1 そろそろ
「いってらっしゃい」
夫の駿をキスで送り出す。
玄関でのこのキスが、私達夫婦の唯一のスキンシップだ。
前田美絵から高杉美絵になって、3年。
18歳で付き合い始めたのだから、かれこれ12年一緒にいることになる。
いつからセックスレスになってしまったのだろう。
最後に夫に抱かれたのは、結婚式の日か。
仲が悪いわけではない。
とても仲の良い友人のような関係なのだ。
義母や周りから「子どもはまだか」と聞かれる度に辛い思いをしたこともある。
出来るわけがないじゃないかと、全てぶちまけられたら、どんなに楽かと思った。
作らない夫婦だっているし、欲しくても出来ない夫婦もいる。
他人が口を出すことではない。放っておいて欲しい。
先に結婚出産した妹も、よくため息をついていた。
1人目が生まれれば2人目はまだかと言われ。
男の子2人だと次は女の子だと言われ。
何から何まで、他人は身勝手に意見してくるのだ。
悩む時間がもったいない。
私は悩むことを放棄した。
それはとても楽だ。
表面上だけ楽しく付き合う。
互いに好きなように暮らし、顔を合わせれば笑っておしゃべりする。
そもそも、結婚だって「そろそろ」と周りに言われてしただけなのだ。
同棲のままで良かったのに。
「そろそろ」とは何なのだろう。
何が基準で誰が決めるのだろう。
寿退社し、私はパート勤めになった。
夫となるべくすれ違わないように、家で待っていられるように。
そう思って家からすぐのうどん屋で働き出して3年。
人手が足りないとすぐ駆り出される。子どもがいないからと夜のシフトが多い。
入れ替わりの多い従業員の中で、3年経つとそれなりに頼られる存在になった。
以前よりも私と夫はバラバラになってしまった。
どうせ夫は毎晩遅い。家で1人待つよりも、働いている方が楽しかったのも事実。
「高杉さん、遅いから送っていきますよ」
アルバイトの馬場 樹が声を掛けてくる。
閉店後の片づけをして、時刻は23時20分。
30歳でこんな女の子扱いされると、くすぐったい。
でも、樹はいつもこんな調子なのだ。
「今日のピアス、かわいいですね。エメラルドがよく似合ってます」
接客業なので、小ぶりの目立たないアクセサリーしかつけられない。
小さな小さなピアスなのに、樹は目ざとく見つけて誉めてくれるのだ。
21歳大学生。土日の夜しかシフトを入れていないので、まだ数回しか一緒になっていない。
それなのにこれだ。
きっと私がもう少し若かったら、勘違いしてしまうだろうな。
「ありがと。でも大丈夫。家近いし、自転車だから」
「そうですか」
あっさり食い下がる。本心で心配してるわけではないのだろう。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
ひらひらと手を振ってドアを出ると、携帯が震えた。
「今日も遅くなる」
夫から一言だけのメール。
私の仕事が終わる時間を見計らって送ってきたのだろう。
電話じゃないのは、小言を聞きたくないからだ。
私も電話を掛けたりしない。掛ければ出るだろうけど。
「了解。お疲れ様」
返信はそれだけ。
それだけで十分。余計なことはいらない。
家に帰って風呂を済ませると、レンタルしたDVDを見る。
去年流行っていた恋愛映画。
画面の中では若い男女が激しく抱き合っている。
私達だってそんな時期がなかったわけではない。
しかし、いつの間にか熱は冷めてしまうのだ。
白々しい気分になって、私はテレビを消した。
うーんと伸びをして布団に入る。時計は0時を回っている。
今日も午前様か。