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資料にあった通りだとするとこの辺り――そう考えた那岸将次郎の目の前には、ぼろぼろになった船が幾つも浮いている。元フェリー船らしきものがほとんど。小船は二つ。
言うなれば廃船の墓場。
そのうちどれが目的の船なのか、彼にはわかっていなかった。
将次郎の目の前の海はどこまでも青く、黒さもあり混濁している。その上に廃船。
(これが綺麗になったらダメなんかな。汚してるのって、俺たち人間やもんなぁ)
世の理として、このような海と澄んだ海の双方が必要なのかもしれない。濁った所にも命はある。どうなんだろうと思いながら、将次郎は、既に入っていた船の階段を上がっていった。
カン、カン、カン。
「あっちかな」
ブーツの音と、寝ぼけたような声。実際、ヘリコプターの中で寝たが、身体のスイッチがうまく切り替わっていない。その感覚の中で、欠伸交じりのような声を上げつつ、将次郎は甲板に戻ってきたのだった。
後頭部を掻きながら、船から人工の大地へと架けられた橋を渡る。
まだ四つほど調べ残っている。二つ調べ終えて次が三艘目。つまり全部で六つの船。一艇の小船には魔物はいなかった。さっきのフェリーの廃船にも。
(猿の魔物なんて、大体出没しよるけどなぁ……魂術を使った? どんな能力なんかな)
使えないかどうかはさておき、魂術を使わない魔物もいる。平和的なモノも存在する。
想像を膨らませながら、また中型の廃船へと。
もう日は傾き過ぎていた。船内まで照らされることはそんなにない。
暗がりの中を少しずつ、警戒しながら進む。
行けば行くほど暗闇に近付く。
揺れる暗闇。上下の感覚と重力はあるのに、そこはまるで宇宙。
そこで、将次郎は、さっきまでとは違う感覚を得た。
(いる)
将次郎の魂素が、彼自身の感覚に、脳に訴えた。『魂力』を受けていることを脳に伝える。魂素を使用した時に発生する第六感的な威圧力――魂力。それを、肌の全面の僅かに外部に、風の壁のように受け取る。熱気や冷気のように。
一寸先は闇。二つの意味で緊張する。
(一階にはおらん、か)
一階を一回りした将次郎は二階に上がった。
そこは実際、デッキと床の高さが同じ階だった。
(ん? 強くなったかな)
皮膚を覆う威圧感が若干、大きくなった。そのまま進んで行く。
(魂術……こんな所で何に使うんかな)
歩を進める度に、床とブーツの当たる音が響いた。
集中を高め持続させながら将次郎は進んだ。
何事もなく数歩進んでから、彼は、守護体の召喚をした。
黒い天使。地に堕ちたというのでもなく、その色が普通だとでも言いそうな。
黒い薄衣。黒い肌。漆黒の翼に漆黒の髪。天使の輪もあるが、頭の上のそれも黒。だが怖さはない。美しく荘厳さに満ちている。
「用心してくれよ」
『おう』
彼は、前を見据え、その守護体に背後を任せ、前進した。
そして発見した。
影の中にいてよく見えないが、恐らく猿の形をしている。その輪郭がぼんやりと――
「目の前だ、『リン』」
『あ?』
「もう後ろの確認はいいけん、戻って」
『あっそ。じゃ、頑張ってね』
「ふふ、言われんでも頑張るよ」
リンとの会話が途絶える。それは即ち、彼の中にリンが戻ったということ。
そうなると、彼は見つけた存在へと何気なく近付き、手を差し伸べた。
人間の子供くらいの大きさだった。
「おさーるさん、おいでー。別に何もせんけんさ」
彼は素早くそれとの距離を詰めた。そして残り数歩という所まで行き、握手する時のような手を伸ばした。
すると、その猿は、
「キキキッ、キキッ」
と鳴き声を発しながら、若干、後ろへと身を引いた。
(人を避けた――魔物が?)
パンドラの箱から出たという魔物にも、善良な存在や野生的でしかない存在とがある。応じる者は柔軟である方がいい。矢川正継の任務対象の赤狼なんかは野性的な例だ。
将次郎は、最悪殺すという選択肢を頭の奥へ引っ込めた。
「なあ。もうちょっとこっちに来てくれんか。ほら。少しでいいけん。ねっ」
「キキッ、キイッ?」
まだ少し離れている。この距離感で、自分が立ったままではどうだろうと彼は考えた。敵意があるように見えるのではないかと。
もっと近くに来てくれないかと何度も示されると、猿は、気付いて首を傾げたり声を上げたりするものの、まだ逃げ腰だ。
将次郎は、今度は座った。そして胡坐を掻き、手を前へと差し出した。
「なぁんもせんって。ほら、おいで。……人が怖いんか?」
「……キィ?」
「なあ。俺って怖いか? どうよ」
「キ?」
段々と彼の方へと寄る。但し、何やら大きな物を抱え、鉄の音を伴っていて――しかも、ある程度近付くと、それ以上、将次郎の方へは、なぜか来れないようだった。
実際、腐れて剥がれた鉄のような何かが、猿の周りに数多く落ちていた。金属っぽい音はそれかと思われた。
(……? 何だ?)
