7 衝突
夫は朝早く釣りに出かけた。
いつもの友達と一緒らしい。
1人の部屋で、私はゆっくり念入りにメイクする。
ワンピースなんて何年ぶりに着たかな。
そわそわと出掛ける。
11時にビルの前で待ち合わせ。
個展を見て、一緒にランチの予定だ。
夕方には帰ると決めている。
夫が釣った魚を捌くのは、私の仕事だ。
個展はそれなりに混んでいた。
私の好きな画風とはかけ離れていたが、なかなか興味深かった。
自分では選んで出掛けないだろう。いいチャンスをもらった。
たまには好みと違うものに触れるのもいい。
「ありがとうございました」
「気に入ってもらえて良かったよ。僕は、この画家が好きでね。何枚か家にも会社にも飾ってるんだ」
それはきっと本物の絵の事だろう。
絵葉書で満足している私とは、ちがう。
「さて、お昼も僕の選んだ店でいいのかな」
「はい。お願いします」
増井に連れられて店に向かう。
オフィス街から離れて、駅前へ。
「駅の向こう側なんだ。ちょっと歩くけどいいかな」
「大丈夫です」
駅前は日曜だから混雑している。
雑踏の中、トントンと背中をたたかれて振り返る。
「美絵、何してんだ」
夫だ。
「え。何って・・・絵を見てきたの。そっちこそ何してんの?釣りは?」
「途中までいったら、竹沢から電話が来て。子供が調子悪いってドタキャンされた。仕方ないから帰ってきて、飯食いに出てきたところ」
「そうなんだ」
「で、その男は誰?」
「あ、えっと・・・うどん屋によく来る常連さんで・・・」
うまく説明できないでいると、増井が口を開く。
「どうも。はじめまして。増井と申します。いつも奥様にはお世話になっております。たまたまチケットをもらったので、今日は個展にお誘いしました」
「ふーん。ご丁寧なご説明、痛み入ります」
夫は不機嫌な様子を隠さず言った。
「おまえ、学生時代もちょこちょこ絵を見に行ってたよな。あれも男連れだったわけか」
「え?何言ってるの?」
「別に」
「・・・」
「ちょっと落ち着こう」
増井が夫をなだめる。
「俺は冷静ですよ。お邪魔しましたね。失礼します」
夫がくるりと向きを変え、足早に去る。
「どうする?」
増井に聞かれ、私は唇を噛んだ。
「すいません。帰ります」
「そう。それがいいね」
走って夫に追いついたが、何もかける言葉がみつからない。
謝るべきなのか?
謝らなきゃいけないのか?
家に着くと、何もなかったように夫はソファでテレビを見始めた。
「腹減った」
言われて、私は適当に残り物で食事を用意する。
「いただきます」
何もなかったように食べ、何もなかったようにくつろぐ夫。
責められた方が楽だ。
見て見ぬふりは、一番残酷だから。
「ごめんなさい」
私から謝った。
「別に、怒ってない。勝手に誰とでもどこでも行けばいい」
「怒ってるじゃん」
「ガッカリしただけだよ。おまえが2人で出掛けたいってうるさいから、せっかく予定空けてやったのにさ」
「・・・なにそれ」
「は?」
「なんか、嫌々私と出掛けてくれるみたいに聞こえるんだけど」
「そんなことは言ってないだろ。ただ、俺は友達と色々楽しみたいのに、おまえは2人がいいって言い張るから」
「なんで?たまには2人きりで出掛けたいって思うの、いけない?結婚してから全然デートなんてしてないんだよ。私、3年、ずっと待ち続けてるんだよ」
「別に毎日2人でいるんだから、いいんじゃないか?」
「は?毎晩遅くて顔合わせる時間なんてほんの少しじゃない。飲んでばっかりで」
夫が沈黙する。
言い過ぎたのだろうか。
でも、ここまで来たら止まらない。
「平日は誰かと飲んでくるし、休日は誰かと出掛けちゃうし。私の存在ってなに?友達?それとも友達以下なの?」
「なんだよそれ。おまえとは家族だろ」
「家族は話し合わないの?イチャイチャ出来ないの?」
「・・・だって今更だろ」
着地点が見えない。
このまま平行線をたどっても、何も変わらない。
「私、本当はもっとあたなと一緒に過ごしたいのに。いろんな所に出掛けたいし、いろんな話したいし、キスもしたいし」
「キスはしてるだろ」
「あれは・・・ただの挨拶じゃない。そういうんじゃなくて」
「・・・」
「キスだけじゃない。セックスだってしたい」
「・・・」
ここまで来たら、もう全部ぶちまけるしかない。
その結果がどうなるかは、わからないけど。
「俺も言わせてもらうけど」
夫が決意したように言葉を発する。
「我慢してたのは、おまえだけじゃない」
「俺はおまえに家にいて欲しかった。昼間はいいけど、夜、帰って部屋が暗いのはいやだった。冷めた飯を自分で温めるのも、嫌だった。結婚ってもっとあったかいと思ってた」
私は夫の次の言葉をじっと待った。
「まあ、もともと俺が早く帰ってこない日が多かったからな。おまえも遅くても良いって思ったのかもしれないけど。でも、早く帰れる日もあったのに。どうせおまえ居ないからって思ったら、帰るのが面倒になってきた」
結婚して化粧もあんまりしなくなったし。
服もジーパンばっかだし。
夜な夜なうどん食ってるせいか、ずいぶん太ったし。
朝だって、寝ぼけ眼でボサボサな頭のままキスされても、正直、やる気なんて起きないんだよな。
「俺が放っておくからいけないんだ、っておまえは言うんだろうけど」
「俺としては、俺が惚れ直すくらい、良い女でいてほしいわけだよ」
男なんて、身勝手な生き物だ。
だけど、そんな男に惚れたのは、自分。
私は泣くつもりもなく泣いていた。
感情が高ぶると、涙は勝手に流れ落ちる。
「泣くなよ」
「ごめん。泣きたくないんだけど。ごめん」
夫は抱きしめて慰めてくれない。
私は抱きついて甘えられない。
私たちは、もうダメなのだろうか。
「ごめん、シャワー浴びてくる」
「ああ」
夫を1人残し、風呂場へ駆け込む。
熱いシャワーを頭からかぶり、止まるまで泣き続けた。
ひととおり泣いて部屋に戻ると、夫の姿はない。
どんな顔をすればいいのかと思っていたから、ありがたかった。
テーブルには書置き。
「ちょっと出てくる。先に寝てていい」
私は、ぼんやりとソファに座っていた。
カーテンを空けたままの部屋が、真っ暗になる。
ようやく重い腰を上げたが、夕飯を食べる気もしない。
私はそのまま布団に潜った。
夫はちゃんと帰ってくるだろうか。
このまま居なくなってしまったりしないだろうか。
眠れないまま何度も寝返りを打つ。
私は言うべきではないことまで言ってしまったのではないか。
今まで通り我慢していれば、ぶつかることなんてなかったのに。
飲み込み続けていればよかったのに。
表面上、うまくいっていたじゃないか。
でも。
それって夫婦なのかな。
結婚ってそんなものなのかな。
ガチャ
ドアの開く音がして、夫の気配が近づく。
帰ってきてくれた。
ホッとしたが、どう接していいかわからない。
私は寝たふりを続けた。