中編 鮎子先生のアドバイス
12
絵が描けないまま3日が過ぎた。
北側校舎3階にある美術室に向かう僕の足も、日に日に重い物になっていった。
…入部した時は、まさかこんなプレッシャーを抱え込むなんて夢にも思わなかったわ。
その日、掃除当番で南側校舎1階の職員室周りのゴミを片付けた僕は、よく働いてくれない頭でとぼとぼと廊下を歩いていたのだけど。
むにゅ。
…いきなり、顔に柔らかくて温かい感触を覚えた。ん?何だろうと、その柔らかな感触の元に手を触れて、少し押してみた。
うん。柔らかい。触っていると何だか幸せな気持ちになる。
それどころか懐かしささえ覚えてしまうこの感触は何だろう。
ちょっと力を入れてみた。
「あん」
…?
聞き覚えのある様な声。
…念のために、もうちょっとだけ押してみる。
「あぁん」
…幸せな気持ちは、一瞬にして嫌な予感へと変わった。
伸ばした自分の手の先を見てみる。
その先には白いセーターがあって。
柔らかなセーターの毛糸の感触の中に、それよりもずっと柔らかな膨らみ…それはそれは柔らかな膨らみを感じた。感じてしまったのだ。
「あらあらあら。志賀くんって大胆ね」
そこには、くすくすと笑う鮎子先生の笑顔があった。
「…☆×△■!!!!」
硬直。
僕の両手は、鮎子先生の豊かな胸に添えられた形で固まっている。
一瞬にして頭の中が真っ白になってしまった。
「…あ…あのこれ、これはその…」
言葉も出ない。
「くすくすくす」
対する鮎子先生はまったく動じた素振りもない。
こ…これが大人の女性の余裕という物だろうか…?
混乱する頭の中では、同時に「…やっぱ文ちゃん先輩より大きいな」なんて、妙に冷静な分析もしていたけど。
「…やっぱ文ちゃんより大きいと思った?」
と、鮎子先生は、まるで…というよりも完全に僕の心の中を見透かしたお言葉を下されたのでした。
「ああああああああ」
「…あ?」
「ああああのののの、すっ、すみませんっ!」
土下座せんばかりの勢いで平謝りの僕。
その時になってやっと、僕はまだ鮎子先生の胸を掴んでいたままでいたことに気づいて、慌てて手を放したのだった。
「どう?気持ちよかった?」
はいそれはもちろん言うまでもなく…ではなくて。
「すみませんすみませんすみません…いてっ!!」
焦りからくる早口のあまりに、舌を噛んでしまった。
「いくら何でも、自ら舌を噛むほど罪の意識を感じることじゃないよ?」
さもおかしそうに、くすくす笑う鮎子先生。
「…ひゅみむぁしぇん…」
舌が痛くて呂律が回らない。口元を抑えてそんな情けない言葉を発するのがやっとだった。
「うふふ。まぁわざとじゃないみたいだし。…口、大丈夫?」
言われて口元を抑えてみると、ほんの少し血が出ていた。道理で痛いわけだ。
「…あーあ。それは痛いよね。保健室においでなさいな。消毒してあげるから」
何と。
以前はあれだけ縁遠いと思っていた憧れの聖域へのご招待を、今まさに、しかも女神様ご本人(ご本尊か?)自らのお誘いと言う最高の形で実現しようとは。
まあ、鮎子先生にここへ呼ばれたのはこれで2回目だけど、前の時は文ちゃん先輩から逃げようとしていた矢先の事だったし、その後すぐに文ちゃん先輩にしょっ引かれちゃったしで、感慨にふけるゆとりもなかったしなあ。
…人生、どこで何があるか分からないものだ。
おまけに思いもよらぬ幸せな感触まで堪能できて…あ、いやいや。
ついさっきまでの悩みはどこへやら、僕は少々舞い上がった心境で鮎子先生について保健室に向かったのだった。
「…はい。あーん。ちょっとしみるけど、男の子はがまんがまん」
鮎子先生は消毒薬を浸した脱脂綿をピンセットでつまんで、僕の口を消毒してくれた。
ひゃー…ホントにしみるわコレ。
それにしても、鮎子先生って、こうしてみるとやっぱ養護の先生なんだなあ。何というか、
こういった仕草が実に自然なんだよな。
口内の消毒を終えると、鮎子先生は「せっかくだから、お茶でも飲んでく?」なんて言ってくれた。
「え?消毒した直後で、いいんですか?」と僕。
「え?だめなの?」と鮎子先生。
…前言撤回。そこは疑問形で返さないでください。
「ま、きっと大丈夫よ。それにお茶には殺菌効果があるし」
「それもそう…そうかもしれませんけど」
「少なくても、雑菌が体中に回って長期入院…なんてことにはならないでしょ」
…そういうのは想像したくありません。
鮎子先生はちょっと待っててね、と言うと保健室に備え付けの流し台に向いた。
電気式のポットに水を汲み、お湯を沸かして。
四角くて黄色い缶から葉を出して、洋風のポットに入れて沸かしたてのお湯を差す。
しばらくすると、とってもいい香りが漂ってきた。
あれ…?この香りは?
僕の前に差し出されたティーカップ。
ありゃ。緑茶かと思ってたのだけど、紅茶でしたか。
「いい…香りですね」
「うん。アールグレイ。美味しいよ」
へー、アールグレイっていうのか。名前くらいは聞いた事があるけど、これがそうなのか。
ひと口、含んでみる。
柑橘系の香りと風味が口内に拡がった。
消毒したばかりの傷口にはちょっとしみたけど、うん、たしかに美味しいや。
「美味しい。…不思議な味ですね」
「でしょ?体にもいいのよ」
「へえ。たしかにそんな気もしそうな味ですよね。どんな効能があるんですか?」
「…えっとね、『精神安定、ホルモンのバランス調整にストレス軽減』だって。ふーん」
缶に書いていある説明文を読み上げながら感心して頷く鮎子先生。
「…今知ったみたいですね」
「うん。ひとつ勉強になっちゃったね。くすくす」
ちっとも悪びれた風もない。さすがは鮎子先生。
事務机を挟んで向かいあったまま、僕たちは笑った。
ティーカップから立ち上る湯気越しにゆらめく鮎子先生の笑顔。
「…ところで志賀くん?」
「はい?」
「志賀くんは、どうしてさっきはあんなに深刻な顔をしてたの?」
「僕…そんな顔してました?」
「うん。してたよ。見てるこっちも、『あれ?もうこの世の終わりがきちゃうのかなー』って気がしちゃうくらい?」
「1999年はまだ先ですよ」と苦笑いする僕。
「え?…ああ、あのウルトラなんとかの予言?わたし、そんな予定ないけど?」
…予定?何の事だろう。ま、いいか。
「…ノストラダムス、です」
昔のフランスだかどこかの医者が言ったという予言。何でも西暦1999年の7月には、人類は滅亡してしまうのだそうだ。生きていればその頃、僕は30代前半になる。まだまだ先の事にも思えるけど、30歳ちょっとで死ぬのは嫌だなあ。結婚もしているだろうし、もしかしたら子供だって…と、なぜか文ちゃん先輩みたいな子供の顔が浮かんだ。
思わず赤面してしまう僕。
鮎子先生は、そんな僕の顔をじーと見ると、
「うふふ。今、文ちゃんの事を考えたでしょ?」
と、悪戯っぽく微笑んだ。
「…!?」
この人は、ノストラダムス云々の会話から、何でそこまで見抜いてしまうんだ?
「…そっ、そんなコトないですっ!」
「えー、そうかなあ?。今、志賀くんの顔には『文ちゃんの子供のパパになりたい』って書いてあった気がしたんだけどなー」
「違いますよぉ」
あああ、一瞬でもそんなコトを連想してしまった自分が恥ずかしい。
「…でも残念ね。文ちゃんは…」
え?…残念?どういうことだ?
もしかして文ちゃん先輩にはもう婚約者とかいるとか…?
…考えられなくもない。どうやら文ちゃん先輩の家もけっこう格式ある家柄みたいだし、高校を卒業したら、すぐに嫁ぎ先が決まっているのかもしれない。
「…あ、婚約者とかの話じゃないよ?」
またもや僕の心の内を見透かしたかのように鮎子先生。
「文ちゃんはね、まだフリー。初恋だってしたことないんじゃない?」
なぜかほっとしてしまう僕。
「強いてあげるなら…志賀くん?」
「はい?」
「今の文ちゃんの一番近くにいる男の子はね、たぶん君」
え…えええ…?
嬉しい様な気恥ずかしい様な、知らず知らずのうちに地雷原に踏み込んでしまった時の様な…。
いきなりな事を言われて、僕は混乱してしまった。
た…たしかにここ数日、出会ってからは文ちゃん先輩とは色々と話もしたし、お互いの心の内も晒しあった。
それに…あの華奢な身体も抱きしめた…いや、あれは抱きしめられたと言った方が正解だけど…
でも、僕が文ちゃん先輩という人を、「一人の女性」として意識しているのかどうかは自分でもまだ分からない。
尊敬。畏敬。ほんのちょっとだけ…畏怖。
性格も人格も学力も包容力も…どれをとっても僕なんかとは釣り合いそうもないし。
「志賀くん。前に君がここに来た時に、私がした質問を覚えてる?」
…覚えてます。
『志賀くんは、文ちゃんみたいな子は苦手?嫌い?』
あの時、鮎子先生はそう聞いてきたんだ。
「あの時、君は首を振ってただけだよね。イエスでもノーでもなく」
「…はい」
「でも今、私が文ちゃんの名前を口にしたら、否定しながらも慌ててる。顔も赤くなった」
「…」
「…君の中で文ちゃんは、あの時よりもずっと大きな存在になってるんじゃないかな?」
「そうでしょうか?」
「うん。人ってね、意識してるからこそ慌てたり焦ったりするものだから」
「…意識してるからこそ…」
「そ」
鮎子先生は、アールグレイをひと口飲んで頷いた。
なるほど。男子はともかく、女子も鮎子の所に色々と相談を持ちかけてくるというのも分かる気がするな。
鮎子先生の持つ雰囲気と、相手の心の内を的確に見抜いてしまう洞察力?みたいな物は、悩み多き僕たち高校生にとっては、ある意味で天の声みたいに思えてしまうこともあるだろう。少なくとも、今の僕はそう思った。
それはそれとして。
さっき鮎子先生が口走った「残念」って言葉が気になってしまう。
…これも「意識している」からなのだろうか?
気になったので、僕は鮎子先生に質問してみたのだが。
「人のプライバシーは教えてあげません」
と、やんわり拒否されてしまったのだった。
「でもね志賀くん」
「はい?」
「意識してるのは君だけじゃないよ。文ちゃんも、君の事が気になってると思う」
「…」
こういう時、僕は一体どんな事を言えばいいのだろう。
生まれて16年。今まで恋愛とかいった事とはまるで縁遠かった自分の人生が恨めしい。
いやそもそも、「意識している」と「恋愛感情」という物は、単純にイコールで結んでよい物なのだろうか?
…そんな難問の答えを見出すには、僕はまだ人生の経験値がまるで不足していた。
「文ちゃんの話になっちゃったね。話題がれちゃった。今は君の悩みを聞かせてもらうつもりだったのに。ごめんね?」
またもや深刻な顔になってしまったであろう僕を気遣ってくれたのか、鮎子先生は急に話題を変えてくれたみたいだ。
「あ、いいんです。何だか気持ちも楽になってきましたし」
「アールグレイの効果が出てきたのかな?」
鮎子先生はそう言って笑ったけど、気持ちが晴れてきたのも本当だ。
それは紅茶よりも、この先生の微笑みの効果の方がずっと大きかったと思う。
僕は改めて、ここ数日頭を悩ませている絵のモチーフの事を口にしてみた。
「…結局、全然描けないんです。描いても気に入らなかったり、薄っぺらな物を、ただ線でなぞっているだけの様な気がして」
僕の話を、鮎子先生はただ目を閉じて聞いてくれていた。
「自分でも、何を描いたらいいのか、まるで思いつかないですし…」
しばらく沈黙した後で、鮎子先生はおもむろに口を開いた。
「…志賀くん。志賀くんは心が震えた事がある?」
え…「心の震え」?
前に、文ちゃん先輩もおんなじ事を言ってたっけ。
「人生ってね、それまで自分がやってきたこと、経験してきたことすべての積み重ねでできてるの。…いい経験も、悪い経験も、そのどれもが一人の人間の根幹になってる」
「根幹…ですか」
「そ、根幹。おおもと。言い換えればその人というカタチを作ってる『芯』みたいな物」
「芯…」
「でもね、それだけじゃ『ヒト』は『人』とは言えないの。人間は『感情』って物も持ってるから。…この感情という奴がとーっても厄介」
「どうしてですか?」
「感情は、人間の持っている物の中で、いちばんコントロールの難しい物だからね。いつも暴れださないように見張ってなければならない」
「はい」
「その感情をコントロールする役目を持っているのが…『心』」
コントロール、かあ…
…そういえば『平常心』『自制心』。『心配』『安心』…。
言われてみれば、『心』って文字のつく言葉には、どこか抑制を連想させるような物も多い様な気がする。
「『心』はね、そういった厄介な感情をしまっておくための物置でもあるし、外に飛び出さないように防ぐための壁でもある」
…なるほど…そういった意味でも、「文ちゃん先輩」という人は凄いんだ。「鉄血宰相」とはよく言ったものだと感心する。彼女の「心」にはかなり分厚い鋼鉄の壁に、自由に調節できる蛇口でも付いているのだろうか。
…でも、最近の文ちゃん先輩の壁って、何だかちょっと脆くなってきてるのかな?所々に綻びができて、いつもは見えることのない彼女の内面がにじみ出てきてしまっている様な気もしてしまう。
鮎子先生は続けた。
「…でもね志賀くん。その『心』が不安定になると、本来はしまっておかなくてはいけない『感情』が、些細なきっかけで外に出てしまうことがあるの」
「不安定って…心が震えた時のこと、ですか」
「そう。心が震えた時、心の一番奥底にしまっておいた感情がにじみ出ちゃうの。喜び。怒り。悲しみ。感動。…それに楽しさ、とか」
あ、そうか。だから「顔に『出る』」とか「感情を『顕わにする』なんて言葉があるんだ。
「…強い感情ほど、外に出やすいですしね?」
「そうそう。そこで関わってくるのが、さっき言った『根幹』の部分」
「どういう…ことです?」
「一度外に出てしまった感情…特に強い感情ほど、よくも悪くも他の人に何がしかの影響を与えちゃうよね?」
「はい…よく分かります…」
僕はそれで、先日文ちゃん先輩に醜態を晒してしまった。
「でも、時にはそれが『武器』にもなるって気づいてた?」
…どういうことだろう?
「コントロールの難しい『感情』をうまく抑制する手段は、何も『心』だけじゃないってこと…実は、ね。人がそれまでの経験から得た積み重ね…人の『根幹』の部分を『感情』にくっつけちゃってもいいのよ」
「…難しそうですね」
「そうでもないよ?たとえば、芸術家とか作家なんて人たちがやってるのは、そういう事だもの」
「芸術家…?」
「芸術家とか作家って、自分の中にある『感情』を、『作品』というカタチに昇華できる人の事を言うのよ。感情を「作品」と言うカタチで表現させちゃうの」
鮎子先生は、いつもの笑顔でそう言った。だけど僕にはやはり難しそうだ。
僕にはそんな、自分の感情をカタチに変えるなんて芸当はできない。今まさにそれで困っているのだし…
「そうかな?」
「そうですよ…」
「私、そうは思わないなー」
「どうして、ですか?」
「だって私、君の弾くギター好きだもの」
鮎子先生は、僕の予想もしていない様な事を言った。
「君がいつも屋上で弾いてたギター、すごく気に入ってるもの」
「…そ…そうですか?」
「毎日屋上から聞こえてくるギターの音で、あ、志賀くん今日は何かいいことあったかな?とか今日は落ち込んでるなーとか分かったもの」
「…そんなに分かるものですか?」
「うん。すっごく出てたよ、君の気持ち。毎日の放課後、君が何を弾いてくれるのか楽しみだったよ」
…そこまで言われると、さすがに嬉しい。
「君だって、心の震えをカタチにして表現させる方法はちゃあんと持ってると思うよ?
ただ、ギターでやってることが、絵ではできなかっただけ」
「…分かる様な気がします。でも、じゃあ絵で表現させるにはどうしたらいいでしょうか?」
そうだ。そこが一番の問題なんだ。
鮎子先生はうーん…そうねぇ…としばし考えてから、
「…『逆転の発想』、なんてどうかな?」と申されたのだった。
13
その夜。
鮎子先生からいただいたアドバイスを、僕なりに一晩じっくりと考えてみたりもした。
先生はこう言ったのだ。
『ギターで表現できるのは、君が今までずっとギターを手にして練習してきたからよ。君は意識しなくても、自然に自分の感情をギターの音に変えて表現できるだけの経験を積んできたの。でも、絵はそんなに描いてこなかったでしょ?まだまだ経験値が足りないし、そういった事が一朝一夕にはできない事は、ギターやってて十分に分かってきているよね?』
…なるほど。自分の好きなギターの事に置き換えてみると分かりやすいな。
で、鮎子先生が言った『逆転の発想』という奴はこういうことだった。
『君はまだ、自分の感情を表現できるほどの絵の経験がないよね?つまり感情を絵という手段でうまくコントロールできてない。だったら…』
だったら?
