20.セージの思い
「ここよ」
「旧スラム街……?」
私の後ろをついて来たアスターは、スラムへと通じる大通りを見て怪訝な顔をした。
ベトワールを出てから、私はここへは戻っていない。
古びた廃墟、ゴミの臭い、今にもゾンビが出て来そうだった暗い暗い街並みは消え失せ、王妃の亡くなったその場所は国によって整備された元スラムとなっていた。
あの頃ここにいた人たちは今、どうしているだろう。随分と時間が経ってしまったものだ。
それでも、一年中靄のかかったようなその場所の先を目を凝らして見てみれば、高くそびえ立つ古い時計塔が見えてくる。
そして、私は時計塔の前まで歩みを進めた。
「時計の針は、止まっちゃったのね……」
時計も読めなかったあの頃、スラムで唯一時間と言う概念を教えてくれたあの鐘は、どうやらもう動いていないらしい。
随分遠くに見えていたはずの時計の文字が、あの頃より近く感じる。
「ここは……」
「アスターなら、ここがどこだかわかるでしょ?」
当時、ここにアスターが来たのかは、あの日以来ここへ来ていない私にはわからない。
けれど、母親が死んだ場所くらい知っているのは当たり前だろう。
「セージ、アイリス王子」
「ねーちゃん。思ったより早かったね」
「キユリ、兄上……」
そして、時計塔の下には案の定、弟のセージがアイリス王子と一緒にいた。
どれほど仲良くなったのか、手を繋いだ二人は何をするでもなくただ時計塔を見つめていた。
「アイリス!」
アイリス王子の姿を見つけ、すぐさま駆け寄ろうとしたアスターの前に、セージが一歩踏み出し立ちはだかった。
「貴様がキユリの弟か。何のつもりだ」
「何の? 僕が書いた置き手紙見てないの? アイリス様を拐って行くって書いたよね?」
ニヤリと笑うセージに、アスターが既に深く刻まれた眉間の皺をさらに深くしていく。
「僕はさ、ねーちゃんと違ってあんたが誰だろうが、この国がどうなろうが知ったこっちゃないんだよね。でも、ねーちゃんがこれから一緒に戦うって奴が弱いのは困るんだ。だから、いつか足を引っ張ったり、足手まといになったり、ねーちゃんの命を脅かすかも知れない奴は、僕が見定めないとって決めてるんだよね」
セージは、言葉を続けながら手を腰へと移動させる。
「ねぇ第一王子様。僕と勝負してくれない? 僕に勝てたら、弟君は返してあげる」
「私と戦うと? 剣すら持たぬ君が、か」
「そうだよ。なんなら、そこの護衛も一緒で良いよ」
セージがスリフトを指差してふんっと鼻で笑う。
「おいおい。キユリの弟よ、痛い目見ても知らないぞ」
「そう言うあんたらこそ、相手の力量を剣の腕前だけで計ろうなんて浅はかなんじゃない? ま、僕にとっては一人も二人も同じだから、さっさと剣を抜きなよ。じゃなきゃ、僕には勝てないよ」
「本当に血繋がってないのか? まるで小さいキユリだな……」
本当に良いのかと心配そうに横目で私を見るスリフトに私は苦笑いを浮かべた。
基本、ちゃんとした考えがあって動いていることが多いので、あの子のやることに私が口を挟むことはない。と言うか、しないようにしている。
「私の弟をたぶらかしたのだ。手加減はしないぞ」
「必要ないよ。世間知らずの第一王子様」
「後悔するなよ」
そう言って、アスターが剣を抜こうとした直後、セージが素早く腰から取り出したものを地面に叩きつけると、「バンッ!」と言う音と共に辺り一帯が煙に包まれた。
「げほっ、げほっ……なんだ、これ……!」
「やっぱこうなったか……」
武器を持たないあの子が、正面から戦うことはない。そして、煙幕は我が弟の常套手段だ。
突如現れた煙にむせるスリフトに反して、アスターの声がしない。
動く足音は二つ。セージとアイリス王子のもの、となると、アスターは何をしているのだろう?
