009.帆崎風亜里②
休み時間にトイレを済ませ、廊下でぼんやりとハンカチで手を拭いていると、背後からグイッとくっつかれ、「だーれだ」と問われる。
「あ、天雨……!?」天雨の声だけれど天雨はそんなことしないし、でもそもそも誰だって俺に対してこんなことしないし、じゃあ誰だ?と混乱していると、背中に柔らかいものが当たり、こんなに柔らかそうなものをお持ちの知り合いは一人しかいない!と思い、俺は「風亜里!?」と答えなおす。「ちょ、離れて……!」
「すごーい」とのんびりした風亜里そのものの声で讃えられる。「天雨ちゃんだと思わなかったのー? わたし、天雨ちゃんの声マネ上手いでしょー」
「い、いやあ……」胸が……お胸があるから。「風亜里、とりあえず離れて」
「やだ~」と歌うように拒否される。「正解したから、ご褒美」
「ご、ご褒美は今いらないかな……」トイレを利用する他の生徒にメチャクチャ見られている。当然だ。学校の廊下でこんなにイチャイチャしている男女は最乃宮でだって俺は見かけなかった。
「湊太くん、もうわたしのこと引き剥がさないって言ったもんねー?」
「引き剥がすって、こういうこと?」俺はテンパる。「もしかして、小二の頃、風亜里が俺にくっついて引き剥がされてたって、こういうこと?」
「こと~」と言われる。「わたし、ずっと湊太くんにくっついてたからー」
「小二の頃やってたことを高校でやらないでよ……」もう体が昔と違って大人なんだから……。
だけど、動転しすぎているだけなのかもしれないが、風亜里にくっつかれていると、何かを思い出しそうになる。何かのビジョンが脳裏をよぎりそうになる。たしかに俺はその昔、風亜里に同じことをされている。それを確信できる……気がする。
「……湊太くん?」
「……なんか思い出しそう」
「えー? わたしに抱きつかれてると?」
「うん……」
「じゃあ、もっとぎゅーするね?」
「なんか、風亜里の匂いも、昔のまんまだ」
「えー? いや……っ」
体を離されてしまう。「あっ、ビジョンが……」
「……匂い、するー?わたし」
「臭くないよ? いい匂いが……」
「は、恥ずかしい……」風亜里は両頬に手を添える。「……けっきょく、最後は湊太くんにやり返されちゃうんだもんなー。途中までわたしが攻め立ててるはずなのに」
俺は強気になる。「正面から抱き合ったらもっと思い出せるかも」
「こんな場所で無理だよー」と笑われる。こんな場所では、後ろからでもダメだと思う。もっと言うと、人目につかない場所だとしても俺と風亜里が抱き合っちゃダメだと思う。ただの友達なんだし。
「でも、記憶が刺激されたのは本当」脳味噌の、薄皮を隔てた向こうに鮮明な映像が流れているはずなのに、しかしその薄皮を捲って映像を見ることは叶わなかった。それくらい、惜しい想起の仕方をしていた。
「……わたしとの記憶?」
「たぶん。くっつかれてた記憶」
「本当に、もっとくっついてたら、思い出すかもねー」
「かもな」風亜里の感触と匂い。それから、耳元で響く声。こういう、過去の体験と似たような条件が揃うと記憶が呼び起こされたりするのかもしれない。「……それにしても、天雨の声マネ、上手だな」
「ふふふ~」
「なんで?」
「ふふー。理由はないよ。声の質が似てるんじゃなーい? あとは、喋り方を意識的にマネてるからー」
「すごいな」
「それでもわたしだってわかった、湊太くんの方がすごいよ」
「…………」お胸の話はできない。
「湊太くん、好きだよ」と風亜里が天雨の声で言う。
「もう、からかわないでよ」と俺は無性に照れてしまう。
「自分でやっといてなんだけど、腹立つー」と風亜里は冗談っぽく笑う。「天雨ちゃんにばっかりデレデレしてちゃってさー」
「風亜里が自分で声マネして言ったんじゃん」
「オレは嫌いだよーって返してくれればいいんだよ」
「嫌いじゃないから」と俺は応じる。「天雨だとしても好きだし、風亜里だとしても好きだし」
「もぉ~……」
「ははは」風亜里は大胆だけれどこちらから攻めるとすぐにダウンするから面白いし可愛らしい。「……でも、天雨の声マネができるってことは、普段から天雨と喋ってるんだな」
「挨拶程度だよ」と風亜里。「廊下ですれ違ったりしたら、挨拶程度に軽~く雑談するくらいかなー」
「へえ」風亜里と天雨……この二人の仲は特段悪くないようだ。天雨が風亜里となら仲良くできるかも、と言っていたくらいだしな。「なんだかんだ、天雨のことは別に嫌いではないってこと?」
「まあ、可愛いしねー」と風亜里はうっとりと目を細める。「わたし、可愛いものは好きだから~。天雨ちゃんは可愛いし……羨ましいし悔しいけど、嫌いじゃないよ」
「そっか」
「わたしと天雨ちゃんの仲を確認したりして、どうかしたの?」
「いや……」言おうか迷うが、言う。「幼馴染みなんだし、仲良くしたらいいのになと思って」
「まあねえ」と風亜里も言う。「今となっては、それぞれにそれぞれの人間関係があるから、なかなか難しいとは思うけどねえ」
「それはそうだけど」
「仲良くなるべき人は仲良くなるだろうし、そうじゃない人は無関係のまま生きてくんじゃないかなー」と風亜里は穏やかな口調ながら寂しげなことを口ずさみ、締める。「ところで、湊太くんと約束をした子のこと、何かわかったー?」
「あー……なんにも」俺は肩をすくめる。「確認したいことはあらかた確認したし、新しい情報が出ない限りは、調査も中断じゃないかな」
「ふーん」
「風亜里はもう知ってること何もない?」
「わたしも完璧に全部覚えてるわけじゃないし、何が湊太くんにとって役立つ情報なのかもわからないし、なんとも言えないよー」
「そうだよなあ」俺も風亜里に何を訊けばいいのかがまずわからない。
「まあ、約束した子も大切かもしれないけど、一番大切なのは今だよー湊太くん」と風亜里が微笑む。「約束した子のことはいったん置いておいて、今、誰が好きなのか……誰を大切にしたいのか、考えてみたらー?」
「誰が好きか……」
「約束した子のことが好きで忘れられない……とかじゃないんでしょー?」
「それは……うん。っていうか忘れちゃってるからな」顔も、名前も。「思い出の子と付き合いたいとか、そういう話じゃないんだ。今の恋愛と、思い出の子はまた別だよ」
「高校生になったんだからー……しないと。恋。そうじゃない?」
「それはまあ、そういう縁が何かあれば、するけど」
思い出の子を探すことにばかり意識を向けていたから、そもそも何も考えていなかったが、桃岡高校にも徐々に慣れてきたし、目線を過去から現在へとスライドさせていっても、いいのかもしれない。思い出の子に関してはけっきょく誰も名乗りでないし、不明のまま、どうしようもないんだから。
「うん」と風亜里は満足そうに笑む。「今を、未来に向かって生きないとねー」
「うん」
そう言いながらも思い出の子についてはずっと注意を払ってしまうんだろうし、俺の中ではいつまで経っても大きな存在なんだろうけど、今現在のことにも目を向けようと思えた。天雨も坂絵も睦花も風亜里も、俺にとっては思い出の子の候補者でしかなかったんだけど、それは違うのだ。彼女達はもう栂下小学校の生徒ではなくて、桃岡高校に通う俺の同級生なのだ。たしかにそこを勘違いしてはならない。