名を折るならば骨を折れ 6
夜の寒さと朝の寒さは、重さが違うように感じる。
夜の寒さは全身にのしかかり動きを止める寒さ。
それに対して、朝の寒さは軽いけれど切り裂いていく。そんなふうに。
まあ、寒かろうと何だろうと、家畜の世話を怠る理由にはならない。
日が昇れば寝床から出て放牧に向かうのは、眠くなったら欠伸が出るのと同じくらいには、当たり前のことだからね。
城壁を越えた朝日は、白く輝きながら地上を夜から朝へと変えていく。
けれど、大気を温め、ぬくもりを感じるようになるまで、あと四つは月を越さないとな。
寒いのがしんどくないわけはないけれど、跨るコロの体温は温かく、それに加えて、俺は冬の朝が嫌いじゃない。
日の光は、首巻に当たった息で出来た霜すら溶かせない。
けれど、でも、やっぱり、朝は朝だ。
夜を越えられた喜びに、世界が安堵しているように見える。
まず目指すのは、我が家の家畜囲い。出てくるのに少し手間取っていたからか、すでに羊たちはモコモコモコと白い塊になって今日の草場へと向かっていた。
それを見守り、群れからはみ出しそうになる羊へ馬を寄せて戻しているのは、兄貴だ。ということは、羊の群れの先頭に親父がいるな。
「兄貴、おはよう。遅れてごめん」
「おお、おはようだ。弟よ。良く眠れたか?ちゃんと着込んでいるか?腹巻はしているか?」
「え、と…うん」
軽くコロを駆けさせて近くへ寄る。
あれ…兄貴、ひょっとして具合悪い?
兄貴も俺も、露出しているのは目の周りだけだ。兄貴の長い睫にも霜がついている。けれど、それはいつものことで、そのせいで伏し目がちになっているわけじゃないよな?
さっきの挨拶だって、いつもなら「おはよう!!おはようだ弟よ!!よく眠れたか?兄が添い寝したほうが良かったのではないか!?服は、服はちゃんと着込んでおるか!?腹巻は忘れておらぬか!?弟の可愛いお腹が痛くなってしまうといけないからな!?」とか、一息に言ってくるのに。
「兄貴、もしかしてまだ魔力回復してない?」
『星龍の翼』の消費魔力はえげつなく、兄貴ですら魔力回復薬を必要とした。昨晩はどこかに出かけていたみたいだし、まだ全快していない可能性はある。
「いや、魔力はもうすっかり元通りだ。弟よ。…その。ちょっと、いや、何でもない」
また、一人で店員さんに注文できなくて、泣く泣く店に入るのをあきらめたんだろうか。しろさん、こっちに来てもらってたしなあ。
あ、そうだ。兄貴はどこまでヤクモとしろさんのことを知っているんだろう。
ヤクモから、ヤクモのお姉さんに託されたお守りを兄貴から貰ったって聞いたし、少なくともシラミネに行ったことはあるよなあ。
「時に、クロムはどうした?」
「寝かせてる。…それがさ」
兄貴が眉間に皺を寄せた気配があったんで、すばやく情報を共有することにした。
『紅鴉の爪』が暴れたがり、夢の中でクロムを戦わせていること。
このままでは三日程度しか…もう一日たったからあと二日か。クロムの精神が持たないこと。
「やっぱりよく眠れてもいないみたいでさ。少しでも長く寝かしておこうかと思って」
「…それは、対処できるのか?」
「うん。キサヤ神が『鞘』を作ってくれる。それまでは、シンクロウ、マシロ、サモンの三人とキサヤ神が一緒にいれば、ある程度『爪』を抑えることができるんだって」
本人は嫌がっていたけど。特にサモンと一緒に寝るの。
でも、昼過ぎくらいから明らかに疲労がやせ我慢を上回り、顔色が悪くなってきたのを見て、対策をしないっていう選択はなかった。
あれだけ動き回って、御業も行使して、寝られないんじゃすぐに限界がくる。
「鞘か…」
「うん。ただ、その材料が必要でね。あ、そうだ。兄貴。大巫師が今、どの辺にいらっしゃるか知ってる?」
大巫師は王宮内の草原のどこかに幕屋を建てて住んでいる。もちろん、周囲に草が少なくなれば移動するので、王族と言えど所在を把握していない。
たまたま通りかかって「あ、いまあそこらへんかあ」と知るか、居場所を知る巫師に聞くしかないんだよね。
「大巫師が材料を持っているのか?」
「いや、まだ確定じゃないんだ。ただ、クロムが守護者の儀式のとき、『紅鴉の爪』の鞘にしなさいって、誰かから何かをもらった気がするって言ってて。それで、大巫師が何か知らないかなってさ」
「ふむ…三日前に訪ったから幕屋の場所はわかるぞ。まだ、移動されていなければだが」
「ありがとう!行ってみるよ。兄貴」
「いや、俺も行こう。もとより、弟と話す時間が欲しくて、父上にはお願いしてある」
親父が「ずるい!おとーさんも!!」って言わずに了承したってことは、たんに弟が不足しているとかそういうことじゃなさそうだな。
「じゃあ、お願い」
「うむ。では参ろうか」
