荒療治 (ホラー)
ここはどこだろう?
まずはじめにそう思った。見慣れない場所だったからだ。
薄暗く、少し寒い。
いくつもドアが並んでいる長い廊下。そのドアの横に、何人かの名前が書かれていて、あ、と思った。
病院だ。
そういえば、わたしが苦手なあの、病院独特のにおいがする。
どうしてわたしはここにいるんだろう。
そもそもわたしは体は丈夫なたちで病院にはさっぱり縁がない。
この十七年間で自分のケガや病気のために、最後に病院に来たのはいつだったろうか。たしか、小学校四年生のとき、お正月に色々食べすぎて、お腹をこわしたときが最後……。
足音がしてはっとした。
近づいてくる。
階段を、誰かが上がってくる。わたしは、なぜか動けない。
廊下に現れたのは、多分看護師。
暗くてよく見えないけれどナースキャップを被っているからきっとそうだ。
「すみません、出口はどっちでしょうか」とわたしが問いかけようとした瞬間、調子っぱずれに叫びながら小走りに近づいてきた。「ああーら大変! 治療があ必要ねええ」
わたしは驚いて、逃げなきゃ、と思った。
なんだかこの人はやばい。
「まーちーなーさーい。治療おお、しますよー、まーてーええええええ」
奇声を上げる看護師からわたしは無我夢中で逃げ、階段を一気にかけ下りた。
ドアが半開きになっている部屋へ逃げ込む。すぐさまドアを閉め、鍵をかける。外からはなんの音もない。
あきらめたのだろうか。でも今ここを出てゆく気にはならない。わたしは振り返って室内を見回した。
「ひ」
複数の人間が暗闇に立っていた。わたしから数メートル離れているものの、皆がこちらを見ているのが分かった。
「では、手術をはじめまあす」
野太い男の声を合図に部屋が明るくなり、目の前に手術台らしきものが現れた。数メートル離れていたはずの複数の人間が、いつの間にか数十センチの距離まで迫ってきていて、わたしを取り押さえると、手術台まで運ぼうとした。
わたしはめちゃくちゃに暴れた。
「はなせ、はなせっての!」
右手が取り押さえる一人の顔面にヒットした。
「なんと野蛮な短い手なんだ! 指も太いし、ついでによく見ると足も短い! これはだめだな」
顔面攻撃をくらったやつが、顔を押さえながらキーキー声をあげる。顔の大半がマスクで隠れているのに加え、口調と甲高い声がミスマッチなので男か女か分からない。
「すらりとした手足じゃなけりゃ、全然だめだ。だめだめ。まったく駄目」
よけーなお世話だよ、これでも肌はきれいね、って言われんだぞ。もう一度ぶっとばすぞ。
と、思うより先に手が出ていた。
今度は左手がさっきとは別の人間の腹にヒット。そいつは「ぐおお」とうめきながらよろけて後退した。他の人間たちがたじろいで、取り押さえていたわたしを離す。
「今だ!」
わたしは転がるように走り出した。
入ってきたドアに突進してガチャガチャノブを回したけど、鍵がかかってる! なんで?
ってわたしがかけたんだ! わたしのばか! 何とか鍵を開け、もとの廊下に出る。誰かにぶつかった。
「治療おおお、しましょうねええええええ~」
しまった! あのやばい看護師のこと忘れてた!
「飛んで火にいる夏の虫~。そんなあなたはお馬鹿さん~。そんなあなたは治療が必要~」
やばい看護師は小鳥のように歌いながら素早くわたしの腕をつかんだ。ものすごい力で離さない。つーか、馬鹿で悪かったな。
「そんなお馬鹿な頭は治療が必要~。もっと賢い頭に~。脳みそかえましょ~」
「大きなお世話だ!」
わたしはおもいっきり看護師に頭突きをくらわしてやった。看護師は「ぎゃっ」と叫んで額を押さえる。その顔はなぜか暗くて表情は読み取れないけれど、彼女にかなりのダメージを負わせたはずだ。
「のう、みそ、かえましょ、もっと、かしこく」
なのにしつこくまだ歌ってる。
石頭でへっちゃらのわたしは今のうちに逃げる。
今度こそ。
こんな意味不明なところにいつまでもいられない。
わたしは出口を目指してとにかく走った。長い廊下を駆け抜け、階段を降り、また長い階段を走る。
何度階段を降りただろう?