『だったら、心が震えてにじみ出てくる様な強い感情、コントロールできない様な感情の方を、そっくりそのまま描いちゃえばいいんじゃないかな?技術とか経験とかは一切無視して、ね。…嬉しい、楽しい、悲しい、辛い。怖い恐ろしい。そんな気持ちを思い出して、それを形振り構わず白い紙にぶつけちゃえ!コントロールしようなんて、あえて思わなければいいんじゃない?』
…いやはや。何とまあ、強引な手段ですか。
鮎子先生は、テクニックとか画法なんてのは無視しちゃえと、こう仰っているのだ。
…上手く描こう、いい絵を描こうと思うこと自体が間違っているということか。
考えてみれば、春に軽い気持ちで美術部に入部してみたものの、周囲の真面目な部員たちはみんな、絵に対して真剣に取り組んでいた。
正直、あまり絵に対して思い入れもなかった僕は、あっという間に取り残されてしまっていたんだ。
右を見れば蒼木部長の素晴らしい風景画があった。
左には倉澤副部長の躍動感あふれる人物画。
同級生の室崎くんの描く静物画だって見入ってしまう様な美しさがあったし、他の部員たちの誰もが描く絵には、どれも僕みたいな軽い気持ちじゃ到底太刀打ちできないくらい真剣な「積み重ね」が感じ取れていた。
それが僕にはなかったんだ。
…居心地が悪くなるというのも当たり前じゃないか。
すべては浅はかな自分が招いた、間抜けな結果に過ぎない。
それが僕を「不対電子」にしてしまった原因だ。
しかし部展には僕も出展する義務がある。どうにかして絵を仕上げなくてはならない。
僕は考える。
僕の心が震える様な感情…。
最近思い当たるのは…やっぱ「アレ」、だよなあ…
夢にまで見た、あの大口の化物。
あんな、心の底から恐ろしいと感じたことは他にない。
正直、発狂しなかったのが不思議なくらいだ。
…もしかして、僕ってば意外にタフなのかな?とも考えたけど。
同時に、僕がアレを思い出しておかしくなりかけた時、必死に僕を抱きしめてくれていた文ちゃん先輩のことも思い出してしまった。
…あの時、彼女は何かつぶやいていた。
何て言ったのかは覚えていない・・・というか、その言葉自体が理解できていなかった。
たぶん日本語でもなかったのだろう。何かのおまじないとか?…はは、まさか。
どうしても彼女のファースト・インプレッション、「黒いマントととんがり帽子」という魔女っ子のイメージが尾を引いてしまうんだよなあ。
イメージすればするほど、その恰好がサマになってる様な気がしてしまう。
マントを翻らせて、腕を組んでわははははと高らかに笑う文ちゃん先輩。
夜の校舎屋上で、満月をバックに立っていたりするとなおよろしい。
でも無敵の魔女っ子文ちゃんには、誰にも見せない可愛らしい所もあるんだ。それを知っているのはこの僕だけと言う優越感…優越感?
鮎子先生の言ってた様に、ここ数日で、僕は文ちゃん先輩という存在を大きく意識しはじめているのは間違いなかった。
色々な事が頭の中をぐるぐるよぎっていて、ベッドの中に潜り込んだものの、興奮気味で寝つけやしない。
しばらく悶々としたままでいたけれど、僕はとうとう耐え切れなくなってベッドから這いだした。
音楽でも聴いて気を紛らわそうとも思ったけれど、もう午前1時を回っていて、さすがにオーディオを鳴らすわけにもゆかない。そんな事したらすぐに親父がとんでくる。
ギターもおんなじだ。僕の得意とするのはコード・ストロークよりもアルペジオなので、別にジャカジャカかき鳴らすというわけでもないから、多少は静かなはずだ。でも、鮎子先生も言ってくれた様に、僕はたぶん、感情をギターで表現することはそれなりにできるのだろう。
それだけに、こんな昂ぶった状態でギターを弾いたりしたら、それはそれは情熱的な演奏になってしまうに違いなかった。
そうなれば、やっぱ親父がとんでくる…よなあ。
…本来ならば、こういう時こそ感情の赴くままにギターを弾いてみればいいのだろうけど…こういう時、実家暮らしは厄介だよなあ。
…もっとも一人暮らしだとしても、ご近所迷惑になるのはあんまり変わらないか。
そんな気持ちでいたから、いっそう目が冴えてしまった。
時計を見れば、もう午前2時になろうとしている。
その時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえたりもする。
冬の夜のひんやりした、それでいてやたらと乾燥した空気。
師走初めの夜は、嫌になるくらい永く感じたのだった。
何とか微睡を覚えてきたのは、新聞配達のバイクの音が聞こえてくる様な頃合だった。
まどろみはじめた頭で最後に覚えていたのは、泣き出しそうな文ちゃん先輩の顔。
目が覚めたのは午前7時頃。いつもより少しだけ遅い時間だった。
洗面所に向かい、鏡に映った己の、見事にクマのできた顔をまじまじと見る。
…酷い顔してるなあ、僕ぁ。
顔を洗って茶の間に顔を出す。
ウチには父の趣味で、それなりに大きな長火鉢がある。父は毎朝5時くらいには起きて、この長火鉢に炭をくべ、自慢の南部鉄の鉄瓶でお湯を沸かすのが日課だった。
「…親父、おはよ」
「ん」
竹筒を吹いて火の具合を見ていた父は、僕の情けない顔を見て眠れなかったのか?と聞いてきた。
「うん…あんまり」
「じゃあ、まずお茶でも飲め」
と、父は鉄瓶のお湯を湯冷ましに注ぐ。
これでしばらく温度を下げてから、そのお湯を急須に注ぐのだけれど、それからさらに時間をかけて十分に葉を開かせてから湯呑に注ぐ。
ここまででおよそ3分間以上の時間がある。
父が言うのは「こうしないとお茶の渋みが取れない」のだという。
「お茶は渋い物」だと思うなかれ。父の言葉だけど「お茶は本当は甘味のある物だ」とか。
実際、父が淹れてくれるお茶はほんのりと甘みがあって美味しかった。味が渋くなるのは温度が高過ぎるうちに淹れてしまうからなのだそうな。
父は「それじゃあお茶の美味さは分からない」とも言っていた。
昨日、鮎子先生が淹れてくれたアールグレイも美味しかったけど、父の緑茶もそれに負けてはいないと思う。
お茶にやたらと一家言ある父は、茶葉にもこだわりがあった。
父が好んだのは、高崎市内にある、創業百年を超える老舗のお店の物だった。
子供の頃に父に連れられて、そのお店に行ったことがある。そこではお客さんに必ず一杯、お茶を淹れて振る舞ってくれるのだけど、そのお店で飲んだお茶よりも、家で父が普段淹れてくれる方がずっと美味しくて驚いたことがあった。
それだけこだわりのある父がお茶を淹れてくれるまでの間には、僕はまたウトウトしはじめてしまったけれど。
コト、という小さな音で目が覚めた。
いつの間にか、目の前に愛用の湯呑が置かれていた。
まだぼやけた頭でお茶をいただく。
ややぬるめで、深みのある甘さが口に拡がった。
そのまま喉元に流れ込んでくる風味が心地よかったので、もう1杯を所望させてもらった。
2杯目がお腹を温めてくれた頃には、僕の頭もだいぶすっきりしてきてくれた。
・・・まあ、いろいろ考えても仕方ない。ひとつひとつ、じっくりと立ち向かっていって、片をつけてゆこう。
今はとにかく、試練の時。
鮎子先生の言葉を借りれば、「人の根幹は、自分がそれまでやってきたこと、経験してきたことすべての積み重ねでできている」のだから。
…色々な経験を積み重ねて積み重ねて、いずれは文ちゃん先輩みたいに強くなろう。
僕が今現在、文ちゃん先輩に抱いているのは恋愛感情とかではなく、「憧れ」という物に近いのかもしれなかった。
「憧れは憧れであって憧れ以上の物ではなくしょせんは憧れに過ぎない」というのが僕のシニカルな持論だけど、彼女に対する「憧れ」だけは、憧れで終わらせたくはなかった。
…じゃあそれはやっぱ「憧れ」という物とは違うのか?。まだよく分からない。
掘り炬燵の温もりに浸りながら、まだぽーっとした頭でそんな事を漠然と考えていた僕は、父の「お茶が冷めるぞ」という声で我に返った。
見れば、目の前の湯呑にまたお茶が差してあった。
愛用の備前焼の湯呑の、素焼きに火襷の跡がやけに目についた。
駆けつけ3杯目だ。
朝の茶一杯、難逃れ。
朝茶は七里戻っても飲め。
お茶の効能をうたった言葉は古くからあるけど、少なくとも、目が覚めたのは間違いない。
朝食を済ませ、学校へ。
実はコールタールもどきに出くわした後、翌週の月曜の朝以来、僕はあの現場を通るのが怖くなってしまい、ずっと新幹線の側道を避けていた。
一応、通学路の変更届を学校側に提出していたけれど、受理されたかどうかは知らない。
あのコースを迂回した結果、学校までの距離も時間も増えてしまったのが厄介だった。
新幹線の側道を通ればまだ直線に近いのだけど、これを避けるとなると、県道を通って大きく迂回した、半円形みたいなコースになってしまうのだ。
それまでは自転車でおおよそ30分くらいで行けたわが学び舎も、こっちだとそれより15分以上も時間を取られてしまう。おまけにこっちの道はけっこう起伏も激しい。
これはきつい。あんなことがなければ、わざわざこんなコースなんか選ばないのだけど。
とりわけ今日は寝坊したこともあって、校門にたどり着いたのはチャイムが鳴るほんの5分前になってしまったのだった。
ウチの校則では、校門を抜ける時には自転車から降りなくてはならないことになってる。
何でも以前、今日の僕の様に遅刻寸前で慌てていた自転車通学者が、徒歩でやってきた生徒と接触事故を起こして問題になってしまった事があったらしい。
そんなわけで、僕は自転車を押しながら校門を抜けた。
付近には遅刻者をチェックする週番たちに交じって、文ちゃん先輩の姿も見えた。
彼女は自転車を押している僕の姿に気づいたのか、こちらに走ってきた。
「おはよう志賀君。いつも早いキミが、今日は珍しいですね。お休みかと思いました」
そう言いながら、文ちゃん先輩ははぁ、と白い息を吐いた。
心なしか、その口元が笑っている様にも見える。
…僕を気にかけてくれているのかな?そう思ったら昨日の鮎子先生の言葉を思い出してしまい、ちょっと顔が赤くなってしまった。
「い…いえ、たまたま寝坊しちゃいまして…」
「また遅くまでギターを弾いていたのでしょうか。いくら試験が終わったからといっても、夜更かししてまで趣味に没頭するのはどうかと思いますよ?身体を壊してしまいます」
…何でだろう。彼女の口調はあまり変わっていないのに、なぜかその言葉が優しい物に聞こえてしまう。
「あはは。そういうわけでもないんですけどね」
「キミは何かに没頭すると、周りが見えなくなってしまうのが悪癖です」
うーむ。そういう文ちゃん先輩も、けっこうそういう所あると思うけどなあ。
「…志賀君?」
「はい?何でしょう」
「ちょっと屈んでくれませんか」
いきなり何を言い出すのだろうと思いつつ、僕がちょっと腰を低くすると、
「・・・思っていることが口に出てしまうのもよくないですよ?」
そう言いながら、文ちゃん先輩は自分の人差し指を、僕の唇に軽く押し当てた。
あ。なるほど。そうしないと手が届かなかったのか。
それでも、まだちょっと爪先立ちになってる。ちっちゃいなあ。
「へ…?今の出てました?また?」
「また、です。気をつけてください」
僕たちは顔を見合わせて笑った。
「…それに、私はまだキミからの『おはよう』もいただいてません」
「あ、いけね。おはようございます、文ちゃん先輩」
僕は慌てて頭を下げた。
「挨拶を受けたら、きちんと返礼するのが礼儀という物です。…あと文ちゃん先輩って、あんまり呼ばないでください」
ここでまた談笑。後半の一言は、もはや彼女の僕に対する条件反射みたいになってきているものなあ。漫才か何かだったら、コンビの定番ネタみたいなやりとりになってしまっている。それはすでにお互いに自覚しているレベルの模様。
他の大多数の生徒は、「鉄血宰相」としての彼女の顔しか知らないのだろう。こうして下級生と屈託ない笑顔で話している彼女の姿を見る周囲の生徒たちの表情は、一様に驚いた様な物になっている。
…ここでもまた「実は意外に気さくな鉄血宰相」なんて伝説ができちゃうんだろうな。
一挙一投足が伝説になる女。
天性のスター性とカリスマを持つ女。それが文ちゃん先輩。
先に退団した、長嶋茂雄・元巨人軍監督みたいなものか。
…野球にゃあまり詳しくないけど。
先の「出来の悪い後輩再教育」に続く彼女の伝説に、自分が関わっているというのは何だか嬉しくなる。
つい先日までは、この「文ちゃん伝説」においては「その他大勢」とか「生徒A」に過ぎなかった僕だけど、誰も知らない…ただし鮎子先生は除く…彼女の素の部分を、今ではとても身近な物に感じてしまう。
と、そこに。
「おはよう志賀君!絵の方は進んでる?」
元気な声がした。倉澤副部長だった。
朝から爽やかな笑顔の倉澤副部長とは対照的に、文ちゃん先輩は。
「……」
まただ。また表情が曇る。
…これは気のせいなんかじゃない。
これでも、もう彼女の表情の微妙な変化くらいは気づいてあげられると思っているんだ。
でも…なぜ?二人の間には何があったんだろう?
「…志賀君?」
返事をしない僕を、怪訝そうに見る倉澤副部長。
「あ…ああ、どうにかテーマも決まりそうですし、今日くらいから本格的に描けると思います」
「期待してるよー?」
副部長は肩にカバンを引っ掛けて、笑いながら手を振って通用口に向かっていた。
その後ろ姿を無言で見送る文ちゃん先輩。
その表情には複雑な感情が見え隠れていた。
怒りとか憎しみとかではなさそうだった。
むしろ…戸惑い?それともあれは…悲しみ…?
きっと今、彼女の心は震えているのだろう。
震えた彼女の心の中からにじみ出ているであろうその感情は一体…?