俺たちもやり取りを聞いていた牧羊官が、左胸を叩いて了承の合図を送る。今日も寒いけれど寒波が襲ってきたわけでもないし、俺ら二人が抜けたところで手が足りないってこともなさそうだ。
「こちらだ」
兄貴の先導に従って、進む方向を変える。羊の群れの動きを見守っていた犬たちのうち三頭が、「出番っすね!!」って顔をしてついてきた。
みんな、まだ若い。今年の春くらいに生まれた子たちだろう。馬たちを抜かし、かと思うとすごい勢いで戻ってくるという遊びを繰り返しながら一緒に進んでいく。
「弟よ、その、ガラテアとはうまくやっているのか?」
「え?喧嘩とかしてないよ?」
「う、うむ。それならばよいのだ。あと、そのだな」
兄貴の声がもにゃもにゃしているのは、別に首巻が分厚いからってだけじゃなさそうだ。
「あの、そのだな。俺に遠慮して、子を為すことを控えるとか、そういうことは不要だからな?」
「ぶっ!?」
いきなりの不意打ち…いや、不意打ちってのはいきなりなものだけれど…を食らって、息が変なところに入った。
なんとか咽るのをこらえて、兄貴をまじまじと凝視する。
何なの?急に。
いや、まあ。その懸念はあったし、兄貴もなんか考えているみたいだから、しばらくは…って話はしてたけれども。
アスラン王になる条件は、祖父母両親のいずれかがアスラン王で、かつ、四番目の子までってだけだ。
次代のアスラン王になるのは兄貴しかいないけれど、俺の子も十分王位継承権をもって生まれてくる。
その時、兄貴にまだ子がいなければ、ちょっと面倒くさいことになる可能性はなくはない。
でもさあ。そういう話って、こういう時間にするもんじゃなくない!?
「なんでまた、急にそんな話に…」
「い、いや。そのだな。もしかしたら気にしているかもしれんと思って…」
「そりゃあ気にはしているけど、最終的には授かりものだしね」
「そのだな、その、その為の行為自体も、控えなくていいからな?」
「それが理由で控えてるんじゃないから!」
だってなあ。最近いろいろありすぎて。
とりあえず『顔剝ぎ』の一件が終わってから、寝台を共にしようとは話し合っている。ガラテアさん、その間に「勉強」しとくって言ってたけど…。
頼むから、講師は選んでほしい。まあ、女官たちだよね?変な指南書とか読まないでね?
「まあ、その。全部片付いたら…って思っているほうが、絶対に死ねないって思うでしょ」
「そうだ。それはまさに真理だぞ、弟よ」
急に歯切れよく、そして勢いよく、兄貴は頷いた。
「クロムにも言われたしね。俺は自分の命を軽く掛金にしすぎるって。大切なものや未練が増えれば、考えも改まるだろってさ」
「クロムにしてはまっとうに良いことを言う。その通りだ。我が子の顔を見たいと思えば、『鷹の眼』を限界を超えて使うこともあるまい」
「自分の子、かあ。実感わかないけど、そうだね。ちゃんと顔を見たいね」
「そして顔を見れば、次は成長した姿を見たくなるであろう。そうして、生きながらえる理由が増えてゆくのはよいことだ。その分、強くなれる」
「俺がこれ以上どうにかなるのは無理だと思うけど…
「そうではない。武力など、些細なことなのだ。弟よ」
兄貴の声は、なんだかとても柔らかく、優しかった。
それは、武芸の才ってやつをどっかに置いて生まれてきた弟を慰めているわけではない…と思う。
兄貴は嘘が下手だからね。いや、人のこと言えないけど。俺を慰めるつもりなら、もっとアワアワしながら言うだろう。
「強さ、というのは、そんなわかりやすいものではない。…弟よ。俺は、昨日より間違いなく、今の自分が強いと言い切れる」
「それは、魔の眷属とやりあったから…とかじゃないよね?」
「うむ。あれも良い経験ではあったが、そうではない」
兄貴はそう言ってなぜか周りをきょろきょろと伺い、それから手綱を握る自分の手へと視線を落とした。つられて見ると、なんか指をもぞもぞと動かしている。
どうやら、ものすごく言いにくいことを言うつもりらしい。
昔、母さんのお菓子を知らずに食べちゃったときも、こんな感じで躊躇った後、静かに土下座して謝罪してた。
「その、だなあ。あのな、弟よ」
「うん」
「そのー…あのー…」
「言いにくいことなら、言わなくてもいいよ?」
「いや、言いたいのだ!言いたくてたまらないのだが、うう…お、弟よ、その、すごいびっくりしてしまうと思うので、落馬しないように気を付けるのだぞ?」
「う、うん。わかった」
俺もくさってもヤルクトの民。滅多なことじゃ落馬はしない。まして、跨っているのはコロだし。
「お、俺にな、その、か、通っている、女性がいるのだ」
「…」
っぶない!!マジで落馬しかけた!
驚きすぎて体が硬直するって、本当にあるんだなあ。
「だ、大丈夫か!?弟!!」
「だ、大丈夫。続けて」
すっごいびっくりしたけれど、でも、遊牧陣地かまえるって言ってたし、そういう人がいるんじゃないかとは思っていたからね!
