005.帆崎風亜里
湖波坂絵と茨野睦花に会ってしまったので、桃岡高校に在籍している栂下出身の女子は残すところあと一人になってしまう。
睦花との面会を終えて一組をあとにすると、天雨が寄ってきて「意外と話弾んでたね!」と驚かれる。「もしかして湊太くんって、女誑し?」
「違うっての」ひどい言われようだ。「睦花は俺のこと覚えてたよ」
「嘘!?」驚愕する天雨。「誰も湊太くんのことなんて覚えてなかったのに?」
「そんなふうに言うなよ……」
「それって、睦花が思い出の子で確定なんじゃないの?」
「でも、約束の話は知らないって言ってた」
「ふうん……」天雨は考えるようにしてから「でも、湊太くんのことを覚えてたんだったら、当時の湊太くんの人間関係にも詳しいかもよ」と言う。「湊太くんが誰と仲良くしてたかとか。そこから思い出の子を探り出せるかも」
俺は冗談で訊いてみる。「天雨がそうだよって言われたらどうする?」
「そしたら、ごめん」苦笑される。「全然覚えてないから感動も何もないよね」
「その程度の相手で、その程度の思い出だったってことだよな」
「そんなことないよ。無意識の中では、その子も湊太くんのことをきっと思ってるよ」
「自分だった場合の予防線を張るなよ」
「あはは! いや、いま湊太くんに言われて、もしも睦花が私がそうだったって急に言い出したらどうしようかと思ってさ」
「まあ睦花は何も知らなさそうだったけどな」
「でも、湊太くんのことを覚えてたのは偉いよね」
「いや、逆に『そんなの忘れる?』みたいに言われたよ」
「そこを突かれると、私もあなたも坂絵も痛いよね」
「バカ三兄弟みたいだな」
「最低なトリオだね」天雨は一呼吸置き、「最後の子にも会っとく?」と話を進める。
「ここまで来たら、一気にやっとくか」
「最後の子は低難度の帆崎風亜里だよ。一年五組。物腰柔らかな子だから楽勝。取っておいてよかったね」
「最後で余裕を持てる状態ってのがやっぱり一番いいよ」と俺はリラックスモードだ。坂絵、睦花と来て、今さら緊張もしない。「さっそく案内してくれ給え」
「調子に乗り出したー」と天雨は笑う。「でもわかってる? 坂絵も睦花も違うんだったら、風亜里が思い出の子かもしれないんだからね?」
「た、たしかに……」たしかにな。「やばい。腹痛くなってきたかも」
「逆境に驚くほど弱い……」
そうは言いながらもトイレは済ませずに五組へ向かい、天雨に教えてもらい、俺は帆崎風亜里さんのもとへ歩み寄る。帆崎風亜里さんはクラスメイトとお喋りしていたみたいだったが、ちょうどその子も席を離れ、今は一人だ。
髪の長さは、天雨と坂絵の中間ぐらいだ。少しウェーブがかかっていて、色味も薄い。『髪が短い』と言えるかは微妙なラインだけれど、少なくとも長くはない。
横顔だけでも穏やかそうで、わけもなくニコニコとしていて、感じがいい。あと、けっこうお胸がある。坂絵や睦花は言っちゃ悪いが貧相な体付きをしているし、天雨もスレンダーだけどそこまで膨らんでいないし、あの三人を見てから帆崎風亜里さんに目を向けると脳がバグりそうになる。
いや、だけどそんな、鼻の下を伸ばしている場合でもない。帆崎風亜里さんこそが思い出の子である可能性はそこそこ高く、気を引き締めなおした方がいい。
深呼吸をしてから「帆崎風亜里さん」と声をかける。
鼻歌でも歌い始めそうなほどのどかな調子だった帆崎風亜里さんは、俺を視認して、目を剥く。「うそー?」と間延びしたトーンで言い、「中道湊太くん?」と俺を呼び返す。
「!」俺を覚えている子、二人目! やった! 嬉しい!