「文ちゃん先輩?」
「……」
彼女には聞こえていない様だった。
その感情が何なのかまだ分からないけれど、その心は、今ここにはなかった。
「…文ちゃん先輩?」
「あ…ああ、志賀君。もう授業が始まりますね。私はこれで」
文ちゃん先輩は、いつもの様に律儀に一礼して去って行った。
次第に小さくなってゆくその後ろ姿が、いつもよりずっと小柄で儚いものに見えた。
遅ればせながら僕も自転車を押して自転車置き場に向かう。
ふと北側校舎の屋上に目を向けると、そこには白衣姿の鮎子先生の姿があった。
鮎子先生は、何だかため息をついている様にも見えた。
その時予鈴が鳴ったので、僕は自転車を置くと、慌てて自分の教室に向かったのだった。
14
今日は土曜日だから授業は午前中でおしまい。午後はまるごと部活の時間になるのだけど、今までの僕にとって、その時間は屋上でのギター・トレーニングのためにある様な物だった。平日、特にこの季節になってからは陽の落ちるのも早くなったし、それに寒くもなってきて、十分な練習時間が取れなくなってきたのだけど、土曜日は北側校舎の屋上で、
ざっと4時間以上もギターを弾いていられるから、毎週、週末が待ち遠しかったんだ。
でも今日は屋上にゆけない。
その、ひとつ下の階にある美術室にゆかなければならないのだ。
まあ、試験が終わってから毎日、放課後はここに通う様になっているのだから、すでに慣れつつある日常の延長線上だと思うことにした。
…その新たな日常以上に、これまで親しんでいた場所への未練はあるが。
午前中最後の授業が終わると、僕は一度南側校舎の2階、生徒通用口の方に向かった。
昼食を買うためだ。
ウチは新設校で設備などは新しいけど、反面、色々と不便な所もある。
その最たる点は、購買部とか学生食堂がないことだった。
だから文具の不足などはけっこう深刻で、持ち前のシャープペンの芯が切れた時などは苦労させられた。平身低頭してクラスの誰かから分けてもらったりすることもよくあったし、特に、いつも用意のいいクラスの女子にはずいぶんとお世話になったものだ。ウチの学校にはそれほどワルはいなかったので、いじめ問題なんてのは耳にしたこともなかったけど、
こういった面での立場の上下関係も生まれてくる。
そういった関係って、後々にもけっこう尾を引くものらしい。実際、この頃に世話になって以来、今でも頭の上がらない女子が、僕にも三人はいる。
まあ、文ちゃん先輩だってそのひとり…というかダントツの存在だったのだけど。
購買部以上に深刻だったのが、学生食堂がない事だった。
これは僕に限らず、ウチの生徒の大半が悩まされた大問題だった。
僕は、週3回は母の作ってくれたお弁当を持参してたけど、そうでない日は、大抵、昼休みにやってくるパン屋さんの売店で、安っぽくてあまり美味しくもないパンを買って済ませていた。
他に手段がないのだから仕方がない。あの頃はまだ、コンビニなんてオアシスは都会にしかなかったしね。
独占企業の強みなのか、あそこのパンは手を抜いたのが見え見えで、しかも値段も無駄に高く、お世辞にもその評判は、決してよろしい物ではなかった。
たとえばカレーパンはコロモがやたらと分厚くて、具なんてのはほんのちょっぴり。その具の中に、僕は3年間一度もお肉という物を発見できなかった。
他にも厚さ3ミリ強のハンバーグを挟んだとってもリッチなハンバーガーとか、紅ショウガと麺の比率が1:1という、赤色がとっても鮮やかな焼きそばパンとか、3個セットの全てがレタスのみのヘルシーなサンドイッチとか…今思い出しても中指立てながら涙が出る様な、とっても思い出深いメニューばかりだったんだ。
そんな物でも飛ぶ様に売れていた。仕方ない。それしか手段がなかったのだから。
余談になるけど、僕が卒業したずっと後になって、遅まきながら学校の近くにコンビニができた途端、あそこのパン屋が潰れたそうな。ざまみろ。
僕は、そのすぺっしゃるなメニューが並んでいるはずの番重を覗いてみた。
ところが、買いにくるタイミングがちょっと遅れたために、こんな安っぽいメニューでも、もう最後の一個しか残っていなかった。…こんなメニューなのに。
僕は、やたらとコロモの分厚いあんドーナツを買った。こんなのが1個150円なり。
暴利である。
暴利ではあるが、背に腹は代えられない。
ましてやその腹が、さっきから燃料切れの警報を鳴らし続けているし。
糖分は空腹感を誤魔化してくれるという。…もっとも、この安っぽいあんドーナツに、どれほどの糖分があるかは、かなーり疑問でもあるけれど。
僕がパンを手に取ってお金を払うと、愛想の良くない店員の兄ちゃんはさっさと店じまいに取りかかった。…「ありがとう」とか「毎度あり」も聞いてないよ?おい。
…それにしても困った。成長期の健全な高校1年生男子に、こんなチャチいあんドーナツ1個で夕方まで戦えというのか。兵站部は何をしちょるか。だからあれほど酒保を設置せよと何度も提言したのに。…本当はしてないけど。
前線の兵士を一度も飢えさせなかったという、漢の丞相蕭何を見習えってんだ。
そんな不平不満を口にしつつ、僕は手にしたあんドーナツをぽーんぽーんと上に投げてはキャッチ、上に投げてはキャッチを繰り返しながら廊下を歩いていた。すると後ろから、
「こら!志賀君!」
と、聞き慣れた声がした。もはや確認するまでもない。文ちゃん先輩である。
「…ふぁーい。何でしょーか文ちゃん先輩」
僕は振り向きもせずに答えた。
「週末で気が抜けましたか?」
「抜けるだけの気力もありませんよ」と僕。
すると文ちゃん先輩は僕の前に回ってきて、
「…なるほど。たしかに気力が不足している顔をしています」
と、下から僕を見上げて言った。
「でも、食べ物を粗末にするのは感心しませんよ?」
そこに目をつけるとは。さすがです会長。
「…文ちゃん先輩は、いつも気力十分ですよね。羨ましい」
「十分な睡眠時間と、一日三度、しっかりと食事を取ってますから。規則正しい生活の基本ですよ」と、小さな胸を張る文ちゃん先輩。…どことなく自慢げに見えますが?
「基本ですか?」
「基本です…って、む?」
文ちゃん先輩は、改めて僕が手にしているあんドーナツを見た。
「…育ち盛りの男の子が、たったそれだけでは足りないでしょう?」
「だって、もうこれしか売ってなかったんですよぉ」
僕は、さっき考えていた様な不平不満を口にしてみた。
「…む。それはいけませんね。キミの様な経験をした生徒も多いと耳にしていますが」
文ちゃん先輩は腕を組みながら言った。
「学生食堂設置については、生徒会からも何度か提言しているのですが、学校側からはいまだに明確な回答を得られていません。自分の非力を痛感します。申し訳ない」
おお、さすが文ちゃん先輩。すでに動いておられましたか。
「この問題は、まだまだ解決の糸口が見えていないのが現状です…それよりも」
「それよりも?」
「今は、今日のキミの昼食が問題ですね。どうするのですか?」
「うーん…どうするかって言われても、これしか無いですし、これ一個で何とか夕方まで持たせるしかないですよね」
「それはいけない!」
なぜか文ちゃん先輩は、妙に真剣な表情で言った。
「育ち盛りのキミが、たったそれだけで持つはずかない。危険すぎる」
いえ危険すぎるって、別にこれだけ持って山に籠ったりするわけじゃないんですが。
「キミが空腹のあまりに貧血でも起こして倒れてしまった時、私がそばにいてあげられる保証もない」
…何だか話が大きくなってきたな。気持ちは嬉しいけど。
「大げさですよ」
苦笑した。
「大げさなものか。キミは低血糖と言う物を軽く考えている」
文ちゃん先輩は、そう言いながら僕のネクタイをまた引っ張った。これが彼女の癖なのだろうか?…いやまて違うな。本当は胸ぐらを掴みたいのだろうが、彼女の身長では届かないのか。なるほど。
文ちゃん先輩はしばらく考えて、うん、と頷いた。
「私の昼食をお分けしましょう。幸い、私は今日、おにぎりを三個用意してありますから」
「え?そんなのいいんですか?悪いですよ」
「遠慮などしなくてよろしいのです。元々、私はあまり食べない方ですし」
「…あまり食べない人が、何で3個も用意したのですか?」
「それはキミに…あ、いえ、何でもありません」
ちょっと赤くなった。…誰が?
言った文ちゃん先輩はもちろん、言われた僕の双方が。
…察してしまった。
文ちゃん先輩は、僕のためにおにぎりを作ってきてくれたのだ…と思う。
よくあるマンガの鈍感主人公じゃあるまいし、それくらいの察しはつくつもりだ。
でも、何で…?という事だって、ある程度想像はつく。
今までとは違って、今日の午後は、僕が美術室で部展のための絵を描く事に没頭するのが分かっていたからだろう。きっと。
そういえば今朝会った時だって、彼女は僕の体調を気にかけてくれていたみたいだったし。
文ちゃん先輩という人の思いやりには頭が下がった。
同時に、「鉄血宰相」と呼ばれた彼女の知られざる一面を、またひとつ知る事ができたという感激も。
「ええっと…志賀君はお塩とタラコとバター、どれが好きですか?」
ちょっと顔を赤らめた文ちゃん先輩の小さな口から「好き」なんて単語が出てくる事に、恋愛経験皆無ヤローは逐一どきりとさせられてしまうのですよ、ホント。困ったもんだ。
それにしても、文ちゃん先輩お手製のおにぎりかあ…これはとってもレアなアイテムだ。どれも美味しそう…ってバター?!
よりによってバター、ですか?
何ですかその和洋折衷ロードを制限速度無視して突っ走っていった様な暴走メニューは。
脳裏に、真っ白いおにぎりををふたつに割ったら溶けかかったバターの塊が出てくる様が浮かんだ。
バターといえば、普通はパン、だよなあ…?
…おにぎり、ではなくて。
「志賀君はバターが好きなのですか」
これまたちょっと嬉しそうな文ちゃん先輩の笑顔。ああ、「NO」なんて言えねー。
「ではこれをどうぞ」と、文ちゃん先輩はハンカチで包んだおにぎりを下さった。
こ…これがくだんの…
文ちゃん先輩は満面の笑みになった。
“…ええい志賀義治、お前も男なら、この笑顔の為に戦え。死を恐れるな”
そんな天の声が聞こえた様な気がした。分かりました神様、僕も男になりますです。
「あ…ありがとうございます。死ぬ気でいただきます」
「くすくす。食事は死ぬためでなく、活きるために取る物で…あ」
突然、文ちゃん先輩の言葉が途切れた。
嫌な予感がして彼女の視線の向いている方を見ると、案の定。
廊下の向こう側から、美術部員の女子と談笑しながらやってくる倉澤副部長の姿が見えた。
まだ向こうはこちらに気づいていないみたいだ。
「じ…じゃあ部活、頑張ってください。私はこれで」
急に慌てはじめた文ちゃん先輩は、その場を去ろうとした。
…やはり彼女は、倉澤副部長の事を…明らかに避けている。間違いない。
せっかく近づいた彼女との距離が、また遠のいてしまう。
僕は何か言わなければいけない。それが何か彼女の力になれるのならば。
だから、咄嗟にこんな事を言ってしまった。
「あ…文ちゃん先輩!」
「何で…しょうか?」
「先日の試験の『ご褒美』の件」
文ちゃん先輩は一瞬、怪訝な表情になった。
僕は続けた。ここが踏ん張り所だ。
「『ご褒美』の件ですが、アレ」
「…あ、ああ、そんなお約束もしましたね」
「せっかくですから終業式の日、クリスマスにお願いします!何か御馳走してください!」
「…は?」
文ちゃん先輩の目が点になった。
「…は?」
口にした僕自身の目も点になってしまった。
…あれ?あれれれれ?まず言葉が先に口から出た後で、僕は己が発してしまった言葉の意味を理解した。
…あああああ。いくら何でも、僕ぁ何てはしたない事を言ってしまったんだ?
普通は逆だろう?あれだけお世話になって、しかも今だってこれだけ気遣ってもらったのだから、普通はこちらがお礼に何かするべきだよな、常識的に考えて。
咄嗟に彼女を引き留めようとした手段としては、およそ最低の悪手だぞ、コレ…
“何タカっとんのじゃワレ…?あぁ?”
今度の天の声は、なぜか広島弁っぽい口調だった。
…自分のアドリヴ能力の欠如には絶望する。これは致命的じゃないか。
一気にまくしたてた後でそこまで考えて、言った当の本人が固まってしまったのだから世話はない。
一方の文ちゃん先輩は、少しの間唖然としていたが、急にくすくすと笑って、
「いいですよ?じゃあその日に。私も楽しみにしています」
と言って去って行った。
よかったのか悪かったのか。
まあ少なくとも、彼女がまた笑顔になってくれたのだから、道化に徹した甲斐もあった…
と、そう思い込むことにしよう。うん、そうだ、僕はただ道化を演じただけ。
そうだそうだ。そうに違いないのデアル。
「道化」は英語で「A FOOL」だったっけ…と気づいたのはその直後だったけど。
15
その後、僕に気づいた倉澤副部長たちと合流して美術室に行った。
もう十人前後の部員が集まっていて、雑談しながら昼食を取っている。
僕もまずは昼食を取ろうとして。
…取ろうとして、その前にちょっと考えた。
…バターかあ…バター、ねえ…
文ちゃん先輩の心遣いには頭が下がる。ホントーに平伏する。
でも…おにぎりに…バター、ねえ…
もしかして、カンペキ超人の文ちゃん先輩は、実はお料理だけはセンスないとか…?
いわゆる「珠に瑕」という奴か?
それはそれで可愛げがあるというか、「あの人もやはり人間だったか」という一方的決めつけな安堵感があるというか…
さらに考えた。今度は食べる順番だ。
たとえ安いだけで美味しくなかろうとも、まだ「商品」としての価値を持つあんドーナツ。
未知の領域、僕の知らないセカイ、異次元のテイスト、文ちゃん先輩のバターおにぎり。
…さあ。最初に口にすべきはさあ、どっちだ?
最初にあんドーナツを食べて、その風味が残っている間におにぎりを一気に食べてしまうべきか?
はたまた最初におにぎりを食べてしまい、その後味をあんドーナツの風味で散らせてしま
うのがよろしいのか。
そんな問題に葛藤していると、蒼木部長が温かいお茶を淹れて持ってきてくれた。
部長、やっぱ貴方はいい人です。
結局、僕は後者を選択した。後は行動のみ、なのだけど。
僕はデフォルメされた可愛い(?)達磨のキャラがプリントされたハンカチを恐る恐るめくった。
その中には、アルミホイルで包まれたおにぎりがひとつ。
僕は、あたかも包帯で厳重に覆われたミイラの開封作業に没頭する考古学者の様な心境で、丁寧にアルミホイルを開いていった。
中身が顕わになるにつれて、ほのかに漂ってくるバターの香り。…あれ?
わりといい匂い?
お米の色は、ほのかに琥珀色。
何だか、僕の想像したのと違う…?
僕が想像していたのは、バターのでっかいブロックが「具」として混入されている様なシロモノだったのだけれど…
手にしたまま、そのおにぎりをじっと見つめている僕に、横でサンドウィッチを食べていた倉澤副部長が、
「あれ?志賀君。バターライスのおにぎりなんて凝ってるじゃない?」
と、声をかけてきた。
「へ?バターライスって言うんですか?コレ」
「知らないの?」
「生憎と」
途端に周囲からの笑い声。声の主は主に…というか圧倒的に女子たちだった。
「バターライス、知らない?」
「はあ」
倉澤副部長は、僕のおにぎりを覗きこんで、
「ふーん…ただ交ぜたんじゃなくて、ちゃんとバターで先に炒めた後で炊いたみたいね…これはなかなか手の込んだ技よね」と感心していた。
「そんなの分かるんですか?」
「うん。だってそうしないと、おにぎりにした時に油でべとべとになっちゃうし、第一、ぽろぽろと崩れて食べづらくなっちゃうでしょ?」
あ、そうか。いくら料理という物に無知な僕でも、それくらいは容易に想像できた。
「作ったのお母さん?凝ってるなあ」
「いえ、これはあや…生徒会長がくれたんです」
「へ?鬼橋さんが?さすがだなー」
そういう倉澤副部長の表情には、何の思惑も感じられなかった。どう見ても、素直に感心してくれている様に見えるだけだ。
少なくとも、彼女が文ちゃん先輩に含む所はなさそうだった。
「さすがって、あ…会長はお料理も得意なんですか?」
「うん。ウチのクラスでも有名だよ?あたしだってさ、時々彼女お手製のお弁当を分けてもらったことあるけど、絶品だったなー。特に唐揚げ。お店出せるレベルだよアレは」
そういえば、副部長は文ちゃん先輩と同じクラスだったっけか。
「…副部長」
「ん?」
「まさかあや…会長のお弁当をくすねたり、つまみ食いしたりしてません…よね?」
…まさかとは思うけど、それで文ちゃん先輩が怒ってる…とか?
まさかなあ。
案の定、倉澤副部長は何それ?と笑い出した。まあ、そりゃそうだよな。
「ちゃあんとそれが欲しいって言って、あたしのお弁当のおかずと交換したわよぉ。もちろん、鬼橋さんの了解も貰ったし」
「あ…会長はその時、嫌な顔とかしてませんでしたか?」
「へ?してないよ?むしろあたしがあげたアスパラ巻きのレシピに関心がわいたって、熱心に聞いてきてたけど。それがどうしたの?」
「あ、いえ。何でもないです」
以前の文ちゃん先輩は、副部長とも普通に親しくしていたらしい。
それだけに、最近の文ちゃん先輩の不自然な態度が気になる。
「…最近、副部長は会長と話してますか?」
僕の唐突な質問に倉澤副部長は、
「あー…言われてみれば、前より話す機会も減ったかな?」
「…いつ頃からです?」
副部長はちょっと考えて、「…そうねえ…鬼橋さんが生徒会長に当選した頃、かなあ…?」と答えてくれた。
生徒会の選挙の頃、かあ…
……。あれ?
ちょっと引っかかった。
前に文ちゃん先輩はこう言ってたっけ。
『過日、私は取り返しのつかない過ちを犯してしまったのです。その過ちを少しでも償うために、私はこの学校の生徒みなの為に、礎となってこの身を捧げる決意をしたのです』
それに、こうも言ってた。
『今の私は、贖罪の為に、自らに職務を負わせているだけなのです』
そうだ。たしかにそう言ってたんだ。
過ち…過ちかあ。
文ちゃん先輩のしてしまったという「過ち」。
もしかして、それと倉澤副部長に対する不自然な態度の間には、何らかの関係あるのだろうか…?
