だったけど、むしろ彼女の方が恐縮していた。

「すみません志賀君。私の努力が足らなかったせいで、キミをこの様な無残な結果に…」

「いえ、文ちゃん先輩はとってもよく教えてくださいました。僕が悪いんです。気にしないでください」

「む?そうはゆきません。学年末試験がキミの汚名返上の場になるべく、私が責任を取ります。責任を持ってキミを男にします。一人前の男にしてみせます」          

文ちゃん先輩とまた一緒に机を並べて勉強できるのは嬉しいけれど、その分プレッシャーも大きくなってしまったのも事実である。

幸いな事に、例のクリスマスの約束はチャラにはならなかった。

…その名義が僕を励ます会になった事を除けば。あーあ。

皮肉な事に出展作品のアイディアの方は、今度はすぐに浮かんだ。構図もすっかり頭の中にあるし、前みたいに「描いたらまるでイメージが違った」なんて事にはならないと思う。

それだけ、今度のモチーフには確固たる物があったんだ。

でも、今は成績とか僕の作品の事はどうでもいい。

…泥口と化した副部長が、いつ姿を現すか。

それだけが気がかりだった。

…ある部分においてだけは、現実逃避の様な気がしないでもないけれど。

そんな日々が続いた後。


現代に蘇った泥口、倉澤由美子は、何の予告もなく、ぶらりと帰ってきたのだ。


終業式の前日のその日は、朝から雪が降っていた。

けっこう積もりそうな勢いで、この時期のうちの地域では珍しい事だ。

わが上州群馬の高崎に雪が降るのは、むしろ年も開けて2月になってからの方が多い。

それまでは、ただひたすら乾いた空っ風が吹き荒れる日々が続くのが恒例だった。

これでなかなか縁のない「ホワイト・クリスマス」を体験できると、一部のカップルたちは浮かれていたみたいだった。

「今年はお前もそのひとりじゃねーかこんちくしょー」などと、我が愛しき悪友森竹などはやっかんできたけれど、生憎と今はそんな心境ではいられないや。

ほとんどの部員はすでに作品を仕上げていて、部室にはこなくなっていた。部室にいるのは遅々として筆の進まない蒼木部長と、そんな部長が気になって作品に手がつかないこの僕の二人きりとなっていた。

お互い、ただぼーっと時間を過ごしているだけだ。時折、部長が淹れてくれたお茶を飲みながら他愛のない雑談をして、そのうちに話題もなくなると、それぞれ制作中の作品を、ただぼーっと眺めている…特にこの2、3日はその傾向が強くなっていた。

今日も何度目かの雑談の後、また無口になってからしばらく経っていた。

僕は、自分の両腕にはめた金属製のブレスレットを見た。

これは文ちゃん先輩から貰った物だった。同じ物を文ちゃん先輩と鮎子先生もはめている。

「…そのブレスレット、綺麗だね」

いつの間にか部長がそばにやってきていて、そのブレスレットを見つめていた。

「ああ、これですか?貰い物なんですよ」

「…へえ。いいなあ。会長さんからかい?」

「あ…はい。いつも持っていろって言われちゃいまして」

「君たちはお付き合いしているんだってね?」

「はい」

「彼女は大切にしてあげなければね…僕にはできなかった事だけど」

「あ…すみません部長。無神経でした」

「はは。気にしないでいいよ。…倉澤君…もう一度会いたいなあ…」

蒼木部長は遠い目をしていた。窓の外を見ているけれど、その目に雪は映ってはいないのだろう。

その時、左腕のブレスレットが急に熱くなった。…合図だ!

お互いの分担を決めたあの日、僕たち三人は同じブレスレットをそれぞれ二組ずつはめる事にした。これは文ちゃん先輩が作ってくれた物で、誰かがこれを引きちぎると、それに連動したブレスレットが急激に発熱する様な魔力が込められているのだという。

