プロローグ お金のない世界
アラームが鳴る3秒前、俺は意識を浮上させた。
重い瞼をこじ開けると、視界の右隅に淡い青色の数字が浮かんでいる。
【残存:68年 122日 08時間 15分 12秒】
11秒。
10秒。
9秒。
1秒刻まれるごとに、俺の未来が静かに、そして確実に削り取られていく。
高度に行き着いた科学と医療は、人類から病魔や老いの苦しみを完全に奪い去った。
どんな怪我や病気も瞬時に治癒する今の時代、俺たちは普通に生きていれば「肉体的な要因」で死ぬことは絶対にない。
だからこそ、俺たちを殺すことができるのは、唯一この「数字」だけだ。
そして、この世界において、時間はただの概念ではない。
それは唯一の、そして絶対的な「通貨」そのものだった。
「……さて、今日も仕事にいくかな」
俺――佐藤はベッドを抜け出し、洗面台へ向かった。
蛇口を捻り、設定温度を40度に上げる。
生きるための基本消費に含まれる水やガス、電気、ネットワークといったインフラは、国が保障する「無料」の範囲内だ。
冷水を温めるための熱でさえ、生きる権利として無償で提供されている。この世界で、寒さに震えたり不潔な思いをしたりすることは絶対にない。
鏡の中の自分と目が合う。31歳。
この世界では、あらゆる対価が個人の『消費倍率』によって決まり、その消費倍率は社会への貢献度によって自動的に算出される。
真面目に働き、社会に貢献しているおかげで、俺の消費倍率は標準の市民級に保たれている。
身支度を終え、駅までの道すがらコンビニへ立ち寄る。
棚から缶コーヒーを手に取り、レジのセンサーに手のひらをかざした。
『決済を完了しました。8分20秒(500秒)を消費します』
頭の中に、無機質なシステムの通知が響く。
ささやかな嗜好品。そのために、俺の人生から8分強が切り取られた。
この世界に生を受けた瞬間、すべての人間には平等に「120年」という途方もない寿命が与えられる。
それが、一生をかけて使い切る俺たちの全財産だ。
8分20秒。
120年という莫大な砂山から見れば、ほんの一握りの砂粒にすぎないかもしれない。
自分の後ろには、鮮やかで派手な服装の、いかにも朝帰りと思われる青年が並んでいた。
彼の手には、俺が買ったものと同じ缶コーヒーが握られている。
「太く短く」――社会への貢献よりも、今この瞬間の快楽に命を注ぎ込む連中だ。
社会に貢献していない分、当然ながら彼らの消費倍率は高くなる。
この世界では、他人の網膜に浮かぶ【残存】の数字を直接覗き見ることはできない。
だが、労働を拒み、今この瞬間だけを楽しもうとする彼の命が、俺とは比べ物にならない猛スピードで削り取られていることくらいは想像がついた。
同じ1杯のコーヒーを飲むために、彼は俺の何倍もの――もしかすると数時間という「未来」を差し出しているのだろう。
俺は彼のすり減っていく命を哀れに思いながらも、その刹那的な命の燃やし方に、ほんの少しだけ眩しさを……密かな憧れを覚えていた。
だが、俺にはそんな贅沢な真似はできない。
俺は自分の寿命を堅実に守り、駅へと向かい、各駅停車の無料列車に身を沈めた。
オフィスに着くと、同僚の田中がいつものように欠伸をしながらコーヒーを啜っていた。
「よう佐藤、今日もしけてんな。昨日の夜、例のラウンジ行ってきたぜ」
他人の【残存】の数字を直接見ることはできないが、田中の目の下に落ちた濃い影と、どこか土色に近い肌を見れば、また無茶をしたことは明らかだった。
「……また貢いだのか?」
「ああ。お気に入りの子を指名して、ちょっといい酒を空けたら、一晩で3ヶ月分飛んだわ。けどよ、あの夢みたいな時間はたまんねえ。あの子の笑顔を独り占めできるなら、寿命なんて安いもんだ。ただダラダラ生きてるより、よっぽど生きてる実感がするぜ」
田中はヘラヘラと笑っているが、その声には命を急激に燃やした者特有の疲労が滲んでいる。
彼は一晩のかりそめの愛と優越感を「買う」ために、自分の未来を惜しげもなく投げ出しているのだ。
俺には理解できない。
消費倍率を維持し、老後まで細く長く繋ぐ。
それが、この世界での「賢い生き方」のはずだ。
けれど、パソコンの画面に向かいながら、ふと思った。
朝のコンビニで見かけた青年も、隣で笑う田中も、どこか生き生きとして見えた。
対して、自分はどうだろうか。
無料のインフラに囲まれ、効率よく管理され、ただ消費されるのを待つだけの、人生。
俺が必死に守っているこの「68年」の先に、一体何があるのだろうか。
俺たちは、本当に「生きて」いるのだろうか。
それとも、ただ死への支払いを遅らせているだけなのか。
その日の夜。
俺は適温の無料シャワーを浴びて、朝と同じベッドに潜り込んだ。
暗闇の中で目を閉じると、視界の隅で網膜の数字だけが淡く光っている。
【残存:68年 121日 14時間 18分 32秒】
システムから外れて投げやりに命を燃やす者と、システムの中でかりそめの夢に命を散財する者。
彼らはそうやって「今」の快楽を買うことで、生きる実感を得ているのだろう。
だが、俺が必死に守り抜いているこの「68年」という時間は、決して空っぽの砂時計なんかじゃない。
今はまだ、命を懸けたいと思えるような明確な目標はないかもしれない。
けれど、いつか俺が「これだ」と思える夢や、愛する誰かに巡り合ったとき。
この莫大な残高は、俺の願いを叶え、未来を自由に描くための、誰にも奪われない最強の切符になるはずだ。
俺が今日一日を堅実に生き抜いて守ったものは、未来のための無傷のキャンバスなのだ。
「……さて、明日もきっちり働くとするか」
まだ見ぬ自分の未来設計図を頭の片隅に思い描きながら、俺は小さく笑みをこぼした。
目の前の数字は、1秒の狂いもなく時を刻み続けている。
だが、今の俺には、その淡い青色の光が、確かな明日への道標のように優しく見えた。
第1話をお読みいただき、ありがとうございました。
基本の消費倍率は1円=5秒。
100円のコーヒーに、8分20秒。
読者の皆様なら、この代償を「安い」と感じますか? それとも「高い」と感じますか?
佐藤が必死に守り抜いている「68年」という時間が、今後どのような意味を持っていくのか。
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