ついにわたしは派手に廊下に転んでしまった。
息が苦しい。
頭がくらくらする。
でもここから逃げなきゃ。
逃げなきゃという気持ちばかりが焦って、なかなか立ち上がれない。四つん這いになる。無機質な廊下に自分の汗が落ちる。すると頭の上から声がした。
「ガサツな割にどんくさいなあ」
「いいとこなし」
「だからだめなんだよ」
「空回りしてるよね」
酸素が足りずに朦朧とする意識の中にその声が響く。聞きたくない言葉だ。
「わたしは補欠、あの子はレギュラー、あたりまえ」
聞きたくない。聞きたくないって!
「あの子が彼に選ばれてあたりまえ」
聞きたくない。聞きたくない。痛い。痛い。
殴られるよりも痛い。胸が痛い。
心が痛い。
気づくとわたしは台の上に仰向けに寝ていた。
どこだろうここ。体が思うように動かない。すると誰かがわたしの右隣に立って、わたしの顔を覗き込み、こう言った。
「手術をはじめまあす」
次々に人間がわたしのまわりに現れ、どの顔も表情がまったく分からない黒くぼやけたまま、言いたいことを言う。
「これはひどい」
「見た目も頭の良さも運動神経も、何もかも、本当にひどい」
どうしてそんなことを言うの。
「すべて取り換えたほうがよさそうだ。そうだ、あの女の子にしてあげよう」
え? あの女の子って? まさか。
「君も、あの女の子みたいになりたいよね。あの女の子になれば、すべてがうまくいく。そうだ、そうしよう」
「今の君じゃ、何をやっても無理だもの」
はい?
今なんつった?
イマノキミジャナニヲヤッテモムリダモノ。
「よし、決まりだ決まり。さあ、手術をはじめよう。君もこんな自分嫌だったろう?」
ろう? のところでわたしは自分の一番近くにいた人間の顔面をぶん殴った。
さっきまで体がだるくて思うように動かなかったのに、今は信じられないくらい渾身のパンチが決まった。アドレナリンが体を駆け巡る。爽快!
わたしはがばっと起き上がって、手術台(?)に仁王立ちになり、まわりをぐるりと見渡して宣言するように言った。
「無理なんて決めつけるな! わたしはわたしだ!」
その瞬間、黒くぼやけた人間たちは次々に霧のように消えた。残ったのはたった一人。
看護師だ。さっきの頭突きをくらわせた看護師のような気がした。なんでそんな気がしたかというと、額をさすっているからだ。
その看護師の顔が今ははっきりと見える。「あんたは石頭だねえ」
その顔は。
眩しくて、目が覚めた。
一瞬思考が止まって、やっとのことで頭を働かせる。
見慣れない天井と、背中に畳の感触。
お腹にブランケットが申し訳程度にかかっている。
ここは、そうだ、お祖母ちゃんの家。
よろよろと起き上がり振り返ると、洋服ダンスの上にお盆飾りをした小さな仏壇があり、今は亡きお祖母ちゃんが写真の中で笑っている。
お祖母ちゃん。
わたしが中学三年生のとき亡くなってしまった。難しいと言われた高校に受かったのを、電話で一緒に喜んだのが最後だった。
「あら、あんた起きたの。なに、汗びっしょりじゃないの。いくら夏だからって、今日はそこまで暑くないのに」
お母さんがふすまを開けてわたしに声をかけた。自分の実家なのでどことなく気楽な風だ。
「ばあちゃんの大好きな大福、買ってきたから仏壇にあげようか。まだあるからあんたも食べな」
お母さんはそう言いながらお線香を立てると、お鈴を鳴らした。蝉がしゅわしゅわ鳴く中、澄んだ音が鳴り響く。
活を入れてくれて、ありがとう、お祖母ちゃん。
わたしは仏壇に手を合わせるお母さんの背中を見つめながら、心の中で、遺影の中のお祖母ちゃんに言った。そしてちょっと呟く。
ちょっとやり方が意地悪なんですけど。まあそれがお祖母ちゃんらしいっていえばらしいけどね。
定年まで看護師として働いて、自分にも他人にも厳しかったお祖母ちゃん。
わたしが勉強も、部活も、全然自分の思い通りにいかなくて、それでもって恋愛もダメで、かなり自分が嫌になってたの、わかってたんだね、きっと。
お盆に帰ってきて来てくれて、弱気になっているわたしを叱ってくれた。
ありがとう、お祖母ちゃん。