心臓はまだめっちゃバクバクしているけど、耐えたよ。うん。
でも、どうも兄貴の話はこれで終わりじゃない気がする。ってことは、もしかして…。
「昨夜も、彼女のもとへ赴いた。この先、『顔剥ぎ』の追跡と新年祭があるゆえ、しばらく顔を出せぬからな」
「そんなの、兄貴が恋人に会いに行くのをやめるほどのことじゃないよ!!すくなくとも、『顔剥ぎ』は俺に任せて行ってきなよ!!」
「申し出は嬉しいが、それは駄目だ。弟よ。俺は、大都を、アスランを…そして。この世界を守らねばならぬと、決めた」
兄貴の視線が上がる。上り続け、眩い光を地上に投げかける朝日を追うように。
「守らねば。この景色を見せるために」
「…もし、かして…?」
「彼女の腹に…小さな電位を感じた。俺の子だ」
兄貴の言葉を完ぺきに理解するまで、たっぷり十は数えられたと思う。
まず沸き上がったのは、めでたい!!おめでとうっていう気持ち。
そのあとをこっそり追いかけるのは、その人、アスランの人じゃなかったら、結婚前の妊娠はやばいんじゃない?っていう心配。
でもまあ、結婚するんだし!いいよな!
そっかあ!俺も叔父になるのかあ!
「おめでとう!!兄貴!いつぐらいに生まれるのかな!?」
「まだまだ先だ…と思う。本人も、身ごもったことに気づいておらぬようだったし…」
「じゃあ、冬が始まる前だ。良い季節だね」
まあ、それが凍てつく真冬のさなかでも、夏の盛りだって、俺は同じことを言った気もするけれど。
「我が子の存在を感じたとき、俺は喜ぶより先に、絶対に死ねぬと思った」
「そりゃそうだよ。父親になるんだから」
「俺は…自分には王となり、アスランの民を守り、その命を背負う覚悟ができている。そう思っていた」
「兄貴だけじゃないよ。九代に相応しい覚悟を持っているのは兄貴だって、俺もそう思っている。もっとたくさんの人たちもね」
それは、決して兄貴の自惚れじゃない。
まあ、俺だって一応、王族として…王位継承権を持つ二太子として生まれたわけだから、物心ついた時からその覚悟は叩きこまれている。
でも、俺には常に兄貴がいた。
王才ってものが何か、凄まじい説得力で教えてくれる人が。
なんで、俺も周りも、「まあ、九代大王は一太子だなあ」という共通認識…ぶっちゃけて言えば、甘えがあった。
俺も、アスランのために命を懸けることはできる。
けれど、それはアスランを背負う…アスラン王になる覚悟じゃない。
どこまでも臣下として、仕えるものとしての覚悟だ。
兄貴はただ一人で、その重責を背負い続けた。
曲がりも折れもせず、王としての覚悟を自分の中に築き上げていった。
ちょっとばかり弟離れができていないけれど、俺は兄貴を尊敬している。
俺が膝を折り、額を地につけ、忠誠を誓うのはこの人だけだと、心の底から思っている。
…祖父ちゃんと親父には、ちょっと言えないけどね。
「ありがとう。弟よ。ほかの誰より、弟にそう言ってもらえて俺は嬉しい。だが、俺はその覚悟に自信がなかった。そう思い込んでいるだけ…そんな気がしてならなかったのだ」
「兄貴…」
「だがな、弟よ。我が子の存在を感じたとき、守らねばならぬと…息をするように理解した」
兄貴の手が上がる。昇りゆく朝日を掴むかのように。
「理解し、決意した。その決意と、俺が今まで疑っていた覚悟が、ぴたりと合わさった」
眩しさにか、その背に載せたものの重さにか、目を細めながら。
きっと、兄貴は首巻の下で微笑んでる。
「我が子だけではない。今のアスランを生きるものたち。これから生まれ来るものたち。その全てに、俺はこの美しいものを見せたいのだ。
これは王だけの決意ではない。けれど、王とはその決意を束ね、示すものであるのだと、理解できた」
「兄貴…」
眩しいなあと、思う。
この人が兄で、次代のアスラン王で、本当に良かった。
「俺も、せいいっぱい、一緒に走るよ。兄貴の示すほうへ」
「間違えていたら、忌憚なくいってくれ。それも、臣下たるものの役目だ」
「もちろん」
兄貴が俺を「臣下」として扱ったのは、これが初めてだ。
今までは「弟が王位を継ぎ、俺がそれを将として支えるのもよいと思うのだが…」ともじもじ言っていたし、かなり本気だった。
けど、今の兄貴は違う。
本気で九代大王になると、アスラン王として立つと、決めている。
「では、差し当たって、まずはひとつ提言をお許しいただきたく」
「…聞くが、いきなりそんなに他人行儀に言われると、兄は泣いてしまうぞ?」
「えー…訓練だと思いなよ。まあ、とにかくさ。我が子に見せる前に、この景色を見せなきゃいけない人、いるでしょ?」
あ、でも、王宮にいる人って可能性もあるのか…いや、ないな。それなら母さんが絶対に気付く。
「む…?」
「まずはお嫁さんに見せないと。っていうか、親父と母さんには言ったの?」
「そ、それは、その、まだだ…」
「早く言ってね?俺、もう誰かに話したくてうずうずしてるんだから。ガラテアさんには言ってもいい?」
「う、うむ。ガラテアなら…一応、口も堅いし…」
よし、言質とった!ガラテアさんに伝えたら、どんな顔をするだろう。早く話して、贈るお祝いの品とか考えたい。
羊は親父が用意するだろうしなあ。赤ん坊には山羊の乳のほうが良いって聞いたことがあるし、旨い乳を出す血統の山羊を探そうか。
それとも、子守兼護衛になる狗のほうがいいかなあ?
