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夢のせせらぎ

作者: 朝里 樹


夏風の 薫る川辺は 彼の人の 微笑み見せし 夢のせせらぎ



 私には夏になると、思い出す人がいる。

 何年も前、私と一緒に時を過ごしてくれた人のことだ。


 川の流れに足を浸しながら、私は夏の木漏れ日に目を細める。あの人と出会ってから、幾度目かの夏がやって来ている。

 とある深山(みやま)の森の奥、私はその川の側で生きている。私は、水がないと生きられないから。

 私は人間ではない。私自身、自分が何なのかは分からない。ただ、自分が(あやかし)という存在で、濡女子(ぬれおなご)と呼ばれていることは知っていた。


 元々私は、海の近くに住んでいた。だけれど海の側には人がたくさん住んでいる。私は人間ではないから、彼らに受け入れてもらうことはできなかった。

 濡女子が微笑みかけて、人が微笑み返すと、呪われるのだと、人は言っていた。私は人に笑いかけることも許されてはいなかった。


 だから、私は川に流れ込む水を伝って、この山の中に辿り着いた。ここには人がいないから、私は平らかに生きることができている。

 だけれども、共に生きるものはいない。私は生まれた時から一人だった。自分が何者なのか分からずに、ただ拒絶されて生きていた。


 拒まれるくらいなら、誰とも関わらない方が心は安らぐ。だから、ここでの生活は苦ではなかった。ただ、川と森とを眺めて、自然の音を聞いている日々。そんな日々は嫌いではなかった。


 そんな暮らしが、幾年ほど続いたのだろう。私の寿命は人より長い。そのせいか、時間の流れに疎かった。人里に降りることもなかったから、どれだけの時間が経ったのか、見当を付けることもままならない。この場所は、ほとんど変化のない場所だから。


 そんな時が止まってしまったような場所に、変化が訪れた。

 そこに人が現れた時、私はひどく驚き、そして怯えた。それは小さな男の子だったのに、怖くて仕方がなかった。

 だけど、その男の子は泣いていた。心細そうに、寂しそうに。だから私は、声をかけようと思った。泣きたいほどの寂しさは、私も知っていたから。


 少年は、秋人と名前を名乗った。私には名前がなかったから、名乗ることはできなかった。困っていると、秋人は私に名前を付けてくれた。

 その名前は、(しずく)。私の指先から落ちる水滴を見て、思いついたのだと秋人は言っていた。私は初めて名前を貰って、本当に嬉しかった。私は水の妖だから、きっとぴったりな名前だと思う。


 秋人は、人里に帰りたいのだと私に言った。山の中で遊んでいて迷ってしまったのだと言う。

 久し振りに誰かと話すことができて楽しかったけれど、いつまでもこの子をここに留めておく訳にはいかないと思った。だから、私は昔の記憶を引っ張り出して、この川に沿って山道を下っていけば、帰ることができると教えてあげた。


 帰り際、秋人は私に、どこに住んでいるのかと尋ねた。私は、いつもここにいると答えた。すると、秋人はまた遊びに来ると言ってくれた。

 それが嬉しくて、嬉しくて、私は思わず彼に笑いかけてしまった。私に微笑みかけられて、笑い返したら呪われる。昔の人はそう私のことを恐れていた。私は初めてできた友達に嫌われてしまうと、そう思った。

 だけど、秋人は私に微笑みを返してくれた。秋人は、私に笑顔を見せてくれた初めての人だった。


 それから、秋人は本当に遊びに来てくれるようになった。彼は人里のことを色々と教えてくれた。それは全てが新鮮で、私の興味を満たしてくれた。そして、私と彼が出会ったこの季節は、夏なのだと知った。

 いつの間にか、私は彼のことを秋君と呼ぶようになった。夏なのに秋君と呼んでいるのが、何だか面白かった。

 秋君は泳ぐのが好きで、よく私の知っている滝壺に行っては、一緒に泳いだ。私は水の妖だから、泳ぎは得意だった。


 彼と一緒にいられる時間は、本当に幸せだった。まるで夢の中にいるような、水の中に浮かんでいるような、そんな心地よさを感じた。


 だけれど、そんな時間にも終わりが来てしまった。ある日、秋君は初めて会った時のように泣きながら、私の前に現れた。


 私がその理由を問うと、秋君はもうすぐここから離れた場所に行くのだと、そう言った。

 それは会えなくなることなのかと問うと、秋君は泣きながら頷いた。


 私は、全てを失ったような気持ちになった。夏のせせらぎの音を聞きながら、思わず秋君を抱きしめた。

 そして秋君は、私にひとつ約束をしてくれた。いつか大人になって、一人でここに戻ってこれるようになったら、必ず会いに来ると、そう言ってくれた。


 私たちはせせらぎの側で、再会を約束したのだ。私はそこを、夢のせせらぎと呼んでいる。秋君と初めて会った場所、秋君が初めて微笑んでくれた場所。そして、夢のような時間を与えてくれた場所。


 私は木漏れ日に照らされた川の流れを眺めている。明るい陽光が水流に拡散して、水面に散らばる。

 こんな風に時間の流れも、留まることはない。秋君と離ればなれになってから、幾年の時が過ぎたのだろう。もう、秋君は私のことなど忘れてしまったのだろうか。


 それでも私は待っていたい。私は信じることしかできないから。信じていることで、一日一日に仄かな希望が持てるから。

 私は目を閉じて、せせらぎの音に耳を傾ける。だけど今日は、その中に違う音が混じっていた。


 土を踏むような、そんな音。私は目を開いて、その方を見る。そこにいるのは、懐かしい顔。


 背は高くなっていて、髪も少し伸ばしていたけれど、その顔は私の記憶にある彼の顔そのままだった。

 私と秋君は、川を挟んで向かい合った。せせらぎの向こうに、ずっと会いたかった人がいる。


 私は彼に向かって、微笑んだ。今にして思えば、私の微笑みは本当に呪いだったのかもしれない。だって、こんなに時を経ても、彼は私のことを覚えていてくれたのだから。だけどそれならば、同じ呪いに、私もかかってしまっていたようだ。


 秋君は私に、昔と変わらない微笑みを返してくれた。


 私の顔は微笑から泣き顔に変わってしまっている。きっとこの呪いは、これからも解けないことだろう。いや、解いてしまいたくはない。


 だって私は、この呪いの中にいる方が幸せだから。


 私はせせらぎの中に足を踏み込んで、彼に向かって走り出した。

個人的に好きな異類婚姻譚を、自分でも書いてみたくなって書いたお話です。異類婚は古典だと悲劇で終わるものなのですが、幸せな結末もいいかな、と思い書かせていただきました。もしかしたら雫さんと秋人君のその後も書くかもしれません。

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