思いながら、徐々にハッキリとしてくるその全体像に目をやる。半分以上がまだ陰ってはいるが、ようやくすべてを呑み込めた。
「可哀想に――」
「ンキッ」
猿は手首に手錠を掛けられていた。そしてそれは手すりに通されていた。抱えていたのは手すりの柱だった。それ以上近付けない訳だ。
さっきの声は警戒心を解いたが故の、会話の返事。或いは語り掛けだ。
魔物は普通喋れない。人型だと違うが。まあ特殊なモノも存在するが……人に宿り再構築されれば人語での会話が可能。守護体としてのあれは言語能力の人格、霊的な付与を齎されたが故のようなもので、実質、念話だ。
将次郎は話したいと思ったが、返って来るのは鳴き声のみ。辛抱強く対応することにした。
宿せる魔物はひとり一体。故に自分に取り込むのも無理。――洲田悠汰は蒼天を宿し、紫眼を左目として同化させているが、そんな同化による宿し方を、彼は知らない。しかもこれはほとんど誰も知らないことだった。今後研究が進めば違ってくるが――兎に角――
だから語り掛けるのみ。
彼は立ち上がり、その猿へと自分の方からまた近付いた。
「キッ」
猿は腕を上げようとしたが、上がらなかった。手錠が手すりを通して足首に繋がっているからだ。そしてその鎖は手すりのどこからも外れない。
(ったく痛くないんか? 無理すんなっての)
彼は仕方なくまた座り込んだ。但し、猿の傍で。
彼の目に、大きな猿の顔が映る。くりくりとした赤い目。闇と影のあいだから彼を覗き込んでいる。
(かぁわいっ!)
そうは思った将次郎だが、誰も見ていないのに誰かに聞かせるように「ごほん」と咳払いをした。自分を叱咤。別に可愛いと思って良いのだが、判断を鈍らせない為だった。
そして気持ちを整理し、彼は猿の後ろをよくよく観察した。
そこには、幾つもの傷があった。船の壁や床、手擦りそのものにも、傷。赤く染まった残痕。
猿の魔物がねぐらにしているとは思えない――
(仲間は? いないのか……気配はないよな……)
さらには、手錠をされてここへ逃げてきたとも思えない――状況からしてここに留め置こうとされた、彼にはそうとしか思えなかった。
(誰がこんな)
だがひとまずはと――彼は真っ黒な魂玉を創造した。目の前に。
「切断する黒、その中心を閉じよ」
そう唱えた彼の魂玉の中から、念力で引っ張り出されるように、抽出されるるように――出現したのは、天使の輪。
一本の線が曲がって円形に閉じた形――黒い輪。将次郎の魂術能力。その黒さは闇以上であり、光にもなると彼は信じた。要は使い様。
意識を集中させ、回転させる。輪の黒さが更に黒くなるような、それでいて周囲まで闇の色を増やしているような、そんな気配の中で――実際夕闇も迫っていて――彼は急いでそれを猿の手足を繋いでしまっているモノへと向けた。
手錠に触れたその円の刃は、鋭い音を立ててソーのように鎖を断ち切った。
すると、猿の手足が開放されて。
「キッ!」
「俺でよかったな、猿」
心底にあった嬉しさを言葉にした彼に、猿は更に近寄った。そして彼の服を触り、指を触り、安全だと知り、思い切り飛び付いて、最後には彼の肩の上に乗ってそこを定位置とした。
「キキ」
「はは、そこからだと、広く見渡せるなぁ」
体調は一メートルにも満たない。四捨五入するとそうなるという程度。
(小猿か。親の猿は、もう……?)
「一緒に行くか?」
自然と問いかけていた。
返事が人語ではないから意味はなかったが、そもそも彼の中で彼自身が答えを出すための問いでしかなかった。生かすという選択以外ない。そうでなければ、もうこの任務の結末に納得が行かない。
「キ」
反応があったが、それを彼は可愛いと思うだけだった。
同じ静寂の道を辿る。足音と鳴き声と共に。水や風、鉄屑の音は、彼らを外へと送り出した。