僕たちはそれぞれ、右腕が文ちゃん先輩、左腕は鮎子先生のブレスレットに反応する様にしていた。僕の場合は両腕のブレスレットを引きちぎる事になっている。

左手という事は…校内にいる鮎子先生が、副部長の気配を察したか、あるいは遭遇したという事になる。

…もし鮎子先生に倒されていないとすれば、副部長がやってくるのは…おそらくこの美術室だろう。

「…志賀君?どうしたんだい?」

急に顔色を変えた僕を、部長が怪訝な顔で見ていた。

「あ…部長、この部屋から絶対に出ないでください!」

「どういう事なんだ?いったい何が…」

「しっ…!静かに!」

僕は部長を制すると、耳を澄ませて神経を集中させた。

どんな些細な音も聞き逃すまい…と身構えたものの、緊張で高鳴る自分の鼓動が邪魔になってよく分からない。

じきに鮎子先生と文ちゃん先輩もここに駆けつけてきてくれるだろう。それまでは…

視線を四方にむけてみた。…どこからくる?

正攻法で部室の入口…?それとも準備室側から…?

まさか天井を突き破って…?

聞こえてくるのはしんしんと降り続く雪の音と、時々窓を叩く風の音。自分の心臓の音がやけに耳に障る。荒い息遣いは部長の物だろうか。…それともこの僕自身の物か。

…こつん。

何かが窓を叩く音がした。

思わずそちらを見たけど、別に何事もなかった。

もう一度耳を澄ませてみる。

ひゅうぅぅぅぅぅ…

風の音すらはっきりと聞き取れた。

え…風?

冷たい風が頬を撫でていった。

風が入ってくる?…窓は全部締め切っているはずだ・・・

僕は風が吹き込んでくる方角の窓を、もう一度注意して見た。

一番左側の天窓が、いつの間にか僅かに開いている・・・開けられている…!?

その窓の外側に、一瞬、何か動く影が見えた。

…あそこか!?

僕は部室の中央付近にゆっくりと移動した。事態をよく呑み込めていない部長も僕の動きに倣った。

もちろん、視線は窓から離していない。

…くるのか…!?

…がしゃん!

ガラスの割れる音が沈黙を破る。

それは僕たちが睨んでいるのとは反対側の窓の方から聞こえた…え?

思わず反対側の窓を見た。

…いた!!

雪だらけになってもまだ分かる汚れた絵具塗れの顔が、天井から逆さまにこの部屋を覗きこんでいた。

髪の毛はほぼ抜け落ちていて、頭皮も傷だらけになっている。

しかしもっと悍ましい事に、そいつにはもう目が無くなっていた。

眼窩の痕跡らしいわずかな窪みはあるものの、ただそれだけ。

その代わりに…耳元まで大きく裂けた口が、顔の下半分のほとんどを占めていた。

その口が大きく開かれる度に、ニンゲンのままの形をした歯ががちがちと音を立てている。

そいつは割れた窓から手を伸ばして、中の鍵を外そうとしている。

「…な…何だあれは!?」

部長が悲鳴を挙げる。

そいつは何とか鍵を外して入ってこようとしていたけど、天窓が小さすぎて、身体を通す事ができないでいる。

北側校舎の3階にあるこの美術室は両側に窓がある。その上はもう立入禁止になっている屋上だ。あいつは一度窓を開けてから天井を駆け抜けて反対側に回ったのだ。

「さ…さあ部長!今のうちに逃げましょう!!」

「あ…ああ」

天窓からの侵入を断念した化物は、窓の外で大きく仰け反った。

すると…ええ!?

上体を大きくスイングすると、あいつの頭がぐにゃりと伸びた。およそ7~80センチくらいか。実に気味悪い姿だ。

まるで蛇の様にくねくねと蠢きはじめたその頭部を太い鞭の様にしならせると、化物はもう一度下の方の窓ガラスに叩きつけた。

がっしゃーん!

