14.グリッチェ要塞
翌日、子どもたちにもらったマーガレットの花のほのかな香りに包まれて私は目を覚ました。
そして、朝日も登らないうちにもう一度西のトロワローゼ砦へと文を送った。
”去れ、さもなくば散れ”
今度はわかりやすくマーガレットの花びらを添えた。
それから、街の周辺をぐるっと見て戻ると、ベトワール軍は既に出陣のための準備を終えていた。
「どこに行っていた?」
「ちょっとね」
ヴェルシュに残って防衛ラインと、挟撃隊を指揮するアスターは、南の橋の門前で兵士たちに指示を出していた。
「そろそろ本隊が出発する時間だぞ」
「わかってる」
「何しに来た?」
「朝の挨拶。おはよう」
「君はいつも本当に緊張感がないな……」
「そんなことないって」
「さっさと行け」
「わかってるよ。王子、今日は守ってあげられないから、死なないでね」
「これまで君に守ってもらった記憶など一度もないが?」
「今日がその日だったかもしれないでしょ。スリフト、ちゃんとお願いね」
「わかってるよ。キユリも気をつけてな」
「うん。あ、アスター、橋に全てが集まったらさっさと逃げてね」
「何の話だ?」
「後でのお楽しみ! 行ってきまーす!」
私は、それだけ言い残してヴェルシュ待機組の元を後にした。
朝日が昇るのと共に、グリッチェ要塞の前にベトワール軍の布陣が完成した。
しかし、グリッチェ要塞は、思った通り昨日一日でその防衛をさらに固めていた。
「これは長期戦になりそうだな……」
隣で馬に乗るルドベキアも苦々しい顔をしながら、そう呟き、何も進展がないまま時刻は昼過ぎを迎えた。
朝から大砲や投石機での攻撃を続けてもその効果はほとんどなかった。
「激しい戦いになるって聞いて鎧着てきたけど、着なきゃ良かった。やっぱこれ重すぎ」
「鍛えた兵には頼りになる代物なんだがな。女性には重いだろうな」
「だいたいさ、あんな堅い砦がなんで取られちゃったの?」
「セトと同じだ。圧倒的数の差で押し切られた。当時のベトワールの守備兵三千に対してイグランは一万。そして、増援が一万」
「うわぁ……。まさに数の暴力ね」
「戦争で兵の数を減らしていくベトワールとは違って、イグランはあれほど戦争をしていても兵が減らない。恐ろしい国だ」
そもそも両国では人口の分母が違う。それに加え、使い捨てのため誰でも兵になれるイグランと、命を重んじて少しでも生き残れるように騎士はもちろんのこと、民兵ですら一定の訓練をしなければ戦場には出られないベトワール。両国の兵に対する考え方は全く異なる。
「ヴェルシュに逃げ込み籠城できただけでも奇跡だった」
「なるほどね」
「セトが落ちたと聞いた時、ここにいた兵は恐らく全員が覚悟を決めた。でも、それからすぐセトを奪還したと聞いた時、ヴェルシュにも希望ができた。そして、君らが来て本当の希望が生まれた」
「お腹いっぱい食べられたから?」
「はははっ! そうだな。聖女自ら道で狩りまくっていたと、殿下が困っていたぞ」
「引いてたの間違いでしょ。あの王子様はその辺が王子なんだよねー。ひもじい思いをするのがどれだけ苦しいか、本当の意味では知らない」
「君は知ってると?」
「貴族出身の軍団長様にもわからないだろうけど、私はスラムの産まれで、物心ついた時にはもう死体の隣で泥水すすって生きてたから。空腹も、喉の渇きも、彼らは常に私の隣人だった」
スラムでご飯にありつけないことなんて、珍しくもなんともない。水だって手に入らなければ、死ぬかも知れない汚い川の水を飲むしかないのだ。
「そうか……。すまない、嫌なことを聞いた。キユリとホウセンは少し境遇が似ているのだな」
「ルドベキア様、そんな甘っちょろい女と俺を一緒にしないでください。俺はどれだけ腹が減っても敵を殺します」
ルドベキアと私の話を、ルドベキアの横で聞いていたホウセンがグリッチェを睨みながら答える。
「弓や短剣で、ちまちま中途半端なことやってるそいつと同じなんてありえねーんですよ」
「この戦場で女の身でありながら渡り合える強さは称賛に値するだろ?」
「俺は中途半端な奴が死ぬほど嫌いなだけです」
決定的なことはあえて言明しないでいてくれるのは有り難いが、やり難い。
「はぁ……。ホウセン、何か勘違いしてるようだから一つ教えといてあげる」
「あ?」
「私はね、ここへ勝ちに来たんじゃないの」
「なら何しに来た?」
「ヴェルシュを開放しに来たの」
「それが勝つってことだろ!」