「会った刹那に首をはねなければ、か……」
煙の中、ポツリとそう呟くのが聞こえたと思ったら、アスターが走り出した。
「さてさて、どうなることか……」
セージもアスターも相手の命を奪うようなことはないが、今回は相手が相手だ。
それなりの覚悟で臨まなければ、天才といえど王子の剣の前に敗北するし、王子といえど子どもの前に敗北することになる。
そもそも、ここに来た時点でなぜセージとアイリス王子が城を抜け出したかなんて誰でも察しが付く。
「おい、キユリ。お前の弟、本当に大丈夫なのか?」
やっと煙の中から抜け出してきたスリフトが私の隣に立ち、煙の中を見つめる。
剣をしまっているところを見るに、どうやら戦う気はないらしい。
「アスターのこと守らなくていいの? スリフトって、一応アスターの護衛でしょ?」
「俺は、れっきとした護衛だよ……。だがまぁ、今回は職務放棄することにした」
「なんで?」
「アイリス王子がいたこの場所だよ。それに、煙の中でアイリス王子はキユリの弟と一緒に逃げた。これはもう、ちょっとした兄弟喧嘩みたいなもんだろ? 俺の出る幕じゃない」
寡黙な兄と言うのも困ったもんだ、とスリフトは肩をすくめた。
「それもそっか」
スリフトの言う通りだ。それに、大きくなった息子二人と弟のセージを母親に見せるにはちょうど良かったのかも知れない。
私は、煙の薄れた道を数歩進み、あの日、雨の中で私たちがいた場所で膝をついた。もうこのスラムにはあの頃の影も形もないけれど、それでも、あの人の最期の場所だけは覚えている。
そして、あの頃を思い出し、小さな声で大好きな人の名前を呟いた。
「マーガレット……」
七年という月日が経とうとも、あの日のことは今も鮮明に思い出せる。
マーガレットが私の腕の中で息を引き取り、全てが終わり、始まった場所。
――カツン、カツン……カツン、カツン……。
目を瞑れば、耳にこびりついて離れないあの歪な足音が今も聞こえてくる。
だが、その音に重なってもう一つの足音がこちらへ向かってくるのが聞こえた。
あの頃と変わらない、懐かしい足音――。
「ゆっくりしている時間はなさそうね」
「キユリ?」
「セージー!!」
立ち上がって時計塔を見上げ、セージがいるであろう上階へ向かって声を上げると、小さな覗き窓からひょっこりとセージが顔を出した。
「ねーちゃん、僕たち今逃げてるってわかんない? 空気読んでよ」
「ごめんごめん! 早くしないと、あんたをとっ捕まえにもう一人来てるよってお知らせ!」
「うわ、マジで? 面倒だなぁ……。もう二人まとめてやっちゃって良いかな?」
「ダメに決まってんでしょ」
頭をかいて面倒くさそうに、不穏な提案をする弟にやんわりと釘を刺す。
「あのさ、そろそろ僕の方が強いって認めさせるべきだと思うんだよね」
「セージが強いのは十分認めてるって」
「でも僕、まだ戦場に連れて行ってもらってない!」
「適材適所! それぞれの役割分担なんだからしょうがないでしょ!」
「次は絶対行くから!」
「わかったから早くしな。アスターが下の階まで迫ってるよ」
「わかってるって」
そう言って手を振ると、セージは頭を引っ込め見えなくなってしまった。
「あの弟君は言動がまんまキユリだな……」
「そう? 私あそこまで勝気じゃないと思うけど」
「……」
なぜが沈黙で応えるスリフトを横目に、私も時計塔の中へと足を進める。
「弟の応援か?」
「まさか。手出したらこっちが巻き添えくらうわよ」
「巻き添え?」
「あの子の武器は、見えない、聞こえない、匂わない。剣なんて届くはずがないのよ。もちろん、私の刀でさえもね。近付かないのが一番ってこと」
「それって……」
「アスターがそれに気づいていれば良いけど」
「本当に大丈夫なんだろうな……?」
「仲良くなったアイリス王子の兄上をみすみす殺すなんて真似しないわよ」
「なら良いけど……」
「それより、ちょっと手伝ってくれない?」
私は、弟とアスターの戦いには目もくれず、そのまま時計塔の最上階を目指して階段を登り始めた。