たかがこれ位の事でという伯爵令息を婚約破棄致しました。
レティシア・ベッチリーニ公爵令嬢は、呆れ果てていた。
父アレドが三人目の愛人を連れてきたのだ。
「リアーネだ。私の三人目の愛人になる」
「リアーネよ。お嬢様。よろしくお願いしますわね」
胸が大きく豊かな金の髪を長く伸ばしたリアーネ。父の好みは胸の大きい女性だ。
アレドは金髪碧眼の美男で、歳は45歳。
歳をとってもなお衰えないその美貌で、遊び人として有名だ。
別宅を構えて愛人を既に二人持ち、その上、夜会では色々な女性に手を出して。
子はいない。子が出来ないように、薬を飲んでいるからだ。
ベッチリーニ公爵家は一人娘で父に似た金髪美人のレティシアが継ぐことになっている。
レティシアの母は幼い頃に亡くなった。
国王陛下の妹で、王女だった母。
あまりのアレドの美男ぶりに惚れこんで、熱烈な愛を囁いて強引にアレドと結婚したと聞いている。
幼い頃の母はレティシアを可愛がるよりも夫であるアレドにべったりで、レティシアは寂しい思いをしたものだ。
「レティシア。わたくしはアレドと二人きりで過ごしたいの、乳母に絵本でも読んでもらっておとなしくしているのよ」
サビシイサビシイサビシイ。
物凄く寂しい。
でも、ベッチリーニ公爵家の娘として、幼いレティシアは我儘を言ってはいけないと常日頃、両親から言われていた。
結婚する前は色々と遊んでいた父も、母と結婚している間は大人しかった。
父もレティシアに対して無関心で、母の機嫌ばかり取ることを考えていて。
母は元王女様だ。
母の騎士のように父は振舞って母を喜ばせていた。
そんな様子を寂しく見つめるレティシア。
時々、前公爵の祖父が様子を見に来てくれて、息子に、
「もっとレティシアを可愛がってやったらどうだ?」
しかし、父は、
「妻が不機嫌になるのです。ですからそれは出来ません」
ときっぱりと否定をするので、祖父は気の毒に思って、レティシアを凄く可愛がってくれた。
綺麗な人形や可愛いリボン。ベッチリーニ公爵家に来るたびに、祖父は色々とレティシアに土産を買ってきてくれて。
レティシアにとって家族は祖父だけだ。
祖父だけがレティシアの心のよりどころだ。
母が急な病で亡くなっても、悲しくもなんとも思わなかった。
父は全く悲しそうな様子も見せず、
亡くなった途端、遊び人の血が騒ぐとか言って遊び歩いて。
そんな父の事がレティシアは大嫌いだった。そしていまだに大嫌いだ。
17歳になったレティシア。
父に対しては、レティシアは諦めていた。
子を他に作らなければいいわ。
わたくしがこの家を継ぐ事に変わりがなければいい。
新しい愛人を連れて来て、呆れてしまったレティシア。
父アレドは、笑いながら、
「今度の愛人も美しくて胸がたまらないだろう」
「どうぞご勝手に。お父様が何人愛人を作ろうとわたくしには関係ありませんから」
レティシアも17歳。
婚約者がいた。バレク・ミシェル伯爵令息である。
1年前に婚約を結んだ。
父が決めて来た婚約である。
何でも、ミシェル伯爵家の次男の出来がいいと言う噂を聞きつけて、勝手に取り決めてしまったのだ。
当主の父の決定に、従わなければならないレティシアは、祖父に相談した。
しかし、祖父は、
「いずれ誰かを婿に迎えねばならぬ。わしの調べでもバレク・ミシェル伯爵令息はなかなか優秀な男だそうだ。だから、あのアレドが見つけてきたにしては上出来ではないのか?」
と、祖父も反対しないで、かえって勧められた。
確かに婚約者としてバレクは満点の男性だった。
バレクは頻繁にベッチリーニ公爵家に来て、レティシアと交流を図った。
バレクは黒髪黒目のおとなしそうなぱっとしない見た目の男性だ。
だが、付き合っていくうちに、レティシアはバレクの事を好ましく思った。
公爵令嬢は感情を表に出してはいけない。
でも、バレクに向かって、
「バレク。わたくしは貴方と婚約出来てとても嬉しいわ」
「私もです。レティシア様。ベッチリーニ公爵家の為に私を役立てて下さい」
そう、彼はどこか他人行儀だが、とても優しいのだ。
色々と気遣ってくれて、小さな可愛らしい花のブーケをプレゼントしてくれたり、
色々な話題を提供してくれたり。
彼なりに必死に気を遣ってくれるのが嬉しくて嬉しくて。
レティシアはバレクと会うのが毎回、楽しみに思えて。とても幸せで。
しかし、まさか、その幸せが壊されるとは思わなかった。
とある日、見てしまったのだ。
父の愛人、リアーネが、バレクをその豊満な胸に抱き込んで、
