29.パキラ
「潮風の匂いがするー!」
ファレンへ着くと、懐かしい香りが鼻をくすぐった。
七年前、城下街を出た後、マーガレットの死にピリついていた私の心を和らがせたのが、初めて嗅いだこの香りだった。
それに加え、船着場から見える海面がキラキラと光る景色を初めて見た時は、感動したものだ。
スラムからほとんど出たことのなかった私は、あの時初めて、世界は果てしなく広いと言っていたマーガレットの言葉の意味を目の当たりにした。
「キユリ! こっちだ!」
船着場の近くで馬を下りて、海を見るために走り出すと私を呼ぶ声がした。
「提督!」
懐かしい声に視線を向けると、数年ぶりに会う逞しい男が手を振っていた。
国王より年上だと言うのに、日々身体を動かしているせいなのか年齢を感じさせない若さと筋肉。
手を振って駆け寄り抱き着くと、その逞しい腕で私を抱きかかえ、提督はくるくると回った。
「懐かしいな! 元気だったか?」
「相変わらずよ。提督やみんなは?」
「小さな大賢者様のおかげで航海は順調だし、各国の商船との取引も上手く行ってる」
「それなら良かった」
「その賢者様は、今日はいないのか?」
「セージも誘ったんだけど、今は研究に忙しいって」
「そうか。相変わらず、知識の牙城とやらに引きこもってんのか」
「そんなところ」
「例の作戦の方はどうなった?」
「謁見の機会を得たわ」
「本当か! そりゃ、すごいな!」
「だから提督、この後一緒に付いて来て欲しいの」
「……まじか」
提督と話をしていると、こちらへ近づいてくる三人の足音が聞こえた。
「パキラ、無事に着いた様だな。途中でくたばらなくて何よりだ」
「どこかの人使いが荒い元大元帥のせいで、こっちは大忙しなんだよ」
口では喧嘩を売るようなことを言いながらも、二人はふっと口角を上げた。
「ツヅミ、キユリ。この男は誰だ?」
「殿下、ご紹介いたします。ここにいる者は、パキラ海賊団船長、パキラ。我々の協力者です」
「パキラ海賊……?」
その昔、ベトワールの海域で暴れまわっていた男の登場に、アスターの瞳がわずかに膨張した。
そして、その後ろでスリフトも驚きを隠しきれない表情をしている。
「おう。あんたがベトワールの王子か。キユリやセージが世話になって……いや、世話になってるのはおたくらの方か」
「口を慎め、パキラ。殿下、申し訳ありません」
「構わん。海賊に礼儀など求めていない。ところで、なぜお前が海賊と繋がっている?」
パキラの嫌味を気にも留めずスルーしたアスターは、ツヅミへ視線を向けた。
「この七年間。私は傭兵として各国を旅し、マーガレット様の目指した周辺諸国の戦争を終わらせると言う願いを叶えるため、その手立てを探しておりました」
「戦争は根源から断ち切らなければならない、か」
「はい。マーガレット様を守れなかった私にできることは、それだけだと思い、長い間戦地で剣を交えたこの男に協力を頼みました」
「海賊ごときに何ができる?」
「言ってくれるじゃねぇか、若造の王子ごときが。その海賊ごときがいなけりゃ、一国も守れない坊ちゃんよ」
「パキラ、やめろと言っているだろう」
アスターの言葉に、パキラが逆に彼を煽り、ツヅミが呆れた様子でパキラを止める。
一見売り言葉に買い言葉のように見えるが、提督は人を煽って遊ぶ節がある。時折、セージの口の悪さはここから来ているようにも思うくらいだ。
そして、提督はあれでただ遊んでいるだけで、怒ってはいない。彼は、若さと言う希望を誰よりも大切にしている人だ。
大船団を引っ張る提督の器は、海よりも深く広いくらいでなければ務まらない。
「アスター。ツヅミが何を考えて提督に協力を求めたかは、これから行く場所に行けばわかる。提督も、からかってないで案内して。大事な荷物を早く受け渡さないと」
「おう、そうだったな。大事な大事な、ベトワール行きの荷物を渡さないとな」
