主が走れば運命も走る(人事を尽くして天命を待つ)3
「ナランハルがお戻りです」という報せに、ガラテアがその形良い唇を綻ばせる。
一緒にタタル語を学んでいた神官の少女たちですら、思わず息を飲んで見惚れ、穏やかな沈黙が紅鴉宮西の間に満ちた。
「無事に儀式は終わったのか。よかった」
「ええ。少々疲れておいでですが、怪我の一つもございません」
女官長の言葉に笑みは更に艶やかに咲き誇り、少女たちの口許からは溜息が零れる。慣れてきているとはいえ、最近ますます磨かれていく美貌は心臓に悪い。
同性ですらこうなのだから、あれだけ求婚者が群がっていたのは仕方がないと、納得して頷きあってしまうほどだ。
「迎えに行ってくる」
「ここは…僕らは、遠慮するべきだね」
立ち上がったガラテアに続き、腰を浮かしかけた少女たちは、ナナイの言葉に目配せしながら座りなおした。
「そうね。何しろ昨日、ご結婚されたばかりなのだし」
「うんうん」
彼女たちが思い描いていた結婚とは少し違うが、アスランでは、まず戸籍上の夫婦となってから、結婚式をあげるのが通常であるらしい。
さらに王族ともなると、占いで婚礼衣装を作るための羊が「何時何処に生まれるか定める」ところから始めるので、当たり前のように五年十年先になるというから、気の長い話だ。
ファンとガラテアの婚礼がいつ行われるかは、まだわからない。
占いをしていい日というものが決まっているらしく、それは最短で年が明けて二十日後なのだそうだ。
しかし、新年最初に占う事項というものもあるそうで、色々と優先順位を鑑みて、春くらいかなあとファンはのんびりと予想していた。
婚礼はまだ先と言っても、ファンとガラテアは既にアスラン王が認め、朝議で反対意見もなく認められた夫婦である。
つまりは、そんな新婚夫婦の時間に割って入るのは野暮というものだろう。
それくらいは、少女たちだってちゃんと理解している。
女官長と共にガラテアが退出すると、少女たちは頬や胸に手を当てて、大きく溜息を吐いた。
「お姉さま、本当に幸せそう…」
「ねー。もともとお綺麗だけれど、最近、すっごく綺麗!!」
「わかる!やっぱり、恋ってすごいよね!」
うんうん、と熱心に頷く中にエルディーンも混じってるが、誰もそれを強がりなどとは取っていない。
エルディーンがファンに仄かな恋心を寄せていたのも事実だが、「虫を食べた口とはキスできない」という深刻な原因で立ち消えたのもまた事実。
そして、そんなファンと、憧れの義姉のような存在であるガラテアが結ばれたことを、誰よりも「素敵!」と目を潤ませていることを、ここにいる少女たちは全員理解している。
クロムあたりに言わせると、「それは恋だの惚れたの以前の、風邪の引き始めみたいなもんだ」と一蹴するだろうな、と、ナナイは内心に呟いた。
それと一緒に、安堵の息を思いきり吐き出す。
(ファンが無事って事は、クロムも無事って事だよね)
クロムが守護者になれない、などという事は欠片も危惧していないし、儀式がどんなものだかはわからないが、大怪我をするようなものではない…と、トールに聞いている。
けれど、やはり無事に終わったと聞けば安心もする。
ガラテアに負けず劣らず花咲くような笑みを、友人たちがにこにこと暖かい眼差しで見ていたことに、幸か不幸か、ナナイは気付かなかった。
***
「あ、ガラテアさん。ただいま」
「おかえり。無事終わったようだな」
「うーん…完全に万事つつがなく、とは言えないかも?」
その言葉に、ガラテアは微かに眉をひそめた。
当然、ファンに続いて仏頂面で入ってくると思っていたクロムがいない。
「クロムに何かあったのか?」
「うん…ちょっと、魔力酔いしちゃってねえ。兄貴に任せてきた」
「魔力酔い」
「というか、完全に酔っぱらい?龍を斃しに行くぞー!ってばったんばったん暴れたり、急に笑い出したり…」
「酔っぱらいだな」
クロムはかなり酒に強い男だが、酔うと陽気になる性質のようだ。
まあ、確かにそんな姿をナナイにでも見られたら自害しかねない。
「それで、俺だけ帰ってきた」
「そうか」
へへ、と笑うファンの顔は、いつもと変わらないように見える。
何が違うとか、どうしたとははっきり言えない。言えないが、ガラテアはファンも決して「万事つつがなく」終わっていないことを察した。
言うならば、女の勘だ。気のせいと切り捨てることもできる。
だが、どんな些細な事だろうと、昨日から夫になった男の異変を見逃す気はない。
「ファン」
「なに?」
「…何か、あったな。ひどく、疲れているように見える」
問われて、ファンは瞬きを繰り返した。
「ええと…」
「誤魔化されるのは、嫌だ。苦を分かち合うのも、夫婦というものではないか?」
瞬きが止り、満月色の双眸が潤む。
それは今まで、決してファンの双眸に宿ってこなかった感情だ。
怯え、不安…そういったものが、瞳の奥で揺れている。
「奥方様のおっしゃる通りですよ、ナランハル」
「…ばあやまで」