窓は一撃で割れてしまった。先程とは比べ物にならないくらい強い雪風が吹き込んでくる。

化物はゆっくりと窓の縁に手を掛けて、その手を軸にくるりと身体を回転させながら部室に飛び込んできた。

予想外に身軽で機敏な動きだったけれど、着地はうまくゆかなかった。

腹部を床に叩きつける様な無様な仕草で、化物は転落した。しかしすぐに態勢を立て直して、化物はゆっくりと立ち上がった。

身にまとっているのは絵具塗れのうちの制服。簡易ネクタイの二つ星もよく分かる。

…あの夜、僕たちが最後に目にした時の副部長の着ていたままの制服だった。

「あ…あ…あ…」

部長は恐怖のあまり声が出ない。

化物はゆっくりとこちらに向かって歩きはじめた。

『…ぶチョう…ブちょウ…大好キな蒼木せンパい…』

妙にくぐもった、トンネルの向こう側から聞こえてくる様な声。

『…ぶちょウ…ワタシ…帰っテキチゃいまシたヨ…』

…その声は聞き取りにくくはあったけれど、あの夜に転落死した倉澤由美子副部長の物に間違いなかった。


30


 僕は両手のブレスレットを引きちぎった。これで二人にも、僕のいる場所で異常が起きた事が伝わるはずだ。それまでは、何としてでも部長を守らねば。

副部長…泥口は、長く伸びた頭部をくねくねとうねらせながら、ゆっくりとこちらに近づいてきた。

『ブチョう…オ返事聞かセテくダさイ…デないト、オ腹減ッチャいまス…』

泥口の身体の中で、そこだけがやけにニンゲンらしさを遺している歯が、がちがちと不愉快な音を鳴らす。

「よっ…寄るな化物ぉ…!!」

部長は近くにあった卓上用の小さなイーゼルを投げつけたけれど、泥口は首をひねらせてそれに食らいついた。がりっ。がりがりがりっ。イーゼルはあっという間に噛み砕かれてしまった。破片が床にこぼれ落ちる。

『いひヒひひ…いーぜるモナかなカニ美味しイなァ…』

…こいつ、何でも喰らうんだ…

『…デモ…お肉ハもッと美味シい…肉…肉…肉肉肉肉ニクにく肉ゥ!!』

泥口は自ら発した「肉」という単語に興奮したのか、長く伸びた頭部をぐぃんぐぃんとしならせた。その度に、口から不潔な唾液が飛び散る。

『…蒼木セんぱァイ…好キデす…食ベちゃイタイクライ…好キキキキ』

泥口は、今や僕たちの目の前に迫ってきた。

…何か…あいつの注意をそらせる物ないかなぁ・・・

気部室の周囲を見渡すと、右側の壁際に掃除用具を入れておくロッカーがあることに気づいた。あの中にはモップとか箒みたいな、武器になりそうな棒状の物くらいはあるだろう。

問題は、どうやってあそこまでたどり着くか…という事。

ここからはおよそ5mくらい。あそこに行くには、目の前に迫る泥口の脇を抜けてゆかねばならないけれど…

…よぅし…

僕は決意を決めた。

「部長…」

「な…何だい?」

「…あそこのロッカーにはモップくらいはるはずです。僕がこいつの注意をそらしますから、部長はモップを取ってきてください!武器になります」

「…だけど…君は…」

「いいから早くっ!!」

「わっ、分かったっ!」

部長は頷いてくれた。オーケイ。じゃあ、いっちょやったりますか。

「いっせぇーのっ…うりゃぁぁぁぁぁぁ…!」

僕は獣の様な咆哮を挙げて泥口に突進していった。腰を落とした低い姿勢でタックル!

そのまま奴の胴体にしがみつく。

泥口の身体は、まだ女の子らしい柔らかさはあったけれど…冷たい。まるで死体をハグしている様な心境だ。それと…とにかく生臭い。

僕にしがみつかれて、泥口はじたばたと暴れた。僕に喰らいつこうとするけれど、中途半端な頭部の長さのせいで、ここまで内側に接近されると逆に口が届かないのだ。

ちょうど、いくら腕を曲げても上膊部…二の腕の内側は触れない様なものだ。

部長はその間にロッカーを開けてモップを取り出していた。…いいぞ!