僕は文ちゃん先輩という一学年先輩のことは尊敬している。
非の打ち所のない凄い人だと思っている。
ウチの生徒の誰もが、彼女に対してそういったイメージを持っていることだろう。
でも、僕は知っている。
あの文ちゃん先輩だって色々と悩みもするし、愛らしい笑顔だって見せてくれるんだ。
規律に厳しい「鉄血宰相」だけでは、断じてない。
文ちゃん先輩だって、一人の女の子なんだ。
今までの僕は、文ちゃん先輩が彼女を避けているのは、倉澤副部長の方に何か問題があるのではないかと思っていた。
でも。
もし仮に、それがまったく逆だったとしたら…?
あまり考えたくはないが、文ちゃん先輩が、倉澤副部長に対して何らかの「過ち」を犯してしまった?…とか。
だけど、倉澤副部長自身は、まるで覚えがないという。
本人も気づかない様な些細な事にも負い目を感じているとしたら、それはそれで文ちゃん先輩らしいとは言えよう。
…だとしても、やはり不自然だ。
文ちゃん先輩の性格からいって、もしそんな負い目があるのならば、本人に対して、まずきっちりと事情を説明して謝罪するだろう。
本人からこそこそ逃げ回るなんて、あのフェア精神の権化の様な文ちゃん先輩らしからぬ所業だとしか思えない。
僕は文ちゃん先輩の作ってくれたおにぎりを頬張った。
塩とコショウの風味の中に、嫌みにならない程度にほのかなバターの香り。
…ちくしょう。美味しいじゃないか。あとできちんとお礼しなくちゃな。
まだ何も分からない。分かったのは、このおにぎりに込められた文ちゃん先輩の思いやりだけだった。
昼食を終えた部員たちは、おのおの自分の作品に取りかかっていた。
もうすでに、イーゼルに掛けられたキャンバスに筆を振るっている男子もいれば、木炭でデッサンを取っている女子もいる。
…ほー、室崎くん、今回は得意の静物画じゃなくて風景画かあ。こっちも上手いなあ。
ちょっと離れた席では、同じく1年の塚村さんが水彩でポップな感じのイラストを描いている所だった。
彼女はけっこうな少女マンガファンで、実の所おんなじシュミを持つ僕とは、それなりに話が合った。共通の愛読書の中では麻原いつみさんの「愛の歌になりたい」について熱いトークを交わしたこともある。何せあの作品ってば、あるバンドのキーボードの女の子の物語で、第1話の冒頭でビートルズ来日の事なんかもちょこっと出てきてたりして、僕のツボに思いっきり合致していたしね。
他にも佐々木淳子さんとか柴田昌弘さんの描く壮大なSF路線の方でも話が合った。
彼女に言わせると、僕は「得難い知己」なのだそうだ。女子の間でも、塚村さんのディープな少女マンガトークに付いてこれるレベルの者はそうはいないらしい。
僕にとっても、話題の合う数少ない友人のひとりでもある。
余談だけど、彼女は卒業後に上京して、案の定少女マンガ家になったみたいだ。
親しい間柄のよしみで、僕は彼女の作業を見学させてもらうことにした。
塚村さんは、分厚い黒縁のメガネの奥から僕に視線を向けると、
「しがん。何?」
「しがん」とは彼女が付けた僕の徒名だった。「しがん」なんて呼ばれると、志願兵みたいにも聞こえてしまうけどね。
お返しに彼女の事を「つかむー」って呼ぼうとしたら「それはだめ」と言われた。
「参考にしたいんだけど、その絵、見せてよ」
「んー、いいよー」
そう言って塚村さんは、まだ絵具の乾いていないケント紙を無造作に差し出した。
見様によってはぶっきらぼうにも受け取れる彼女の態度だけど、塚村さんはいつもこんな感じだ。自分の関心のない事にはまるで無頓着だけど、好きな少女マンガの話題になると、その瞳を比喩でなく大きくして熱く語りはじめるのだ。しかも一度語り出したが最後、話題はやたらと長いし広範囲に及ぶ。
一度、僕がそれを指摘したら、
「しがんだってギターの話する時はおんなじだよ」
などと言われてしまった。…いやいやいや。そんなはずはない。ないと思うのだけど。
僕は乾いていない部分に触らない様に気を遣いながら、彼女の絵を受け取った。
彼女が描いているのは、背景の黄色がやたらと鮮やかなイラストだ。中央ではややデフォルメされた、少女マンガチックな女の子がきゃぴきゃぴと笑っている。
あの無表情な塚村さんが、よくもまあこれだけ豊かな表情の女の子を描けるものだと感心したりもする。…まだ未完成だけど…ううむ、やっぱ上手いなあ。
「…やっぱ好きこそ物の上手なれ、だよなあ」
彼女のイラストを見ると、そんなため息しか出てこない。
「しがんは何を描くか決めた?」
「うーん…大体は」
「どんなの?」
「…ちょっとホラーチックなのになるかもしれない」
「ホラー?ぐちゃーとかびちゃーとかでろでろでろでろーとかした奴?」
…なぜそこで目を輝かせてくるのだろうこの子は。
「うーん。まだ分かんね」
「できたら見たい」
「分かったよ」
そんな会話を交わしつつ、僕はいよいよ自作の絵を描きはじめた。
とはいっても、まだ下絵の段階だけど。
描こうと思っているのは、鮎子先生のアドバイスを思い出して、僕が最近一番強く感じた感情、心が震えて溢れ出してしまった感情の元となった「アレ」にした。
新幹線の側道の小さな橋の上で出くわした、あのコールタールもどきの大口の化物。
正直、あいつのおぞましい姿を思い出すと、今でも震えがくる。
心だけでなく、身体の方も。
…どうやらあれは夢の中の出来事ではなかったらしい。
…あんなのを間近に見て、よくもこうして平気でいられるよなあ、僕は。
あれ以来、自分の感情…というか感性に、何だか不自然な物を感じることがある。
あんなのに襲われたわりには、それを恐ろしいと思いながらも平然としている自分の精神状態が不思議でならない。
…それが何だか、とっても不自然に感じることがあるんだ。
あいつの姿、そしてがちがちと嫌な音を立てながら迫ってくるな歯の並んだ大きな口。
それを思い出すといても立ってもいられなくなるくせに、その一歩先に進むと、急にフィルターがかかった様に、恐怖心がすっ、と薄らいできてしまうんだ。
文ちゃん先輩と話した時には、それが抑えきれずに吹き出してしまったけど…あれこそが文ちゃん先輩や鮎子先生の言う「心の震え」って奴だったんだな。
でも、そんな状態になったのはあの時だけだった。
あの時以外は、あいつを思い出してみても、最後は霞がかかった様に記憶がぼんやり薄らいでしまうんだ。
…まるで記憶の通り道に「この先通行禁止」なんて看板が立っていて、そこから先に進めなくなっているかの様に。
そういった意味では、今回のモチーフに「あいつ」を選んだのは、僕なりにけっこう大きな賭けでもあった。
鮎子先生の言っていた様に、コントロールできない様な強い感情をぶつけるには、「あいつ」は相応しいと思う。
それに「あいつ」の姿を白い紙の中に閉じ込めてしまえば、もしかしたらこの恐怖心も克服できるかもしれない、とも思った。
白い紙をじっと眺めていると、次第に「あいつ」のおぞましい姿が浮かんで…浮かんで…こなかった。
ある程度はイメージできるのだけど、ある一線を越えると、どうしてもその姿がぼんやりとした曖昧な物になってしまう。
…今まで没にしてきた無数のモチーフの場合、こんなことなどなかった。
思いついたら、とりあえずは描き始めることはできた。
その後あーでもないこーでもないと描きなぐり続けて、最終的には没にしてしまったのだけど、それは単純に僕の技術力の不足による所が大きかった。
今回はちょっと違った。
まず、イメージがまとまりきっていない。
…最初からいてしまった。
気がつけばもう午後四時。部活の生徒も下校時間になる頃合になっていた。
色々な事を考えながらも鉛筆は手にしていたけど、見れば、そこに描かれているのは細長い棒だか木の枝みたいな、にょろにょろくねくねした線の様な物だけだった。
こりゃ、今回も没かなぁ…と途方に暮れる僕の肩を、塚村さんがぽん、と叩いた。
「…しがん。頭冷やせ」
「…うん。そーする。家帰ってギター弾く」
「それがいい」
僕は迂回路の長い道のりを思い浮かべて、重い気分になってしまった。
本日の進捗度、まるでなし。皆無。あーあ。
16
一晩開けて日曜日の朝。
よっしゃ今日こそはギター弾きまくるでー「ザ・ボクサー」弾いたるでーと、僕は何だか無駄にテンションが高かったのだけれど。
「今日は爺さんの法事だ。寺に行くぞ」
という父の一言で、そのテンションも一気に下がってしまった。
膨らんだ状態から、急に栓を抜いた風船みたいだった。
ひゅるるるるる~。ぺしゃ。
一気に萎んで、ゆるゆるに弛んでしまったマイハート。
…まあ、割れなかっただけいいかもしれないけど。
朝の八時には、僕は父のお古の喪服を借りて着ていた。…んー、何だか肩がきつい。それにズボンも丈が足りなくて靴下がはみ出してるし。
黒いネクタイは当然、ちゃんと結ばなくてはいけない「本物」だった。ウチの学校の、襟にホックを引っ掛けて固定するだけの簡易型とは違う。
ちなみに、別の学校に進学した中学時代の友人のひとり、小木曽くんの学校の制服はちゃんとした「本物」のネクタイだった。
高校に入ってしばらくして小木曽くんに会った時に、「ネクタイの締め方が分からなくてさ」と言ったら、「そりゃあ、後で苦労するぞ?今のうちに覚えておいた方がいいんじゃないか」とか言われたことがあったけど、うん。今まさにそれを実感している最中であります。
こういう点では、元・帝国陸軍軍人の父は典型的な軍国主義的教条主義者で「制服に合わせろ」が信条だった。
ということは、伸びてしまったこの身長はどうしようもないし、僕はこの情けない様な喪服姿でこの先ずっと通さねばならないという事なのだろうか…?
…誰が最初にゴールインするか分からないけど、少なくとも友だちの結婚式がある時までには、アルバイトしてでも自分のサイズに合ったのを作っておこう。そうしよう。
何とか身支度を終えた母と僕は、父の運転する車で、志賀家のご先祖代々のお墓がある近くのお寺に出かけた。車で5分。歩いてもゆける距離ではあるけど、車社会の群馬県民は、こんな距離でも普通に車を使ってしまう。
どうせ僕だって、あと2年もして高校を卒業すればすぐに運転免許を取って自動車に乗りはじめることだろう。群馬県民ならそれが当たり前だし、そうしないと、他に公的交通手段の乏しいわが県では、生活にも何かと支障が出る。
欠伸をする間もなく、車はお寺の駐車場に到着した。
まあ、毎日の通学にもこの前を通っているのだから新鮮味はないし、それ以前にこのお寺の境内は子供の頃の僕らにとっての遊び場でもあったから、もうすっかりお馴染みの場所でもあった。それでも昔に比べれば墓所の面積もだいぶ広くなってきていたし、釣鐘なんかもいつの間にか新調されていたりして、景色もだいぶ変わってきていた。
…あのぼーさん、けっこう儲けてんだなー。
僕は、ここの住職も昔から知っていた…というか、子供の頃、よく悪戯をしては怒られていたのだけど。
車を降りると、檀家の総代を務めている志賀の家の本家のおじさんたち親戚が雑談していたので、僕たちもその中に加わった。
やがて時間になったので、僕たちはお寺の本堂に向かった。
お線香の香りの満ちた本堂は広い。子供の頃、ここで走り回ったら、ぼーさんに追い掛け回されて襟首掴まれたっけな。
そのぼーさんが奥からやってきた。五十代半ばの、でっぷり太った豪快な老人だ。
「おー、志賀の新宅のぼーずか。無駄に大きくなりやがったなあ」
ぼーさんは親戚の中でも背の高い僕の姿に気づくと、わははと豪快に笑いながら僕に話しかけてきた。
「…坊主はおっちゃんだろ?」
「わはは。そりゃ違ぇねぇ。言う様になったなクソガキが」
そう言いながら、ぼーずのおっちゃんは自分の禿頭を撫でて笑った。
このぼーさんは、気はいいのだがとにかく口が悪い。口は悪いが気はいいので、僕たち近所の悪ガキからは一様に「おっちゃん」呼ばわりされていた。何のかんの言っても親しまれているのである。
ちなみにこの坊さんの名前は越智安行と言う。「おちあんぎょう」。「おちあん」。
だから「おっちゃん」でも問題はない…と思う。
おっちゃんは、「功徳を積めよクソガキ」と笑いながら、祭壇の前に座った。
「功徳を積め」はおっちゃんの口癖だ。でも、でっぷり太ったその図体とか、これだけ立派な本堂の改築やらやたらと大きな観音像を矢継ぎ早に建立させているお寺の財源の出所とかを考えるに、己の金欲とかは禁欲してんのかよ?などとか思ってしまう。
…おっちゃん自身は功徳を積んでるのかよ?
おっちゃんは座布団に座ると、一度僕たちの方に向いて一礼して、地の底から響いてくる様な低い声で読経をはじめた。
「‥‥‥‥」
意味なんてよく分からないけれど、僕は宗派に関わらず坊さんの読経は好きだったりする。
独特の抑揚を持つイントネーション、安定したリズム。聴いているとこう…何だか気持ちよくなってきて…何だか…ぐぅ。
ふと、わき腹に軽い衝撃を覚えて我に返った。
見ると、隣に座っている母が、ちょっとこめかみに皺をよせて、僕に肘鉄をくれていたりする。
…あ、いかん。また寝てしまったのか。
さっきも言った様に、僕は坊さんの読経が好きだ。あんなに気分のよくなる「音楽」もそうそうないだろう。実に心地よくて、ついつい睡魔に誘われてしまうんだ。
だからお葬式などに参列すると、僕は坊さんの読経を聴くと100パーセント寝てしまう。
これは今でも変わらない。
「睡魔」と言うと、「魔」がつくだけに、ちょっとまな印象も出てくるけど、西洋に行くとこれが「サンドマン」という妖精になるそうだ。
西洋の子供は、寝る前にこのサンドマンに祈りを捧げるというのだから、まあ悪い存在でもないのだろう。
古い歌に「ミスター・サンドマン」なんてのがあるけど、あれだって恋に恋する女の子が「わたしを夢の中につれてって♪」なんて妖精に願う、実に甘ったるい歌詞だしなあ。
ましてや、お経を聴いて苦しむのは魑魅魍魎の類と相場が決まっている。
逆に心地よくなるのだから、むしろ経文を大肯定しているのではないだろうか?
よって僕が読経聴いて眠ってしまうのは、決して悪い事ではない…はずだ。
…きっと信心深き証なのだ。そういうことにしとく。
後で母に聞いたら、僕はをかいている時も、木魚の音に合わせて指先でリズムを取っていたそうだ。…我ながらどんだけ音楽好きなんだよ?と思う。
我に返って、慌てて祭壇の方を向く。…ん?
今まで気づかなかったけど、祭壇の薄暗い奥の壁には、何枚かの掛軸が掛けてあった。
どの絵も説法の内容を図案化した物の様だった。
白く美しい蓮の花が咲き誇る極楽浄土。炎と血のどぎつい赤色が広がった地獄絵図。
いかにも徳の高そうな坊さんが、諸国行脚してる様な構図の物。
…おいおっちゃん。ちったぁあの絵の坊さんを見習ったらどうだ?
こういう物に関心がいってしまう所を見ると、やっぱ僕は、曲がりなりにも美術部員なのだなあ…と思ってしまう。
どうやらここのお寺の縁起めいた物語を描いた様な物もあった。
ふと、何枚か並んで掛けられている掛軸の、一番右端の物が目に映った。
…かなり古い物らしい。
見た所、この付近の故事を描いた物みたいだ。
人物の服装から察するに…江戸時代っぽいかな?