「男は家の外では弱音を吐いてはいけません。しかし、家の中、妻にだけ打ち明けられる弱音というものもあるのです。弱いところを見せたくないなどという見栄は、誰の為にもなりませぬ。さあ、お二人で部屋に戻られませ」
「嫌だと言ったら、担いでいく。さあ、どうする?自分の足で歩くか、私に担がれるか、どちらにする?」
「歩いていきます」
「よろしい」
おむつをしていたころから知られている女官長と、見守られていることに気付かないほど余裕なく求婚した妻に詰め寄られて、「なんでもない」と言えるほど、ファンも万全ではなかった。
いや、例え万全の状態であっても、この二人に逆らえたかどうかは怪しいものだが。
かくして、女官長に先導され、ファンは自室ではなく西の間に足を向けた。
先ほどまでガラテアたちがいた房を通らなくても、寝室に向かう事ができる通路はある。
ナナイたちがいる房を避けたのは、クロムに対する気遣いだ。ファンがいてクロムがいなければ、当然聞かれる。
魔力酔いだと説明しても、ナナイは訝しむだろう。確かにクロムの魔力は低いが、転移陣で魔力酔いを起こすほど低くもなく、いままで眩暈を起こしたこともない。
重ねて問われて誤魔化せば、不安は増すばかり。かといって真実を話せば、クロムが自害しかねない。
なら、避けて通る方が無難である。
「それでは、失礼いたします」
「ああ。ありがとう」
女官長は一礼し、扉の前から退出した。警護の女性騎士たちが扉を開き、うち一人がまず室内へと入り、軽く点検して戻ってくる。
「異常はありません。ナランハル」
「ありがとう。誰か尋ねてきたら、声を掛けてくれ」
「御意に」
寝室に至る前にはもうひとつ房があり、この房から皆のいる場所へ繋がる通路がある。微かに声や明るい空気が漏れていて、ファンの口許が緩んだ。
「みんな、すっかり馴染んだみたいだね。よかった」
「最初は座るのも恐る恐るだったが、もう気にしていないようだ」
そのまま柔らかな絨毯と座布団に腰を落ち着けても良かったが、敢えてガラテアはその先、寝室へと足を進めた。
未婚だなどいう些細なことに気を止めるアスラン人はいないが、二人ともこの寝室に入ったことは今までない。
ファンは自室で眠るし、ガラテアもナナイと一緒に寝ていた。これは、放っておくといつまでもおしゃべりが止まらず、少女たちが寝不足になるのを防ぐためでもある。
寝室の中には当然ながら寝台が置かれ、それ以外は小さな箪笥があるだけだ。衣服が収納できる大きさではないから、小物を入れるためのものなのだろう。
窓は小さく東向きに造られ、そろそろ夕暮れが近いこの時間、微かに光の道ができる程度だ。
変わって部屋を照らすのは魔導燈だが、よく見るように天井に備え付けられているのではなく、床に置かれていた。
まさに、寝るための部屋である。仄かな橙色の光は柔らかく、夕闇と溶け合って淡い影を落とす。それを見ているだけで、安らかな眠気に誘われそうだ。
他に家具もないので、寝台に二人で腰掛ける。
どことなくそわそわした雰囲気のファンに、ガラテアは可笑しく、そして少しばかり誇らしくなる。
この男でも、閨を意識するのだな。
ガラテアの知っている男というものは、女と見れば組み敷き、己の欲をぶちまけようとする生き物だ。しかし、ファンにそうした様子は見られない。
それは、今まで真実、女に不自由したことがないという経験からくる無欲さであり、知識欲が他の欲を押しのけてファンという人間を支配しているからだろう。
そんな男が、自分を女として意識している。少なくとも今なら、珍しい虫よりガラテアを見つめてくれるはず。それが嬉しいし、誇らしい。
幼い頃、ほんの僅かに閨教育は受けたが、とうに忘れてしまった。うっすら覚えている範囲では、とにかく腹のあたりで手を組んで、じっと横になっている…と言うものだった気がする。
しかし、それをはっきり覚えていたとしても、今は使う時ではない。第一、間違いなくアスラン流ではない。
今の自分はアスラン人で、ファン・ナランハル・アスランの妻なのだから、来るべき時が来たのなら、アスランの女として振舞うべきだろう。
だが、いまではない。
「私は一応は司祭であるし、お前の妻だ」
ぐい、とファンの腕を引く。ああ、そうだ。こういう時、どうすればいいのか、学んでいた。
さらに手を伸ばして、掴んだ右腕と反対側…左肩に手を掛けて。
咄嗟に、ガラテアが引く方向と逆に力を込めたのを見極めてから、即座に力の向きを逆にする。引くのではなく、押すように。
「うわっ」
ほんの一瞬、揺らいだ隙を見過ごさず、腕と肩を同時に引き寄せれば、膝の上で満月色の双眸が大きく見開いてガラテアを見上げていた。
「こういう時は膝枕だ」
「だ、誰に習ったの?」
「鈴屋で、フヨウさんに」
「祖母ちゃん…」
ファンの呻き声に小さく笑って、その朝日の色の髪を指で梳く。出会った時は硬くぼさぼさとしていた髪は、急速に滑らかさと柔らかさを取り戻していた。
紅鴉宮に越してきてから、ガラテアも浴室女官の世話になっている。特製の洗い粉で念入りに洗われ、糠を詰めた絹の袋で擦られ、仕上げに髪油を刷り込まれれば、どれだけ痛んだ髪でもこうなるだろう。