「部長!そのまま、そのモップをこちらに投げてください!」

「…いや…しかし君が…」

「こいつの狙いは部長、あなたなんです!近くに寄っちゃだめです!」

「だけど…」

「部長はそれを投げたら、そのまま外に逃げてください!」

「じきに文ちゃん先輩と鮎子先生がきてくれます!だからはやく!」

僕は必死に訴えたけど、部長はまだ躊躇している様だった。

『志賀くン…君、ウルさイ…』

泥口は噛みつこうとするのを諦めたのか、今度は両腕で僕を殴ってきた。

まだ成長過程の泥口には腕が残っている。いずれこの腕も退化するかどうかして無くなってしまうのだろうけれど。

奴の拳が何度も僕の背中を叩く。でも元々が女の子のせいなのか、予想外に非力だ。

僕はしがみつく力をいっそう強めた。プロレス技のベアハッグをかけている様な物だ。

「志賀君!待っていろ!」

部長がモップの柄の部分で泥口に殴り掛かる。

柄は何度か奴の頭部にヒットしたけれど、あまりダメージを受けた様子はない。

部長はなおも殴り掛かっていたけれど、何度目かの打撃は、ついに奴の口で受け止めてられてしまった。

がりっ!と音を立てて、モップは無残に噛み砕かれてしまった。

泥口は、今度は僕の方に意識を向けたみたいだ。

いくら殴っても効果がないことに気づいた泥口は、僕をしがみつかせたまま飛び上がって腹部から床にダイヴした。

泥口の下敷きにされたまま、僕は床に叩きつけられた。

「ぐあぁ!?」

背中に激痛が走る。

『…あノ時、屋上で志賀君ガアたシニ掛ケた技ノ応用だヨ…』

…このやろう。こんなナリしてけっこう知恵が回りやがる。

「このぉ…志賀君を放せっ!!」

部長が泥口に殴り掛かったけれど、泥口は長い頭部をスイングさせて彼を弾き飛ばした。

部長の身体は、部室の壁に叩きつけられた。どうやら気を失ってしまったらしい。

腕よりも、頭部の方がずっとパワーあるのか…すっかりニンゲンやめてるなあ…

泥口は僕に覆いかぶさっている。

首が長い分、胴体は僕の下半身の方にある。足も届かないこの態勢では、文ちゃん先輩の時と違って必殺技の「かにばさみ」も掛けられない。

泥口の大きな口が迫ってくる。

…万策尽きちゃったか…

『ひとりで無茶はしないでくださいね…?』

ふと、文ちゃん先輩の声が頭の中に浮かんだ。

…ごめんなさい。せっかくのお気遣いでしたけど、ちょっと先走っちゃいました…

この状況は、文ちゃん先輩に追いかけられた時とよく似ていた。あの時も、僕は彼女にこうしてのしかかられてたんだっけ。

あの時は、まあ文ちゃん先輩になら殺されてもいいかなんて考えた。…ホレた弱みと言うのか?ああいうのも。…それとも、僕が命に対して淡白過ぎたのか?。いずれにせよ恋愛経験の乏しい僕には分からない。

だけど、今は死にたくなんかない。…ましてや相手は泥口さんだ。こいつに噛みつかれてばらばらに喰いちぎられるか、それとも死んだ後でこんな姿になって、土の中を這いつくばり蠢き続けてゆくのか…どっちの将来設計もゴメンだよそんなの。僕にはもっと楽しいスクールライフを過ごす予定なんだ。

「ちくしょう!放せっ!放せったら!」

僕は暴れた。力の限り抵抗した。

だけど身動きは取れないまま、奴の口が迫ってくる。

泥口は大きく口を開けた。…意外に歯並びがいい。

もうダメだ!と思った瞬間!

ヒュン!と飛んできた棒の様な物が、泥口の口を貫いた。

これは…フェッチ棒!!…文ちゃん先輩!?

フェッチ棒はそのまま泥口の頭部を突き抜けていった。

棒は空中で向きを変えると、また飛んできた方角に飛んでゆく。

『ギャァアァアアアアアァァァァァァァァァァああああぁあァァァァ!!』

口が奇声をあげて悶絶する。僕を押さえつける姿勢が崩れた。よし!