何人かの人物は、必死に逃げまとっているみたい。
その後ろには、細長くて巨大な蛇みたいな化物が迫っていた。
蛇…?いや違う。あれは蛇じゃない。
だってその化物の頭は蛇の形をしていなかったし。
頭部に当たるであろうその先端部分は、まるでソーセージの様に丸くなっていて。
口もあったけど、それは蛇の様な横に裂けてはいなかった。
丸くなった先端にの正面に、ご丁寧にも唇がくっついていた。
大きく開けたその口の中には、歪に並ぶ人間の様な歯。
化物は、そのおぞましい大口で、逃げまとう人間に食らいつこうとしているのだ。
僕はこいつを知っていた。
あいつだ。
そう、アレは。
あのコールタールもどき…だ。
「…ぅぅうわひゃぁぁぁぁぁぁあぁ!!」
思わず、僕は悲鳴を挙げて立ち上がってしまった。
周囲の親戚一同はおろか、おっちゃんも読経を止めて、何事かと僕を見ていた。
「ぁぁぁ…ああ…す…すみません、寝ぼけました」
慌てて僕は頭を下げて座り直した。
おっちゃんはあー、こほんときひとつすると、何事もなかったかの様に読経を再開した。
その場はおさまったけど、周囲の親戚たちの視線が痛い痛い。ちくちくする。
横では母が顔を真っ赤にして俯きつつ、僕の腿を抓ってくれていた。
…はあ。すまんこってす。この様な不祥事を二度と引き起こさぬ様、社員一丸となって業務にまい進させていただきますとか云々。
結局、おっちゃんの読経が終わるまでの間、僕はその視線の焦点にされたままだった。
読経が終わった後、本家のおじさんたちに呆れられ半分、お怒られ半分な僕だったが、内心は反省どころではなかった。そんなことより、確かめたいことがある。
そのうちに親戚たちも一人二人と本堂を出て行ったけれど、僕は反省している素振りを見せるために、本堂に残って、敷かれた座布団を片づけることにした。
両手に抱え切れないほどの座布団を積み重ねて足元もふらふらと覚束ない僕に、わははと笑いながら、おっちゃんが近寄ってきた。
「うむ。ご苦労ご苦労。功徳を積んでおるな」
おっちゃんは合掌した。「善哉、善哉。わはは」
本堂の片隅に最後の座布団を積み終えると、僕はおっちゃんに、
「なーおっちゃん」
「何だクソガキ」
「ちょっと教えてほしいんだけど…」と、僕は祭壇奥の掛軸を指差した。
「あの掛軸がどうした?」
「あの…右端の奴。あの蛇みたいな化物って…」
おっちゃんはほぉ、と感心した様な顔になった。
「クソガキ。あの絵の縁起に興味があるのか?」
「あ…うん」
「あんな絵に関心を持つとはなあ…珍しい奴だなクソガキは。聞きたいか?」
「う…うん。聞きたい」
僕は固唾を飲んだ。
「では聞かせてやろう…『泥口』の話を」
「うき…くち…?」
おっちゃんの話はこうだった。
昔、江戸時代の中頃。天明年間の事だという。
後で調べたら、西暦で言うと1780年代後半とのことだったけど、その頃この付近では、かなり深刻な飢饉があったという。これは「天明の浅間やけ」と呼ばれた、先の天明3年に起きた浅間山の大噴火の影響も大きかったらしい。降り注いだ大量の火山灰のせいで作物もロクに育たず、おまけに数年間続いた天候不順が、それをいっそう悲惨な物にした。
悪い事は重なる物で、さらに近隣の用水路の水から悪疫が広まってかなりの死者も出たという。あの掛軸の添え書きによれば「野に伏せし骸の数を知らず」と言った様相だったらしい。
生き残った人々は、餓えをしのぐためにまず野の草を、次に木の皮を食べた。やがて食べる物もなくなって…一部の者は地面を掘って土まで食べたという。
この辺りは「関東ローム層」という、太古の火山の噴火などによって堆積した粘土質の土壌の地層が広がっている。彼らが食べたのはこの粘土質の土だった。
そのうちに、奇妙な事が起きた。
土を食べていた者たち数人の言動が、次第に狂暴な物になってきたのだという。
最初、餓えのあまりにおかしくなってきたのかと思われていたのだが、やがて彼らは獣の様に口から泡を吹きながら意味不明の事を口走るようになっていった。
やがて土を食べていた者のほとんどは、原因不明の病気に罹って死んでいったのだが。
そんな折。事件が起こった。
ある夜。「弥平」という農夫の家で女の悲鳴が聞こえたというので、付近の者たちが駆けつけてみると、妻と生まれたばかりの赤子が血まみれで倒れており、その亡骸の脇では弥平がもぎ取った妻の片腕を齧っていたのだという。
駆けつけた者たちを見ると、弥平はにやりと嗤って言ったそうだ。
「…お前らも喰え。うめぇぞ」と。
弥平は、土を喰らっていた常習者の一人だった。
弥平は番所の役人に捕えられ、禁を犯した罪で前橋の刑場で打ち首になった。
その亡骸はお上の情けで首を縫い合わされた後、このお寺の片隅に埋葬されたのだが。
…埋葬されて三月も経った頃。当時の住職が墓所を見回っている時に、弥平を埋葬した辺りの土が荒らされている事に気づいて、寺男にその付近を掘らせてみると。
…弥平の亡骸は、跡形もなく消え失せていたという。
そしてそこには、どこまで続いているか分からない、大きな横穴が開いていた。
その頃から、近隣の家畜が襲われる事件が多発しはじめた。
鶏や犬など小型の動物は、地面に拡がる血だまりの中に体の一部を残すだけで、見るも無残に食い殺されていた。
やがて牛や馬にまで害が及ぶに至り、付近の住民は、「弥平が生き返ったのだ、これは弥平の仕業に違いない。あいつは、また誰かを食らいにやってくるかもしれない」と恐れおののいた。
そしてある冬の昼日中。みなの噂通り、「弥平」は帰ってきた。…異形の姿になって。
付近の小川の橋を渡っていた権八という鍛冶職人が、地鳴りを耳にして足を止めると、川底を割って「それ」は姿を現した。
「身の丈およそ三間也」と言うから、大体5m半くらいか。
「その姿、蛇若しくは、注連縄に似て鎌首上げ蠢く。手足の類は見当たらず、
痩躯泥にれて悪臭を放つ」
話しているおっちゃんの方が気分が悪くなってきたみたいで、ここで一端、話を途切って僕を見た。禿げ頭にはうっすらと汗をかいている。
「クソガキ…まだ話を続けていいか?」
「あ…ああ、お願いします…」
正直な所、僕もいささか気分が悪くなってきてはいた。
でも、それはこの話そのものに嫌悪感があったわけじゃない。
だって、僕はその姿なんて、もうよく知っていたから。
そう…まんま、あの「コールタールもどき」の事じゃないかよ…
「頭に目玉無けれども大口有り。人の如き歯を打ち鳴らして犬、馬、牛、人を喰らへり。
故に是を泥口と呼べり」
「おっちゃん…?」
「何だ」
「泥口…その泥口が、何で『弥平』だと分かったのさ?」
「…泥口はな、人の言葉を話したそうなんだ」
「人の言葉を…?」
「近隣の者もよく覚えていた弥平の声で、泥口ははっきりと云ったそうだ…『人の肉はうめぇぞ』」ってな…」
「……」
僕はもう一度、くだんの掛軸を見つめた。
泥に塗れた、くねくね蠢く大口の化物。
…そう。僕が見た「コールタールもどき」は、間違いなく「泥口」って奴だ。
でも、まさか200年も昔の化物が、この昭和の時代まで生きていたとは思えない。
「で…その泥口は…どうなったんだよ…?」
「分からん」
「分からん…って?」
「掛軸に書いてあるのはここまでだ。死んだか地の底に潜ったか…まったく分からん」
「ンな、無責任な…」
「分からんのだから、そう言うしかなかろうて」
「まあ…そりゃそうだけどさ…」
「・・・全ては昔話。本当にあったかどうかも分からん、よくある妖怪噺じゃて」
そう言ってわははと笑うおっちゃんの顔は、どことなくぎこちない物に見えた。
僕はおっちゃんの話を、もう一度最初から思い返してみた。
飢饉で餓えた者たちが、粘土を食っているうちにおかしくなった。その中で一人、身内まで喰ってしまった奴がいて、そいつは死罪になったけど、墓の遺体が消えてしまった。やがて川の底から化物が…と、僕はそこまで話の筋をたどっていった所で気づいた事があった。
「…なあおっちゃん?」
「何じゃい」
「その…泥口が現れた小川ってさ、どこの川?」
「おお、その事か。ほれ、お前さんも、いつも通っておるじゃろ?このすぐ先の、新幹線の側道の所の橋のある…」
「…やっぱり…」
「やっぱりって何じゃい」
…あの掛軸の顛末の時に泥口が出現したのも、僕が見たあの場所と同じだったのか。そうすると…?
「…おっちゃん、もうひとつ」
「…んあ?お前さんも好奇心旺盛じゃのお」
「この寺のぼーさんも、あの橋の所で亡くなったそうだよね?」
「ん…ああ。拙僧の爺さんの事か?」
「うん。何でもムジナに化かされて首の骨折ったって聞いた」
「あー…ま、まぁ、そういう事になっとる」
おっちゃんは、どことなく気まずそうに見えた。
「そういう事?」
「世間的にはそういう事になっておるのだ」
「…気になるなあ。どういう事か教えてよ」
僕の問い掛けに、おっちゃんはしばらくあー、うーと言葉を濁らせてから、
「…まあ、ここまで話したんじゃ。あの掛軸に、ここまで関心を持ったのもお前さんくらいじゃし…話してもよいかの」
と、汗ばんだ禿げ頭を撫でた。
「拙僧の爺さん…安仁和尚はの、本当は首の骨を折って死んだわけではない」
「本当?」
「本当じゃ。まだガキじゃったが、拙僧もこの目で爺さんのご遺体を見たのだから間違いないわ。爺さんはの、獣か何かにわき腹を食いちぎられておったのだ」
「うぇ…聞いてた話とまるで違うじゃん」
「それはそれは惨たらしい最期でな、あまりに惨たらしい様だったので、世間様には首を折ったと言う事にしたのだ」
「…坊さんが嘘を言っちゃだめだろ」
するとおっちゃんは、ややむっとして、
「…そういう風に言っておけと抜かしたのは、ウチじゃないわい」
「じゃあ、誰?」
「当時のこの辺りの管区さんじゃ」
「管区さんって誰のこと?」
「今でいう駐在さんよ」
「ああ、警察官かあ。ケ-サツも無責任だなー。獣は野放しだったの?」
「いやいや。管区さんたちも、それからしばらくこの辺りをくまなく捜査してくれておったぞ?」
「ふーん。でも、結局、その獣は見つかったの?」
「いいや…見つからんかった。それとな」
「…それと?」
「死んだ爺さんのご遺体は、ウチの墓所に埋葬したんじゃが…」
「…まさか…その遺体も、いつの間にか消えていたとか?」
僕の予想は当たった…当たってしまった。
亡くなった安仁和尚の遺体も、掛軸の弥平の時と同様、埋葬した場所から消えていたのだそうだ…そこに大きな横穴を残して。
「…まあ、もう半世紀も前の話じゃい。その後は何事も起こっておらん」
…それが起こったんだよ、つい最近、と僕は心の中で呟いた。
その時、いつまでも本堂から出てこない僕に業を煮やしたのか、母が迎えにやってきた。
母はおっちゃんに挨拶すると、僕を促して出ていった。後に続こうとした僕に、おっちゃんは「なあぼーず」と声を掛けてきた。
「…何?」
「…さっきの話は、おおっぴらにするでないぞ?」
「ん。分かった」
お寺としても、あまりイメージダウンになる様な話は広めたくないのだろう。
「でもおっちゃん。あの掛軸の事をマスコミに教えれば、ワイドショーのオカルト特集かなんかで紹介されて、ちったぁこのお寺も有名になるんじゃない?」
僕のナイスな提案を、おっちゃんは、
「よせやい。そんな事せんでも、この寺はやってゆけるわな」と笑い飛ばした。
「じゃあ、今日は色々とありがと」
「うむ。功徳を積むがよいぞ」
おっちゃんは合掌して僕を見送ってくれた。
本堂の戸口まできた時、僕はある事を思い出したので、振り返って聞いてみた。
「…おっちゃん?」
「まだ何かあるのか」
「…あの掛軸には、『蝙蝠女』が出てこないんだけど?」
「『蝙蝠女』ぁ…?何じゃそれは」
「あー…知らなきゃいいんだ」
僕はかぶりを振って、おっゃんにもう一度挨拶すると、両親の待つ駐車場に向かった。
…別に、何か答えを期待していたわけじゃないんだ。聞いてみただけ。
…「泥口」、か。
あの日、僕を襲った化物の名前が分かった。
もっとも、その名前は人間が勝手につけた名前に過ぎない。
泥口は人語を解するという。
人の言葉を話すのなら、自由意思くらいは持っているのだろう。
意志を持つのならば、泥口自身は、自分の事をどう思っているのだろうか。
おっちゃんの話から察するに、江戸時代に最初に出現した泥口は、粘土を食っていた弥平が変身した物に間違いないないだろう。
それと、半世紀前の事件。
おっちゃんの爺さんに当たる坊さんの死因と、その後の遺体消失。
こっちだって、泥口と関わっているに違いない。
消えた坊さんの遺体。現場から続いていた横穴。
それは弥平の場合とよく似ている。
…とっても嫌な想像になるけど、泥口に噛まれたりすると、「感染する」のだろうか。映画のゾンビみたいに…?
…あ。でもロメロ監督の「ゾンビ」って、アレは別に「ゾンビに噛まれたらゾンビになる」っていうのは、実はデマなんだって聞いた事もあるな。
あの映画の中の世界では、「死んだ人間はみなゾンビになる」っていうだけで、別にゾンビに噛まれて死のうが銃で撃ち殺されようが、どっちにしろ死ねばゾンビになるっていう話じゃなかったかな?
僕はオカルトなんて信じてはいない。…立て続けに起きた最近の出来事で、その信念も多少は揺らぎつつもあるけど、基本的にはその考えは変わってはいない。
だから弥平の変身も、祟りだとか呪いだとか言ったオカルトめいた原因だとは思わない。
きっと、何かの風土病とか未知の体質変化とかいった原因があるのだろうと思う。
そういえば昔、未知の惑星に不時着したロケットの宇宙飛行士が、その惑星の環境に適合した異形の姿になって地球に返ってきた…なんて特撮ドラマがあったっけ。
逆に、地下深くに沈めたシェルターで生活する実験をしていた科学者が、再び地上に引き上げられた時に、やっぱり異形の怪物になってた…なんて物語もあったっけ。ん?あの場合は宇宙人に改造されていたんだっけか?
…まあ、僕は医者でも地質学者でも生物学者でもないしなあ。
文系科目がほんの少し得意なだけの、一介の高校一年生に何が分かるというものか。
こんな奇病だか進化だか退化だかまるで分からない現象|(?)の原因をつきとめようなん
て、そんな大それた事は考えるつもりもない。
だた、ひとつ気になるのが、あの日、「蝙蝠女」にぶった切られた泥口、あれは結局、元は誰だったのか?という点だ。
泥口も生物ならば、寿命とかもあるだろう。
奴らが何年生きるのか知らないけど、さすがに200年間はどうかと思うけど。
…僕が出くわしたのは「弥平」なのか、それとも半世紀前に死んだ「安仁和尚」の方なのか。
それとも、僕たち人間が知らないだけで、「泥口」…いや、泥口に為り果ててしまった「人間」は、もっとずっと数多く生息しているのだろうか。…いや、その想像はあまりにもおぞましいものだけど…
泥口にも雄と雌…もはやあいつらに「性別」とか「男女」とかの表現は当てはまらないと思う…があって、人知れず、地下の奥深くで繁殖しているのかもしれない。
この考えも怖い。自分で考えたくせに怖すぎる。考えたくもない。
…何にせよ、だ。
そんなことはどうでもいいんだ。どうせあの泥口は真っぷたつになって死んでしまったんだし…僕にはもう関係のない事だ。
僕にとって重要なのは、「得体のしれない恐ろしい怪物」だった物が、「泥口」という「明確なキャラクター」となった事だった。
正直、アレに対する恐怖心だってまだ残っているけど、同時に己の心に巣食っていた恐怖心に、具体的な「カタチ」が見えてきたことが、僕の乏しい創作意欲にさえも火をつけてしまった。皮肉な話だけど、これならしっかりした絵も描けるだろうという、奇妙な自信もわいてきてしまったのだった。
…この奇妙な感情も、心が震えて溢れ出した物と言っていいのだろうか…?
