紫と碧と橙の約束①
※瀬川兄弟過去回のみ第三者視点で話が進みます。
―――――五年前、イギリス国某所。
ロット「カナト、ガクト、そろそろレッスンは終了してランチにしよう。」
奏斗「ああ、そうしよう。」
楽斗「分かりました。兄さん、僕が準備しますから座ってて下さい。」
瀬川兄弟は現地で有名な声楽家の所へホームステイしながら日々レッスンに明け暮れていた。
奏斗「ロット、今日の俺達はどうだい?」
ロット「最高だったよ、やはりガクトもカナトも日本から呼んだだけあったさ!!
このままイギリスに居てくれるなら直ぐにでも俺の合唱団に入れてあげるんだが…」
リディ「ダメよ、彼らはまだ学生なんだから。学校を卒業したら是非ロットの合唱団に来て歌ってちょうだい。」
楽斗「兄さん、是非ともそうしたいですね。」
奏斗「ああ。もちろんさ。」
ロット・ビリーという初老の男性。
ブラウンの髪をお洒落にショートに切り揃えた笑顔の素敵な人。
彼は2人の師と誇る、国内は勿論世界的にも有名な声楽家だった。
そして彼の妻、リディ・ビリー。
彼女はロットの幼なじみで歌は習っていなかったが音感に優れており、ピアノがとても得意だった。
彼らは普段ホームステイは受け入れていないが、瀬川兄弟のアンサンブルに惚れ込んだらしく直々にオファーがあったらしい。
2人は1ヶ月半程この家にお世話になっているがとても居心地が良く、毎日のレッスンもとても充実していた。
そんな幸せな毎日を送る最中、突如として奏斗の身体に異変が起きた。
――――――――――――――
奏斗「~♪、~~♪…っ、げほっ!!げほっげほっ!!」
ロット「カナト?大丈夫か?」
楽斗「兄さん、薬です。」
奏斗はここ3日間ずっと喘息の発作が続いていた。
小さい頃から元々小児喘息を持っていたため、極力空気の環境や発声等に気を遣っており、何年も発作は出ていなかったのだが、
段々と熱が出始めて、気がつくと体温計は40度を越えていた。
身体は火照り、動きも鈍く食欲も無いため、無理矢理食べては吐いての繰り返しだった。
ビリー夫妻は酷く心配し、何人もの医者を往診で迎え入れたが誰一人として奏斗の容態を安定させることは出来なかった。
楽斗もビリー夫妻も途方に暮れている時、ある一人の医者が奏斗の元へ訪れた。
腰を曲げて、よぼよぼと覚束無い足取りで歩む医者自身に心配してしまう様子だが…。
彼の名はルルード・ヒルデリー。
巷ではあまり良い評判を聞かない医者だが腕は確からしく今まで数々の患者の命を救っていた。
彼は熱に魘される奏斗を一目するとおもむろに診察を始めた。
聴診器で心音を聞いたり、喉の奥を見たり、腹部を触診したり…、
やることは今までの医者と変わりなかったのだがカルテを書き進める手だけはしっかりとしていた。
そして…、
ルルード「簡単に言うと、彼は肺炎を起こしておる。それに元の喘息が誘発されて呼吸もくるしいんだろう。肝臓の機能も低下しているし、その上に声帯の辺りに腫瘍らしき物が小さく見えた。良性か悪性かは病院に来て詳しく調べなきゃ何とも言えないな。」
楽斗「に、兄さんは…!!何か大変な病気なんですか…っ!!」
急に立ち上がった楽斗は目眩に襲われてへなへなと座り込んだ。
ルルード「お前さん、きちんと食べて眠らなくてはこの彼の様に寝たきりになってしまうぞ。」
ロット「ガクト、無茶はするな!!…ルルード先生、ガクトにも治療を頼む!!」
ルルード「勿論だ。」
もう何日も満足に睡眠も取らず、飲まず食わずで奏斗を看病していた楽斗は奏斗に負けないほど顔色が悪かった。
ルルード氏は薬を幾つか取り出すと奏斗と楽斗に投与し、部屋を後にした。
楽斗「兄さん…っ、」
未だ意識が朦朧としている兄の手を握り締めて楽斗はただ回復を祈るばかりだった。
――――――――――――
その後、ルルード氏の治療の甲斐があって奏斗は無事回復したが、
声帯の腫瘍の事もあり楽斗よりも早く帰国することを周りから促されていた。
しかし、奏斗は断固として首を縦に振らなかった。
もし今入院してしまったらロット氏の合唱団へ入団する話が白紙になってしまうかもしれない。
弟の楽斗だって、アンサンブルを見込まれた為に奏斗がダメになってしまうと入団を拒否される可能性だって有る。
自分はダメでもせめて楽斗の為にレッスンは続けよう。
そのために喉の違和感を抱えながらも必死にレッスンを続けていた。
そんなある日、奏斗の耳にとんでもないニュースが飛び込んできた。
パタパタパタパタ…バンッ!!
奏斗「楽斗っ!!お前ロット先生の合唱団への勧誘断ったらしいじゃねぇか!!!!!!!!