僕は何とか泥口の下から抜け出した。

フェッチ棒は投擲した主の元に戻ると、ゆっくりとその小さな手の中に納まった。

棒は青みがかった緑色の光を放っている。その棒を手ににしているのは…

「文ちゃん先輩!」

漆黒のマントを羽織ったわが愛しの魔女っ子…いや魔導師・文ちゃん先輩だった。

「志賀君。…あれだけ、ひとりで無茶はしないでっていったのに…」

「…えと…すみません。真打の出番まで間が持たなくて…」

「寄席の前座さんのお話はどうでもよろしいのです」

「…ごめんなさい」

「…お怪我はありませんか?」

「大丈夫…だと思います…それよりも、今は」

「…そうですね。キミへのお説教は後の楽しみにしておきます」

…楽しみ、でございますか。

文ちゃん先輩は、悶絶し続ける泥口…副部長をまっすぐに見つめた。

「倉澤さん…色々とごめんなさい。貴方がこんな姿になってしまったのも、元はと言えば私の慢心からです。本当に申し訳ないと思っています…」

でも、と、文ちゃん先輩は一度言葉を区切った。

その瞳に、強い決意が込められている。

ああ、この瞳なんだ。どんな時でもまっすぐに前を見つめるその瞳。

この瞳こそが鬼橋 文。僕が好きになった文ちゃん先輩の象徴なんだ。

「…でも、このまま貴方を放置させるわけにもゆきません…不幸の連鎖は、今、この私が、たった今断ち切ります!」

文ちゃん先輩は何か呪文の様な言葉を呟いた。意味は分からない。聞いた事もない異国の発音みたいだった。

言葉を重ねてゆくうちに、手にしたフェッチ棒が、さっきと同じ様に青みがかった緑色に輝いてゆく。

「…(ソウ)!」

文ちゃん先輩の掛け声と同時に、その手からフェッチ棒が飛び出した。

一直線に突き進んだフェッチ棒は、泥口の頭部の付け根付近に突き刺さった。

(バク)…!」

泥口の動きが止まる。まるで何かに雁字搦めにされたかの様に。

(ショク)…!」

フェッチ棒の突き刺さった所から、泥口の全身に無数の青緑色の光の筋が拡がってゆく。

「…(メツ)

最後の一言は、ほとんど囁く様な声だった。

泥口は両手を広げたまま、大の字になって倒れた。

その身体から、シュウシュウと煙が出ている。

…断末魔の声もなく、泥口は息絶えた。

それが、泥口という化物になってしまった哀れな倉澤由美子・美術部副部長の三度目の、そして今度こそ本当の不帰…最期だった。

彼女は、これで三度目の死を迎えたのだ…


「ふぅ…」

文ちゃん先輩の吐く息が白かった。

部室はすっかり冷え切っていたのだった。

部屋の中央には息絶えた泥口の死骸。

壁には、まだ意識を失ったままの部長が倒れていた。

「…文ちゃん先輩…」

「…志賀君…」

僕たちは見つめ合った。彼女の瞳に、大粒の涙が浮かんでいた

「文ちゃん先輩…泣いてます?」

「え…?」

文ちゃん先輩は、慌てて目を拭った。

「…泣いてますか、私?」

「泣いてます」

「…泣いているんですね、私」

「はい」

「…泣いてますよ。ええ、泣いてます…泣いてますったら!」

もはや涙を拭おうともしない。

「誰のせいで泣いていると思ってるんです!もう、馬鹿馬鹿馬鹿!」

そのまま、文ちゃん先輩は僕の胸に飛び込んできた。

僕は泣きじゃくる文ちゃん先輩の髪を撫でた。

もう一度、二人で倒れている倉澤副部長を見た。もう、ぴくりともしない。

「う…」

どうやら蒼木部長も気がついたらしい。

「大丈夫ですか?部長」

「…え…ああ志賀君か…」

よろよろと立ち上がる部長に、僕は手を貸した。

「…ありがとう…化物…は?」

「死にました」

「そうか…」

部長は、倒れている泥口…倉澤副部長の死骸…いや、遺体の側に寄った。

「…これは…倉澤君…なんだね…?」

「…はい」

「倉澤君…何でこんな姿に…僕の…せいなのか…」

僕は違います、と言いたかったけれど、その言葉は口から出てこなかった。

「…すまない倉澤君…僕は君の気持に応えてあげるのが、こんなにも遅くなってしまったね…本当にすまない…だけど、もう迷わないよ。僕も…君の事が好きだった。そばにいてくれる君が大好きだった…優柔不断な僕を許してくれ…」

蒼木部長は、副部長の手を握りしめた。

「…こんなに冷たくなっちゃったんだね…」

僕たちは、悲嘆にくれる部長の背中を、ただ見ているしかなかった。

僕と文ちゃん先輩は、お互いの気持ちを確認することができたけれど…蒼木部長と倉澤副部長は、その機会を永遠に失ってしまったのだ…


ひとつの恋がはじまり。

ひとつの恋が終わった。


ぴくん…!


…え?