そう言って目配せをしてくる提督に、私は、相変わらず私の後を隠れて追いかけている暗部たちが今日もちゃんといることを無言で提督に伝えた。
それから、提督に案内されて辿り着いたのは、商船が出入りする船着場の方だった。
提督の誇る大きな海賊船が、こんな大きな港町に堂々と停泊しているわけもなく、そこには見知らぬ小ぶりな商船があった。
「提督の船? 船員のみんなは?」
「そんなわけあるか。大半の船員は俺のアイビー号で留守番だよ。これは、お前たちの荷物を運ぶために、商会から船を貸してもらったんだ。海上戦の最中に紛れてベトワールの海域に入るには、小ぶりな商船の方が見つかり難い」
「なるほどね」
「荷物は中にいる。こっちだ」
提督の愛船である、アイビー号に比べたらかなり小さいが、どこにでもある商船へと乗り込む。
甲板から階段を下りると、見知った男の背中と十数人の人影が見えた。
「カラマツ」
「おぅ! キユリ!」
七年前、パキラ海賊の中で一番強いと言われていたカラマツと私は、一騎打ちの勝負をした。
あの頃の私には、まだ実戦経験がほとんどなく、カラマツとの勝負で他人の命を奪うこと、奪われることの意味を初めて実感した気がする。
ツヅミやルドベキアに比べれば決して筋骨隆々と言うわけではないが、高身長を生かした剣の振りは重く、それでいて驚くほどしなやかに動くから、攻撃をするりとかわされてしまう。
本能で動く私の戦い方とは違い、相手をよく見て分析するこの男はツヅミ以上の厄介さを持っていた。
「一国の王子様と登場とは、出世したもんだ。玉の輿でも狙ってんのか?」
「馬鹿言わないでよ。王妃にならなくても、私ならそれくらい簡単に稼げるって知ってるでしょ」
「それもそうだな」
「それより、この人たち?」
「あぁ。我らが舞姫、ご希望のお届けものです」
今更うやうやしく頭を下げたカラマツに、ありがとうとお礼を言ってから、怯える様にこちらを見ているその人たちに対し、私は胸に手を当て軽く膝を折った。
「遠路はるばるようこそお越しくださいました。突然のご連絡に、大変驚かれたかと存じます。私は、キユリ。そして、こちらはベトワール元大元帥のツヅミ様であらせられます」
隣に立ったツヅミを紹介すると、ツヅミは一歩前に出た。
「訳も分からぬ中、戦地のご家族からの手紙ひとつで船へと乗り込むのは、とても勇気が必要だったことだろう。だが、あなたがたの家族は私の名の元に、捕虜ではなくベトワールの新しい民として、王城にて保護しているので安心して欲しい」
そう、提督が荷物と言って連れて来てくれたのは、ハギをはじめとする農場に来てくれた元イグラン兵の家族たちだ。
提督たちパキラ海賊や各国の商会、傭兵仲間など、この七年で集めた多くの仲間たちの協力の元、捕虜となった彼らに家族への手紙を書いてもらい送り届けた。
諸外国との航路をイグランによって隔絶されているベトワールへ荷物を運ぶには、提督たちにイグランの目を引きつけてもらうしかないのだ。
「敵であるベトワール人の我々を前にして、言いたいことはあるだろうが、まずは王城にいる家族と会いたいだろう。護送にもう数日かかるが、耐えて欲しい」
全員もれなく痩せこけた頬に、肉のない身体。
身なりは、お世辞にも良いとは言えず、平民とスラムの人間の狭間の様な風体の彼らだが、イグランではこれが当たり前なのだ。
今ここで彼らが全員反旗を翻したところで、ツヅミ一人で鎮圧できてしまう程、彼らは日々をギリギリで生きている。
マーガレットはきっと、戦争続きのイグランの内情を知っていたから、根源から戦争を終わらせなければいけないと言ったのだろう。
自国の民ではない、彼らの命をも救うために……。
「これから、地上に出て、護送用の馬車に移動してもらう」
ツヅミがテキパキと指示を出し、イグランからの来客に船を下りる様伝えた。
だがその時、彼らの中にいた一人の少女が母親の手を離れ私の元へと走って来た。