おとろし(おそろし)
塾仲間と家に帰る途中だった。塾がいつもどおり終わって現在十時過ぎ。夏でも辺りは真っ暗だ。真っ暗な空に半分の月が浮かんでいる。
「なんで夏休みなのにこんな時間まであるんだろうな」
塾仲間の江藤はコロッケパンに食いつきながらぼやいた。
「しょうがないよ。いい高校に受かるためだもの」
僕は模範解答のような答えを返す。
本当は、塾に通い続ける意味に疑問を感じているのに。
両親の方針で難関私立中学に通う僕は、これまた両親の方針で偏差値78の高校に入るため、大手の進学塾に入会させられた。
まだ中一なのに、だ。
もうくたくただった。
夏休みなのに毎日毎日家と塾との往復。
小学生、いや、幼稚園のころからそうだった。勉強勉強勉強。自分からやりたいなんて一言も言ってなのに。
なんでこんなことやってるんだろう、僕は。いや、それはいい高校に入るためだ。理由は明確。だけど入りたいのは僕じゃない。お父さんとお母さんだ。このまま行ったら僕はどうなってしまうんだろう。
神社の前に来て、江藤が立ち止まった。この町の古い神社で赤じゃなくて灰色の鳥居が建っている。
「食うか?」
江藤が鞄からもう一つコロッケパンを出して僕に差し出す。僕は無言で首を振る。ここ最近、いやだいぶ前から食欲はなかった。何を食べても味がしない。
「お前、もうやめたほうがいいんじゃね? 色々」
食べ終えたコロッケパンの包みを鞄にしまいながら江藤が言った。僕は意味が分からなくて聞き返した。
「なにをやめるんだよ」
「お前、ゾンビみたいだよ。はっきり言うけど体壊してると思う。親に言って塾辞めさせてもらったほうがいいよ。俺は好きで通ってるからいいんだけど、お前は違うだろ」
僕は目を見開いた。そして、急に怒りが込み上げてきて、気がつけば江藤を突き飛ばしていた。
「お前に何が分かるんだよ! 簡単にやめるとか言うな! そんなこと父さんたちに言ったら、なんて顔するか」
辞められるならとっくに辞めてる。出来ないから悩んでるのに!
「だけど死んじまったら元も子もないだろよ」
突き飛ばされた江藤はふらついただけだった。僕はけっこう力を込めて押したつもりなのに。江藤は頭を掻きながらなおも続ける。
「な? 俺も一緒に頼んでやるから。もういっぱいいっぱいなんだよお前は」
「うるさいうるさいうるさい! 黙れ!」
「キレるなよ、そういうところがヤバいって……」
塾をやめたいなんて言ったらお父さんもお母さんも一体どれだけ失望するか。想像するだけでおそろしい。僕はこのまま行くしかない、このまま行くしかないんだ。だけど、このままどこへ行くんだ。僕はどこに行くんだ? なんになるんだ? ああ、大人になった自分が全く見えない。真っ暗だ。なにひとつ、未来の自分が浮かんでこない。
ふいに江藤の背後にある鳥居を見た。
僕は硬直した。
鳥居に、何かしがみついている。右の柱の上の方にしっかりと掴まっている。長い毛がなびいている以外、何だかは分からない。まわりが暗いし、それも黒いからだ。
全身に鳥肌が立った。冷汗が流れる。それは、こっちをみてる。僕をじっと見てる。なぜだか分かる。
いやだ、見たくない。目を合わせたくない。なのに目を離せない。
みぞおちに風が通り抜ける感じがして、足ががくがくと震え出す。見るな。見るな。怖い、怖い、誰か助けてくれ。
助けて助けて助けて。
おそろしい、おそろしい、おそろしい。
僕は僕の未来が、おそろしい。
数日後、僕は病院で目を覚ました。
江藤によると、僕はあの晩神社の前で狂ったように悲鳴をあげて、ぶるぶる震えながら倒れたそうだ。
困った江藤はスマートフォンで親に連絡したという。
僕は鳥居にしがみついていたあれのことをお母さんに言ったけど、勉強のしすぎによるノイローゼで幻覚を見たんだと優しく諭され、信じてもらえなかった。
お父さんは塾を変えような、と僕の頭をなでて、決して止めていいとは言ってくれなかった。
僕は病室に一人になると窓の外を視界の端に捉え、あわてて布団をかぶる。
そのまま身を震わせる。
幻覚じゃないよ、あれは。だって今も電信柱にしがみついている。おそろしい、おそろしい、おそろしい。
おとろし(おそろし) 自分の身に危険を感じて、不安であること。また、神社の鳥居にしがみついている妖怪。