ファンは自分を手入れすることについて無到着だが、この髪質はアステリアに再度赴いた後でも保って欲しい。
そう思いながら髪を弄っていると、ファンの目元が緩んだ。
まんざらでもない心持なのだと受けとって、編み込めずに零れた前髪を額からどける。
顔がよく見えるようになって、自分の唇がますますご機嫌に弧を描いているのを、ガラテアは自覚した。
「儀式の内容はね、話せないんだけれど」
「うん」
「儀式自体は、クロムが魔力酔いした程度で、問題なく終わった。ただ、その時、ちょっと気を喪ってて…」
「それは、問題なのでは?」
「いや、必ず気絶はするものらしいんだ。儀式を完成させることで、魔力の書き換え…って言うのかな?そう言う変化が起こる。それで必ず、気を喪っちゃうみたい」
「ならば良いのだが…」
その書き換えによって、クロムが魔力酔いを起こしているのだなと、ガラテアは察した。いきがった輩が強化魔導を無理に重ねさせて倒れたのを、何度も見たことがある。
解毒の御業を!と運ばれてきても、毒に侵されているわけではないので何もできない。ありとあらゆる不調を癒す「快癒」ならば治せるだろうが、魂を削るほどの祈りを必要とする高度な御業を、馬鹿の自業自得に用いるわけもなく。
神殿の隅で寝かせておくしかないわけだが、おそらく、今のクロムも同じ状態なのだろう。
「そのね、気を失っている間に、ご先祖様に遭ってた」
「…それは、大変に危険な状態だったのでは?」
「いや、臨死体験とかじゃなくてね、伝えたいことがあったみたいで」
ゆらりとファンの右手が持ち上がる。そして、その掌に浮かび上がるのは、灯。
絶望の闇を照らし、希望を導く…灯の刻印。
「これを授かったのは、まだ俺が士官学校に入る前でね…」
ファンの唇が、ぽつぽつと過去を紡いでいく。
普段、蘊蓄が長いとか、説明がすぐ横にそれるなどと酷評されるファンではあるが、あまり話したくない事なのか、疲れているのか…端的に、別の蘊蓄がさしはさまれることもなく続いた。
突然、ファンとクロムを襲った殺人者たち。
深手を負い、それでも諦めないファンの前に、英雄の守護神マースが降臨したこと。そして、ファンとクロムは灯の刻印と騎士神の刻印を授かったこと。
「その中の一人は、神官だった。春風の女神ハーシアを騙った万魔の王の声を聴き、御業を使っててさ。そいつに、癒しの御業を掛けられて」
「…魔と言えど、神だものな。御業の行使はありえるか…」
「うん。それはまあ、それで、終わったんだけれど」
ファンの唇が、閉じる。再び動き出すまでに、たっぷり三十は呼吸を重ねただろう。
微かに目を細め、眉を顰めて。
ファンの唇は、続きを紡ぐ。
「その時、種を、植えられてたらしい。ご先祖様…国母ライマラルに見せられた光景は、それが原因の一つで起こった、未来だった」
破壊された紅鴉宮。散らばる紅鴉親衛隊の騎士服を纏った遺体。そして。
脇腹から、穢金の眼を覗かせた自分の姿。
おそらく、口にするのも苦しいだろう情景を、その原因を、ファンは端的に語った。
植え付けられた種。自分の巫師としての才能。友人だったものの仕掛けた罠。
「…主と守護者には契約が結ばれる。それは、互いに互いを殺そうとした、または殺した場合、残った方も心臓が破裂して死ぬって契約だ」
一瞬、己を取り戻せたとき。
ファンが行ったのは、その契約を利用して、己を殺すこと。
「多分、そういう事だったんだと思う。クロムを殺すことで、契約を発動させた。その後、どうなったのかは…わからないんだけれど」
ぎゅ、と瞼が降ろされる。
再び現れた満月の双眸には、普段のファンからほど遠い、昏い感情が揺らいでいた。
悔恨。失望。哀しみ。怒り。どれも人間なら持っていて当たり前の感情なのに、ファンには似合わない。
だが、それと同時に、こんな感情を決してファンは家族や仲間たちに…それこそ、守護者にすら見せないだろう。怪我を負った獣がそれを隠し、ひっそりと死んでいくように。
その痛みを、自分には見せてくれるというのは、悪くない。だから、笑っていられる。
ファンの垣間見た滅びの未来に、自分はいるのかどうかわからないが、確かに今、この時、此処にいて、ファンを支えられる自分は存在する。
「やはり、私の駿馬は魔王に負けないな」
「…負けてない、かなあ…」
「ああ。相討ちなのは口惜しいが、これを負けと言ってしまえば、本当の敗者の立つ瀬がないぞ。例えば、お前の元友人とかな。いや、そのまま深く沈んで魚の餌にでもなればまだ役に立つ。むしろ、私が殴り殺して捨てたい」
ファンがアステリアに旅立つことになった…それ自体は、ファン自身の強い要望だという事も含めて…軽くトールから聞いている。
アスランの二太子を殺害しようとして無事でいるという事に、少々疑問は抱いていたが、どうやらその答えはファンの見せられた未来にあるようだ。
「と、とにかくね、それで開祖が猛抗議して、マース神が御業を使うことになったんだって」
「ふむ」