祝い事の悩みは、いくらあってもいい。考えるだけで、口許がニヤニヤしてしまう。
純粋に、兄貴のお嫁さん、どんな人か興味ありまくるし!
…俺に似てないよねって、わずかに不安も残るしな。
「どんな人?」
「食事を持っていくと、とても美味そうにたくさん食べる」
「ほうほう」
アスランというか、ヤルクト氏族では「食事を美味そうに食べる」っていうのは、美徳のひとつだ。人のものまで奪って食べたり独り占めするのは、最悪な奴として嫌われるけどね。
俺もガラテアさんが綺麗にものすごい量を平らげていく姿がとても好きだし、兄弟共通の女性の好みなのかも。弟たちもそうだったりして。
「あと…その、なんだ。顔の造りについては、わかりやすく、説明できる…と思う」
「お、それはぜひ聞きたいな」
「う、うむ。あのな、カンナは…」
カンナさんっていうのか。響き的にタタル語圏の出身じゃないっぽいな。まあ、最近は異国風の名前つける人も多いから、わからないか。
俺の「ファン」だって、カーラン風の名前だしねえ。
「その、だな。弟よ」
「うん?」
「引かれたりすると、大変の悲しいのだが…」
「え…引くような相手なの?まさか子供とかじゃないよね?妊娠しても問題ない年齢層だよね!?」
「そ、それは大丈夫だ。年が明ければ、21歳だから、多少年の差はあるが、その、子供ではない」
「あー、びっくりした。兄貴にその趣味はないってわかってるけど」
兄貴も年が明ければ29歳だから、八歳差か。まあ、許される範囲だよね。
兄貴が20歳の時に12歳の子供に手を出したなら母さんが牛裂きを命じるだろうし、俺も世界の果てまでドン引きするけどさ。
28歳と20歳なら、相手も子供じゃなんだし。アスラン人基準としても、子供ができて結婚するのにちょっと早いくらいだ。
「…なのだ」
「え?」
兄貴が超小声かつ早口で、なんか言った。
風の音と起きだしてきた鴉の声で全く聞き取れない。
「あの、だな」
「うん」
「ヤ、ヤクモの姉だから、顔はその、似ている…と思う」
「…」
ヤクモの姉。
ああ。うん。お姉さんと弟がいるって言ってたし。
あの、お父さんに抱っこされて赤ちゃんのヤクモを見ていた女の子か。
そっかあ…
「…シラミネって、アスラン式お付き合い、許されたっけ?」
アスランなら、男女が付き合って子供できたから結婚するかはごく当たり前だ。
けれど、アスラン以外でそれが許されている国って、あんまりないんだよなあ。
たしか、カーラン南東部、母さんの出身地であるトンクーはちょっと怒られるくらいで許されるけれど、基本カーランでそれやったら女性のほうが糾弾されて大変なことになると聞いた。
「それはその、大丈夫だ。弟よ。許されないが、彼女の母君にはすでに妻に娶ると伝え、祝福されている」
「あ、じゃあ大丈夫か」
「兄替わりのものにもな。そいつがしっかりとカンナを保護しているから、アスランへは春になってから迎え入れようと思って…」
「そっかあ。でも、できれば新年祭にも来てほしいね。ご馳走たくさんでるし。兄貴のお嫁さんを迎えるってなったら、さらに盛りだくさんになるよ」
今でさえ、ガラテアさんの好きなものや喜ぶ味を聞きに来る厨官が後を絶たない。
ここに兄貴のお嫁さんも来るとなれば、厨房は新年祭と夏大祭がいっぺんに来たくらいに盛り上がるだろう。
「む…確かに、それもそうだな」
「転移陣通れないなら、難しいけどね」
その場合は、飛竜で迎えに行くとか?防寒、温熱の陣でがっちり固めた客車を吊るせばなんとかなるかな?
「いや、通れる。すでに試したとこはあるし、俺と彼女の子なら、きっと問題はない」
「なら、来てもらおうよ。さすがに元旦はシラミネでもお祝いしそうだし、3日か4日にでも」
「う、うむ。しばらく来れぬと別離を惜しんだ直後に訪うのも、その、気が引けるが…」
「それくらいの恥は投げ捨てとこうよ。顔出し難いなら、俺も一緒にいくから」
「ほ、本当か!弟よ!」
「ああ。それくらい頼ってよ。兄貴」
早く、カンナさんと会ってみたいしね!
