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あの洲田悠汰の任務地である団地の近くの、見晴らしのいい広場で。
「――くたばれ!」
飽くまで冷静な積もりでいながら、矢川正継が、吐き捨てるように言った。
自分の右腕の近くをうろうろと浮遊する魂玉を、その右手の掌の上に移動させ、正嗣は何かを呼び出した。無理矢理な温度差と、空気を構成する分子の移動が起こる。
緑色の魂玉の前から空気の断裂を感じ取った狼が、追う速さを横方向に強く変換させて避け切ると、そこに生じた風が鎌鼬となって、直立している木々に当たりそうになってから霧散した。そうさせた。正継がだ。
「くそっ」
そこには最初からその選択肢しかなかった。
いきなり襲い掛かってきた狼――にとって、正継がそこに現れたことの方が突然だったが、狼はそれに面食らうことがそれほどなく。
正継の攻撃は、直前ですべて躱されていた。
(熱や空気に敏感なのか?)
それが思考の始まり。思考の中腹でやるべきは、この場合は原因の究明。その終わりで対処法を見出す為――
(温度差と空気、それを齎すのが能力、か?……もしくはその影響を受ける――)
横移動から縦移動に変化し、正継の目の前まで近付いていた狼が、その巨体を自身の筋肉で持ち上げ、両腕を翳した。それで押し潰されると一溜りもない。
今度は彼が縦方向の動きを横方向へと。
その刹那。
「エメラルド!」
彼が叫んだのは守護名。その瞬間に、彼のいつものイメージの姿で現れる、緑色の鳥。嘴から尾までのすべてが新緑のような色で、輪郭は白が混じるような、羽の境目は黒が混じるような、そんな彩り。そのままの色で輝くそれは、まるで彼の宝石だった。
『何でしょうか?』
と、それが聞き返した。
「俺を乗せて飛べ!」
一切の無駄なく述べると、軽く足を曲げ、彼は小さく跳躍した。
その瞬間に、彼と地面のあいだに新緑の身体を滑り込ませ、重力に逆らわない彼の落下を、エメラルドが受け止める。その滑り込む方向へ翼をはためかせ急上昇し、速度を増して、狼の追撃を空中に逃れて避けた。狼の腕は地上で空振り。
「ちっ――攻撃が当たらない。これじゃどうしようもないぞ」
はっきり言って防戦一方だった。身体能力に差があり過ぎるのだ。
魔物とその力を扱う人間とではこうも違うのか。
正継は実感するしかなかった、自分は弱いと。
しかし、この地形を創造したのは人間。そして彼も人間だ。それを利用することはできる。
「さて、どうするかな」
さして意味なく発してから、狼の『魂術能力』の究明がまだだったことに気付いた。
(そういえばあいつの能力って何なんだ?)
彼が考えていると、地上が光った。
轟音を立て、何かが急速に近付いていく。
「――! 避けろ!!」
火柱だった。
一瞬の判断が命取りになり得た。最悪の状況。地上ではその身体能力に、空中ではその魂術能力に追いやられる。
『どうします?』
「ちょっと待ってくれ。今……考えてる」
途切れ途切れの言葉の間でも、熟考で脳を満たす。が、また業火が来る。
『避けます!』
新緑の鳥が注意した後、大きく揺れた。羽ばたいて、さっきより前方の空間に浮遊する。その高度を維持する為に、羽ばたきを止めずに地上を見下ろしている。
(火を消してもまた出されるだけ。そもそも消せる代物じゃない、か。それなら奴の身体を切り刻むか?……くそっ、それでも躱されるのがオチだ!)
再度、何かが飛んでくる気配があった。
当然エメラルドは避けるのだが――
(何か、確実な方法はないのか?)
『正様! 前を――!』
彼が目を向けた時、視界に入ったのは、全身に火を纏った狼だった。
「に、逃げろ!」
これほど強敵だとは――正継は思っていなかった。
狼は作り出した火を逆噴射して浮遊している。また別の火まで作り出し、眼前で彼に向けて大きく吠えた。
その様を見て、正継の心には畏怖が。
彼に従う大きな鳥が方向転換し、背中を見せたその時、直撃を受けた。
(火が爆発まで!)
エメラルドから引き離され、ほぼ水平に吹き飛ばされる。その先には、悠汰のいる団地がある。
(やっ……べ、ぶつか――)
『正様!』
彼にとってその声は微かなものだった。もう意識が遠退いていた。何かに肩を掴まれる。急に風が逆向きに吹く。途中から上昇を始めたからだった。
彼の視界に地面が入る。彼自身の制服もその目に映ったが、彼は、焼け焦げている場所はないようだと判断した。火に当たっただけであり、焼かれたわけではなかったのだ。背にも上着の重さが残っている。
安堵した。だが緊張が解れただけでも正継は気絶しまいそうだった。何とか意識を保ち、従える鳳凰に告げようとした。
「――あいつヴッ!」
しかしそれも遮られた。
炎の魔獣が、猛スピードで、その前足で以てエメラルドごと弾き飛ばしたのだ。爆発的な噴射する力とその一つの前足の力、それらが合わさり、更に強い外力となった。
エメラルドはある種、求めていた。故に、その飛翔に加えられてしまった外力を受けながらも――
ガゴンッッ!!