「それで…時が戻った。俺が、刻印を授かった直後にね」
「…神というのは、時を遡っても起こっていた出来事を覚えているものなのか」
「たしかに…マース神の御業が及ぶのは、人界だけなのかも…」
なんにせよ、その奇跡にガラテアは心から感謝した。
破滅の未来などない方が良い。ファンの抵抗により被害は最小限に抑えられたのだとしても、アスランにとっては大きな痛手だったに違いない。もしかしたら、国が亡びるほどの。
アスランの存在は、周辺諸国にとって非常に大きい。
カーラン、メルハ、北方諸国に西方諸国…それら大小さまざまな国と地域の金と品、そして人が行きかう交易は、中央に位置するアスラン王国と言う強大な存在があってこそのものだ。
この地域が荒れれば、交易は途絶える。そして、アスランのように覇権を握らんと、多くの国が戦を起こすだろう。
そうなれば、かつての自分たちのような戦争孤児がどれほど生み出されたか。いや、力のないものは生きていく事さえ難しい、そんな地獄のような時代が訪れていたかも知れない。
神々の決断は、その未来を変えた。そして、愛しい夫を返してくれた。
これに感謝せずして、何に感謝をしろというのか。
「…でも、なんだか、申し訳がなくて」
「何故?」
「だって、セスだって、クトラだって、攻め落とされたのに…アスランだけ、特別扱いだし…」
「それは、原因が違う。もし、裏に魔王の暗躍があったとしても、セスを滅ぼしたのは人間だ。クラナッハ王の意志だ。それは、神々が尻を拭いてやる必要など、一切ない」
つん、とファンの鼻をつつき、ガラテアははっきりと言い切った。
「養父から聞いたのだが、クラナッハに怪しい動きがあったのは、一年以上前からわかっていたそうだ。だが、父も叔父たちも、何も手を打たなかった。軍備や諜報の強化すらな。備えていることを見せれば、クラナッハも諦めたかもしれない。少なくとも、攻め込まれて半日足らずで陥落などという羽目にはならなかっただろう」
傭兵として過ごしてきて、そしてアスランに辿り着いて、故国の…父が間違っていた事ははっきりと理解している。
父は、恐ろしいことから目を背け、耳を塞いだ。異変や兆候は「なかった事」にしておけば、それで本当に消えてなくなると。
それは、王として、民を国を守るものとして、あまりにも、怯懦で、愚かだ。
「もし、アスランなら情報の欠片でも掴んだのなら、徹底的に探り、備えるだろう?傭兵として関わってきた雇い主も、そうするものは生き延びた。父のように目を逸らす者は、同じように滅んだ」
「ガラテアさん…」
「ファンが見せられた未来で破滅をもたらしたのは、確かに、ある意味人の愚かさだ。しかし、アスランの…まして、ファンの行いではない」
神に唆された人間が行った愚行と、神そのものが暴虐を尽くしたのとでは、同じ「国が亡ぶ」でも全く別物だと、ガラテアは断言する。
「だが、ファンはそうしたことを気にしないでいる、という事ができない性格なのもわかっている。だから、私はお前の共犯になろう。ファンが何と言おうと、私はファンが傷ついて死ぬ未来が変わったことが嬉しい。もし、私が好きな時間に戻れるとしても、やはり、ファンを助けられる時間に戻ることを選ぶ」
その未来で、自分はファンの妻になっていたかどうかはわからない。けれど、「今」のガラテアはファン・ナランハル・アスランの妻だ。幼い頃思い描いた、「とおいひがしのくにのおうじさま」の妻だ。
あの頃に想像した「おうじさま」は、ガラテアと一緒に波打ち際を裸足で歩き、磯で蟹を取り、砂浜に服が汚れることも厭わず座る少年だった。
もし、セスのあの浜辺に行けば、ファンは白波を素足で受け、磯で蟹も蛸も小魚も捕獲し、絹服だろうとなんだろうと、砂浜を掘って砂蚯蚓を探すに違いない。
そして、ガラテアに一緒にやろうと手を伸ばす。その手を取れば、波間に煌めく光のように笑うだろう。
そんな理想の夫を、諦める気は毛頭ない。神々の気紛れだろうと依怙贔屓だろうと、全力でしがみつく。
「ありがとう。ガラテアさん…」
「お前は自分の事を傲慢で強欲だというが、私も負けていない。魔王などにお前を渡す気は砂粒ひとつもないからな」
恋は女を変えると言うが、それはどうやら真実だ。
自分の望みは、弟が無事でいる事だけだった。なのに、今はそれだけではない。もっとたくさんの未来を思い描き、願っている。
「俺も君の夫の座を、他の誰にも渡したくはない。それこそ、魔王にだってね」
「そうだろう。だから次こそ魔王に勝て。私の駿馬。そして、どうしても辛くなったら、こうして私の膝で休むと良い」
「ガラテアさんも、誰かに酷い事を言われたりされたりしたら、隠さないでね。そいつ、ぶっ飛ばしに行くから」
「お前がぶっ飛ばす前に、私がしているが、事後報告はしておこう」
「お願い。偶には、頼られる夫ってやつにもなってみたい」
見上げる満月色の双眸に、先ほどまで宿っていた昏い感情はない。代わりに揺らめくのは、いつもの柔らかな強さ。
少しは役に立てたようだと、大変に嬉しくなる。そう思える相手が自分の伴侶であることを、大海の主に感謝した。
