彼の名前
翌日、私はまたあの橋の下に来た。
またあの子がいるかもしれない
っていう微かな希望があったから。
別に会いたくなかったけど、落とし物を渡さなきゃいけないから。仕方なく来たんだから。
そして、
~~♪、~♪~~~♪
和音「やっぱりいた!」
すると男の子がこちらを振り返った。
「またお前かよ、何の用だ?」
和音「お前じゃなくて和音だって言ってるでしょ!それよりもほら!これ!」
私はポケットを探り、
小さな手帳を取り出した。
すると男の子は慌ててその手帳を取り返した。
そして、一層低い声で
私に呟きかけた。
「…中、見たのか?」
私は慌てて首を振った。
和音「見てない見てない!表紙を見ただけ!…って言うか、アンタも橘学園の生徒だったのね。瀬川奏斗。」
奏斗「…チッ、」
手帳の表紙に表記されていた彼の名前は"瀬川 奏斗"(セガワ カナト)、だったはず…、
どうして彼が同じ橘学園の生徒だって分かったかと言うと、この手帳は学園独自で生徒に配布しているものだったから。
中には五線譜や音階表等、音楽に役立つ物が全て導入されている。
勿論私も愛用しているし。
でも…、
私は彼の名を知った時、
心の中にある取っ掛かりができた。
話は橘学園の先輩のことになる。
瀬川 楽斗先輩、
三年生で声楽科の首席であり
学校の首席である
みんなの憧れの存在。
私は器楽科だし
成績なんて並の並以下だから
かなり遠い存在だけど、
一度だけ先輩を
見る機会があった時、
確かにみんなが憧れる理由が
分かった気がした。
私は瀬川奏斗の顔を
さりげなく見た。
…うん、顔立ちがそっくり。
そして何よりハミングを
歌っている時の歌声は
楽斗先輩とよく似ている。
とすると…、瀬川奏斗は楽斗先輩の双子?
色々悶々と考えたけど、
結局何も分からなかった。
奏斗「…おい、何だよ。用が無いなら早く行けってブス。」
和音「うっさい。私がブスなんて元々知ってるわよ。…瀬川奏斗、悪いけど気になることが出来たから明日も来るから。」
奏斗「は?!…おいブス!!ふざけんなよ!!」
和音「和音だっての!!じゃあね!!瀬川奏斗!!」
そして私は数日間この橋の下に通い詰めた。
その度に瀬川奏斗は文句を言っていたものの、質問には一応答えてくれるようになった。
…まあ、本当に一応だけど。
和音「瀬川奏斗は何科なの?」
奏斗「お前に教える義務はない。少なくとも器楽科ではない。」
和音「三年ってことは、卒業演奏会の課題決めたのよね。どんな曲にしたの。」
奏斗「さっさと帰れブス。曲なんてまだ決めてねぇし。」
本当にこの男は、語頭に嫌みを言わなきゃ会話が出来ないのか。
あと、ブスブス言ってんなよ。
好きでブスに生まれて来たんじゃないわ。
そして、一週間が過ぎた頃だった。
奏斗「…おいブス。」
和音「和音だっての。ふざけんな。」
奏斗「毎日毎日ここに来て、放課後のレッスンはどうしたんだよ。サボりか。」
チクリと、胸が痛んだ。
初めて会話が成立した喜びも多少はあったけど。
まあ、触れてほしくはなかったところだよね。
和音「……私にレッスンしてくれる人、いないから。」
珍しく、沈黙が走った。
いつもならどちらかが文句を言い合っているのに。
チラリと隣を見ると、これまた珍しく瀬川奏斗が言葉を選んでいるようだった。
奏斗「……………………お前、訳ありなのか。」
和音「別に…。私は言われたことやってるだけだから。問題も何もない…はず。」
私の父と母、先生、友達…みんな。
私のことなんてね。
何とも思って無いだろうし。
いや、これは言わなくていいことだよね。
第一、コイツに話してもバカにされるだけだ。
私が口ごもっていると瀬川奏斗は
どこか遠くを見てこう呟いた。
奏斗「…音楽ってのは"音を楽しむ"って書くんだよ。
音を楽しまなきゃ音楽にならないんじゃねぇのか?
お前の奏でる音は"音が楽"じゃなくて、"音が苦"だよ。きっと。」
和音「瀬川奏斗…。」
奏斗「奏斗でいい。フルネームヤメロ。」
まともなこと、言えるじゃん。
ちょっとだけ感動しちゃったよ。
本当にちょっとだけね。
私は空気を変える意味も込めて
楽斗先輩との繋がりを
奏斗に尋ねることにした。
和音「ねぇ、話題変わるんだけど…、奏斗って瀬川楽斗っていう人知ってる?」
すると奏斗は一瞬だけ
目を見開き、悲しそうな顔になった。
和音「…え?」
奏斗「俺の前でその名前を出すな」
奏斗の悲しそうな
顔を見ていると何だか
これ以上聞く気には
なれないと思った。
なんて言えばいいんだろ。この気持ち。
切ない?悲しい?苦しい?
奏斗の顔はそんな顔だったから。
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