「ただ殺して勝つだけが戦争だと思ってるうちは、あんたは一生私には勝てない」
「んだと?」
「待て、ホウセン。キユリもあまり挑発するな」
言い合いになりそうな雰囲気に、ルドベキアが止めに入るが、ホウセンの勢いはもう止まらなかった。
「止めないでください、ルドベキア様! 俺はこいつより強いし、こいつは戦場には不釣り合いだ!」
「半年引きこもるしかできなかった奴が私より強い? ここに来て誰が砦を落としたと思ってんのよ!」
「てめぇ……まじで許さねぇぞ」
「そう言うことは突破口のひとつも切り開いてから言ってよね」
「てめぇよりできるってこと証明してやるよ! 今すぐに!」
「おい、待て! ホウセン!」
相当頭に血が上ったのか、売られた喧嘩をまんまと正面から買ったホウセンは馬を走らせそのままグリッチェへと突っ込んで行ってしまった。
「あの馬鹿!」
「あいつ、私より短期ね。ルドベキア、私が行くわ!」
敵軍に一人突っ込んでいったホウセンを、私もすぐに馬を走らせ後を追う。
「待ちなさい! ホウセン!」
「うるせぇ!」
敵の守備はパストゥより数を増やした弓兵が頭上と、正面。まともに食らえば死は避けられない。
「たく……。お前は味方のところに戻りな」
私は、なんとかホウセンに追い付くと、自分が乗ってきた馬をなでて手綱を離し、ホウセンの馬へと飛び乗った。
「てめぇ! なんの真似だ!?」
「あんた、このまま行けば死ぬわよ」
「俺は強ぇんだよ!」
「わかったから。上は私に任せて前だけに集中して! 来るよ!」
真っ直ぐ敵へ突っ込んでいく私たちに、パストゥの時と同じように雨の矢が降り注ぐ。
あの時と違うのは、正面にも弓兵がいて躱すことは困難になっている点だ。
私は上から降る矢を、ホウセンは正面から迫る矢を叩き切っていく。
「このまま突っ込むぞ!」
「無理よ!」
「行ける!」
「ダメよ! 引き返して!」
「うるせぇ!」
そのまま矢の雨を叩き切り敵弓兵に突っ込もうとした瞬間、足元からがくんと崩れ落ちる感覚がした。
ホウセンが操っていた馬に幾つもの矢が突き刺さったのだ。
「くそっ!」
「きゃっ!」
空中へ放り出された私たちは、地面へと叩きつけられる。
「ホウセン!!」
その時だった。
待ってましたと構えていた弓矢がホウセンを捕らえて放たれた。
「くっ……!」
「……おいっ! キユリッ!」
「だから、無理って言ったでしょ……」
とっさにホウセンを守ると、肩に矢が刺さった。
「敵は私が引きつける。すぐにルドベキアたちを呼んで来て」
「でも……」
「この砂埃なら、抜けられるでしょ。いいから早く行って……!」
私はすぐに立ち上がると、ホウセンを狙う敵の前に立ちはだかった。
「パストゥの敵はここにいる! 要塞から出てくる勇気もない弱きイグランの兵たちよ! 女一人の首くらい取ってみろ!」
腰の愛刀を両手に引き抜き、すぐさま正面の弓兵へと襲いかかる。
上は無理でも、正面の弓兵をあらかた片付けておけば後の戦況が変わるはずだ。
けれど、弓兵を切り伏せていると、ぞろぞろと中から兵が出てくるではないか。
恐らく、西の砦にいる大将が私を殺すためだけに増援をよこしているのだろう。
「あいつだ! 魔女がいたぞ!」
「殺せ!」
「この首取ってみろっ!」
剣士の中に突っ込み、次々と斬りつける。
そして、わんさかイグラン兵を引き連れたまま、私はリコン川の方へと逃げる。
この隙にホウセンが本体へ戻るだろう。
「援軍が来る前に殺せ!」
「くっ……!」
腹に一本、背に一本と、逃げる途中で身体に矢を食らいながらもなんとか川へ向かって走る。
次から次に来る騎兵を倒し逃げても、後ろから飛んでくる矢を避けきれない。
まるでパストゥ砦で見せた矢の雨を避けていたのが嘘のように……。
「このまま川へ追い詰めろ!」
「しぶとい魔女め!」
そうして、逃げ場のない川へとどんどん追い詰められて行く。
矢が刺さった場所が痛む。息は切れるし、鎧が重くて動きにくい。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「魔女もここまでのようだな」
「この命は、神から賜った命。お前たちイグランの兵は神の意思に背く者。その事実を、目の当たりにすることとなる……!」
「魔女が神を語るな!」
「打て!」
――トサトサッ!
ホウセンは無事に逃げられただろうか……。
そんなことを思いながら、イグラン軍の放った矢に討たれ、私はリコン川へと沈んだ。