「そういえば、最終的に認められるにしても、反対意見の一つも出なかったな。いくら次期大王はトールだとしても、お前の子にも王位継承権はあるのだろう?どこの誰とも知れない女を妻にするなど、普通は反対されそうなものだが…」
「ああ、それは、親父やタイ叔父さんの努力の賜物だし、今のアスランの情勢のおかげだねえ」
「お前の妻にと、百人くらいはあちらこちらのご令嬢が名乗りを上げていそうだが」
「あー…さすがに百人はいないと思うけどね。まず王家を除いて、今アスランで大きな権力を持っているのは、十二狗将と六史台長、それに三つの大公家と、六氏族の族長家、なんだけど」
「ふむ」
大公家は、五代ジルチ王の三人の息子を祖をする家系であり、それぞれ要所と広大な領地を任されている。
五代ジルチの三人の太子は知勇兼備の名将であり、成長してからは父の偉業を善く援け、人格も申し分ない人物であったと歴史書や軍記は伝える。
六代を誰にするかと親族会議が開かれた時、三人は異口同音に「己は戦で槍を振るい弓を引く事はできるが、平穏の世を収めるのには向いていない。妹のトヤーこそ、平穏の時代を統べる大王に相応しい」と末子のトヤーを推薦し、彼女が六代大王となった。
そして臣下の立場となる大公家を興し、アスランの東西と南を守り続けている。残念ながらその血は続かず、現在大公家に黄金の血統は流れていないが、そんなことを王家も大公家も気にしていない。
常に今を生きる者たちの忠誠と能力を以て、大公家はアスランの重鎮であり続けているのだから。
「西の壁」オルダ大公家、「南の盾」クナン大公家、「東の眼」ハサル大公家からは数多くの十二狗将、六史台長を輩出しており、それは決して高貴な血による人事ではなく、実力だというのが大都の民たちの声だ。
つまりは名実ともにアスランを支える名家であり、大領主である。
「そのうちの大公家と十二狗将、六史台長は、今の状態が一番好ましいから。下手に何処かの貴族令嬢やらが二太子夫人になって、その実家が台頭するのは困る。それにほとんど親戚のおじちゃんおばちゃん状態だからねえ。コイツ一生独身で虫ばっかり追っかけているかも…と危惧してた変わり者が嫁連れてきたって、おおはしゃぎだから」
「自分らの係累を、とも思わないのか」
「それやったら、間違いなく水面下でえぐい戦いが始まるからね。こう言ったら申し訳ないけれど、ガラテアさんはすごい適材なんだよ。絶対に生家がちょっかい出してこない王族だからね。高貴な生まれなのは確かだから、不釣り合いだって声も出にくい」
「私が王族だなどという証拠もないが」
「見た目の説得力ってやつだね。ユーシンも言動はどうあれ、王子だって言われたらほとんどの人は納得するでしょ」
「なるほど」
色々と煩わしい事もある自分の見た目だが、偶には役に立つようだ。
「まあ、一番の理由は、俺が人間の女性を好きになるなんて奇跡は、おそらくガラテアさん以外にないだろうから、絶対に逃がしちゃならない!って言う使命感だけどもね…」
「ならないか?」
「なると思わないなあ。人にはそれぞれ容量ってものがあって、俺がその、恋愛…的な意味で、ね、人を好きになる容量は、たぶん一人分しかない」
「王族なのだから、子を多く成すのは義務の一つと心得ている。夫人をもう何人か娶っても、文句は言わないぞ?」
「弟たちを見てるとね。やっぱり、義務でも政略でも、愛情はなきゃ駄目だと思う」
「そういえば、チェに客が来ていたな」
ファン御留守中、四太子テムルの女官長…という事になっている。本人は知らないが…チェを訪ねてきた者がいると報告を受けていた。
「チェさんに?」
「ああ。断事官のホンラン女史だ。怪しい人物ではなかったから、通してもらったが」
「ホンラン?じゃあ、『顔剥ぎ』についてかな…」
「今、あの事件を追っているのか」
「うん。チェさんの知り合いが、もしかしたら犯人を見たかもしれないらしくて。俺たちが士官学校の交流会に行っている間にも、聞きこみに来ていたんだけど」
一度で終わらなかったのかもねえ…と呟くファンに、ガラテアも頷いた。
『顔剥ぎ』については新聞や雑誌で読んだ程度だ。被害者はもぐりの娼婦である「紅花買い」で、その遺体は酷く損傷し、特に顔は剥ぎ取られているという残虐な手口で、一時期随分と話題になった。
ただ、新聞雑誌という娯楽に金を使えるような庶民にとって、「紅花買い」は存在を知っていても遠い存在だ。買ったことのある男も多いだろうが、殺されているのは女ばかりと聞けば、他人事にもなる。
だからか、被害者の多さや残虐性のわりに、断事官が動いて捜査に当たるという話は聞いていなかった。しかし、ついに動いたのかと内心に頷く。
「紅花買い」は確かに、大部分の大都の民にとっては目障りだ。染料になる紅花を買いに来るという名目で出没し、蚤や虱、病をばら撒く。
しかし、その無残な死を「娯楽」として愉しまれるほどの悪ではない。それに、いくら殺されているのが自分とは縁遠い立場の人であっても、そんな残虐行為を繰り返す殺人鬼が闊歩していることに怯え憤る大都の民も多い。