部長の言葉に反応するかの様に、死んだはずの倉澤副部長の指が微かに動いた。

『…嬉しイ…デス…』

倉澤副部長、いや泥口はそう呟いて。

鎌首を上げて、蒼木部長の喉元に喰らいついたのだった。

ほんの一瞬の出来事だった。

泥口は最後の力を使い切ったのか、そのまま、今度は完全に息絶えた。

「部長!?」

僕たちは倒れた彼の元に駆け寄った。

「ひゅー…ひゅー…」

部長の口から血があふれる。声帯を食いちぎられたので声も出せない。口から漏れるのはただ笛の様な音だけだった。

でも。

部長は微笑んでいた。

穏やかな表情で笑っていたのだ。

そのまま、蒼木部長も動かなくなった。

「…あーあ。そこまで自分を責めなくてもいいのに。蒼木くんは真面目なんだから」

いつの間にやってきたのか、僕たちの後ろに鮎子先生が立っていた。

「…おねえちゃん…」

「…鮎子先生!…部長が!」

「分かってるって」

「…蒼木部長は…助かりますよね?…助けてくれるんですよね?」

「うーん…仕方ないなあ。まだ死んだばかりだし、まあ、何とかなるでしょ」

鮎子先生は、倒れている蒼木部長の血塗れの喉元に手を置いた。

あの時と同じ様に、見る間に瑕が塞がってゆく。…やはりカミサマだけの事はある。

「あ、そうだ鮎子先生」

「なぁに?」

「例の…『泥口菌(仮称)』は大丈夫でしょうか…?」

「分かってるよ。倉澤さんの時は、ばらばらの肉体をつなぎ合わせただけだったけど、今度は欠損した部分をゼロから再生してるから、そのナントカ菌が回らないと思うよ」

鮎子先生の口調はどこか面倒臭そうにも聞こえたけれど、今の僕たちには、その声がとても頼もしく思えたのだった。



 こうして、とある田舎の高校を舞台にした奇怪な恋愛譚は終わった。

ここから先は余禄の様な物だ。

だから、その後の諸事はごく簡単に記しておく。

惨憺たる有様となった美術室は、「カミサマ代行」の鮎子先生の力で見事に復旧した。

倉澤副部長の遺体も、鮎子先生が跡形もなく消し去った。どうやら、前に僕が泥口に襲われた時も同じ様にしてくれていたらしい。さすがはカミサマ。

何のかんの言っても、鮎子先生は面倒見のいい「おねえちゃん」ではあったのだ。彼女の事を慕う文ちゃん先輩の気持ちも分かる。…信仰の対象としてはどうかと思うけど。

 九死に一生を得た蒼木部長は、当日の事はまるで覚えていなかった。

ただ、この時から、彼の描く作風はまるで変ってしまっていた。

それまでの美しく繊細な筆致は消え失せ、その代わりにまるで抽象画の様な、筆を思うままに、デタラメに振り回してキャンバスに叩きつける様な、異様な作風になった。用いる色もばらばらで、それはまるで油絵具を美味そうに舐めていた、今は亡き倉澤副部長の、絵具に塗れた凄絶な姿を思い浮かべさせられた。

昔から彼の絵を知る人々は、部展で展示された彼の「新作」を見る度に、一様に首を傾げていた。「何があったのか?」と言う質問に、彼はただ虚ろな笑顔を向けるだけだった。

その後、春になって部長は、予定通りカナダに旅立っていった。

 部長が去り、本来なら倉澤副部長がその後任になるはずだった美術部部長の役職は、クラスメイトでもある室崎くんが受け継ぐ運びになった。彼もまだ1年生だけど、その実力は誰もが知る所なのだし、今後の部を立派に引っ張ってくれることだろう。

 倉澤副部長の作品は、彼女の「遺作」として、その在りし日の遺影と共に、数点が部展に展示された。夭折した少女の遺作はそれなりに話題になったみたいだ。中でも、おそらく部長をモデルにしたと思われる人物画は、彼女の悲恋に色々と尾ひれがついた形で注目を集めていたみたいだ。真実を知る者が限られていたので、彼女の死はとても儚く、美しい物に転換されている様だけれど、それでいいと思う。

 そんな倉澤副部長の絵のすぐ隣に、塚村さんのやたらとポップなイラストの数々が展示されているというのはいかがな物なのか。

いや、決して悪いわけではないし、塚村さんのイラストはプロ級だし、それはそれでいいのだろうけれど、もう少しだなあ…こう、雰囲気というか、余韻みたいな配置は何とかならなかったのだろうか?