「可愛い人、どう?わたくしとベッドで楽しまない?」
別宅にいるはずの父の愛人リアーネが、屋敷に入り込んで、バレクを誘惑している。
真っ赤な顔でリアーネの胸に顔を埋めているバレク。
リアーネはバレクの耳元で、
「こっそり遊べばばれないわ。今日はアレド様は他の家に行っていてわたくしサビシイの」
レティシアは思わず廊下に出て、バレクの傍に行き、
「貴方、何をしているの?わたくしという婚約者がありながら、父の愛人と?」
慌てたようにバレクは、
「いやその、この女がいきなり抱き着いて」
リアーネは微笑んで、
「あら、わたくしの胸に顔を埋めていたわ。いいじゃないの。ちょっとぐらい、つまみ食いしても。わたくしの胸は減るものじゃないわ」
許せなかった。
レティシアはバレクに向かって、
「今日の事はお父様とミシェル伯爵家に連絡を致します。貴方との婚約を考え直さないといけないわね」
バレクは慌てたように、
「抱き合っていただけです。浮気なんてしていません」
「抱き合っていたのは浮気ではなくて?」
「ちょっと魔が差しただけです。たかがこれ位で、どうかお許しを」
「たかがこれ位ですって?」
父の愛人リアーネ。
そのリアーネの豊かな胸に顔を埋めていたバレク。
たかがこれ位ですって?わたくしにとっては大きな出来事よ。
リアーネが誘惑したに決まっている。
わたくしの婚約者なら毅然と断って欲しかった。
婚約とは信頼。
わたくしはいまだに父の事は大嫌い。
いかに母が強引に父を物にしたからって。
色々な女性と遊び歩いて、愛人が三人もいて。
だから、わたくしは浮気をするような男性は大嫌い。
胸に顔を埋めていた時点で浮気よ浮気。そうじゃなくて???
バレクを追い返した。
リアーネも叩き出した。
領地にいる祖父に手紙を書いた。
「おじい様。父は三人目の愛人を作りました。その件については何もいいません。でもその愛人がわたくしの婚約者と抱き合っていた件については大いにわたくしは傷つきました。来年には18歳。わたくしは成人します。その時にわたくしは、父を追い出して爵位を継ぎたいと思っております。おじい様、力をかして下さいませ」
手紙を読んだ祖父が馬車ですっ飛んで来た。
執務室で仕事をしているアレド。部屋に祖父は飛び込んで、
「レティシアから手紙を貰った。お前の愛人が、バレク・ミシェル伯爵令息と抱き合っていたそうだな」
アレドは仕事をしながら、
「ああ、リアーネから聞きました。ちょっと胸を貸しただけだと。別に身体を交えていた訳でもないし、父上もレティシアも過敏に反応しすぎですよ」
「胸を貸しただけだと?それを許していたら、とんでもない事になるわ。どこそこの夫人の胸にどこそこの夫が顔を埋めていただなんて事が許されたら我が王国の品位は地に落ちる」
「ええ?そうですか?お互い、納得して遊ぶ分には構わないと私は思うのですがね」
レティシアが静かに部屋に入って来た。
「お父様。来年にはわたくしは成人致します。おじい様の後押しがあれば、わたくしが爵位を継ぐ事が出来ますわ。わたくし女公爵になります。お父様には引退して頂きます」
「何を言っているんだ。私は仕事はきちっとしているぞ。その上で愛人を三人囲っているんだ」
「その愛人達にいくら使っていると思っているのです。ベッチリーニ公爵は下半身もだらしがないと、王国中で評判ですわ。わたくし恥ずかしくて恥ずかしくて」
ベッチリーニ前公爵である祖父も頭を抱えて、
「ああ、わしも恥ずかしいぞ。引退なんぞするのではなかった」
祖父の指示で、父は別の部屋に閉じ込められた。
祖父は、
「わしがついている。レティシア、安心して女公爵になるがいい」
「有難うございます。おじい様」
ベッチリーニ公爵家の騎士達に命じて、愛人三人を別宅から追い出した。
リアーネ達、三人がベッチリーニ公爵家の前に来て、
「わたくし達を追い出すなんてっ。アレド様――出て来て。あの熱い夜を忘れたの?」
「アレド様、わたくし達、行くところがないわ」
「アレド様ぁ」
レティシアはドレスを翻し、
門の前で三人の愛人達に対峙した。
他の二人は泣いているだけだったが、リアーネだけは違った。
「アレド様を追い出して、貴方がベッチリーニ公爵家を継ぐなんて」
「おじい様がついていますので、ご心配なく」
「たかが、貴方の婚約者の坊やと抱き合っていただけじゃない」
「それでも十分、不貞ですわ。わたくし、婚約破棄をしようと思っておりますの」
