置いてけ池 ( 短編 ・ ホラー)
本所七不思議の「置いてけ掘」とは設定がまるで違くなっています。あしからず。
秀一は画家を目指している中学生だ。
来る日も来る日も、飽きることなく絵を描いている。一日平均五十枚ぐらいは描いている。絵を描くことが日常の一部なのだ。それほどに、絵を描くことが、秀一は大好きだった。
ある日、秀一はおかしな噂のある池へと出かけた。
だれも寄り付かない公園の、小さな濁った池だ。
その池の名は置いてけ池。
なんでも、池の周りで遊んでいると、どこからともなく「おいてけえ、おいてけえ」という不気味な声がするのだという。そしてその声を聞いた者は必ず何か置いて行ってしまうというのだ。
「ばかばかしい」
秀一はそういった類の話を信じない性質だった。
ここへ来たのはそのような怪談の類に興味を示したわけではなく、ただ単にその池をまだ描いていなかったと思い立ったからにすぎない。彼はこのときすでに学校の周りの風景をもうほとんど描き尽くしてしまっていた。
池は公園の片隅の茂みの中にあり、池というより泥だまりのようであった。池の底など見えるはずもなく、深さは全く分からない。大きさは六畳間二つ分ほどで小さく、まずこの池に用があって訪れる者はいないだろう。
しかし秀一は周りの静けさと陰鬱な雰囲気が気に入り、茂みに腰を降ろして写生をはじめた。
二時間後、何枚かの絵を描き終えた秀一はそろそろ帰ろうかと立ち上がり、尻についた泥を落として、絵描き道具を腕にかかえた。
そのとき。
「おいてけえ、おいてけえ」
男とも女とも分からない不気味な声が、秀一の耳に轟いた。秀一はとっさに辺りを見回したが、草ばかりで誰もいない。
「なんだ、幻聴か」
秀一は自分を励ますようにわざと大きな声でそう言い、冷静になろうと努めた。だが、
「おいてけえ、おいてけえ」
「うわああああ」
二度目の不気味な声に、秀一はたまらずその場から逃げだした。
どのくらい走っただろう。
気がつくと秀一は公園を抜けて大きな通りにでていた。行き交う人々はぜえぜえと息を切らす彼に目もくれない。
呼吸を整えながら、秀一は今起こったことを思い出して、とっさに自分や自分の持ち物を見まわした。
何も、なくなっていない……置いて行ってない!
キャンバスも、クロッキー帳も、鉛筆も、みんなある。
秀一は手近なショーウインドーに自分の姿を映してみた。いつもと変わらない中学生の自分がいる。服もちゃんと着ている。腕がないとか、足がないとか、そういうことも、ない。
よかった。おれは何も置いてこなかったぞ。全部、ある。
秀一は心の底から安堵した。そして思った。
わざわざあんな不気味な池に写生なんかしに行くんじゃなかったな。服も汚れちゃったし。
あれ? そもそも、おれ、なんで絵を描くことなんかに夢中になってるんだ? キャンバスに、クロッキー帳に、鉛筆……こんなのいちいちそろえてさ。なんだかどうでもよくなってきちゃった。
「おおい、秀一、絵ばっかり描いてないで、たまにはサッカーでもやろうぜ」
気付けば、通りの向こうから、クラスメイトが声をかけてくる。
ほんと、なんでおれ、今まで絵なんて描いてたんだろう。画家になりたいなんて、なれるわけないのにさ。ばかばかしい。そんなことより、サッカーだ、サッカー。
「おお、今行く」
秀一は、キャンバスとクロッキー帳と鉛筆を、近くの屑かごに投げ込むと、クラスメイトのもとへと走って行った。