…それに、すこし、ほんの少し、そう、一刻くらい時間をもらえれば、植物の採取くらいはできるかも。
「ああ、やはり弟に最初に打ち明けてよかった!」
心の底から喜んでいる兄貴を見ると、ちょっぴり視線は泳ぐけれども。
悪いことするわけじゃなし、きっと許されるよね?
ああ、そうだ。それなら、国母様…大ばあちゃんに、ヤクモたちのお父さん、カザハヤさんを呼べるのはいつ頃になるか聞いてみよう。
きっと、彼も故郷に帰りたいだろうから。
力を貸してもらうんじゃなく、故郷に戻るくらいなら大丈夫って言ってもらえたら、シラミネで呼んでそのまま残ってもらうこともできるかもしれない。
まだ神界で回復しないとダメでも、せめて少しくらい、シラミネで呼べないかな。
…まあ、愛娘に手を出した不埒な男に斬りかかるかもしれないけども。
兄貴なら、避けられるだろう。うん。
あと、義弟とはいえヤクモが「おとうと」になったこと。
兄貴、気付いているかなあ。
義弟と、実の弟では、重みの差があるかもしれないけども。
もし、ヤクモに向かって「おとうと~!!」ってなったら、止めよう。
ヤクモに悪いし、兄貴との間に壁を造っちゃったら、義姉さんも気にしちゃうだろうからね。
***
「これはオドンナルガ、ナランハル!千歳申し上げます!」
俺たちの姿を見つけ、巫師たちが手を合わせて膝を着く。そんな彼らを、牛たちが不思議そうに見ていた。
「あ、急に押し掛けたのだし、礼は取らずに。大巫師にお会いしたいんだけれど、中にいらっしゃるかな?」
「はい。おられます」
「お会いできる?」
「お聞きしてまいります」
大巫師…まして、五代の御代からアスランに仕える偉大な存在に、太子と言えど一方的に押し掛けるなんてできない。
むしろ、大巫師が訪れたのなら、標本作りを中断したってお迎えしなきゃいけないくらいだ。
巫師は幕屋の扉の前に膝を着き、細く開けて中へ呼びかける。声は小さく、聞き取れないけれど、笑顔で振り向いたところを見ると、快く受け入れてもらったみたいだ。
「朝食はお済みだろうか。邪魔をしたのなら申し訳ない」
「すでに済まされておいでですよ」
そう言って立ち上がった巫師は頷いたけれど、わずかに彼の双眸に痛みが見えた。
…たぶん、もう、あまり召し上がらなくなってるんだろうな。
すでに百五十歳を超えていることを考えれば、人間という生物の限界は迎えている。
卓越した魔導士や巫師が長命なのは当たり前ではあるけれど、それでも百五十を超えた人は、俺が知る限り片手の指で足りる程度だ。
兄貴も、同じように俺たちよりも長生きするのかな。
それは兄貴にとってとんでもなくしんどいだろうから、なるべく俺も長生きしよう。
「どうぞ、お入りください」
「うむ。失礼仕る」
まずは兄貴から。幕屋に入るときは基本年齢順だ。絶対に安全な親族の幕屋なら、小さい子供から入るけれどね。
ここは絶対に安全だけれども、俺は小さい子供じゃないから。うん。だから、兄貴、早く入って。悩まなくていいから。
俺の心の声が届いたのか、兄貴は扉を開けて身をかがめ、中へと進んだ。
幕屋の造りはどこもほぼ同じだ。扉の前には靴を脱ぐための浅い箱が用意され、炉を挟んで一番奥に主人が座る。
「おはようございます。大巫師」
「おはようごじゃいましゅる。オドンナルガ、ナランハル」
ふぇふぇ、という息の抜けた笑い声が、朗らかな挨拶に続いた。
兄貴に続いて中に入ると、子羊と子山羊が兄貴の匂いを嗅ぎまくっている。
「三日前と二日前に、生まれましてなあ」
「元気のいい仔だ。きっと、冬を乗り越えますね」
「ええ」
季節外れに生まれた仔は、幕屋の中に入れて育てる。家畜囲いを中に作る場合もあれば、こうやって好きにさせる時もある。
ちびたちは兄貴に飽きたらしく、今度は俺の匂いを嗅ぎに来た。
生まれて間もない子羊と子山羊は、本当にかわいい。もう少し大きくなると、所狭しと飛び跳ねまくって大変ことになるけどね。
俺たちが羊の毛皮の上に腰を下ろす様子を、大巫師はにこにこと見守っている。毛皮の前にはお盆が置かれ、そこにはまだ何も入っていない杯が置かれていた。その数は、二つ。
まるで、今朝此処にお邪魔しに来るのがわかっていたかのように。
「しゃて、御二方がこの爺をお尋ねになられたのは、このことではごじゃいませんかな」
穏やかに微笑んだまま、大巫師は膝に抱えた何かを持ち上げてみせた。
黒い細長い…あまり長くはない、棒状の物。
それを、兄貴が俺に向かって目配せをした後、にじり寄って受け取る。