 …そして僕はというと。

結局、クリスマスの約束は延期になった。あんな事件の後だもの、文ちゃん先輩も落ち込んでいたし、仕方ないか。

それから、僕も1枚の水彩画を描いて、部展に展示した。

それなりに自信作ではある。


1月半ばのよく晴れた日曜日の午後。

今日は僕と塚村さんが部展の受付当番だったので、僕たちは朝から高崎駅に付随する駅ビル内にある画廊にいた。

倉澤副部長の件もあって、部展にもそれなりにお客さんがやってきてくれてはいたけれど、

そろそろ客足も落ち着いた物になってきていた。

そんな日曜の午後。

受付とは言っても、別に何か特別な事をやるわけではない。来場者ノートへの記名をお願いしてパンフレットを渡して、「どうぞゆっくりとご覧ください」なんて声を掛けるくらいなのだ。けっこう閑職である。

画廊の中は間接照明で薄暗い。

これで、やる事だってさほどあるわけでもなければ…そりゃあ…目蓋だって重く…

「しがん。よだれでてる」

ついウトウトしてしまった僕は、塚村さんの一言で目が覚めた。

「…うそ?」

「うそじゃない。ださい。汚いからえんがちょする」

僕は慌てて、袖で口を拭った。

「…くす。それじゃあ袖も汚れちゃいますよ?はい、ハンカチです」

目の前に差し出された白いハンカチ。

視線を上に向けると、そこには文ちゃん先輩が笑顔で立っていた。

「あ…ども」

僕は受け取ったハンカチで口元を拭いた。何だかとてもいい香りがした。

「ひゅーひゅー」

そんな僕を塚村さんが囃し立てる…のはいいのだが、無表情でただ「ひゅーひゅー」と言っているだけなのは、果たして囃し立てる部類に入れてよいのかどうか。

「絵、また描いたんですね」

文ちゃん先輩が微笑む…あれ?

…今日は私服だ。

これまでは、うちの制服姿しか見た事がなかった文ちゃん先輩の、初めての私服姿を見てしまった。

今日の彼女は白いコートを羽織っていた。肩から下げた小さな白い革のポシェット。それに長い髪の上には、これまた白いベレー帽を乗せていた。

…可愛い。今まで文ちゃん先輩は「黒」のイメージが強かったけれど、今の姿を見てしまっては、認識を改める必要がある。

「…あんまり、見つめないでくださいよぉ」

文ちゃん先輩は頬を赤らめた。

「ひゅーひゅーひゅー」

塚村さんの「ひゅー」がひとつ増えた。グレードアップなのだろうか?

「…ええっと、文ちゃん先輩。今日はよく来てくださいました。どうぞごゆっくりしていってご観覧してくださって…あれ?、ええっと…」

「しがん。噛んだ」

「うるさいよまったく」

「くすくす」

ああもう、調子が狂うなあ。

「…しがん。ここはいい。後の事はまかせて、会長どのをご案内してさしあげるのがよろしいと存ずるが、いかがであろ?」

あ…塚村さんありがとう。気を遣ってくれたのかな?

塚村さんは、無表情のままビシッ!と拳を突き出した。

…おい。親指が人差し指と中指の間に挟まってるぞ。…意味分かってんのか?