17
月曜日になった。
今までの落ち込みがまるで嘘の様に、僕は部室に行くのが楽しみでならなくなった。
早く放課後になって、部室に飛んで行って絵を描きたい。いいや、
「泥口の悍ましい姿を、一枚の紙の中に封じ込めてしまいたい」のだ、今の僕は。
まあ、そのこと自体は、アレをモチーフに選んだ時から変わらない目標だったけど、この週末のおっちゃんとの会話を経たことで、「目的」の方は少し変化してきたのかもしれない。
最初は、あいつの姿を紙の中に押し込めてしまえば、僕の恐怖心も消えるだろうという意識があった。そう、絵を描くという行為を、あたかも魔物を「封印」してしまう儀式の様なつもりでいたのかもしれない。
ところが、だ。
昨日、おっちゃんの話を聞いて、あいつに「泥口」という明確な個性が付加された途端、
僕は逆に、絵の中に封じ込める事で、あろうことか「泥口」の姿をもう一度じっくりと見てみたいという、奇妙な高揚感が芽生えてしまったのだった。
昨夜、この逆説的で不可解な感情に気づいてしまった時、僕は自分が発狂してしまったのではなかろうか?という不安に捕われたりもした。
でも、そもそも狂人は「自分はおかしい」なんて思わないだろうし、現実にもう一度、泥口と感動のご対面!なんてことになるのは、まっぴらゴメンである。
感動は感動でも、怖れの方にシフトする方の心の動きである。間違っても「感激」などではないので、くれぐれもご注意願いたい。
泥口のご利用は慎重に。
泥口の使い過ぎは精神を損なう場合があります。うん。
昼休み。僕は2年生の教室に行った。文ちゃん先輩にお借りした、達磨の柄のハンカチをお返しにうかがうためだ。
文ちゃん先輩のクラスまで行くと、毎度のことながら、彼女の方から僕に気づいてくれて、
こちらにやってきた。
「先日はありがとうございました。バターのおにぎり、とっても美味しかったです」
「それは何よりです」
嬉しそうな文ちゃん先輩。やっぱ、自分の作ったお料理を褒められるのは気持ちのいい物なのろうなあ。
「キミのお口に合うかどうか、正直不安だったのですけれど…お渡しした時、どこか戸惑っていた様にも見えたものですから…」
…う。さすがは文ちゃん先輩。ちゃあんと見ていたんですね。つか、見抜いてたか。
「ま…まあ、あんな珍しいおにぎりを戴くのは初めてだったもので…というか、
女の子からお弁当を戴いたのなんて、あの時が生まれて初めてだったので…」
文ちゃん先輩の顔が真っ赤になった。
「…え、あ、ああ、そうだったんですか。私が初めてだったんですか。キミの最初になれて光栄です。嬉しいです」
普段の文ちゃん先輩からは想像もつかない狼狽っぷりである。かく言う僕も、
「…い、いえそんな、あそこまでしていただいて・・・何というか、その、ええと、感激です、最高でした!」
もはや、双方しどろもどろである。事情を知らない人が聞いたら誤解されかねない。
「ありがとうございました」「いえいえそんな」「何をおっしゃるこちらこそ」という、完成された一連の日本の伝統様式美的応酬もひと段落ついた後。
「…む?志賀君。今日はご機嫌ですね?」と文ちゃん先輩。
「あ、分かります?」と僕。
「くすくす。キミはすぐ顔に出ますからね。…その様子だと、作業の方も捗っているみたいですね」
「あはは。結局、先週は進みませんでしたけど、今日からはもうばっちり!いけそうです」
「それはよかった」
「これも、文ちゃん先輩のおにぎりのおかげですよ」
あ。また真っ赤になった。可愛いなあ。
「…そ、それはいいとして、キミはどんな絵を描く事にしたのですか?」
泥口の話をしてしまった彼女になら話してもよかったのだろうけれど、この時僕の中で、ちょっとした悪戯心が芽生えた。
どうせなら部展の本番で見てもらって、どうです?あんなのなんかもうへっちゃらなんですよ、と、彼女の前でちょっといいカッコしたいという気持ちもあった。だから、
「あはは。それは見てのお楽しみですよ」、と僕は笑った。
「それは楽しみですね」
文ちゃん先輩は、この時、僕が見た中で彼女の最高の笑顔を返してくれた。
…今にして思えば、この時はっきりと言っていれば、あの後の展開は、もうちょっとくらいはましな物になっていたのかもしれない。
だけど僕も彼女も、それに気づいた時には、もう手遅れだったんだ。
僕は彼女にもう一度お礼を言って、その場を後にした。
絵を描きたいという高揚感と、文ちゃん先輩の笑顔。
僕にとって全て前向きに思える出来事が続いて、正直な所、僕は少々浮かれていた。
2年生の教室は南側校舎の2階にあるから、3階の自分の教室に戻ろうと保健室前の階段までやってきたら、そこにセーターの上に白衣をまとった鮎子先生が立っていた。
鮎子先生は、腕組みをしてこっちを見ている。
そういえば、絵が描けなかった僕に最初のアドバイスをくれたのは鮎子先生だったっけな、という事を思い出して、僕はお礼を言うために駆け寄った。
かつては高嶺の花でしかなかった鮎子先生だったけど、今ではもう親しみすら感じはじめていた。
…さすがに文ちゃん先輩みたく「鮎子おねえちゃん」とまでは親しく呼べないけれど。
「ああ、鮎子先生!この間はありがとうございます」
僕は感謝の念をたっぷり込めてお辞儀した。
「……」
…あれ?どうしたことだろう。返事がない。
「…お陰様で、いい絵も描けそうで…す…よ?」
「……」
鮎子先生は腕を組んで黙ったまま、ただこっちを見ているだけだった。
「…あ、あの、鮎子先生?」
「……。つまんない」
「…へ?」
「つまんないな」
ちょっとむくれた様な顔の鮎子先生。ある意味ではレアな表情だ。
「へ…あの、つまんないと申されますと…?」
「むー。つまんないつまんない」
何でだろう。こんな不機嫌そうな鮎子先生を見るのは初めてだ。
「むー」
いえ、むーってむくれるのは、それはそれで新鮮な魅力もあってよろしゅうございますけれども、できればその…ご立腹の理由なぞを、おひとつ…って、あ!
もしかして、この間、まさにこの場所でのラッキーな…じゃなくて不幸な接触事故の事でお怒りモードになられておられるのではなかろうか…?
「おっぱいのことじゃないよ」と鮎子先生。
これまたストレートな。さすがは大人の女性。
…あ、しまった。また知らず知らずのうちに口にしていたのだろうか?
「ちがうちがう。志賀くんって、顔見れば何考えてるか分かるもの」
「あ、そうですか」
…これも僕の短所…なんだろうなあ。
「おっぱいなんて、言ってくれればいつでも触らせてあげるよ?」
それはまた…って、それはまた全男子生徒が聞いたら狂喜しそうな発言を、まるで、じゃあちょっとジュース買いに行ってきてあげるねくらいのノリでおっしゃられますか。
鮎子先生は、僕を強引に保健室に引っ張り込んだ。これで3回目だな、こういうの。
「…ほんと、最近の志賀くんってば、つまんない」
「あ…あの、先生は、いったい何がつまらないんですか?」
「志賀くんがつまんない」
「いえ、それは分かりましたけど…僕のどこがつまらないんですか?」
すると鮎子先生ははぁ、とため息をついた。
「…だぁってえ。最近の志賀くん、全然屋上に来てくれないんだもの。むー」
「…は?」
「あたし、楽しみにしてるのになー。ほんと、つまんない」
は…?あ、ああ、そうか。理解した。
「…もしかして、ギターの事、ですか?」
「うん。最近、放課後はずっと美術室に籠りっぱなしで、時々頭をくしゃくしゃ掻きながらうんうん唸ってるばっかなんだもん」
「あー、すみませんね。部展の課題の製作の方が忙しくって」
鮎子先生、そんなに僕のギターに興味を持っていてくれるのか。これは嬉しいぞ。
「あーあ。こんなことなら、あの時助けなきゃよかったかなー」
鮎子先生はまたむくれてしまった。
たしかに、あの時鮎子先生のアドバイスがなかったら、僕は今でもあーでもないこーでもないと、モチーフ探しの段階で右往左往していたことだろう。
そのことについては、感謝の言葉もないけれど…何となく申し訳ない様な心境と、今まで誰にも聴いてもらえなかった僕のギターに対する、思いもよらない高評価への戸惑いと純粋な感激とが入り混じって、謝ったらいいのか、はたまた感謝したらいいのか混乱してしまうではないですか。
…志賀義治16歳。我ながら、まだまだ人間関係の機微という物が分かってないよな。
「あ、あの…鮎子先生?」
「何?」
「えっと、実は今、『ザ・ボクサー』を練習してるんです。絵の方が仕上がったら、ぜひ先生にも聴いていただいて、いや、いっその事、一緒に歌ってもらえたら…なんて」
鮎子先生の表情が一転した。にぱぁっと笑顔になる。
「…そなの?」
「はい!まだ、あのイントロがすごく難しいんですけど…」
「うん。いいよ。歌ってあげる。あたしもあの曲好きだしね」
…お。おおお?おおおおお?
何だ、この瓢箪から駒状態は?
僕のギターで鮎子先生が歌う…?
前の「スカボロー・フェア」の時は不意打ちみたいな感じだったけれど、今度は先生の口から、こうしてはっきりとお言葉をいただいてしまった。
これは感激どころの騒ぎではない。
今週に入ったばかりだというのに、立て続けにいいことづくめだ。
浮かれるどころか、もはや翼が生えて一気に天にも昇る心境ですよ?これは。
…浮かれすぎて、イカロスみたく真っ逆さまに落っこちたりしなければいいけどな。
「じゃあ、早く絵の方も仕上げてね?」
「はい!それはもう!今日は作業もかなり進むと思いますし」
「ふーん」
僕はさらなる高揚感と共に、保健室を後にしたのだった。
18
さて、放課後の美術室。
先週までは、ここにくるのが億劫でならなかったけど、今日は階段を登る足取りも軽い。
まったく、人間という物は、つくづく単純な生き物だなあ…と、浮かれたいち高校生だけでなく、それがまるで全人類の背負った大いなる業みたいに置き換えてしまうのも、若さゆえの誇大妄想なのだとご容赦願いたい。
美術室にやってくると、今日ももう何人かの部員がきていて、おのおの自分の作品の作業に取りかかっていた。
僕はロッカーから自分の画材を持ち出すと、塚村さんの隣に座った。
「隣、いい?」
「ん。いい」
彼女はもう先週のイラストは仕上げていて、次の作品を描きはじめていた。
今度のは…ふーん。ずいぶんとSFチックな作風みたいだな。
宇宙服だか戦闘服を着た銀髪の少女が、これまた未来的なレーザーガンを構えている構図だ。服のメタリックな質感の描写が凄い。本当にメッキでもしたかの様な金属感を、水彩絵の具だけでよく出せるなあ…と感心する。
白と青と黒の色合いだけで、ピカピカの光沢を表現できてしまうのだから凄い。
…きっと、観察力がハンパじゃないんだろうな。
金属の曲面なんかが、どういった具合に見えているのか?それをどうやれば描写できるのか?なんて、僕にはまるで理解できないもの。
「しがん。今日はいい顔してる」
さすがは観察力の鬼・塚村いのり様。やっぱ分かるんだなあ。
「しがんは顔見れば何考えてるか分かる」
「分かるんだ?」
「分かる」
「さっき、鮎子先生にもおんなじ事いわれた」
それに、文ちゃん先輩にも、ね。
文ちゃん先輩も、鮎子先生も、塚村さんも凄い。…いや、女性はみーんな凄いのか?
女の子ってみんな、男の心の奥底を見抜いてしまう、途轍もない能力があるのだろうか?
「しがんが分かりやすいだけ」
あ、そですか。
「ぐちゃーとかびちゃーとかでろでろでろでろー、できそう?」
…だから、何でそう言う時に目を輝かせてくるのですかあなたは。
「うむ。今日はできそう。期待していておくんなさい」
「楽しみ」
そう言うと塚村さんは、また自分の絵に取りかかった。僕も自分の用具入れから鉛筆を取り出して下絵からはじめる。
まず最初に、頭の中にある構図を思い浮かべて、紙の上に大体のアタリをつける。
この時は、まだ輪郭線ほど明確な物でなくていい。
今回の僕の場合は「泥口」という異形の化物だから、くねくね蠢くあいつの細長い身体の動きを、一本の線で引いてみる。
それができたら、その線を軸にして、あいつの胴体の太さを想定しながら、筒をつなげる様にして肉付けをしてゆく。
いい参考資料もあった。
掃除機の吸引ホースとか洗濯機の排水ホース。ああいう適度な太さのホースを連想してみると、あいつの図体をイメージしやすかった。
…ああいうホースって「蛇腹」になってるんだよな。「蛇の腹」とはよく名づけたものだ。言い得て妙とはまさにこの事だった。
そしてその「ホース」の先端。この部分に「泥口」の一番大きな特徴、人間みたいな口がある。よく思い出してみりゃ、人間そっくりなのは歯並びだけでなく、ご丁寧にも唇もついていた様な気がする。
…ううっ。前に比べれば冷静になってきたけど、やっぱ気持ち悪い姿だよなあ。
鉛筆で描かれた泥口は、こっちに向かって悪趣味なあの大口をくわっ!と大きく開けて威嚇している様だった。うん。我ながら、けっこう迫力ある下絵ができたものだな。
僕はまだ描きかけの自作の絵を、まじまじと眺めてみた。
絵の中の泥口は、その醜悪な口を僕に向かって大きく広げている。
じっと見つめていると、恐怖心よりも、むしろ怒りがわいてきた。
…え?こら。誰に向かって、そんな臭そうな口を馬鹿みたいに開けてるんだ?
ヤァヤァ遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、怖れ多くも賢くも、お前の前にいるのは、真っ白い紙の世界にお前を封じ込めた、偉大なる英雄、志賀義治様なるぞ。控えィ控えィ!てめぇなんざもう怖くもねーぞ、おいこら。
「…しがん。さっきから独り言うるさい」
塚村さんの声がした。あ、はい。どーもすみません。
…いかんいかん。ついつい悪ノリしてしまった。
しかし、それも仕方なかろう。これは中々の力作になる、紙の上で次第にカタチになってゆく泥口の姿を見ていて、そんな予感があった。そういう自負があった。
『これは、僕が今まで描いてきた絵の中でも傑作になる』
ヘンな所で新境地に目覚めてしまった。かといって、今後もこの路線でゆこうとは思わないけどね。
こんな方向性をずっと追い求めても、どうせきっとロクな事にはなるまいて。
だから、今。
今だからこそ僕はこの絵に心から溢れてくる感情を、何の衒いもなく叩きつける。
もう二度と、こんな絵は描かない。たった一度だけの、あふれ出る感情の照射。
鮎子先生のアドバイスを、僕は今や完全に理解していた。
周囲の事も気にせずに、僕は感情の赴くままに鉛筆を、絵筆を紙の上に叩きつけ続けた。
…葛藤すること2時間半。
そして、ついにその絵はできあがった。
それは前に描いた、あのいい加減な「榛名山もどき」などとはまるで違う物。
…僕の心の深淵からあふれ出した、抑えきれない激情を具現化した物だった。
「…ふぅ。こんな感じかな」
いつの間にか、僕は汗びっしょりになっていた。
「…しがん。できた?」
そんな僕に、塚村さんがタオルを渡してくれた。
「ん。ありがと。できたよ」
僕はタオルで額の汗を拭うと、自作の絵を塚村さんに手渡した。
彼女はそれを手に取って、しばらく見つめていた。
「……」
絵を持つ塚村さんの手が震えている。
「ふぉ…」
ふと、彼女の口から意味不明の声が漏れた。
「ふぉ?」
何だろ。それが僕の絵に対する感想なのかな?
「ふぉぉぉぉぉぉぉぉ…!?」
「つっ、塚村さん…!?」
恐る恐る彼女の顔をうかがってみると、目が合った。
あらま。塚村さんってば、お目々が異様に輝いているではありませんか。
「しがん」
「は、はい、何でございしょう?」
彼女の放つ謎のオーラに圧倒されて、思わず敬語になってしまうこの僕。
「いい!コレ、凄くいい!!」
…は…はぁ、それはどうも。
「ぐちゃーもびちゃーもでろでろでろでろーも、どれもわたしの想像以上!凄くいい!!」
そう言うあなたに、描いた本人はドン引きですが。
「特にこの口!」
口がどうかしましたか。
「とってもかわいい。すき」
はぁ?
「細くてうねうねしてるこの胴体もいい。頬ずりしたい」
…いっそ抱き枕にでもいかがでしょうか。ただし明日の朝を無事に迎えられる保証はございませんけれど。
以前から何かと不思議な感性の持ち主だとは思っていだけど、僕はまだまだ彼女の感性の片鱗しか知らなかった様だ。…つか分からない。
塚村さんがあんまりにも騒ぐものだから、他の部員たちも何事かとこちらにやってきた。
「ほぉ…、志賀君。やっとできたんだね」
と、蒼木部長も自分の作業を止めている。
「その力作、僕にも見せてくれないか」
今まで色々と気を掛けてくれていた分、部長も僕の絵の仕上がりが気になるのだろう。
「ぶちょう。これは傑作」
まだ興奮気味な塚村さんの手から僕の力作を受け取った部長も、絵を手にした途端、息を呑んだ。
「こ…これは…何というか…」
部長の肩も震えている。
「ま…まさに、こういう怪物がいて、それを目の当たりにした様な迫力だ…」
…いやまあ、その通りなのですが。
僕、本当にこういうの見ちゃったんです、なんて言えないけどね。
「抽象画でもない、それでいて写実主義ではあり得ない…」
いやいや、それほどでも。
「…技術はまるで稚拙だけど」
…仰る通りでございます。
「志賀君、新境地じゃないか。僕にはまるで理解できないけれど、こういう絵もあっていいと思う。それだけの迫力…いや、説得力がこの絵には感じられるよ」
万人が認める実力と高い人望を持つ蒼木部長のお墨付きを戴いた事で、泥口の絵は一躍、部の話題の中心となった。
美術室にいた部員たちの誰もが、僕の絵に圧倒されていた。
言葉もなく、ただ固唾を呑んで、遠巻きに絵を見ているだけだった。
僕は自らの感情・・・泥口に対する恐怖心のありったけを、この絵に叩きつけた。
いわば、この絵は僕が抱いていた「恐怖心そのもの」が封じ込められた作品なのだ。
こいつがどんな化物なのか分からなくても、そこに込められた恐怖は感じ取れるだろう。
この絵を見た時、人は否応なく、あの時僕が感じた恐怖を追体験させられるのだ。
それが、この絵をして人を惹きつける原因になっているのだろうか。
魅力がある、とは言うまい。
これは魅力などではない。そこまで増長できるほど、僕は自分の力量を錯覚していない。
ただ、とんでもない作品を描いてしまったという自覚はあった。
部室にいた誰もが、言葉もなく僕の絵に見入っていた時。
「何?志賀君やっと絵ができたの?見せて見せて」
と、明るい声がした。倉澤副部長だった。
彼女はどうやら自分の画材を洗いに、美術準備室に備え付けの洗い場に行っていたらしい。
「榛名山もどきに続く傑作、できたかなー?」
気さくに言う副部長。ちょっとイヤミにも聞こえるけど、これはこれで、あまり絵の得意でない後輩に対する、彼女なりの気配りなのだろう。
「いやいや、倉澤君。これは馬鹿にできた物じゃないぞ?」
僕の絵を渡しながら、蒼木部長は言ってくれた。
「またまたぁ……ひっ!」
笑いながら絵を受け取った副部長は、その絵を見るなり短い悲鳴を挙げて。
びりびりびりびり…!!