「これは…小刀ですか」
「ええ。守護者の儀のあと、預かっておりましゅた」
「え!?」
不躾な俺の声に、大巫師はますます目を細め、笑みを深くする。その笑顔はちょっと悪戯っぽく、してやったり感が混じっていた。
「あの、俺の守護者が『紅鴉の爪』の暴走で、危険な状態にありまして…その暴走を止めるには、鞘が必要って言われたんです」
「ふむ」
「それで、守護者の儀の時、誰かから鞘にしろって何か貰ったって言われたような気がするって、クロムが」
驚きのあまり、なんか纏まりのない説明になってしまった。
それを大巫師は気にした用もなく、当たり前のように頷いて見せる。
「やはり。ならば、しょれはこれ以上ない鞘となりましょう。どのように鞘となすのかは、この爺にもわかりましぇぬが…」
「大巫師は、この小刀がいかなるものかご存じなのですか?」
「伝え聞いておるだけゆえに、間違いないとは申せませぬが」
兄貴がそっと、手にした小刀を俺に差し出す。
鍔はなく、古びた木の鞘と同じ材質の柄。長い間誰かの手に握られ、大切に磨かれてきたものだけが持つ、柔らかな艶が唯一の装飾と言っていいだろう。
なんとなく…いや、何かに指示されたように、柄を握り鞘を持ち、力を入れて、引き抜く。
「これは…」
「ほお、やはりナランハルには抜けましゅたな」
現れたのは、輝きを失った鋼。
もう刀として斬る機能を失っているであろう反った刀身は、それでも何故か、ものすごい存在感を放っている。
「大巫師もお試しに?」
「ええ。しかし、抜くことはかないませんでした」
「え、と、それで、この刀はいったい…?」
輝きを失い、刃を鈍らせても…この小刀は、「強い」。
その強さは、全てを斬り貫くだろう『紅鴉の爪』とは逆に、守られている、きっとこの小太刀があれば、大丈夫だという安心感。
鞘としてこれ以上相応しい存在はないんじゃないだろうか。
で、いったいこの小太刀はなんなんだろう?
クロムの「鞘にしろ」って渡されたなら、なんとなく事情を察しているウチのご先祖様所縁の品って気がするけど。
「おそらくでしゅが…大祖様が異界より持ち込まれた守護刀イマノであろうかと」
「…ぅえ”?!」
変な声が、出た。
弾かれるように兄貴を見ると、兄貴も目を見開いて硬直している。
大祖が国母ライマラルの御業『万軍の主』でこの世界にやってきたとき、ふたつの武器を携えていた。
ひとつは弓。シドウの大弓の基になった弓だ。その造りを解明し、新しい弓を造るために分解されたから、当然残っていない。
そしてもうひとつが、守護刀イマノ。
大祖が開祖へ託し、その後は代々アスラン王の即位の証として伝えられてきた…んだけど。
五代が大都を陥としたとき、自分の負けと死を悟った四代が北海へと投げ捨て、失われている。
「えっと、疑うわけじゃないんですが…」
「はい」
「これを鞘にするの、王位継承的にまずかったりしません?」
だって、なあ。見つかったなら即座にアスラン最大の至宝として扱われる存在だよ?
『紅鴉の爪』もそりゃ国宝だけど、王位継承権には絡まないし。
「しょれは心配ご無用ですぞ。今、ナランハルが御手にしておる守護刀イマノは、開祖様へと伝わり、大王の証となったイマノではごじゃいませんのでな」
「ええっと…あ、そっか。俺がおおばあちゃん様に貰った銀の環と同じようなもんか!」
あれも、もしかしたら失われたアスランの宝物のひとつなのかもしれないけれど。
神界におわすご先祖様たちのもとに、地上にある、もしくはあった物品がそのまま届くことはない…はずだ。
俺たちはだから、神々へ捧げる時は燃やしたりなんなりして、形をなくす。
届けたいという祈りと、受け取ろうという神々の意思が一致すると、その捧げものは神の手に現れる…と信じられている。
「しょも、守護刀イマノを見たものは、もうこの世にはおりましぇぬ」
「クロムが持っていても、問題にするものはいない。そういうことですな」
「ええ」
兄貴の回答に、大巫師は満足げに頷いた。
「これが守護刀イマノなら、クロムにこれを託した、かつての守護者って…」
「大祖、大クロウハであろうなあ…」
開祖様が知ったら、なんか怒りそう。「父上にまみえる栄誉にあずかりながら、覚えておらんとは何事かーッ!!」とか。
本来、そういうものだってキサヤ神も言ってたし、怒っても仕方ないと思うんだけど。
「ねえ、兄貴」
「む?」
「俺と誰かがさ、その人が寝ぼけているときに会って、俺と会ったことを忘れてたら、どう思う?
