♪Ⅳ 波打ち際のトレース
「どうされました?顔色悪そうですが」
「ッ!」
海岸に仰向けになっていると、僕の視界を遮るように、太陽の心地よい光を隠すように、一人の黒髪ロングの女性がこちらの顔を覗き込んでいるではないか。先ほどまで夢見心地だったので、なんだか、幻覚を視たような気がした。
「いえ……問題ないです」
そう言って僕は立ち上がり、背中に着いた砂を手で落とした。すると女性は僕の膝の裏にも付いていた砂を手で落としてくれた。
「すみません、ありがとうございます」
「いえいえ。それにしてもどうしたんですか?こんな所で眠っていたなんて」
どうやら気づかないうちに寝落ちしてしまっていたらしい。なんだか懐かしい夢をみていた気もするけれど、この暑さで気にならなくなった。僕を起こしてくれた彼女は白いワンピースに麦わら帽子、といういかにもな服装であり、涼やかな装いであった。一瞬起きた瞬間、あのお姉さんと表情が重なったような気もしたけれど、よく見るとこの人はあんな無邪気な表情を見せるような雰囲気ではなかった。
でも、なのに、僕は奇妙なことを始めた。あの頃の記憶をなぞるように、僕はその辺に落ちてある枝から見繕い、波打ち際まで足を動かした。そんな僕の行動を不思議そうに彼女は目で追っているようであった。
そうすると僕は枝で、あの頃と同じように砂浜に書き始めた。
「何か描かれているんですか?」
そう言って女性が近寄ってくるのを察知すると、僕は急いで、慣れた動作で足で書いていたものを消した。彼女がかがんで覗く頃には、跡形もなく消えていた。
「なんでもないです」
「?そうですか」
と、僕の行動にさほど関心を示すことが無かった女性は、特に話すこともなくなったのか「それでは、お気をつけて」と言って立ち上がった。真夏の空の下、僕の書いた文字は彼女に届く事もなく、ただ頭の中に沈んでゆくばかり。誰に届く事もなく、波の動きで無かった事になるだけ。そして今書いた言葉は、僕の記憶の中で徐々に薄れていって、無かったことになって……。
「晴奈さんですよね」
僕の問いかけに女性の足は止まる。もし人違いであれば大変恥ずかしい思いをする。けれど、この人が晴奈さんだった時、僕は凄く後悔するだろう。
───恥ずかしさで全てが上手くいかなかったあの頃と、同じ間違いはしたくなかった。
「だったら何ですか?」
女性は振り返って僕の顔を見つめる。その視線は相変わらず明るくなくて、当時の晴奈さんとは違って冷たかった。なるほど、と思った。あの頃は僕と遊んで楽しんでいたから表情は明るかった。けれどあんな形で僕が一方的に絶縁したんだから、晴奈さんの心境を察するのは容易かった。
けれど、臆するなんてしたらいよいよ手遅れだ。僕は一度深く深呼吸をし、言葉を落ち着いて紡ぎ出した。
「晴奈さんに謝りたい事があるんです」
僕の言葉を、ただ鋭い目線で彼女は待っていた。青空の映りそうなほど透き通った瞳は、何も語らずのままである。
「あの時はよく分からない理屈で、強い言葉使って、突き放してすみませんでした!」
とうとう、口にしてしまった。今まで本音は誰にも喋られなかった僕が、ある意味、一番無関係だった人に。ある意味、一番大切だった人に。頭を下げ、晴奈さんの顔を見られないまま、ただ素直に謝罪した。
頭の中が真っ白になっていたから、頭を下げてからどれくらい時間が経ったか分からなかった。やっと意識が落ち着き始めた頃、いつの間にか、僕の近くまで近づいてきた晴奈さんが語りかけてきた。
「あのさぁ……うーん」
その微妙な反応が意外で、絶望的で、僕は思わず声が漏れた。
「え?」
「うーん。私が怒っているのってそこじゃないんだよなぁ。サイダーの件のこと。勿体ないでしょ、海に垂れ流して」
意表を突かれ、まだ許しを得ていないのに思わず頭を上げてしまった。この間抜けな行動は無視してそのまま晴奈さんは話を続けようとしたが、あまりに意味が分からなくてつい話を遮る。
「いや、だってあの態度は失礼そのものじゃないですか。悪い事言ったら、人は嫌な気分になる」
「ワタ君って本当になんも分かってないんだね。ワタ君の言動なんてずっとそんなもんだったじゃん。恥ずかしがり屋で、本音が喋れないアベコベ君。ならあの言葉は本音じゃないでしょ。第一、あーいう事言われてもだいたいの事は察するよ。一応、高校生だったんだよあの頃でも」