…その絵を、無残にも縦に引き裂いてしまった。
その場にいた誰もが言葉を失った。
いくら何でも、人の絵を破り捨てるという暴挙は、誰よりも熱心に絵を描く彼女の、ましてや絵を描くという作業の困難さを、誰よりも真摯に理解しているはずの彼女の取った行動とは思えなかった。
みな、ただ沈黙するしかなかった。
破り捨てた倉澤副部長自身さえ、目を見開いたままで硬直している。
まるで、自分が何をしたのか理解していない様にも見えた。
でも、僕には彼女の取った暴挙の理由も理解できた。
そう。彼女は泥口に恐怖したのだ。あの時の僕と同じ様に。
部室に沈黙が漂う。
その沈黙を破ったのは蒼木部長の一声だった。
「倉澤君、何をするんだ…!?」
部長に一喝された倉澤副部長は、我に返った。
「え…?あ…?あたし…何を…?」
そのままガタガタと震えだした彼女は、
「あたし…あたしが…口が…口…」
と、何かうわ言を口にすると、意識を失って倒れてしまった。
それから先は大騒ぎだった。
部長の指示で部員たちが保健室に駆けて行って、鮎子先生を呼んできた。
駆けつけた鮎子先生は脈を見たり瞳孔を確認したりした後、意識を失ったままの倉澤副部長を数人がかりで保健室に運ばせていった。
それまでの喧騒が嘘の様に静まった部室。
床には、破り捨てられたままの僕の絵が散らばっていた。
「もったいない。いい絵だった」
そう言いながら、塚村さんが絵を拾い集めてくれていた。
僕は、その様子をただ見ていただけだった。
「気を落とさないで?副部長も悪気があったわけじゃなさそうだし…」
何人かの女子部員は、そんな僕を、自分の力作を破り捨てられたショックで言葉もないのだろうと思ってくれたみたいだったけど。
…実はその時の僕自身は、何の感情もわいていなかったんだ。
ショックでもなく。怒りでもなく。悲しさでもない。
あの絵の中には、泥口に対する、僕の心の中からあふれ出していた感情の全てが込められていた。
だから、もう僕の心の中にはなーんにも残っていない。空虚。空っぽ。エンプティ。
それでいい。むしろ破り捨てられることで、あの絵はその役目の全てを終えたとさえ言ってもいい。
倉澤副部長は、ただその幕引きをしてくれただけ。
冷静になって考えれば、これでまた部展の作品を新たに描かねばならないという、とても大きな問題に直面した事になるのだけれど、不思議と焦りもなかった。
…そんなことよりも、僕にはもっとずっと気になった事があった。
何だろう。頭の中でばらばらだったパズルのピースが、あと少しで重なりそうな気がする。
その時、
「…志賀君。剣城先生が呼んでるって」と声がした。
振り向くと、さっき倉澤副部長を保健室に連れて行った室崎くんが戻ってきていて、僕を呼んでいたのだった。
「あ…うん。いま行く」
僕は塚村さんから絵を受け取ると、保健室に向かった。
19
「失礼します」
保健室に入ると、鮎子先生をはじめ顧問の太田先生、それに蒼木部長たち美術部員数名が集まっていた。奥のベッドには倉澤副部長が臥せっている。
僕が護憲室に入ると、太田先生が詰め寄ってきた。
「おい志賀!お前、何をしたんだ!?」
「…え、何って…」
「さっきも言った様に、志賀君は、自作の絵を倉澤君に見せただけです」
返事に窮する僕の代わりに、蒼木部長が答えてくれた。
「どんな絵だ?」と、なおも詰め寄ってくる太田先生に、僕は破れてしまった泥口の絵を差し出した。それを手にした太田先生は、一瞬躊躇した後で、
「…お、お前、こんな悪趣味な絵を見せたのか!?」と、僕を怒鳴りつけてきた。
すると蒼木部長が、
「見たいと言ったのは倉澤君でした。それに、この絵を悪趣味だと決めつけるのは短絡だと思います。見る者を圧倒させるだけの迫力が、この絵にはあると思います」
と、またもや僕に代わって意見してくれた。
他の部員たちも異口同音に部長の言葉に同調する。
「な…何?オレは見る目がないっていうのか?」
予想外の流れだったのか、狼狽する太田先生。
「…倉澤さんは、感受性が強かったってことでしょ?…太田先生と違って」
そう言ったのは鮎子先生だった。
「…な…?」
「むしろ、そんな倉澤さんの感受性に強く訴えるだけの作品を描いた、志賀君を褒めてあげるべきじゃないかな?」
…なるほど。そういう見方もできるのか。物も言い様だなあ。
「剣城先生!あなたはオレを侮辱するつもりか!?」
「あら、そう聞こえたならごめんなさい?わたしが顧問だったら、新たな才能を開花させた可愛い教え子は褒めてあげたいもの。…大いにね?くすくす」
太田先生の表情が、見る見るうちに真っ赤になる。
対する鮎子先生はいつもの笑顔のままだ。ただ、いつもよりもその笑顔には毒があった。
「…と、とにかく志賀!そんな絵を出展させるのは、オレは許可しない。分かったな?」
「いやまあ、許可するも何も、もう破れてますし」と僕。
「何?口答えするのか!」
「別にそういうつもりじゃないんですけど」
うーん…一言多いのが僕の悪い癖だとはよく指摘されてはいる。でも、これは口答えとかじゃないと思うけどなあ。…頭に血が上った太田先生には通じないみたい。
太田先生がまた何か言おうと口を開きかけた時。
「う…うぅん…」
倉澤副部長が目を覚ましたみたいだった。思わずベッドに駆け寄る太田先生。
「倉澤!大丈夫か?」
「あ…先生?…あたし…?」
まだ寝ぼけた様な顔の倉澤副部長。
「気をしっかり持て?大丈夫か?」
大丈夫か?しか言葉が出てこない太田先生だって、けっこう動揺しているみたいだな。
「あ…あの…」
「大丈夫か?」
「あ…はい。それより…」
「それより何だ?言ってみろ?」
「あの…お腹が空きました」
副部長の言葉に、保健室にいたほとんどの者の目が点になった。
ややあって爆笑。
「倉澤君、何を言うかと思ったら」
「先輩、しっかりしてくださいよぉ」
さっきまでの緊張感もどこへやら。場の空気は、一気に白けた物になってしまった。
その中で笑わなかったのは、さっきまで怒鳴られてあまりいい気分ではなかった僕と…
それに鮎子先生だけだった。
鮎子先生は、
「…まあ、その元気があるならもう大丈夫でしょ?今日はもう帰って、おうちでゆっくり休んだ方がいいよ?」
と声を掛け、彼女の家には太田先生が車で送ってゆくことになった。
太田先生と蒼木部長に支えられて倉澤副部長が去ってゆくと、残された部員たちも、おのおの部室に戻って行った。
保健室に残ったのは、僕と鮎子先生だけになった。
…今日は色々とあって、精神的に疲れた。ため息も出る。
そんな有様の僕を見かねたのか、鮎子先生がまた紅茶を入れてくれた。
「はい。お疲れ様。大変だったね」
「あ、どうも」
僕は、差し出された白磁のカップを口にした。
今日のは、先日のアールグレイとはまた違った風味だった。
「今日のはオレンジ・ペコ。ベーシックなのにしてみたよ」
「オレンジ…?でもあんまりオレンジっぽい味しませんよ…?美味しいですけど」
すると鮎子先生はくすくすと笑った。
「ああ、オレンジ・ペコって名前はね、単に茶葉の大きさの等級の事。別にオレンジがブレンドされてる訳じゃないよ」
「へー、そうなんですか」
ひとつ勉強になった。
新しい知識と一緒に、香ばしい香りと風味を身体の中に流し込む。
「…ところで志賀君」
「はい?」
「よかったら、その問題の絵、見せてくれないかな?」
あ、どうぞと僕は自作の絵を差し出した。
引き裂かれた泥口の絵を手にした鮎子先生は、
「…ふぅん…なるほど。たしかによく描けてるね」
と、僕が今までに見た事のない様な表情をした。
その口元には、どことなく愉快そうにも見える印象があった。
「特徴をつかんでる」
……え?
と、そこに、こちらに駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
保健室の扉を勢いよく開けたのは、文ちゃん先輩だった。
「おねえちゃん!今、倉澤さんが倒れたって聞いて」
文ちゃん先輩は、はぁはぁと息をを切らせている。よほど慌てて走ってきたのだろう。
「あー、倉澤さんなら、ついさっき太田先生が家に送ってったよ。入れ違いだったね」
「それで、倉澤さんの具合は?」
「んー、大丈夫じゃない?別に怪我とかしてなかったし」
あっけらかんとした口調の鮎子先生。その手にしていた僕の絵に気づいたのか、文ちゃん先輩は、
「…鮎子…おねえちゃん…その絵は…?」
と聞いてきた。
「ん?ああこれ?倉澤さんはね、志賀くんが描いたこの絵を見て、気を失っちゃったの」
「え…志賀君。キミ…が?」
不安そうな顔の文ちゃん先輩。何だろう、さっきから頭の中に引っかかったままの、ばらばらのピースが重なりはじめている気がした。
「え…ええまあ。前に言った、部展用の僕の絵…です」
「わ…私にも…その絵を見せてくれませんか…」
「はーい」
僕たちの動揺に気づいていないのか、鮎子先生は、さも気軽に僕の絵を文ちゃん先輩に手渡した。
手にした絵を見る文ちゃん先輩。
「…こ…これは…!?」
紙の上に描かれている泥口の姿を目にした彼女の瞳は、眼鏡の奥で大きく見開かれた。
その小さな肩も小刻みに震えている。
彼女も副部長と同じく恐怖を感じたのだろうか。
…いや違う。あれは…怒り?
…そう、あれは怒りだ。
彼女の心の中からあふれ出した、行き場所のない怒りが、その小さな肩をあんなにも震わせているんだ。
「志賀君…この絵が…キミの言っていた絵の事だったんですね…」
「あ…はい…」
「どうして…どうしてこの絵を彼女に見せたのですか!?」
「…え?」
「どうして、どうして!キミが描いたのが、よりによってこいつの絵だったんです!?」
いつも冷静な彼女とは思えないほど、文ちゃん先輩は感情を顕わにしていた。
「…迂闊でした…キミからあいつの話を聞いた時から、もっと気をつけるべきでした…倉澤さんが部展の話をしてきた時だって…もっと私が…」
文ちゃん先輩の瞳の奥から、大粒の涙があふれていた。
「私が…どうしてキミが…」
文ちゃん先輩の涙が、僕の絵の上に落ちる。その涙で絵具が滲んでしまっていた。
「あ…文ちゃん先輩…僕は別に、副部長をを脅かそうとか…」
僕は、震えている文ちゃん先輩を小さな肩に手を置こうとした。でも、
「さわらないで…!」
文ちゃん先輩の拒絶。はじめての拒絶。
今まで、どんな事でもまっすぐに受け止めてくれていた文ちゃん先輩からの、はじめての、そして絶望的なまでに明らかな拒絶だった。
僕はどうしていいのか分からなかった。
それでいて、混乱している頭の片隅は奇妙なくらい冷静なままで、いままでばらばらだったピースが、明確なひとつの形として構築されてゆくのも感じていた。
「…志賀君」
「あ…はい」
「…志賀君が悪いんじゃないんです。すべては…こうなることを予測できなかっ
た私が招いた事…」
…やっぱり。
僕は気づいてしまった。以前、泥口の事を話した時、彼女に感じた違和感、そしてどうして彼女が倉澤副部長を避けていたのかも。
「文ちゃん先輩」
僕の、押し殺したような低い声が保健室に響く。
「は…い?」
「文ちゃん先輩は、最初から泥口…コールタールもどきの事を知っていたんですね?…僕が話した時よりも前から」
「え…そ…それは…泥口って…?」
僕の指摘に動揺する文ちゃん先輩。それが答えだった。
僕は週末に寺のおっちゃんから聞いた昔話を、かいつまんで話した。
「そのコールタールもどき…泥口の事は、前から知っていたんでしょう?だからあんなにも安易に、僕の荒唐無稽な話を信じてくれたんだ」
「…それは…違う…」
「…何が『心の震え』だ。文ちゃん先輩・・・あんたはすべて知っていて、僕に接近してきたんだ。ただ単に、何か情報を得るくらいのつもりで」
「それはちが…違います…」
涙を浮かべながら首を横に振る文ちゃん先輩。
でも僕は許せない。何が?
今まで感じていた文ちゃん先輩…鬼橋会長の好意が…いや、好意だと思っていた事、あれらが全部、計算づくに思えたからだ。
鬼橋会長は、僕を利用していただけ。
…それに乗せられて、安易に信じていた自分も許せない。
「…それともうひとつ。あんたが副部長を避けていたのも気になってた。たぶん、副部長も、僕より前に泥口を見たんだと思う。その事とあんたが何か関わってるんじゃないだろうか?」
「……!」
鬼橋会長は蒼白になった。
…ああ、やっぱりそうかよ。こっちも当たりじゃないか。ははは。
「……」
鬼橋会長は俯いたままで、声を殺して泣いているみたいだった。
泣いている女の子。それも泣いているのは、僕がついさっきまで信じていた女の子。その女の子を泣かせたのは僕自身だという事実。
これまで、女の子とはあまり接点のなかった僕だ。女の子を泣かせてしまった事には少し罪悪感もあるけれど。
「はーい。はいはい、そこまでー」
鮎子先生が二人の間に入ってきた。
「志賀君?あんまり女の子をいじめちゃだめよ?」
僕と鬼橋会長は鮎子先生を見た。
その両手には、いつの間に用意したのか、温かそうな湯気を立てている紅茶の入ったカップがあった。
僕たちは椅子に座って、鮎子先生の淹れてくれた紅茶を、ただ黙々といただいた。
誰も、何も言葉にしなかった。
間が持たなくて、僕はまだ熱いカップを何度も口に運んでばかりいた。
文ちゃん先輩…鬼橋会長は俯いたまま。最初に一度口にしただけで、後はカップに手もつけていない。
気まずい沈黙の時間。
ややあって、最初に口を開いたのは鮎子先生だった。
「…落ち着いた?」
「あ…はい」と僕。
鬼橋会長もこくん、と無言で頷いた。
「ええっと…何から話そうかな?うーんと…じゃあまず志賀くんに」
「…何ですか」
僕は気のない返事をした。
「志賀くんにまず言っておくね。文ちゃんは、人を騙して利用する様な子じゃないよ」
「でも…」
「志賀くんは、文ちゃんに騙されてたって思うんだ?」
「だって、あ…鬼橋会長は、すべて最初から知ってて…」
僕が「鬼橋会長」という呼び名を口にする度に、彼女の小さな肩がぴくん、と震えていた。
「知ってたから…?知ってたから何なのかな?文ちゃんがそれで君を利用したんだ?ふぅん…よく分からないなあ」
ユーモラスな仕草で、大仰に首をかしげる鮎子先生。
「…じゃあ、わたしから逆に君に質問。文ちゃんは、一度でも、この件で君にああしなさいこうしなさいって、何か指示でもしたのかな?」
…あれ?そういえばそうだ。
「その…コールタール?うき…くち?…そいつについて、何か具体的な事とかは聞かれた?」
「一度、話しました」
「ふぅん。それから後、もう一回でもお話しした?」
「別に、これといっては…」
「うん。よっく分かった。じゃあ次、文ちゃん?」
あや…鬼橋会長は、顔を上げて鮎子先生を見た。
「文ちゃんは、倉澤さんが倒れたのは、自分が黙ってたからだと思う?志賀くんに、ああいう絵を倉澤さんに見せちゃダメって言わなかったから、こんな事になっちゃったんだと思うの?」
「…そういう事態も起こり得る、という事を想定できなかったのは私のミスです…」
会長は呟く様に言った。
「ちょっと想像力を働かせていれば、あんな経験をした志賀君が、悩んだ挙句にそれを絵にしようとする、そして志賀君は倉澤さんとの接点もあった…そんな事さえ思い至らなかった私の責任なんです…」
「あらそう。じゃあ責任取れば?」
鮎子先生は、ずいぶんと突っ放した事を言った。
「…でもどうやって…?彼女の心の傷を…」
「分からない?」
「はい…おねえちゃんは分かるんですか…?」
「わたしが分かるわけないよ。くすくす」
僕も鬼橋会長も、そのあまりにも無責任な答えに唖然としてしまった。
「…でもね文ちゃん。ひとつ言える事はあるよ」
「何でしょうか…」
「倉澤さんも、そして志賀くんも、そのナントカって化物を見た。これはおんなじね?」
「はい…」
「で、志賀くんは、そいつの絵を描くことで、自らの恐怖心を克服した。自分の心の中で恐怖心に決着をつけた。『浄化』しちゃったんだと思うよ」
…なるほど…言われてみれば、そんな気がする。僕も悩みに悩みぬいて、それであいつの姿を絵にしてみたら、何だこんなものか、なんて余裕が出てきたものな。
「でも、倉澤さんは克服できなかった。心の内側にしまいこんでおいただけ。しまい込んで、忘れてしまおうとしたのね。人は、恐怖心を心の奥底にしまいこんで、それを忘れる事でも、感情を抑えることもできるわ。でも、それは一時凌ぎ。何の解決にもなってない。こういう場合は、何かのきっかけがあれば、またその恐怖心が噴き出しちゃうの・・・こういう時って厄介よね。だって、それまで何の対処もしていない、無防備で脆弱な心の壁を突き破ってしまうのだから…たとえ、それを引き起こしたきっかけが志賀くんの絵だったとしても、それは克服できなかった彼女自身の心の問題。…さて。志賀くんも文ちゃんも、彼女自身が抱えた問題に、どうやったら責任を取れるのかな?」
「…自分の抱えた心の問題は、自分で解決させるしかない…って事ですか?」
そう答えた僕に、鮎子先生は微笑んだ。
「そう。問題を克服した君が言うと説得力があるね」
「…倉澤さんにできるでしょうか…彼女はもう…」
あや…鬼橋会長は、まだどこか不安げだった。
もう…って、どういう事だろう?