「弟がせっかく声をかけたのに、忘れるのはひどかろう!!どうした、誰がそんな真似をしたのだ!?」
「いや、ちょっと想定しただけ。やっぱり、開祖様にはバレないようにしないとなあ」
「???」
兄貴がこの反応なら、間違いなく怒るな。うん。
「ありがとうございます。大巫師。これで、クロムは助かる…」
「この爺は、今まで何人もの守護者を見てまいりましたが…その中でも、特に強く、脆い。常にナランハルの御心を伝え、決して先走らないように言い聞かせておくとよろしいでしゅぞ」
「はい。心します」
強くて脆い、か。
確かに、クロムはちょっと思いつめるところあるからな。寝ずの番しようとしたりとか。
それをするなっていうより、俺はこう思うからお前はこうして欲しいって伝えたほうが良いってことか。
その辺、ユーシンのおおらかさというか、気を張るときと緩める時の差を見習ってほしいんだけど。
でも、あれはきっと、ユーシンが『恐れを知れぬもの』と呼ばれるようになった過程で身についちゃったものだろうから、それはそれで複雑だ。
「今朝はお尋ねいただいて、ようごじゃいました。おかげでひとつ、役目をはたしゅことがかないました」
「急に押し掛けちゃったのに、そう言っていただけるとありがたいです」
「茶を飲み、胃を温めていきなされ」
「ありがたく」
大巫師が視線で示したのは、横に置かれた保温瓶。
兄貴がそれを持ち上げ、俺たちの前に置かれた杯にそそぐ。中身は、きっかり二杯分だった。
「爺はもう、今朝の茶は飲みましゅたでな」
杯にそそがれた大地の色をした茶は、普段俺たちが飲む奶茶ではなく、巫師たちが様々な薬草を煎じて作る茶だ。味はほのかに苦く、体が内側から温まる。
「しゃて、ナランハル」
「はい」
「ナランハル、巫師として目覚められましたな」
じっと俺を見つめる大巫師の、瞼に大部分を覆われた目は、茶をすすって丸くなっていた背を伸ばさせるくらい鋭かった。
「あー…どうなんでしょう?ご先祖様の力を借りることはできるようになったんですが、俺単品ではそれほど大したことは…」
「いいえ。神降ろしができる巫師にゃど、今、この大アスランにもナランハルおひとりにごじゃいます。卑下めさるな」
え、そうなの?
巫師のまじないのひとつに、ご先祖さまや親しい人の霊を呼び寄せ、話を聞くっていうのがあるから、基本中の基本なのかと…
「その御力、正しく振るわねばなりましぇぬ。この爺がお教えできればよいのですが…爺にも、神降ろしはできましぇぬ」
「では、弟を指導することは難しい、と?」
「はい。申し訳ごじゃいましぇぬ。しかし、ナランハル。師は見つけねばなりましぇぬ。神を降ろせる身体を、悪しきものも狙いましょうから」
『でーじょーぶだって。あーしが教えたげっからさあ』
急に耳元で響いた声に、体が跳ねる。
お茶、結構飲んでてよかった。溢すとこだったよ!おおばあちゃん様!
「ど、どうした!?弟よ!!」
「いや、おおばあちゃん様…国母ライマラル様が、教えてくれるって言ってて。急だったから、びっくりしただけ」
『えー、アチチした?ごっめーん』
「おおばあちゃん様、子供じゃないんだから…」
『あーしから見たら、超バブついてるってーの!』
兄貴はちょっと困ったように、大巫師は呆然と俺のほうを見ている。
うん、そうだよね。なんかすごい独り言呟いているようにしか見えないよね。
「国母様が…」
「はい。必要な時は、教えてくれるんです」
『まかせろってー!』
「任せてほしいっておっしゃってます」
おおばあちゃん様のヤルクト訛り、ひどいからね。ちょっと訂正して伝えていったほうが良いだろう。
主に、イメージを守る的な目的で。
「国母様は大アスランでもっとも優れた大巫師にごじゃいましゅゆえ、学べるのであれば、これ以上はないかと」
『おー、わかってんじゃーん!んでさあ。ファン』
「なに?」
『あんた、今、ジルチぴ呼べる?』
「弓持ってきてないから、兄貴に召喚してもらえれば」
「む、弓がいるのか?」
「なんか、国母様が…」
あ、そうか。
大巫師は、五代から仕えている。
そして、彼が忠誠を誓う大王は…きっと、五代だけだ。
「うん。俺の弓、召喚して欲しい」
「わかった。すぐに」
兄貴の指先が陣を描き、そこから弦をはずした俺の弓が浮かび上がってくる。
あ、急に弓が消えて、何かあったかって心配されちゃうかな?