喜んでいると、帆崎風亜里さんにプイと顔を背けられる。あ、あれ? 「わたし、湊太くんのこと、嫌いだからー」
「え……」そ、そういう感じ? ここに来て、最後の最後で、なんか不穏。「……俺、昔、帆崎さんに何かしたの?」
低難度のはずの子が、俺の不徳によっていきなり難易度を上げてきた。俺は弱るが、そういうことだってありえるのだ。俺のことを覚えているというのは必ずしもプラスではなくて、俺のよくない部分、俺との嫌な思い出をも覚えているおそれがある……ということなのだ。
帆崎さんは「自分の胸に訊いてみたら~?」とやんわりした口調だけど、しかし手厳しい台詞を放つ。
「ごめん」と俺はまず謝る。「栂下町にいた頃の記憶があんまりなくって、帆崎さんに何をしてしまったのか、そもそも帆崎さんのこと自体も覚えてないんだ。ごめん。何か取り返しのつかないことをしてたら謝るし、今から俺にできることがあれば、するよ」
帆崎さんはゆっくりとこちらを見遣り、「成長したんだねえ」とにっこり微笑む。「冗談だよ。ちょっと悔しかった思い出があったから、意趣返しをしただけ。怒ってないよ。そんなにびっくりした顔しないで」
「な、なんだ……」本当にびっくりしたというか、うわあと思ってしまった。最後にすごい地雷が隠されていたんじゃないかと。「悔しかった思い出っていうのは……?」
「たいしたことないよー」と穏やかに言う帆崎さん。「わたしは湊太くんのことが好きで、遊んでもらいたくてくっついてたのに、湊太くんは遊んでくれなくて、わたしなんか引き剥がして、天雨ちゃんとばっかり遊ぶんだもーん」
「あー……そうだったのか。それはごめん」俺はやはり謝る。「もしよければ、これからまた仲良くしてくれると嬉しいんだけど。今度は引き剥がしたりしないし」
「それ、告白?」と微笑まれる。
「いや、告白とかじゃないんだけど……」色恋沙汰には弱く、恥ずかしくなってしまう。「同じ栂下町に住んでるわけだし、友達として楽しくやってけないかなと思って」
「ふうん。やだー」
「えっ」
「うそ~。いいよー」
「…………」なんか、もしかすると実は本当に嫌われているんじゃないかなとチラリと思ってしまう。「あの、無理に仲良くしてくれなくてもいいからな?」
「じゃあ、仲良くしないでおくね」
「……わかった」
「冗談だってー」と帆崎さんは邪気なく笑う。「そんなに悲しそうにしないでー。冗談なんだからー。わたし、湊太くんと仲良くするよ」
「うん……」でもなんか、俺の記憶にないところで俺に対して『悔しい思い出』があると言われると、気にはなる。記憶にないわけだから、何をしていても不思議じゃないというか、自分は潔白で善良なのだと断言できない状態なのだ、この、今は。
帆崎さんが俺の顔を覗き込んでくる。「全然変わらないねー。あの頃のまんまだよ。わたし、すぐに湊太くんだってわかっちゃったー。すごくないー?」
「たしかにすごい」天雨や坂絵の脳味噌のことを思うと、奇跡的とさえ言える。そこまではっきりと記憶していて、かつ、八年経ってもすぐに俺だとわかるってことは……安易だけど、それだけ思いも強いということで、帆崎さんが思い出の子っぽい感じはやはりある。けれど、エピソードを聞いていると俺と帆崎さんはそこまで仲がよかったわけではなさそうだが……。「ねえ、っていうか、俺と天雨ってそんなに仲良しだった?」
「えー? わたし、そんなこと言った~?」
「言ったよ。『天雨ちゃんとばっかり遊ぶ』ってさっき言わなかったっけ?」
「言ってな~い」
「…………」
「教えてあげな~い」
「…………」
「ほっぺにチュウしてくれたら教えてあげようかなー」
「わかった」
俺が帆崎さんに手を添えると「ふふふ」と笑われる。さすがに少し照れ臭そうだった。「何もしなくたって教えてあげるよ。湊太くんは女の子とよく遊んでたし、天雨ちゃんとも仲良しだったよ。お家が近いんでしょお? よく遊んでたじゃな~い。天雨ちゃんのことも忘れたの?」
「うーん……恥ずかしながら、誰のこともなんにも覚えてない」
「そうなんだー。誰のこともっていうなら、まだいいよねー平等で。わたしだけ忘れられてたりしたら、ショックで手首、切っちゃいそう~」
「ダメだよ……」
「湊太くんの手首を」
「ダメだよ!」
「太~い血管が浮き出てるところを、切れ味のいい包丁で、シュッと」
ゾワリとなる。「ひー、やめて」
「ふふ。切らないよ」帆崎さんは俺を眺める。「もしかして、湊太くんは栂下町にいた頃のことを思い出そうとしてる?」
「うん、まあ。なんで?」
「必死そうだから。わたしなんかにチュウしてまで、教えを乞おうとするなんてさー」
「いや……約束を」俺は言う。「当時、引っ越す前に何かの約束をした相手がいるんだけど、それが誰かだけでも思い出したくて」
「ふーん」
「帆崎さんだったりしない?」
「帆崎さんじゃない」
「そっか」
「風亜里でいいよー」
「あ、そっちか。……風亜里が俺と何かを約束した相手だったりしない?」
「わたしが湊太くんと何か約束すると思うー?」と逆に訊かれる。「湊太くんに疎まれてたのに」
疎んでなんてないよと返したいところなんだけど、小二の頃の俺の心理が読めなくてなんとも言えない。でも、どんな約束をしたのかがわからない以上、思い出の子が俺にとってどんな相手だったのかもわからないだろう。疎む疎まないの話だって、風亜里が主観的に言っているだけなのだ。あらゆる可能性を放棄すべきでないと睦花も言っていたし、俺はできる限り細かくこだわっていきたい。
「『風亜里なんか』じゃないよ」
「んーー?」
「もしも小二の頃の記憶があったら俺は、あの頃のまんまだねなんて言わず、風亜里美人になったねって言うと思うよ」
「むう!?」風亜里は真っ赤になり「ばかーー」とふんわり怒る。「人をからかってばっかりなんだからー」
「それは風亜里だろ?」これもまた意趣返しだ。
「そんなことしてたら、また本気になっちゃうんだからねー」と風亜里が小さく小さくつぶやく。チャイムが鳴る。