その後。鮎子先生のとりなしで、僕と彼女はお互いの非礼を詫びた。
「えっと…誤解していてしまってすみません…その、混乱しちゃって…」
「いえ、こちらこそ。私もキミを無下に糾弾してしまいました。恥ずべき醜態です」
まだ涙の跡が消えない鬼橋会長だったけど、その笑顔は以前の物に戻りつつあった。
「…それと志賀君?」
「あ…何ですか?会…長?」
「…できれば、前の様に…以前の様に名前の方で呼んでいただけないでしょうか」
「…あ」
それだけ言うと、文ちゃん先輩は僕の前から走り去ってしまった。
保健室の前で、一人取り残されてしまった僕。
文ちゃん先輩とは和解できた。それは幸いな事だ。
僕の思い込みで、彼女を誤解してしまったのは悔やむべきことだ。
…だけど、まだ疑問は残る。
倉澤副部長が、僕と同じ様に泥口を目撃したのは間違いないと思う。それに何とか助かった…というのも僕と同じだ。でなければこうして生きていられる訳がないし。
…でも。
それと文ちゃん先輩が、どう関係しているというのか?
文ちゃん先輩のことだから、副部長が泥口のおぞましい姿を思い出させない様に、色々と気を遣っていたのだろうとは思う。
…でも、そもそも何で文ちゃん先輩が、副部長が泥口を見た事を知っていたのか?
それに文ちゃん先輩が、なぜああまで副部長が取り乱した事に責任を感じているのか。
あとちょっと。あとちょっとですべてのピースが収まると思うんだけどなあ…
…ふと、微かな歌声が聞こえた。
「リンガ・リンガ・ローゼス、ア・ポケット・フル・オブ・ポーシス、アティッシュ・アティッシュ、ウィ・オール・フォー・ダウン」
保健室の中をのぞいてみると、もう陽の沈みきった冬の宵の空に向かって、窓辺で鮎子先生が、何やら不吉な歌を口ずさんでいたのだった。
20
この時すでに、「異変」はもう起きていたらしい。…僕の気づかないうちに。
その翌日、倉澤副部長は学校を休んだ。
僕は顧問の太田先生に呼ばれて、もう一度昨日の騒動の説明を一から繰り返す羽目になったけれど、蒼木部長や塚村さんたちも証言してくれて、結局は事の顛末の再確認をするに留まった。
太田先生が、一応反省文を出せと言ってきたので、ちょっと腹立たしいからB5のレポート用紙に15枚、一切の主観を交えず、時系列まで事の次第を正確にびっしりと文章化して、夕方までに紙面を文字で埋め尽くして提出した。
これでも文系科目だけは、学年でもけっこう上位なんだ。こういう無駄な事だけは無駄に得意だったりする。文系ナメんな。
…その分、理系は絶望的だったりするけど、それはこの件とは関係ないから語らない。
予想以上の膨大な量となった反省文レポートを受け取った太田先生は、
「…うー…あー、これだけの物が書けるんだから、まあがんばれ」
と、よく分からないお言葉を下さった。
なぜかものすごーく渋いお顔でございましたけれど、どこか具合が悪いのかな?わはは。
放課後。僕と塚村さんは二人で倉澤副部長のお宅を訪問することになった。
今日、学校を休んだ彼女のお見舞いと、昨日は太田先生の車で送ってもらったために駐輪場に置き去りになっていた、彼女の自転車を届けるのが目的だ。
僕と塚村さんが行くことになったのは、もちろん僕が昨日の一件の中心にいたこともあったけど、主な理由は、単純に僕と塚村さんの家が、副部長の家に近かったからだ。
副部長の家まで彼女の自転車を塚村さんに運転してもらって、その後は塚村さんの家まで僕が送るという手筈。そうすると、今度は塚村さんの自転車を学校に置いてゆかなくてはならないのだけど、これは翌日の朝、塚村さんのお父さんが車で彼女を学校に送ってもらう段取りになっていた。
…ホント、こういう時、不便だよなあ、わが上州群馬は。
学校を後にした僕たちは、側道に入った辺りで自転車を降りて押してゆく事にした。
今日も向かい風となっている空っ風が強くて、男の僕と塚村さんでは、こうしてゆかないと、自転車を漕ぐペースも揃わなくなってしまうのだ。
僕たちは、自転車を押しながら並んで歩いた。時間は掛かるけど仕方ない。
「…しがん。昨日のこと、気にしてる?」
塚村さんは、僕の顔をのぞきこむ様な姿勢で話しかけてきた。
「ん…実はあんまり気にしてない」
「やっぱり」
「そう見える?」
「見える。しがんのことだから、もっとオロオロするかと思ったのに。ちょっと意外」
「…僕はどんだけヘタレなんだ?」
「すごいヘタレ。ヘタレでなちゃしがんじゃない」
「…あのねえ」
「しがんって、あんまり人と関わりたがらないくせに、いつも人の顔色ばっか気にしてる」
…うーん。そうかなあ。
「だから見てておもしろい」
まったく表情を変えずに言う塚村さん。
「面白いか?」
「おもしろいというより、気になる」
「僕のことが?…さてはホレたか?」
「それはない。しがんはわたしの理想から一番遠い所にいる」
「そうだろうか?」
「そう。『ブレーメン5』のCA38様にはほど遠い」
…またディープなキャラを。
つまり僕が彼女の理想に近づくためには、まず記憶をなくした上でサイボーグにならなくてはいけないわけか。近づく気もないけどね。
「…そりゃ無理だ」
「おもしろいくらいに無理」
「何じゃそりゃ」
そんな、マニアックなのか間抜けなのかよく分からない会話をしているうちに、あの側道沿いの小さな橋、僕が泥口に襲われたあの場所にまでやってきた。
…ここを通るのも久しぶりだ。
事件の翌週の月曜の朝以来、もう半月くらい避けてきた道。
泥口の吐いた粘液で溶け落ちた場所は、まだブルーシートで覆われていて、修復工事も終わっていないみたいだった。
僕は思わずその場で立ち止まって、高架壁を見上げた。
あの夜の異様な体験は、今でもしっかり覚えている。
でも、恐怖心も何もわき上がってくることはない。
鮎子先生の言うとおり、僕はあの絵を描いた事で、きっと泥口に対する恐れをすべて浄化してしまったのだろう。
…さすがに、いくらこの場所に戻ってきたからと言って、またあいつに会いたいわけでもないけど。
「…しがんが描いたの、ここ?」
一緒になって高架壁を見上げていた塚村さんは、鋭い事を言った。
「どうして分かる?」
「ここ、絵の中であの子が出てきた川っぽい。新幹線の線路もある。あの背景とおんなじ」
さすが、観察力の鬼、塚村いのり…ってこれは前にも言ったっけか。
「あの子、呼べば出てくるかな?」
…それはゴメン蒙りたい。
「いやあ…出てくる訳ないよ。第一、アレは僕の想像の産物だ」
「うそ」
「うそなものか」
「しがんのお安い想像力じゃ、ああいうのは描けない」
「描けるさ。つか、描いた」
「じゃ、モデルは?」
「洗濯機の排水ホース」
これは別に嘘ではない。実際に、家の洗濯機のホースをよく観察して参考にしたし。
「う…説得力がある」
さすがの塚村さんも、これには論破されたとみえる。
「でも一応呼んでみる。おーい。おーい。出ておいでー。安次郎、出てこーい」
塚村さんは諦めが悪かった。橋の脇のガードレールから身を乗り出して、川に向かって呼びかけている。それはそれとして、何だその「安次郎」というのは?
「われながらいい名前だと思う」
勝手に名前つけんな。せめて弥平か安仁和尚にしなさい。
「弥平はいいとして、何で和尚?…ぼーさん?」
あ、しまった。ついうっかり話してしまった。
とはいえ、あの泥口の話をするわけにもゆかないので、僕は父から聞いていた、ムジナに化かされて死んだ坊さんという、この界隈で伝えられている方の話の方をした。
「その話なら、わたしも聞いたことがある。でも、わたしが聞いたのはムジナじゃなくて河童だった」
…そんなバージョンもあったのか。
「昔、この辺りで駐在さんやってたウチのじいちゃんから聞いた」
…噂の出所の管区さんって、塚村さんの身内会。塚村さんは、なおも川に向かって呼びかけた。
「おーい、おーい、やすじろー?ヤス~?」
「…やめとけよ」
まさか出ないとは思うけど…だってあいつ、蝙蝠女にばっさりやられてたし…
「おいしいごはんあるよ~」
「お、おい!本当にやめろってば」
…あいつらはホントに人間をごはん扱いするんだってば。
「ヤス~?ヤスこ~?ヤスのすけ~?」
幸いというか、塚村さんがいくら呼びかけようとも、あの川からもう一度泥口が出てきそうな気配はなかった。
…でも、弥平とか安仁って名前で呼んだら、あるいは…?
いやいやいや。そういう事は考えない様にしよ。
塚村さんを急かす様にその場を離れた僕たちは、やがて副部長の家に到着した。
彼女の家は、泥口の出現橋現場から北におよそ3キロほど進んだ住宅地の一角にあった。
それなりに大きな農家で、今時珍しい茅葺の屋根の古風な佇まいだ。
けっこう広い庭の片隅には池があって、その隣には納屋もある。
その反対側には農機具置き場や、耕耘機とか軽トラックを置いてある車庫もある。
どこからか、鶏の鳴き声も聞こえている。
副部長のご両親は外出中だったけど、お婆さんが留守番をしていたので、僕たちは土間にお邪魔させていただいて、自転車を届けにきた旨を伝えた。
「それはそれはありがとない。由美子は今着替えてるでな、ちょっと上がって、お茶でも飲んでき」
気のよさそうなお婆さんは、僕たちに何度も感謝してくれた後でそう言った。
僕としても副部長の具合は気になっていたので、お言葉に甘えさせていただく事にした。
土間で靴を脱ぎ、一段高くなっている家の中に上がらせていただくと、そこはもう、けっこう広い茶の間になっている。
僕と塚村さんは腰を下ろして、ちゃぶ台に置かれたお茶とお茶菓子(主にお煎餅)、それに白菜とか沢庵のお漬物…という、この地方では典型的なティータイムのラインナップを御馳走になった。
どこの田舎でもそうなのかもしれないけど、こういう場では、油断していると湯呑みに際限なくお茶が繰り返し繰り返し注がれてしまう。
新任の先生が、家庭訪問先で一度は経験するというアレだ。
ホスト側としてはおもてなしに気を遣ってくださるのだろうけれど、さすがに三杯・四杯目くらいになると、茶腹になってきて苦しいものだ。
お婆さんとのお話に気を取られていると、気づかないうちにいつの間にか自分の手にしている湯呑にお茶が注がれていたりするから恐ろしい。
お茶を継いでくれるのは、今こうして面と向かって僕と話しているお婆さんのはずなのに、いったいいつの間にお茶を注いでいるのだろうか?
会話の間に、ごく自然な手つきで急須を手にする、そのステルスワークたるや恐るべし。
僕たちがいい加減茶腹になって、内心うんざりしてきた頃に、奥の部屋から副部長が出てきてくれた。
「…いやぁー、昨日はなんかゴメンね」
照れ臭そうに頭を掻きながら、倉澤副部長は謝ってきた。
彼女も腰を下ろすと、ちゃぶ台の上のお茶菓子を手にして、ぱくっと口に放り込んだ。
「せっかくの志賀君の力作をひっちゃぶいちゃって、ほんと申し訳ない」
「あ、いえ、それはもういいんです。ってすっきりしました」と僕。
「しがんの隠れた才能が見れただけでもグッド」と、これは塚村さん。
いや、それももういいから。
「おまけに、あたしの自転車持ってきてくれたんだって?ありがとー」
そう言いながらも、副部長はちゃぶ台のお茶菓子や漬物を、次々と平らげてゆく。
「いえ…どういたしまして…」
僕も塚村さんも、副部長の異様な食欲には目を見張った。
「これ由美子!お客さんの前ではしたない!」
見かねたお婆さんの叱責にも、副部長は平然として、
「…だってお婆ちゃん。さっきからお腹が減ってさあ…晩ごはん、まだ?」
とっくにお茶菓子入れの中を平らげて、今はお皿の上の白菜を楊枝でつまみながら、副部長はそう言ったのだった。
気まずくなった僕たちは、お大事にと声を掛けてその場を退散させていただいた。
「じゃ、また明日ねー」と手を振りながら見送ってくれた副部長は、今度はお煎餅を袋ごと手にしていたのだった。
僕はそのまま塚村さんを家に送ることにした。
辺りもだいぶ薄暗くなっていて物騒なので、僕は自転車を降りて押しながら、徒歩の塚村さんと並んで歩いた。彼女の家はここから新幹線の側道沿いに、さらに北へ一キロくらいは歩く。この付近になると、新幹線は完全に地下のトンネルを通る様になるので、側道と
は言っても線路は見えず、フェンスに遮られた小山が連なっているだけなのだけど。
「…ふくぶちょう、すごい食欲だった。おそれいる」
半ば呆れた様な、あるいは感心した様な顔の塚村さんだったけど。
「うーん…そうだなあ…」
僕は、副部長の異様な食欲の原因が気になっていた。
…だって、これってどこかで聞いた様な展開じゃないか。
…まさかとは思うけどね。副部長、別に土とか食った訳じゃないだろうし。
ため息をついて空を見上げると、冬の夜空には星が輝いている。もうそんな時間か。
そのまま視線を、これまで歩いてきた方角に向ければ…ん?
気のせいかもしれないけれど、視線の片隅、新幹線トンネルの小山の上を、人影らしき物が物凄いスピードで南側に走ってゆくのが見えた。
…かなり小柄な人物の様だ。どうやら体格にそぐわない様な大きなマントを羽織っているらしく、そのマントが風にはためいて、翼を広げている様にも見える。
その人影は時々、驚異的な跳躍力で小山の上を飛び跳ねた。あれはおそらく、一度の跳躍で数mはジャンプしているだろう。
「塚村さん…アレ、何だろ?」
「なに?」
僕が指差す方向を彼女が見た時には、人影(?)は側道の反対側に下りて走り去ったのか、もう見えなくなっていた。