ガラテアも、事件が起こったことを見聞きにした時には、犠牲者の魂が救われることを大海の主に祈ったし、犯人がもし自分に襲い掛かってきたときには容赦しないと思っていた。
「断事官が…それも、腕利きのホンラン女史が動いているのならば安心だな」
「うん。でも…ちょっと不安なんだ。もしかしたら、犯人は…人間を辞めているかもしれない」
「人間を、やめる?」
「俺の仮説や予想が当たっていなければいいんだけど…ホンランも一人で動いたりはしないと思うけどさ。ちょっと、注意を促しておこうかな」
「詳しい事は後ほど聞こう。まだ、帰っていないかもしれない。会いに行くか」
「ああ。ガラテアさんのおかげて元気も出たしね!俺は俺にできることを、コツコツ地道にやっていくよ。結局、それしかできないんだしね」
「ふふ、そうだな」
起き上がったファンがほんの少し名残惜しそうだったのは、自分の気のせいではない。
そう内心に頷きながら、ガラテアも寝台から立ち上がった。
***
「へえ?うちにお客さん…どすか?」
「ええ。客間に来てもらえるかしら?四太子、少々、チェちゃんをお借りしてもよろしゅうございますか?」
「うん。紅鴉宮にたずねてこれるってことはさ、あやしーひとじゃ、ないんでしょう?」
「ええ。断事官のユー殿です」
ファンの部屋。
ここ数日、この部屋は同時に弟であるテムルとフレグの部屋も兼ねているし、ユーシンとヤクモも一緒に寝泊まりしている。
さらにガラテアの輿入れから、シドもその仲間に加わった。
四太子付の家庭教師であるエルデニの侍女…と本人は思っている…チェは、隣の部屋を借りて暮らしていた。
二太子の宮殿を間借りするなど恐れ多くて…!と思っていたのもほんの一日程度。
やけに庶民的というか、女官長から一番下の見習いまで同じようにくるくると働く紅鴉宮はチェにとって居心地がよく、あっという間に馴染んでしまった。
紅鴉宮の女官たちにとっても、骨惜しみせず働くチェは歓迎できる存在だ。
雲熊宮の女官らからは舌打ちや蔑視を浴びて縮こまっていたチェだったが、紅鴉宮の女官らからは明るいおしゃべりや激励は飛んできても、心が磨り減るような言葉はひとつも投げられたことがない。
いつ雲熊宮に戻るかはわからないが、出来れば戻りたくない…とすら思ってしまう。
だが、それはチェだけではなく、四太子テムルも同じ気持ちのようだ。兄の蔵書や標本を手に取り眺めて目を輝かせ、ユーシン達の話を聞いては頬を子供らしく上気させてはしゃぐ。
その若草色の双眸が眼鏡の奥で翳るのは、ふとした時に雲熊宮の方角を見た時だけだ。
「テムルの家」は居心地がいいが、刺激もない。それに、テムルにとっては監獄に等しい雲熊宮も常に見える。
やっぱし、戻りたないんやろなあ。
こんな小さな子が、母親から離れられてホッとしてるというのも不憫だが、その母親はいまだに「テムルがいない」ことに気付いていないようだ。
こっそり見に行った紅鴉宮女官の話によると、フレグの方もなんの騒ぎにもなっておらず、世話係の顔色が悪い程度らしい。
まだ六歳の子供が一晩でも戻らなかったら半狂乱になりそうなものだ。なにせ、季節は冬。大人だって、夜を外で過ごすことは死を意味する。
なのに、顔色を悪くするだけで誰も主人であるティエリア夫人に何も告げないというのは、チェの理解の範疇を越えている。
理解の範疇は越えているが、人が保身のためにどれだけ身勝手になれるか。
それはもう、身に染みて知っていた。
来客があるとチェを呼びに来たのは、紅鴉宮で最も若い女官である。チェより五つほど年上だが、一番下っ端の気安さで、一番よくお喋りする相手だ。
チェにとっても、やはり同性とのおしゃべりは楽しい。だから、少し困った顔をした彼女がやってきたとき、一も二もなく協力するつもりだった。
「断事官が、チェに…?」
「あー、あれですわ。ちょおっと、知り合いがね、断事官様が探しとる下手人の手掛かりを知っとるらしゅうて。こないだ、ナランハルに伝えたら、断事官様につないでくれはって」
「そなのか?」
「へえ。その、ユー殿?には、お会いしとらんのですけど、知り合いの居る店の名前とか、どこそこにあるかとか、部下のお方にお話してますん」
しゅっとした、渋めのおじ様だったその人を思い浮かべ、もしかしたら情報提供者になりえる「お姐さん」が何や粗相したんかもしれんと内心に冷や汗を垂らした。
「テムル様、うち、ちょこっと謝り倒して参りますわ」
「えええ!?ウソおしえた…とかか!?」
「ちゃいますちゃいます!そんな恐れ多い事、ようでけまへん!そのね、知り合いがなんぞやらかしたんちゃうかなって」
「そっかー。オレ、いっしょに行ってやらなくてへーきか?」
「いやあ、それはそれで恐れ多いことやしねえ…」
六歳児に付き添ってもらうのは、大人としてどうなのか。
テムルはチェをある意味かなり信用していない。目を離すと失敗して、とんでもなく落ち込むと思っている節がある。