あんなに入団希望してたのに、一体どういう了見してんだ!!!!!!!!!!!!」
楽斗が個人レッスンしていた部屋のドアを乱暴に開くと開口一番に怒鳴りつけた。
楽斗は1人で弾き語りしながら練習をしていたらしく、ピアノ椅子に腰掛けてピアノを弾いていた。
すると、楽斗は眉間に皺を寄せて奏斗を睨んでいた。
楽斗「"どういう了見してんだ"…それはこっちの台詞です。
………何故自分の身体を労る事もなく、我武者羅に歌っているんですか!!唯でさえ声帯を患っている可能性が高いのに!!」
楽斗が声を荒げたことに驚き、初めは目を見開くばかりだった奏斗だったが、後々苛立ちが勝り勝手に口が動き出す。
奏斗「…それは、近い将来俺が病気で使い物にならない可能性があるから、二度と俺とアンサンブルが出来なくなるかもしれないから、将来を約束されたも当然の道を蹴ったのか?」
楽斗「っ!!誰もそこまで言ってません!!」
バンッ!!と、ピアノの蓋を乱暴に叩く。
楽斗「とにかく兄さんは早く帰国して診察を受けるべきです!!もし大変な病気だったら取り返しのつかないことになってしまうかもしれないんですよ!!」
双方肩で息をしながら睨みつける。
瀬川兄弟がこんなに息を荒げながら喧嘩をすることは無く、そもそも、温和な楽斗が奏斗を怒鳴りつける事はあまり無いことだった。
楽斗は持っていた楽譜を畳み、部屋を立ち去ろうとする。
しかし奏斗は楽斗の肩を掴みそれを制止した。
奏斗「どこ行くんだ。まだ話は終わっちゃいねぇよ。」
楽斗「……僕は、兄さんの無事を確認するまで進路は決めません。ロット先生の話を断ったのも兄さんの身体に巣喰う病魔が何なのか解明するまで入団は見送らせてもらうと返答したんです。……だから兄さん、お願いです。早く帰国して無事を確かめてきて下さい!!それからでも遅くは無いんです!!」
しんっと、部屋に静寂が走る。
奏斗は楽斗の肩を掴む手を離して背を向けた。
奏斗「わりぃけど、俺は帰らねぇよ。」
楽斗「っ、どうして、分かってくれないんですか?」
奏斗の声のトーンに楽斗も何らかの意志があると見えて問う。
奏斗「今帰ったらきっとダメなんだ。もうここには戻って来れなくなる。そうしたら楽斗の合唱団に入る話が無くなっちまう。…それは避けたい。」
楽斗は乱暴に背を向ける奏斗を振り向かせてある物を投げつけた。
楽斗「じゃあ兄さんは!!…っ、僕が合唱団に入団出来なくなるかもしれないから自分の命を擲って今ここにいると!!…あれだけ心配してくれているロット氏やリディ氏の意志を無視して自分の好き勝手に歌い続けると!!…兄さん、あの日の約束を忘れたんですか!!このガラス玉に込めた願いを!!…っ」
唇を戦慄かせて怒る楽斗。そして彼はそれ以上何も言わずに立ち去って行った。
残された奏斗は楽斗が投げつけていった物を拾いまじまじと見る。
小さな巾着袋に入ったそれは綺麗なガラス玉だった。
『必ず、必ずだから……。約束だからね!!』
奏斗「勿論……、忘れるはずねぇじゃねぇかよ。」
奏斗はガラス玉をポケットに仕舞うと部屋を後にした。
―――――――――――
その後、容態が悪くなってきた事もあり、奏斗は楽斗よりも早く強制的に帰国することを余儀なくされた。
そして、空港にはビリー夫妻が見送りに来てくれていた。
顔色の優れない奏斗を心配してつきっきりでここまで来てくれていたのだった。
奏斗「…げほっ、げほげほっ!!…ロット先生、リディさん、お世話になりました。」
ロット「早く身体を治して戻ってくるんだ。俺もリディもみんな待ってるさ。」
リディ「何年経っても貴方は私たちの大切なファミリーよ。愛してるわ、カナト。さよならは言わないからね。」
互いに抱擁を交わすと奏斗は脇見も振らずに飛行機まで直行した。
――――――――――
…奏斗が帰国する時、楽斗は見送りに来なかった。
部屋で1人、楽譜と向き合って溜め息をついていた。
ビリー夫妻には調子が悪いからと嘘をついて見送りに行かなかったが、本当は喧嘩した気まずさで奏斗と顔を合わせたくなかったのだ。
楽斗自身、奏斗にあれだけ言ってしまった事に対して後悔していたのだった。
大好きな兄さん。
僕の自慢の兄さん。
だからこそ自分の身体は労って欲しかった。
あの日僕らが交わした約束を兄さんは忘れてしまったのかな。
"あの子"と一緒に交わした大切な約束。
それから暫くぼーっとしていると玄関の扉が開く音がビリー夫妻の帰宅を告げた。
楽斗は部屋から出て2人を出迎える。
楽斗「お帰りなさい。」
ロット「ガクト!!身体は大丈夫か??」
ロットにぺたぺたと身体を触られて少したじろぐ。
楽斗「ぼ、僕は大丈夫ですよ…、少し風邪気味なだけです。」
リディ「ガクトまで身体を壊してしまったら大変だわ。カナトの分までガクトは元気で過ごさなきゃダメよ。」
リディに頭を撫でられて少し気が落ち着いた。
そうだ。僕は兄さんの分もたくさん本場の音楽を吸収して帰らなければならない。
その後楽斗は1ヶ月半、ビリー夫妻の元で本場の声楽を学んだ。
.