「まぁ、なんて狭量ですこと。たかがそれだけで婚約破棄?」
「わたくしは傷つきましたの。たかがこれだけの事?胸に顔を埋めていたのですわ。貴方の胸に。たかがこれだけの事で、夫となる方が他の女性の胸に顔を埋める事を許さなければならないなんて。わたくしは許せません。ですから婚約破棄をしようと思っております」
「貴方、あの坊やを愛していたのね。笑えるわ」
そう、好きだった。
小さな花のブーケをプレゼントされるのが嬉しくて。
彼と話をするのが嬉しくて嬉しくて。
一つ一つが小さな幸せ。ずっとバレクと歩んでいけると思っていた。
でも、リアーネの胸に顔を埋めていた時点で、許せない。そう思った。
一生、許さない。許さないわ。
この女がわたくしの幸せを壊した。
バレクも悪いと思うけれども、この女がっ。
「二度と、顔を見たくないわ。お父様は引退致します。貴方達を養う義理もないわ。出ていきなさい。今度、この家に来たら通報致します」
他の二人の女達は泣きながら、去って行った。
リアーネは笑いながら、
「そんなに狭量で、ベッチリーニ公爵が務まるかしら?笑えるわ」
そう言いながらその場を去って行った。
悔しい。とても悔しいわ。
でも、必ず、わたくしはこのベッチリーニ公爵家を守ってみせる。
そう思ったレティシアであった。
祖父の助けを借りて、ベッチリーニ公爵家の事業の事を学ぶレティシア。
バレク・ミシェル伯爵令息に婚約破棄を言い渡した。
ミシェル伯爵夫妻は真っ青になって、慰謝料をと言ってくれたけれども、
それは断った。
バレクから会いたいと何度も手紙が来た。
手紙を開くと、そこには、
― 私はレティシア様を愛しています。たかが、女性と抱き合っていたぐらいで、婚約破棄をされるとは悲しく思います。私は沢山の思い出をこれから先も貴女と作っていきたい。どうか、破棄の撤回をお願い致します ―
手紙が来るたびに、暖炉へ投げ捨てた。
婚約破棄を撤回するつもりはない。
一月後、王宮の夜会に出席したら、バレクがこちらに歩いて来て、
「手紙を読んで下さいましたか?たかが抱き合っていた位で婚約破棄だなんて。私は悲しく思っております」
他の貴族達がこちらを見ている。
皆、どう思っているの?
たかが抱き合ったくらいで?わたくしは狭量なのかしら。ここは許してあげないといけないの?
でも、わたくしは……
「ミシェル伯爵令息。わたくしは、貴方と婚約を破棄して正解だと思っております。
たかが抱き合っていた位でと言われますが、わたくしは不貞に値すると思っております。ですから、婚約破棄を撤回する事はありませんわ」
「でも、あれは……私はあの女と身体の関係を持ってはいないっ。それなのにっ?」
「わたくしが嫌なのです。わたくしの矜恃が許さない。慰謝料は取りませんわ。さようなら。ミシェル伯爵令息。二度と、わたくしに話しかけないで頂戴」
涙を流すバレク。
心が痛む。
でも、わたくしにとっては抱き合っている事は許せない事。
この選択に後悔はないわ。
領地の片隅に父を追いやった。
愛人達が金目の物を持って姿をくらましたので、父はやっと生活できる金だけを貰って、
細々と生活をしている。
そんな父がやつれた格好でとある日、ベッチリーニ公爵家に現れた。
18歳になって、レティシアが爵位を継承し、ベッチリーニ女公爵になってすぐにである。
アレドが会いたいと言うので、客間に通してやった。
やつれた様子のアレドはレティシアに向かって、
「もっと金を融通してくれないか?遊ぶ場所はないし、ただただ、屋敷に籠って毎日、食べるだけで精一杯。できればこの家に戻って来たい。領地の片隅のあの田舎は寂しすぎる」
「いまだに、お父様と関係のあった女性達が、訴えてくるのですわ。子がいるので認知しろとか、愛人だったので、先々の生活を保障しろとか。子がいるはずはありませんわ。子が出来ない薬を飲んでいたのですから。ですから訴えてきた女性達は皆、追い返しました。特に子を詐称した女性達は騎士団に訴えましたわ。今頃、牢にいることでしょう。これ以上、何を?お父様はわたくしに迷惑しかかけてきませんでしたわ。もう、これ以上、迷惑をかけないで下さいませ」
「お前は私の娘ではないのか?父が苦しんで暮らしているのに。情はないのか?」
「お父様の娘?お父様はわたくしを愛してくれましたか?くれませんでしたわね。幼いころからお母様と二人で暮らして、わたくしは寂しい思いばかりしておりました。わたくしには父はおりませんわ。ですから、どうぞ、二度とわたくしの前に現れないで下さいませ」