「…!」

文ちゃん先輩も、思わず顔を赤らめて口元を押さえた。

「ふ・ふ・ふ・ふ・ふ」

不気味に笑う塚村いのり嬢。やはり侮れない。

「え…ええと、じゃあご案内しますね。どうぞご一緒に」

「あ…はい」

僕は文ちゃん先輩の背中を押す様にしてその場を離れた。

「…凄い人ですね、彼女」

「…僕もいまだによく分かりません…何考えてるんだあいつは」

「くすくす」

僕は文ちゃん先輩を案内して回った。

途中、倉澤副部長のコーナーでは、彼女はしばらく無言で佇んでいた。

その場を去る時、文ちゃん先輩は倉澤副部長の遺影に黙祷を捧げていた。

「…志賀君の作品はどちらですか?」

「あ…こっちです」

文ちゃん先輩を僕の作品の前に案内する。


僕の作品は1枚の水彩画だった。

鬱蒼とした森の中で、ギターを手にした一人の吟遊詩人が、一本の樹を見上げている。

その樹の枝の上には、黒いマントを羽織った小さな少女が腰掛けていて、彼に向かって何かを囁いている。

少女は夢見る様な表情をしていたけれど、その瞳には涙を浮かべている…そんな構図を描いてみた。

今の僕の想いを、この絵に染み込ませてみたんだ。

その題名は…

「『スカボロー・フェア/詠唱』…ですか。意味深い作品名ですね」


 今日の展示時間が終わった。まだ週明けの月曜まで展示が続くので、今日は片付けもなく、そのまま帰宅できる。

お疲れ様でしたー!と画廊のオーナーさんに挨拶をしてお店の外に出ると、文ちゃん先輩が待っていてくれた。

あれ?もう帰ったかと思ったんだけどな…

「志賀君。お疲れ様でした。…この後、何かご予定でもありますか?」

「あ、いえ。これといっては」

「じゃあ、延期になっていたお食事会でもご一緒しませんか?…と言っても、予約もしてなかったので、あまり大したお店には行けませんけれど」

「あ、いいですね!」

反対する理由など、これっぽっちもなかった。

休日の夕方という事もあって、どこのお店もけっこう混雑していた。駅ビルの中を色々と歩き回った挙句、一階の場末にあるハンバーガー・ショップくらいしか空いている席がなかったので、僕たちは結局そこに落ち着く事にした。

「…すみません志賀君。できればもう少しゆっくりできるお店がよかったのですが…」

「そんな…いいんですよ。文ちゃん先輩と一緒なら、僕はどこでも」

僕はいただきます、と目の前のハンバーガーを頬張った。

…そうだよ。文ちゃん先輩と一緒なら、どこの料理だって御馳走なんだよな。

向かいの席では彼女が、小さな可愛らしい口でもぐもぐとハンバーガーを食べている。

何だかいいなあ…こういうのも。

食事を終えて、ホットコーヒーを喉に流し込んだ後。

「…ね、志賀君。ちょっとお聞きしたいのですが…」

と、文ちゃん先輩が切り出してきた。

「…何でしょうか?」

「うーん…ちょっと、お食事の時にする様な話題ではないと思うのですけれど…」

「あはは。構いませんよ」

「じゃあ…お言葉に甘えさせていただいちゃいますね」

「どうぞどうぞ」

「その…倉澤さん…」

…え?

「倉澤さんが最期に部長さんに噛みついたのは・・・どうしてだと思います?」

「え…それって、やっぱり最期まで泥口としての貪欲な食欲があって…」

「…私は違うと思うんです」

「…どういう…意味でしょうか…」

「あれは…泥口となってしまった彼女の…その…彼女なりの最大の愛情表現だったのではではないか…って…」

「…愛情表現…ですか…」

倉澤副部長は、たしかに蒼木部長を愛していた。告白の返事を待っていた。

だけど返事をもらう前に、彼女は命を落としてしまった。

異形の姿になってしまった彼女だけど、それでも最期の最後で彼女が求めていた「答」を得る事ができたのだ。

嬉しかったんだろうなあ…副部長。

その愛情表現が、「泥口」としての愛情表現が…彼を喰らう事だったのだろうか。

「…女の子って…怖いんですね…」

「ええ。そうですよ。…今の私には分かります。とっても怖いんですよ?恋をした女の子って」

僕の目の前の小柄な少女は、そう言って微笑んだのだった。




逢魔が刻の深淵挽歌キャンティクル


2015.2.13 16:42脱稿

2015.6.16 23:06改稿

瑚乃場 茅郎:著

どうも。瑚乃場茅郎です。

いかがでしたでしょうか?

思いのほか長編となってしまいましたが、義治と文ちゃん先輩、そして鮎子先生の物語はまだまだ続きます。

次回作は・・・春先にはお届けしたいところですが・・・はてさて。

題名だけは決まってます(笑)

「疾風怒濤の鉄血宰相アイアンメイデン」。

今度は文ちゃん先輩視点の物語でございます。

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