まあ、ホンマやけどね!…と自覚はあるが、だからと言ってテムルと、興味を引かれてやってきたフレグを連れて行くのは、やはりなしだ。太子たちの威光で失敗を誤魔化そうとしていると思われるのも、すごく困るし嫌だ。
「ならば、俺らがついていくのはどうか!」
「ひ、ひええ!ユーシン様!?」
ひょいとフレグとテムルを腕に座らせるようにして抱き上げたのは、キリクの王子ユーシンだ。その身分ではなく見た目で、チェはいまだに委縮してしまう。
若い女官もやはりこの美貌には馴れていないのだろう。うっとりと半開きの目と口で、ユーシンを見ていた。
「ユーシン、何でもかんでも首突っ込まないの!」
「しかし、暇だ!ファンがいれば、きっとファンは立ち会っただろう!だから、俺が立ち会おうと思う!」
「まあ、そりゃあそうだけども…」
制止するヤクモの言葉に、ユーシンは呵々と笑いながら反論した。確かに、ファンがいれば間違いなく立ち会うと申し出た。二太子と付き合いの短いチェですら、そう思う。そういう人なのだ。この宮の主は。
「止めても無理矢理入って行きそうだ。いっそ、俺とヤクモも同席した方が良いかもしれないな」
「あ、シドもそー思う?」
あかんて…三人一緒は、あかんて…。
思わず眩しすぎて目を眇めてしまう。女官も同じ気持ちだろう。なんなら、手が祈りを捧げる動作をしている。
ユーシンの美貌は天上の領域だが、残る二人だって上の上だ。
女官たちとおしゃべりしていると、かなりの割合で「あの顔を十数えるくらい見てたら風邪が治った」「三人で仲良くされているのを見たら腰痛が改善した」「証明されていないが、将来的にはきっと死病も治る」などいう話になる。
もちろん、この宮の主である二太子もじゅうぶん男前なのであるし、その守護者だって眼福である。
しかし、二人が子供のころから知っている紅鴉宮の女官たちからすると、愛でる対象から外れてしまうらしい。
「あ、でもでも、ほれ、ユーシン様のお時間をいただくのは、うち、心苦しゅうて…」
アスランの太子の威光を借りて怒られなくするのも、他国の王子の威光で威張るのも似たようなものだ。
こういう時、チェの雇い主であるエルデニがいれば引っ張って行けるのだが、生憎今日は朝から大学とやらに行っている。
「出て行けと言われたら出て行く!それでよかろう!」
「それでしたらぁ、ご案内いたしまぁす!」
少し高い声で女官が宣言し、ユーシンは嬉しそうに「うむ!」と笑って頷いた。その笑顔に半歩後退しつつ、何とか踏みとどまる。
「んじゃ、オレとフレグはるすばんしてるよ。チェ、そそーのないよーにな!」
「はいな!全力死力を尽くさせていただきますぅ!」
「チェ、はりきるとよけい失敗するのです。そのあとで何かうかつするのです」
フレグの一言にグサッと刺されつつ、チェは一礼して女官と、ユーシン達と部屋を出た。呼びに来た女官が通りかかった騎士に、皆が戻るまでテムルとフレグに付き添うように頼み、騎士は胸を叩いて請け負う。
紅鴉宮の騎士たちも気さくで親しみやすく、偉ぶったところがが全くない。むしろ、こんなにいつもふざけて大丈夫かと心配になる。
騎士たちと遊ぶのも、テムルとフレグは大好きだ。安心して任せられる。ぺこりと一礼すると、片目をばっちんと閉じて応じられた。すかさず女官にはたかれ、「てへぺろ!」と舌を出している。
「ユーさんって、サライであった人だよねぃ」
「ああ。腕利きの断事官だ。俺がトールに雇われた仕事を引き継いだことがある。姉さんとは意気投合していたな…」
「シド、顔が死んでるけど、だいじょーぶ?」
「姉さんと違って、親しくなるか敵と見做されるまでは、実力行使に及ばない人のようだから…」
二人の会話を聞いて、チェは内心にひえええええと悲鳴をあげた。頼むから、入った瞬間敵を見る目で見ないで欲しい。
『顔剝ぎ』を見たと言い張る知人は、癖多き人物だ。何をしでかしていても不思議ではなく、本人が無礼討ちされていても「因果応報」と納得できる。それは納得するから、チェにまで累が及ばないで欲しい。そう願いながら、女官が開ける扉の先に向けて卑屈な笑顔を浮かべた。
「お連れいたしました」
「手間を掛けさせて済まない。チェ殿。今日はあなたにお詫びと、頼みがあって参らせてもらった」
「ヒエッ!!」
部屋で座りもせず待っていたのは、三十代後半から四十代に見える女性だ。
隙なく深い藍色の胡服を身に纏い、その背には断事官であることを示す剣の意匠が刺繍されている。
「おお、ユーシン殿下、ヤクモ殿下、シド…」
「シドで良い。久しぶりだな。ホンランさん」
「ああ。久しぶりだ。まさかガラテアがナランハルと結ばれるとは、私も驚いたよ。今年も終わろうとしているが、今年で一番、嬉しい驚きだった」
「俺も驚いている。まあ、とんでもなく上に嫁いだから苦労もあるだろうが、ファンは良い奴だ。姉さんを護ってくれると確信している」
「私も、ナランハルに関わり深いものとして誓おう。お二人の仲を裂くような企みは、全て千切りでも生温いほどに切り刻むと」