急いで「問題なし。ちょっと使いたいだけ」って手帳に書いて、それを逆に弓があった場所…俺の部屋に送ってもらった。
弓にはめる環は、紐で縛って首にかけている。弓は最悪盗まれたり壊されてもなんとかなるけど、この環はそうはいかないからね。肌身離さず持っていないと。
弦を張り直し、環を嵌める。
息を、吸って、吐いて。
「五代ジルチ。お出でください」
『アー坊じゃねぇから!あっちいってな!!おすわり!!』
何勝手に来ようとしてるんですか。開祖様。
まあ、母親の命令には逆らえなかったらしく、俺のすぐ横に覚えのある気配が訪れた。
五代ジルチ様…ええっと、大じいちゃん様。
ちょっと、体をお貸ししますので、貴方の御代からずっと、アスランを守ってきてくれた忠臣に、労いを。
「ん。りょーかい」
俺の口から、俺じゃない声がする。
その声、兄貴も二度目だから、何が起こったか分かったみたいだ。
そして、大巫師は。
「ジルチ、さま…」
「ん。ひさしく。ウルパト。ちっちゃくなった」
「もう、百と五十は生きとりますゆえ…」
「長生きしたな。俺の子や孫、ひ孫にいたるまで、世話になってる。ありがと」
呆然と開いた口許が震える。
わななくそこに、涙のしずくが伝っていった。
「もったいない…お言葉にごじゃいましゅる…」
「もったいなくない。足りないくらいだ」
「本来ならば、殉死せねばならぬ身でありましゅのに、死ねましぇんでした…。その罪を償っておった、それだけにごじゃいましゅ…」
「殉死ダメって言った。なのに、どいつもこいつも…お前と、イシダジブはえらかった。ちゃんと俺の言ったこと、守った。だから、罪なんかじゃない」
五代が亡くなられたとき、守護者シゼンをはじめとして、十人あまりの将や官僚が殉死している。
それは五代がいかに慕われていたかって証明として語られるけど、禁止していたならおおじいちゃん様からしたら許せないよなあ。
自分の大切な人が、自分が死んだから死ぬなんて、俺も絶対に嫌だ。
「罰として、俺の気が済むまで、あいつら語尾に『ワン』もしくは『ニャン』『ぴょん』をつけさせた。気が済んだから、もう許したけど、たまに癖で言う。面白い」
…。癖になるほどって、どんだけやらせたんですか。
「ふふ、シゼン殿もでしゅか?」
「言う。あれは特別に『もん』にした。かなり今も言う」
クロムが聞いたら、どんな顔していいか迷うだろうなあ。あいつ、守護者シゼンにあこがれてたし。
「だから、気にするな。ゆっくり来い」
「…はい。ジルチ様。もうしばし、お傍に馳せ参じぬ無礼、お許しくだしゃいませ」
ゆっくりと大巫師は床に伏す。子山羊が不思議そうに頭の匂いを嗅ぎ、それから伏せられた顔の頬のあたりを舐めている。
山羊も羊も、塩味が好きだからな。
「ん。ゆっくりでいい。うちの子たちを、見ててやってほしい」
「御意にございます…あと、もうひつ。せねばならぬことが御座いますれば」
「みっつでもよっつでも。この仔らが大きくなるまで育てるのも、大事」
ひょいと立ち上がった俺の身体…いや、五代ジルチは、大巫師に歩み寄り、頬を舐める子山羊を抱き上げた。
子山羊はまだいいんだけど、山羊の舌って硬いから結構舐められると痛いんだよね。
「それは…叱られてしまうやもしれましぇぬな」
「叱られたくなかったら、がんばれ。では、またな」
子山羊を抱いていないほうの手が、大巫師の背をそっと撫で。
そして、俺の自分の身体の重みを感じた。
「大巫師…」
「お見苦しいところを…」
「いえ。俺たちは、もうお暇します」
「もうしわけ…ごじゃりませぬ…お心遣い、ありがたく…」
「ええ。ですから、どうぞ」
ゆっくりと、泣いてください。
そして、今までの時間が贖罪だったって、もう思わないでほしい。
子山羊をおろし、入ってきたときと同じように幕屋から出る。
すっかりあたりは早朝から朝に変わり、空気は少しだけ緩んでいた。
「しばし、呼ばれるまでは幕屋に入らぬほうが良かろう」
幕屋の横で警護してくれていたんだろう巫師に、兄貴はそう告げた。
「御意に」
巫師は少し怪訝な顔をしたけれど、それでも頷いて一礼し、他の巫師たちにも声をかけてくれている。
誰にでも、一人で泣きたいときってあるよな。
思い出すのは、左胸の上…鎖骨にあった傷。
なんで。どうして。どうすれば避けられた?何が悪かった?
自問して、涙が出るのを止められなかった。あの時間。
まあ、なんか。泣いて、泣き疲れて寝ちゃったら、考えても仕方ない!次の対策!ってなったからね。
みっともなくても、滑稽でも。
傷に向き合うことは、絶対に無意味じゃない。
「要件はもう済んだか?弟よ」
「うん。なんか、今さ」
告げられた、新しい命のこと。
偉大で、なにもかもお見通しと思っていた人が、抱えていた傷のこと。
なんか、俺は今、すごく、うちに帰ってみんなに会いたい。
「…腹減ってきたし、うち帰ってみんなで朝飯にするよ」
「そうか。それがいい。兄もだな、その…」
「うん。兄貴も一緒にどうぞ。テムルとフレグもいるしね」
弟たちにも、これから生まれてくる甥っ子か姪っ子にも。
そして、大巫師が五代の御許に行く、その時も。
俺の大事なひとたちにも。
大都を照らし、草原を淡い金の色に染める、この朝日を、ずっとずっと。
見せたい。
だから、やっぱり俺はお前には負けられない。黄昏の君。万魔の王。
そして、まず差し当たっては、『顔剝ぎ』よ。
「さ、帰ろう!」
帰るべき場所があって、守りたい明日がある。
そんな俺は、お前らが驚くほど、しぶといからな。
覚悟、しとけよ?