「わ――っ!?」
そこは、悠汰の訪れた部屋だった。声を上げたのは悠汰で、そこにいた女性は声も上げられなかった。
そのリビングからすぐのベランダに、声なき声を発しているものが、二つ。確認しに行った悠汰は、目を白黒とさせた。
同じ灰色の制服の青年と、新緑色の鳥。近くではガラスが散乱。
(対象じゃない。確か、ええっと――)
「狼は!? 退治はしたんですか!?」
だが、返答がない。正継は、どうしようもない痛みを無言で訴えているのみだった。
悠汰は警戒して外を見た。
何かの衝撃を受け、すぐそこの窓枠に衝突したようだと判断。
(ということはまだ近くに狼が?)
推測しながら、玄関に置いていたブーツを持ってきた。
窓の外に出てそれを履くと、悠汰は、意識して呼吸を整えた――仲間を倒された怒りはそこそこにしか感じぬようにし、自信を持って臨む為に。
「任務を交代しましょう。落ち着いたら彼女の方をお願いします。いいですね?」
ただ、彼の承諾を聞こうとはしておらず、悠汰の目は女性に向いていた。
その部屋の女性。
魔物の問題に直面している女性――は少し戸惑った様子だった。
彼女は、事態が悪いことを察し、
「……はい」
と、意を決した旨を、少年悠汰に伝えた。その声は仄かなもので、弱々しく室内に消えた。
「蒼天!」
悠汰は叫びながら想像した。青い龍を。
長大で、堅く太い胴に、クリスタルのように輝く鱗。鋭利な空色の牙に、切れ長の眼光。二本の透き通るような角。――くるくると、現れるようなイメージをすると――
『今度は何だ……?』
「狼を斃す。手伝って」
『……まあ、良いが……では先ずは何をするのだ』
「問題の奴を探す。飛んで!」
悠汰の言い終わりと同時に、蒼天が背を向け、その体躯を水平にして悠汰の目の前に集めた。
その首元に手を掛けた悠汰の身体全体を乗せると、その守護体は蒼く輝きながら飛び始めた。
ばねのように一瞬で加速。
そして蒼天は、屋上より遥かに上空からすべての号棟を見下ろした。同じように彼も。
そうしたのは数秒だけ。
緩やかに停止した龍が、太い管楽器の低音のような声で、
『居たぞ、右だ』
と。
現時点での右――狼がいる地点というのは、さっきの棟の南東の方角だと悠汰は認識し、背に陽光を浴びながらその付近に降り立った。
(あれが)
その狼の大きさは尋常ではない。蒼天の全質量はある粘土でそのまま狼の形を作ったくらいの巨体。しかし相手は人形ではない。
『手加減をする、か?』
「いや、しないよ。外に人がいないうちに片付けよう」
青い龍の言ったことが、悠汰には今一わからなかった。自分の魂術が、人の為とはいえ脅威となり得るのは知っていた。が、周りに危害を加えないように使える。そう意識した上での手加減なら必要ない。
彼はそう考えながら、戦闘の準備に取り掛かった。
スゥッ――と、龍の青さが消え失せ、そこに空気の透明さが復活。交代するように青い魂玉が現れ、たった一つのそれが悠汰の胸の前に浮遊。
魂玉。術の根源。悠汰はそれにそっと触れた。
「氷原の岩肌に抱かれよ……」
ぎゅるヴっ――という音がまず鳴り、魂玉から、何かが吐き出される。
それは、青白く煌めく氷の大地そのもの。
創り出された氷の地面から、三メートル四方ほどが剥がされ、そしてそれが、勢いよく投げ付けられた、念力のようなもので。
その一瞬で空気が変わる。冷気がこの辺りの熱を押しやったり吸い込んだりし、一定の気温になろうとして風を起こす。それに気付いて狼が目線を上げた。
(なんでこんな所に徘徊しているのか……でも、やるしかないんだ)
ズガンッ!
激しい衝撃音。振動も。その地点を悠汰は見詰めた。
悠汰の目の前には、氷の壁と土の地面がある。狼は、本能と感応速度を駆使し、それらに挟まれずに、脇に逃げることに成功していた。そして横の棟の正面から睨み返す。
「氷柱の弾丸に貫かれよ……」
彼が更に言い放つと同時に、狼からも炎が。
(確かに手強いな)
地獄の使徒のように、狂乱の魔獣のように、己が火を纏いもしつつ悠汰に向けて放った――渦巻く火柱。それはほぼ水平に進んだ。
氷柱と相殺――かと思いきや物凄い熱気が悠汰を襲った。大きな火の欠片が手元付近まで。危うく火傷まみれだ。
狼も驚いていた。というのも――放った業火の中を突き進んだ青く透き通る巨針が、その狼の片目に突き刺さっていたからだ。白い冷たさと赤い生温さの中で、苦悶と赫怒の表情を見せている。且つ、牙を見せ付けている。
「もう一押しか? でも相性悪いか」
呟きながら、呼び出したものを消化し、蒼の魂玉を体内に戻した。悠汰は別の作を考えた。ただ、案は一つだけ。
「『紫眼』……!」
狼の追撃の前に悠汰が呼び出したのは――もう一つの守護体だった。