ふふ、と笑ってから、再びホンランの切れ長の双眸はチェに向いた。
どうやら怒られはしないらしいが、追加の頼みと聞いてチェは大体の事態を悟った。やはり、知人の悪癖が暴走したようだ。
「あのぉ、もしかして…なんですけどぉ、断事官、御自ら、お姐さんとこ、足をお運びに…?」
「ああ。それで彼女を怒らせてしまったようだ。取りつく島もなく、話を聞く処ではなかった。なんとか取り成しを頼みたく、こうして時間を頂いた」
「あああ、やっぱりぃ!えろうすんません!!お姐さん、偉いおんなのひとが嫌いなんですわ!完ッ全に逆恨みなんやけどね、せやから、うちの方が頭下げんと!殿方に行ってもらわなあきまへんでって言うとらんかった!」
チェはアスランにきてまだ短い。生まれ育ったヒタカミも、連れてこられたカーランでも、役人は男しかなれなかった。だから、断事官は男だと思い込んでいていたのだ。
「いや、それはあなたの落ち度ではないだろう」
「いーえ!ほんっとうちの大ポカやわ!取次でもなんでも、いくらでもさせてもらいます!…せやけど、話聞きに行くんは、殿方のほうがええかも…」
「そうか!ありがとう!しかし、かなり重大な証言になるかもしれない。だから、私が直接伺いたいのだが…」
その熱意と事件に真っすぐに取り組む姿勢は、頼もしいと思いこそすれ嫌われるものではない。チェに対しても居丈高に接せず、素直に謝意を示すような人だ。きっと、上から尋問めいた聞きこみなどすまい。
しかし、当の知人は、とにかく「お高くとまって上から見下ろす女」というのを、不倶戴天の敵と見做している。
しかもその「お高くとまって上から見下ろす」というのは知人の偏見に基づいた主観であり、つまりは何の根拠もない。
ルシアラ夫人やその御付きの女官たちのような、真の「お高くとまって上から見下ろす嫌な女」を見せたろかい!!と内心歯ぎしりしても、知人が改心するはずもない。
なお、知人の主観では「自分より良い暮らしをしている女」は全員敵である。つまりは、大都の女性のうち九割九分くらいは敵だ。
高級官吏である断事官、なおかつ見るからに仕事の出来そうな美人であるホンランを、知人が許容するとは思えない。それでも本人に口を割らせたいなら、説明するのも憚られるような作戦をたてなくてはなるまい。
「あのぅ、どーしてもっちゅうなら、見目の良い男衆を連れてくとええですよ。お姐さん、見目良い男衆が前に立てば、断事官がおられても見えへんよって」
穴があったら入りたい。そう、強く思いながらも、チェは「作戦」を口にした。
知人は自分より良い暮らしをしている女は大嫌いだが、男は性格が虫の方がまだマシという輩でも、見目さえ良いなら大好きなのだ。つまりは撒き餌である。
くねくねと身を捩りながら上目遣いで迫る大年増という存在に、その撒き餌は耐えて話を聞きだす必要があるが、良い男の歓心を得るためなら、親のへそくりの場所だって告げる人だ。
元から喋りたくて仕方のない『顔剥ぎ』の事なら、いくらでも話すだろう。嘘や盛っている箇所が多分に混ざりそうだから、注意が必要ではあるが。
それをどうにかこうにか、少しは取り繕って何とか説明し終える。
テムルとフレグが一緒に来なくて良かった。ただでさえ「母親」に不信感のある二人に、こんな生臭い話を聞かせたくはない。
「見目の良い男か…ココチュを盾にするのは、少々悪いか」
「ココ君、いっしょにいるんですか?」
「ええ。ヤクモ殿下。今は姉のニルツェグに会いに行っていますよ」
「わあ!そのあと会えるかなあ!ぼく、ココ君と仲良しなんです!」
「伝えましょう」
わあい、と喜ぶヤクモを見ていると、胃の痛みも忘れられる。一緒に喜ぶユーシンと、それを暖かい笑みを口許に浮かべて見守るシドで、頭痛も治る。
「いやあ、ほんま眼福や。お姐さんでも、きっとご機嫌さんでなんでもかんでもぺらっぺら喋るで…」
「ヤクモがいれば、問題なさそうなのか?」
「ヤクモ様もやけどぉ、ユーシン様とヤクモ様、シド様揃い踏みでっしゃろ?そらあもう、鬼婆やってニッコリやで」
「ほう!それならホンラン殿!俺らが同行しよう!」
高らかな宣言に、チェは頬を引き攣らせた。
「へ?ユーシン様?」
「ちょうどファンもクロムもいなくて暇だ!退屈だ!今から行こう!」
「勝手に出てっちゃって良いのぅ?」
「…よくない気がする。どうなんだ、ホンランさん」
「何かあれば、私の首だけでは済まないな。しかし、非常に有効な手だ。見目麗しい男が必要なら、間違いなく成功するだろう」
チェ、はりきるとよけい失敗するのです。そのあとで何かうかつするのです。
つい先ほど聞いた、幼い声が告げた未来。
どうやら、自分は迂闊をしてしまったようだと気付いたときには。
「では参らん!日はまだ高い!」
「いーのかなあ。でも、ファン居たら、きっと同じこと提案するねぃ」
「するな。間違いなく。そしてクロムが文句を言いながらついて行く」
「だねぃ…」
なんだか、「何かあったら自分の首だけでは済まない」方へ話が進んでいるようだった。