冷水をぶっかけられた気分になる。確かに、言われてみればその通りだ。僕も高校生の頃になるとある程度の、ガキの行動のテンプレートは知っていた。あんなありきたりな照れ隠し、察せない訳なかった。
「私を舐め過ぎだって話。って舐め過ぎで思い出したけどさぁ……」
僕が呆気を取られていると、今度は晴奈さんの顔はあの頃と同じように笑みを浮かべ始めた。本当、嫌な予感がした。
「さっきサイダーの飲み方どうしたの。ちょっと正気じゃなかったよ?」
訂正、あの頃の笑みに加えて妖艶さもちょっとだけ含まれていた……。
***
赤面して喋られなくなってしばらく。僕らは波打ち際で膝を折ってかがんでいた。それから波の動きが穏やかになった頃合い、未だ青い空の下で晴奈さんはボソッと話し始めた。
「私ねあのとき友達がいなかったんだよ」
「そうだったんですか?」
「中学三年の頃に県外から引っ越してきてさ、そんで知らない人と浅い関係を築いて。それは高校に進学してから一年目も続いてさ、そんな若干の孤独を感じていた時にワタ君に出会ったんだ」
黒髪が潮風にたゆたう。当時を振り返る晴奈さんの表情はあの頃とは違って、ちょっと大人びていた。
そういえば、僕が中学生の時にも転校生が来たけれど、あの人とは全然距離が縮められなかった。晴奈さんもそういう転校生だったのだろう。初めて晴奈さんの話に共感できたのがちょっと嬉しかった。
「君は変な子だったからさ、これはクラスメイトの子たちと違って気を遣わないで遊べるなーと直感したんだ」
「それはようござんした」
「と思ってたら私の軽率な行動のせいで君とは離れ離れになっちゃった」
「……」
「でも今にしてみれば君との出会いのおかげで気づけたんだ。意外とクラスメイトの子たちは良い子ばっかりだから、君と同じく、明るく接しても問題ないって気づけたんだ。ワタ君のおかげで今の私がいるんだ」
なんて恥ずかしいセリフを堂々と語るのだろう。
「それから高校生活は楽しくなった。文化祭で馬鹿やったり、くだらない遊びやって先生に怒られたり。でもね、それでも寂しかった。就職してからも、心のどこかで引っかかっていたんだ。時間が経つたびにワタ君の顔が曖昧になって」
「じゃあ何で今日、僕が分かったんですか」
「いや昼から気色悪い変なサイダーの飲み方している変人なんて君しかいないでしょ」
「なんだよその判断材料!」
「だから言ってるじゃん。君はアベコベな子だから、恥ずかしがり屋だから、あの頃の反応を振り返ってみて君が私に向けていた感情なんてバレバレなんだって」
「───っ!」
「そしてあんなサイダーを拗らせてそうな男の人、ワタ君しかいないでしょ?」
晴奈さんは僕を変人だと言うけれど、こんな清々しい理詰めをしてくる人も大概ではないか。けれど言い返す顔も無いので、僕は彼女のペースに呑まれる他……否、それだと何だか悔しかった。
「そうですよ、僕は晴奈さんがあの当時からずっと好きでしたよ」
「だろー……って、へ?」
先ほどまで饒舌に語っていた晴奈さんはぴくっと言葉も顔も固まった。
「それは今も変わりません。ならアナタはどうなんですか。あの頃はお互いそういう関係になれるような年齢じゃありませんでした。けれど、お互いもう恋もだいたい知る歳になりました」
「って、なにそれ告白かなんか」
「そう受け取ってもらって構いません。僕はもう恥ずかしがりません」
「ってちょ顔近いってばぁ。待ってああもう……」
ちょっと不貞腐れた感じで、彼女は枝で何かを書き始めた。紅いは頬は初めてだった。
「なるほど」
書き綴られた文字は波で段々と削られる。
それでも読み解くのは問題なかった。
ふと、晴奈さんの表情を横目で伺ったがうつむいて確認出来なかった。そこにいたのは、ありきたりで、けれど愛おしい女性の姿だった。
いつも僕の先回りをして、僕をからかっていた彼女がその人なのである。
それがなんだか可笑しくてつい吹き出してしまった。それが気にくわなかったのか晴奈さんは、赤面のまま僕の方にがっと向き直った。
「なんだよぉ!なんとか言っててば!!」
そんなちょっと子供っぽい姿をみて、ああ僕は確信したのだ。
……追いついたと思った。
オチの部分は、別の小説投稿サイトに投稿したやつに加筆修正いたしました。