アレドはがっかりしたように、客間を出て行った。
あれだけ美しさを誇っていたアレドも、すっかりくたびれた感じの中年で。
執事のヴァリドが報告書を持って来た。
「なんでも、あのリアーネという女性なのですが、今回の婚約破棄の原因を作った女として有名になって、悪女として誰も相手をしないそうですよ。色々な貴族に取り入ろうとしたそうですが。元々、市井の女ですからねぇ。身を持ち崩して娼館にいるとか」
「わたくしが調べろと命じたかしら?」
ヴァリドは祖父が探して来た秘書である。
10歳年上のこの男は仕事の上でなかなか頼りになる黒髪の青年だ。
ヴァリドはレティシアに、
「始末しますか?レティシア様を苦しめた女性ですから。命じられれば何なりと」
「放っておきなさい。貴方は普段、でしゃばった事はしないのに、余程、あの女性が憎いみたいね」
普段、ヴァリドは感情を見せない。冷静な男だ。
その男が憎々し気に、
「ああいう女に私の母は殺されたのです。私の父はああいう女に浮気して母は心を病んで世を去りました。ですから、私はああいう女を見ると憎しみが抑えられないのです」
「悪いのは貴方のお父様ではなくて?わたくしの父と同じね。わたくしの父もどうしようもない男だけれども」
「確かに父が悪かったとは思います。でもそんな父を母は愛していた。屑の男でも、母にとっては最高に愛しい男だったから」
「貴方の気持ちは解りました。でも、リアーネは放っておいて。何も手を汚すことはないわ」
娼館といっても、酷い娼館に落ちたらしい。
誰か男にだまされたのであろう。
あの女に相応しい末路だと、レティシアは思った。
女公爵として、夜会に出席する。
レティシアと結婚を望む、独身男性は多い。
レティシアは丁重にダンスの相手を断った。
「わたくしは今は、お相手を探す気がしないの。ダンスをお断りするわ」
そこへバレクがやってきた。
彼は公爵家に婿に入る身でありながら、女性の胸に顔を埋めていたと言う事実が広まって、恥ずかしい男として有名になってしまった。
彼が婚約破棄されたから大事になったのである。
バレクはどこの家も婿入りを断られ続けて、レティシアの前に来て、跪いて、
「貴方が相手を探す気がないのは私の事を忘れられないからでしょう。だったら復縁をお願いします。今度こそ、二度と間違えない。私は君、一筋で過ごすよ」
レティシアは深紅のドレスを翻して、バレクを無視した。
いなかったものとして扱ったのだ。
バレクはレティシアの背に向かって、
「身体の関係はなかったのにっ。貴方の我儘でっ」
周囲の貴族が
「いや、抱き合っていた時点で終わりだろ」
「私の婚約者なら即破棄だ」
「ミシェル伯爵家は何を教育していた」
以前は貴族達は何も言わなかった。
しかし、女公爵になったレティシアの機嫌を取る為に今回は呟いたのであろう。
背を向けていたから、バレクがどう反応したかレティシアは解らない。
夜会のフロアーの中央で、秘書のヴァリドが立っていた。
正装をし、にこやかにレティシアを見ている。
レティシアがヴァリドに向かって、
「貴方、何故、夜会に?」
「レティシア様のお相手を務めたくて参りました」
ヴァリドはレティシアが着ている深紅のドレスを目を細めて見つめ、
「私が贈ったドレスを着て下さったのですね」
「せっかく貴方が贈ってくれたのですもの」
ヴァリドは男爵家の息子だ。爵位からして、自分とは釣り合わない。
そう、解っているけれども、共に仕事をしてきて、頼れる男で。
彼も自分もどうしようもない父を持っている所が一緒で共感出来て。
彼が深紅のドレスをとプレゼントしてくれた時に、とても嬉しく思う自分がいて。
この手を取ったら?新しい恋が始まるの?
この手を取ったら…‥
「ねぇ、ヴァリド。貴方は、たかがこれ位で婚約破棄をしたわたくしを求めると言うの?」
「レティシア様。たかがこれ位の事を許していたら、たかがこれ位の事が当たり前の事になってしまうでしょう。私は女性の胸に顔を埋めていたあの男の行為がたかがこれ位の事とは思えません」
「わたくしがした事は間違っていなかったという事ね」
自信が持てた。
ヴァリドの差し出す手に手を添えて、夜会の会場の中央に立つ。
目の端で無視されたバレクが膝をつく姿が見えた。
もう、わたくしの人生に関係ない人。関係ない人だわ。
ヴァリドと共にフロアーの中央でダンスを踊る。
深紅のドレスを翻して。
幸せを感じるレティシアであった。




